第一章 scene15 つまみ
夜。
厨房にはスープの余韻と、かすかな灯りだけが残っていた。
サーヤが椅子の上にちょこんと座り、机の上に紙を広げる。ハルトは腕を組み、難しい顔でそれを覗き込んでいた。
「――で、“酒のつまみ”ってのはな」
ハルトは、ため息まじりに言った。
「腹いっぱいにする料理じゃねぇ。
長く飲むための“友達”みたいなもんだ」
サーヤは頷く。
「うん。それはわかる。
でも今のスプーン亭、友達少ないじゃん」
「言い方ァ!」
ぐさぁ…と刺さる父。
サーヤはくすっと笑って、炭筆を走らせた。
「酸っぱいの。
香りがいいの。
ちょっとだけしょっぱいの」
紙の上にどんどん文字が並んでいく。
「――“会話が続く味”を増やすの」
ハルトはぽかんと娘を見る。
「お前……なんでそんな発想が出るんだよ」
サーヤは肩を竦める。
「わたし、前の人生でいっぱい飲み会回してたから」
「ん?」
「なんでもない」
⸻
包丁の音が鳴る。
人参を細く細く刻む音。
鍋で豆がくつくつ煮る音。
油のはねる音、酢の鋭い香り。
サーヤの動きはまだ少し幼いけれど、その段取りには妙な大人の気配がある。
ハルトは横で腕を組みながら見守っていたが――
「……手慣れてんな、お前」
「うーん、手は慣れてないけど、頭は慣れてる感じ?」
「ますます分からん」
それでも、彼の顔はほんの少しだけ楽しそうだった。
机の上に三皿並ぶ。
■ きらきら橙色の 甘酸っぱいキャロットラペ
■ 香り高く煮込まれた 豆のチリ煮込み
■ しっとり艶めく 南蛮漬け
ランタンの灯りがそれらを照らし、まるで宝石みたいに見えた。
「……よし、食うか」
ハルトは箸を伸ばす。
一口。
二口。
三口。
「……ずりぃな」
ぽつりと言った。
「父さんずるいって言われる筋合いないんだけど」
「いや……」
ハルトは笑いながら、目を伏せる。
「こんな味、俺ひとりじゃ作れなかったんだよ。
うまい、酒がすすむ。よし酒を飲もう」
胸に落ちる言葉だった。
ハルトはしばらく黙って、そして――言った。
「……“スプーン亭”を、ちゃんと“夜の店”にしよう」
その夜、スプーン亭にはまだ客はいないのに。
テーブルの上だけは、とても賑やかな夜だった。




