第十章 scene1 過去のモヤモヤ
母が帰って、カフェに静けさが戻った。
使われなかったカップを下げながら、
サーヤは、ぼんやりと考え込んでいた。
(……髪結い、か)
この時代なら。
貴族のマダム。
社交の前。
結婚式。
お披露目。
(……普通に、稼げるよなぁ)
櫛と手さえあれば。
技術があれば。
人の“変わりたい”に、ちゃんと応えられる。
(ちゃんとした仕事、だよね)
そこまで考えて、ふっと我に返る。
「……あれ?」
声に出してみると、少し変だった。
(なんで、こんなに)
(リオのお母さんのこと、引っかかってるんだろ)
カウンターの奥から、声が飛ぶ。
レオン
「おーい、サーヤ?」
「戻ってこーい」
サーヤ
「あ、うん」
布巾を持ったまま、はっと顔を上げる。
サーヤ
「……なんかさ」
「喉の奥につっかえてる感じ」
レオン
「なにが」
サーヤ
「いろいろ」
レオンは、コーヒーを淹れながら、ちらっとこちらを見る。
レオン
「それさ」
「リオの母親がどうこうじゃなくて」
「おまえの“こっちの母親”とかぶってるんじゃないのか?」
サーヤの動きが、止まる。
サーヤ
「……あ」
一瞬。
何かが、きれいに繋がる。
サーヤ
「おぉ…」
「そうかも」
レオン
「だろ」
サーヤは、カウンターにもたれて、天井を見る。
サーヤ
「置いていかれた感じとか」
「何者でもなくなった感じとか」
「変わりたいけど、何していいかわからない感じ」
「……全部、知ってるわ」
レオン
「知ってるから、モヤる」
サーヤ
「だね」
少し間を置いて、レオンが言った。
レオン
「一回」
「実家、行ってみれば?」
サーヤ
「……え?」
レオン
「整理つくかもしれんぞ」
「つかなくてもいいけどな」
サーヤは、少し考えてから、ふっと笑った。
サーヤ
「……そうかもね」
サーヤは、エプロンを外しながら言った。
サーヤ
「……行ってきても、いい?」
レオンは、一瞬だけ顔を上げる。
「一緒に行くか?」
サーヤ
「……優しい!」
即答してから、ふっと肩をすくめた。
「でもさ、ここもあるし」
「リオもカイもいるしね」
レオン
「まぁな」
サーヤは、戸口の方をちらっと見る。
奥では、リオが帳簿をのぞき込み、
カイがグラスを丁寧に磨いている。
サーヤ
「ちょっと顔出すくらい」
「様子、見るだけ」
レオン
「それが一番信用ならん言い方だな」
サーヤ
「ひどい」
でも、笑っている。
サーヤ
「……ついでにさ」
「パン屋も、見てこよっかな」
レオン
「目的、増えてるぞ」
サーヤ
「いいの」
「寄り道は、旅の本編だから」
レオンは、小さくため息をついてから言った。
レオン
「早めに帰れよ」
サーヤ
「はーい」
戸を開ける前、サーヤは振り返る。
サーヤ
「何も起きなかったら」
「それはそれで、報告するね」
レオン
「起きても、しなくてもいい」
サーヤ
「……それも優しい」
鈴が、軽く鳴る。
サーヤは外に出て、深く息を吸った。
(ちょっと、見てくるだけ)
(昔の家と、昔の自分)
(それと――)
(焼きたてのパン)
道は、まだ続いている。
でも今日は、“戻れる場所”を背にして歩ける。
サーヤは、少しだけ足取りを軽くして、街の方へ向かった。




