第八章 scene13 閉じる
下水門の前。
逆流れが止まった。
潮が、止まったみたいに静かだった。
水面に映る光も、揺れない。
サーヤは、懐中時計を握ったまま、レオンを見る。
サーヤ
「……ねえ、レオン」
レオン
「ん?」
サーヤ
「戻りたい?」
問いは、責めていない。
試してもいない。
ただ、確かめるための言葉だった。
レオンは、すぐには答えなかった。
下水門の向こう――
重なった港。
ズレた空。
写真の中の、戻らなかった時間。
それらを一度、目でなぞってから。
レオンは、はっきり言った。
レオン
「戻らない」
「俺は、ちゃんとここで生きてた」
「……お前と、ここまで来た」
一拍。
サーヤは、少しだけ笑った。
サーヤ
「わたしも」
時計を胸に当てる。
サーヤ
「わたしも、ここで生きていく」
「前の世界は、もう――“終わった場所”だから」
その言葉は、強がりじゃなかった。
決意でもない。
事実の確認だった。
テッドが、ぼそっと言う。
「……じゃ、決まりだな」
クルスは、視線を下水門に向けたまま。
クルス
「でも、閉じる前に」
「一つ、やることがある」
サーヤが、ゆっくり頷く。
サーヤ
「……うん」
懐中時計の蓋を、閉じかけて――止める。
サーヤ
「会おう」
テッド
「……女に?」
サーヤ
「逃げない。閉じるなら、ちゃんと顔を見てから」
レオン
「……呼べば来る」
サーヤ
「うん」
「観測者なら」
時計の裏。
刻まれた名前に、指を置く。
minori
カチ。
針が、逆回転を始めた。
水が、ざわりと波打ち、また流れ始める。
下水門の奥、重なりの向こうで――
誰かが、こちらを見た。
空気が、ひときわ冷える。
クルスが低く言う。
「……来る」
サーヤは、一歩前に出た。
逃げない。
奪われない。
連れ戻されない。
これは――
選ぶ側の、最後の対話。
水面が割れ、影が、ゆっくりと形を取る。
白衣。
血の記憶。
世界の外に取り残された女。
サーヤは、まっすぐに言った。
「……話そう」
「ここで終わらせるために」
下水門は、まだ開いている。
白衣はもう白くない。
血の染みは乾き、布の端は時間に削られている。
それでも、その目だけは――鋭く、こちらを見据えていた。
サーヤ
「……あんたには、騙されたわ」
「迫真の演技だったわね、愛に生きる女のふり」
一歩、水を踏む音。
女
「全部、理解したのね」
サーヤ
「ええ」
女の笑みが、わずかに崩れる。
女
「なら――お願いよ」
声が、少しだけ低くなる。
女
「わたしに、やり直させて」
その言葉は、叫びじゃなかった。
懇願でもない。疲れ切った願いだった。
サーヤは、静かに首を振る。
サーヤ
「できないわ」
女
「……どうして」
サーヤ
「元には戻れない」
「あなたも、わたしも」
「もう“途中”にいるから」
女の瞳に、影が落ちる。
女
「……じゃあ」
一拍。
女
「終わりにして」
空気が、ひやりと凍る。
女
「あなたたちも、一緒に」
「このズレごと、全部」
テッドが、一歩前に出かけて、クルスに止められる。
サーヤは、前に出た。
時計を胸に当てたまま。
サーヤ
「わたしは、生きるわ」
「ここで」
言葉に、揺れはない。
サーヤ
「ボルト爺さんと同じ」
「失っても」
「選び続けて」
「ここで、生ききる」
女の表情が、初めて歪んだ。
女
「……それが、正しいと?」
サーヤ
「正しいかどうかじゃない」
一歩、近づく。
サーヤ
「“わたしの選択”よ」
懐中時計が、淡く光る。針が、止まる。
サーヤ
「あなたは、選べなかった」
「でも、わたしは――選ぶ」
女の足元で、水が荒れ狂う。
女
「……奪えると思ったのよ」
サーヤ
「知ってる」
サーヤ
「だから、終わらせる。もう、誰も迷わせない。扉を閉じるわ」
女は、しばらく黙っていた。
やがて、力を抜いたように、肩を落とす。
女
「……羨ましいわ」
その声は、ほとんど水音に溶けた。
女
「錨を持てることも」
「閉じることも」
「……生き続けることも」
サーヤは、最後に一言だけ、言った。
サーヤ
「さよなら。あなたは、ここまで」
時計の蓋が、閉じられる。
カチ。
音は小さい。でも、確かだった。
水面が、静かに引いていく。
女の輪郭が、ほどけるように薄れていく。
最後に残ったのは、安堵とも、諦めともつかない微笑。
そして――
下水門は、完全に閉じた。
静寂。
潮の匂い。
朝の光。
テッドが、息を吐く。
「……終わった、のか?」
クルス
「……いや」
レオンが、空を見上げる。
レオン
「始まったんだ」
サーヤは、時計を胸に戻した。
これはもう、鍵じゃない。錨だ。
彼女自身の。
サーヤ
「帰ろう」
世界は、もうズレていなかった。




