第一章 scene10 始動
昼の忙しさがいったん落ち着いたスプーン亭。
いつもなら、ただ静かに時間が過ぎていく午後。
だけど今日は違った。
サーヤは椅子に座り、机に紙と炭筆を準備していた。
緊張している。手汗で炭筆が少し滑る。
そこへ現れたのは――
「ほら、背筋伸ばせ。書くのも体力だぞ」
昼の常連客。
さっきまで笑って客の相手していた優しげなおじさん……ではなく。
「学舎の先生をしておったんだ。厳しいぞ」
そういって笑う目は、妙に鋭い。
(え、先生職の人だったんだ……!)
サーヤ、内心でちょっとビビる。
先生は炭筆を持ち、紙に一文字だけ書いた。
「まずは、これだ」
素朴で、角のある文字。この国の“あ”みたいなもの。
「これが、“わたし”を意味する字だ。自分を知るところから始めろ」
サーヤは息を吸う。
炭筆を握る。
指が少し震える。
ゆっくり、なぞる。
ギシ、ギシ、ギシ――。
ぎこちない。
曲がる。
歪む。
でも。
紙の上に、形が――残った。
先生が目を細めた。
「うん、悪くない」
ほんの数文字。たったそれだけ。
だけど、サーヤの胸の奥で、
世界に“触れた”感覚が生まれた。
(……わたし、この世界で、ちゃんと“生きる”んだ)
ぐっと喉が熱くなった。
先生は笑い、言う。
「毎日二時間。あとは、家のこと、店のこと。
全部――いい勉強だ」
「はい!」
サーヤは大きく返事をした。
その声を、店の奥で聞いていたハルトの肩が、少しだけ緩んだ。
勉強のあと、午後の店内。
サーヤは髪をまとめ、腕まくりし、腰に布を巻いた。
「よーし。次やるよ」
まず、テーブルの布を取る。
埃が舞う。
「わぁ……」
自分で言いながら引き気味。
でも止まらない。
椅子の足。
カウンターの隙間。
床。
隅。
蜘蛛の巣。
(まずは 通る場所 → 触る場所 → 目に入る場所 から!)
主婦の段取り脳、全力稼働。
布と水。
油汚れ用に灰と砂と石鹸草。
乾拭き → 湿拭き → 仕上げ拭き。
黙々と働く少女。
すると――
「おい……サーヤ?」
後ろから声。ハルトだった。
そして、言葉を失った。
椅子が並んでいる。
テーブルが拭かれている。
床にツヤが戻っている。
「……おぉ……」
ぽろっと出たのは、驚きと、安堵と、少しの誇りが混ざった声。
サーヤは、腰に手を当てて笑った。
「お客さん、ここで食べるんだよ?気持ちいい方がいいじゃない」
ハルトは照れたように頭を掻いた。
「……そうだな」
そこへ――
ガラッ
店の扉が開く。常連の老人。
「やってるかー……」
入って、止まる。
目を丸くする。
「……店、明るくなったなぁ」
その顔は懐かしい場所を、取り戻したみたいな顔だった。
サーヤの胸が、ぽっと温かくなる。
ハルトは、僅かに声を震わせた。
「……あぁ。今日から、少しずつ、な」
老人は笑った。
「いいな。“また来たくなる店”の顔だ」
その言葉は、
――スプーン亭の心臓を、もう一度動かす合図みたいだった。
サーヤはこっそりガッツポーズ。
少女の転生主婦力は、まだ始まったばかり。




