第八章 scene6 欺く
「……ちょ、ちょっと待って……もう無理……!」
サーヤが足を止めた瞬間、
そのまま前につんのめるようにして膝に手をついた。
「はぁ……はぁ……」
「……肺、破れる……」
クルスがすぐ後ろで立ち止まる。
テッドも、数歩先で振り返った。
「……まだ追ってきてない」
クルスが周囲を見回しながら言う。
ここは港から少し離れた、裏通り。
夜でも人はいるが、流れは遅く、顔もまばらだ。
サーヤはその場にしゃがみこんだまま、手を振る。
「……5分……」
「いや、3分……」
テッドが肩で息をしながら笑う。
「温泉街で鍛えたって言ってたのに?」
「限界はあるの……!」
3人、ようやく呼吸が整ったところで、
クルスが短く言った。
「……ここで1回、姿を変えよう」
⸻
路地裏。
サーヤはエプロンを脱いで丸め、簡易袋に突っ込む。
髪を下ろし、結び目を緩める。
クルスとテッドはマントを捨て、外套を裏返し、留め具を変える。3人とも、“さっきまでの自分”が一瞬で消えた。
サーヤは一息ついて、テッドを見る。
「で、名前」
テッド
「……テッド」
クルス
「今さらか」
テッド
「今さらだよ」
⸻
簡易宿は、港町らしい雑多な建物だった。
一階が酒場、二階が宿。
看板は古いが、人の出入りは多い。
「……ここなら、今日は大丈夫そうだな」
クルスが言う。
3人、一部屋。
扉が閉まった瞬間、
張り詰めていた空気が、すっと落ちた。
サーヤはベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。
「……ありがとう」
ぽつりと。
「ここまで一緒に逃げてくれて」
テッドは壁にもたれて腕を組み、
クルスは窓際で外を確認している。
クルスが振り返る。
「で。お前、これからどうする」
サーヤ
「あー……どうしようね」
自分でも驚くほど、軽い声だった。
テッドが鼻で笑う。
「……お前、まだ俺ら信じてないな」
サーヤは即答する。
「そりゃそうでしょ」
一拍。
そして、きっぱり言った。
「というか――ここで別れよう」
2人が同時に顔を向ける。
サーヤ
「これ以上、一緒にいたら、あんたたち、
もっと面倒に巻き込まれるよ。
ここまで。それが一番、安全」
クルスは少し黙ってから言った。
「……とはいえ」
「行くところ、ないんだよな。俺たち」
テッドが頭を掻く。
「依頼主には戻れないし」
「港も使えない」
一拍置いて、へらっとした顔で言う。
「なんかヤバそうだけどさ」
「一緒に行っていいか?」
サーヤ
「……は?」
部屋に、静かな沈黙が落ちる。
サーヤは2人を見た。
本気の目。冗談じゃない。
「……ちょっと待って」
「なんでそうなるの」
テッド
「だってもう、同じ舟だろ?」
クルス
「依頼主は、お前を追う」
「俺たちは、その過程で“邪魔になった”」
サーヤ
「それは……」
クルス
「つまり、どのみち一緒だ」
サーヤは天井を見る。
ため息ひとつ。
「……最悪」
でも、目を閉じて、懐中時計を胸に押し当てる。
(逃げる旅、か……)
目を開けて、2人を見る。
「……条件あるからね」
その声は、もう覚悟の色だった。
しばらく沈黙が落ちてから。
テッドが、ぽつっと言った。
「……で」
「次、どこ行くんだ?」
サーヤは一瞬だけ迷ってから、
懐中時計を取り出し、机の上に置いた。
カチ、と音。
「――ボルト爺さんの、カフェ」
クルスの眉が、はっきり動く。
「……正気か?」
テッド
「いや、そこ一番危なくね?」
サーヤ
「うん。危ない」
即答だった。
「でも――ヒントがそれしかない」
時計を裏返し、三人に見せる。
裏の刻印。
そして、さっき見つけた小さな紙。
「“引き出しの五段目”」
テッド
「……五段目?」
サーヤ
「ボルト爺さんの店の、古いカウンター裏」
「引き出し、確かに五段あった」
クルスは、腕を組んで考える。
「依頼主がそこを知らない保証は?」
サーヤ
「ない」
「だから、たぶんもう“見張られてる”」
テッド
「じゃあ詰んでね?」
サーヤは首を振る。
「まだ」
二人を見る。
目が、完全に“考える側”の目になっている。
「依頼主が欲しいのは――
“時計の中身”」
「だったら、わたしがそこに行くって
“確信できる情報”を、まだ持ってないはず」
クルス
「……追わせる前に、先に抜くつもりか」
サーヤ
「そう」
テッド
「でも問題は“どうやって行くか”だろ」
一拍。
サーヤは、少しだけ口角を上げた。
「正面からは行かない」
テッド
「知ってる」
サーヤ
「港も街道も使わない」
クルス
「……なら、裏?」
サーヤ
「そう。生活動線」
テッドが目を瞬かせる。
「生活動線?」
サーヤ
「市場、商会、配送、湯、パン」
「人が“日常で動くルート”」
「旅芸人や追っ手は、
“街道”と“港”しか見ない」
クルスが、はっとした顔をする。
「……商会の馬車」
サーヤ
「うん」
「早朝の、食材便」
テッド
「お前……」
「逃げる気、満々だな」
サーヤ
「生きる気、満々」
短く言った。
部屋の空気が、決まる。
クルス
「……行こう」
「夜明け前に、動く」
テッド
「その前に一つだけ聞きたい」
サーヤを見る。
「そのカフェ――
お前にとって、どんな場所だ?」
サーヤは一瞬だけ、目を伏せた。
「……帰る場所」
「でも今は――」
顔を上げる。
「鍵の場所」
クルスが、静かに頷いた。
「なら、行く理由は十分だ」
外で、波の音が遠くなる。
夜はまだ深い。
でも、行き先は決まった。
ボルト爺さんのカフェ。
引き出しの五段目。
そこに――
この時計が“預けられた理由”がある。




