第八章 scene3 疑念
サーヤは、甲板の端に腰を下ろした。
足が、じんじんと痛む。
喉が渇いて仕方ない。ひとくち水を飲む。
(……生き返る)
深呼吸ひとつ。
そして、改めて――
掌の上の懐中時計に視線を落とした。
表。
針。
いつもと同じ。
裏返す。
月明かりと魔導ランプの灯りが重なって、
さっき気づいた刻印が、今度ははっきり見えた。
minori
サーヤの胸が、きゅっと鳴る。
(……偶然、じゃない)
英語なのは、おかしくない。
ボルト爺さんは転生者だ。夫婦で来たって、本人から聞いている。
でも――
(この名前は……)
転生前の名前は、誰にも言っていない。
この世界で呼ばれたこともない。
思い出すことすら、最近は少なくなっていた名前。
それが、ここに刻まれている。
サーヤは、時計を握る指に、力が入る。
(……なに、これ)
視線を落とした、そのとき。
(……あれ?)
時計の下部。
鎖の付け根のすぐ下。
ほんのわずか、爪が引っかかる隙間があることに気づいた。
サーヤは眉を寄せる。
(こんなとこ……あった?)
今まで何度も触ってきた。
安心するために、無意識に撫でてきた。
でも、外そうとしたことは、なかった。
息を詰める。
爪をかけて、慎重に、力を込める。
――カチリ。
小さく、乾いた音。
時計の底が、ほんの少しだけ、ずれた。
サーヤの目が見開かれる。
(……外れる……?)
心臓の音が、やけに大きい。
完全に外すと、
中は空洞になっていて――
そこに、
小さく折り畳まれた紙が、ぴったり収まっていた。
指先が、震える。
ゆっくり、それを取り出す。
広げる。
そこにあったのは、見慣れた、癖のある文字。
(……ボルト爺さん……)
間違いない。あの人の字だ。
短い一行。
引き出しの五段目
サーヤは、しばらく動けなかった。
頭の中が、一気に騒がしくなる。
(なに……?)
(どういうこと……?)
(いつから……?)
時計。
刻印。
隠された紙。
そして――
自分を狙って、雇われた旅芸人。
胸の奥に、
じわじわと不安が広がる。
(……私、なにに巻き込まれてるの)
サーヤは、紙をそっと畳み直し、
もう一度、時計の中へ戻した。
今は――
考えすぎるな。
ゆっくり、顔を上げる。
少し離れたところで、
二人の旅芸人が、こちらを窺っている。
逃げ場はない。
船は、もう闇の海の上だ。
サーヤは、静かに言った。
「……さて」
声は、思ったより落ち着いていた。
「今度は、あんたたちの話を聞かせて」
夜行船は、
何も言わず、前へ進み続けていた。
青年が、先に口を開いた。
「……わかった。話すよ」
声は低く、さっきまでの張りつめた感じが少し抜けている。
「ただ――ここ、冷えてきた」
「中に入ろう。甲板より、人の目があるほうがお前もいいだろ」
サーヤは一瞬、目を細める。
(観念した?それとも、まだ何かある?)
どちらにしても、
密室より“逃げにくい場所”のほうがいい。
「うん……いいよ」
3人は船室へ入った。
夜行の小型定期船。
客は多くないが、完全な無人でもない。
ランプの下。壁際の、あまり目立たない席。
3人並んで腰を下ろす。
派手マントが、席をたったがすぐ戻ってきた。
手には、湯気の立つカップが3つ。
「ほら」
「寒いだろ」
一つは、濃い色のホットコーヒー。
もう一つも、コーヒー。
そして――
サーヤの前に置かれたのは、ココアだった。
「……砂糖、多めな」
サーヤは、一瞬だけ瞬きをした。
(……あ)
特別な意味は、たぶんない。
ただの気まぐれか、癖か。
でも――
“大人扱いしない距離感”が、逆にひっかかる。
(この人たち……
転生のことは、知らない?)
少なくとも、
“minori”の意味を知ってる顔じゃない。
サーヤは、黙ってカップを受け取る。
温かさが、指先に沁みる。
青年が、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺から話す」
視線を落としたまま、言う。
「俺たちは――
旅芸人って名乗ってるけど、正直、半分は流れ者だ」
派手マントが、鼻で笑う。
「言い方。要は、稼げる場所を渡り歩いてるだけ」
青年は続ける。
「芸で食える時もあるし、護衛まがいの仕事を請けることもある。今回も、そういう“依頼”だった」
サーヤは、黙って聞く。
ココアに口をつける。
甘い。
でも、喉を通ると、少し苦い。
青年は、ちらりとサーヤを見る。
「……あんたを狙え、って話じゃなかった」
サーヤ
「……じゃあ?」
青年
「“その女が持っている時計を取れ”
それだけだった」
派手マントが肩をすくめる。
「顔写真付き。どこにいるか。いつ、人混みに出るか」
「温泉街で芸を打てば、自然に近づけるって算段」
サーヤの背中に、冷たいものが走る。
「誰が依頼したの」
サーヤが聞く。
青年は、少し間を置いた。
「……名前は名乗らなかった」
「ただ――」
そこで、言葉を選ぶように一拍。
「古いものに詳しくて、懐中時計が、
どうしても必要なんだって」
サーヤは、無意識に胸元を押さえる。
青年は、淡々と続ける。
「俺たちは金で動いただけだ」
「深く関わる気はなかった」
派手マントが、視線を逸らす。
「……正直言うとさ」
「その時計、ただの飾りじゃない気はしてた」
サーヤ
「……どうして?」
「依頼主が、やたら詳しかった」
「細工の位置も、鎖の癖も、“何かある”ってことも」
サーヤの心臓が、強く打つ。
(……知ってた)
(中に“何か”があるって)
青年が、静かに言った。
「だから、怖くなった」
「深追いすると、面倒なことになるって」
「……あんたが追いかけてきた時、正直ほっとした」
サーヤ
「……は?」
派手マントが苦笑する。
「これで、仕事としては失敗だ」
「でも――変な線は越えずに済む」
船室に、しばらく沈黙が落ちた。
ランプの灯り。
波音。誰かが咳払いをする気配。
サーヤは、カップを置いた。
「……ねぇ」
二人を見る。
「その依頼主、どこで会ったの」
青年は、少し考えてから答えた。
「港町だ」
「この船の、次の寄港地」
サーヤの中で、歯車が、はっきり音を立てて噛み合った。
(……偶然、じゃない)
(この船に乗ったのも)
サーヤは、懐中時計をそっと握る。
中にある紙。
刻印された名前。
引き出しの五段目。
――まだ、全然わからない。
でも。
(……戻れなくなってきた)
夜行船は、
静かに次の港へ向かって進んでいた。




