山に名前を返す日
第一章 帰郷
冬の終わり、山の斜面に残った薄い雪が、午後の光を受けてかすかに青く光っていた。
遠野から乗り継いだローカルバスは、がたがたと古い橋を渡り、さらに山の奥へと進んでいく。相馬遼は窓の外の風景をぼんやりと眺めながら、十年ぶりに戻る故郷の空気を胸の底で確かめようとした。
祖母・相馬登美が亡くなったという知らせは、メールで送られてきた。
送り主は、村の自治会長であり、父の古い友人でもある熊谷だった。
簡潔な文面だった。「登美さん、今朝方、息を引き取りました。名前返しの儀は三日後の予定です」
遼はその言葉を何度もなぞり、最後の一文で呼吸が止まりそうになった。
名前返しの儀。
この村では、人が亡くなると、その“名前”を山に返すのだ。
名前は身体から離れ、山の記憶のなかへ帰る。そうすることで、残された者はその人の“重さ”から解放されるとされている。
だが遼にとって、あの儀式はまともに向き合いたいものではなかった。
バスが止まり、運転手が「終点」と告げた。
降り立つと、空気が一気に鋭くなる。街の空気と違い、ここでは風が音を持っている。木々を揺らすざわめきが、まるで何かを囁いているように聞こえた。
「遼か。大きくなったな」
声の方を見ると、熊谷が待っていた。小柄な体格だが、相変わらず目つきは鋭い。
遼は軽く会釈しただけで、言葉が続かなかった。
「登美さんは、お前が帰ってくるのを願ってた。最後までな」
熊谷はそう言って歩き出した。
遼は山道の冷たい土の匂いを感じながら、そのあとに続いた。
祖母の家までの道は、十年前とほとんど変わっていない。変わっていないことが、逆に胸を締めつけた。
「……遼、写真やってるんだってな」
「ええ。まあ、なんとか」
「都会はどうだ? 住みやすいか?」
「便利ですよ。なんでも揃ってるし」
熊谷はそれ以上聞かなかった。
遼としても、この十年を語りたい気分ではなかった。
村を出た理由を説明する気もなかった。
祖母の家が見えてきた。黒ずんだ木造の古い家。軒先の風鈴が、風に揺れて澄んだ音を鳴らしていた。
その音を聞いた瞬間、遼の胸にひやりとした痛みが走った。
妹が生きていた頃、よくこの風鈴を指でつついて遊んでいた。
玄関に入ると、線香の香りが鼻を刺した。
座敷には白い布がかけられた祖母の遺体が横たわり、村の女性たちが静かに手を合わせていた。
遼は祖母のそばに座り、布をそっとめくった。
祖母の顔は驚くほど穏やかで、まるで眠っているようだった。
「……ごめん、遅くなって」
声が震えた。
遼は祖母に何も伝えないまま村を出て、十年も帰らなかった。その間、祖母は一度も遼を責めなかったという。
それが逆につらかった。
「熊谷さん。名前返しの儀って、……もう決まってるんですか」
「明後日だ」
遼は目を閉じた。
儀式を避ける方法はない。村の者なら誰もが参加する、亡くなった者のための最も重要な行事だ。
熊谷はふっと息をついた。
「……遼。お前には話しておくことがある。登美さんが亡くなる前夜、妙なことを言っていた」
「妙なこと?」
「ああ。“返す名前と、返さない名前がある。山はわかっている”と、そう言ったんだ」
遼の背筋に氷を落とされたような感覚が走った。
返さない名前——。
それは、村で禁忌とされている行為だった。
その言葉を聞いた瞬間、遼の胸の奥で、十年前の記憶がわずかに軋んだ。
返さない名前——それは、亡くなった者の魂を山の記憶に預けないということであり、村の長老たちが代々「やってはならない」と口を酸っぱくして言い続けてきた禁忌だった。
遼は喉の奥がひりつくのを感じながら聞き返した。
「……祖母が、そんなことを?」
「遺言ってほどじゃねえ。最後の寝言みたいなもんだ。だが気になってな」
熊谷は腕を組み、祖母の遺体に目を向けた。
線香の煙がゆっくりと立ち、部屋の中で薄い筋を描く。
「返す名前と返さない名前……。登美さんは、誰の名前を気にしていたのか」
遼は答えられなかった。
祖母の表情はやはり穏やかで、言葉の真意を問いただすことはもうできない。
そのとき、ふいに風が入り、風鈴がかすかに鳴った。
冷たい澄んだ音。
遼は無意識に視線を上げた。
妹の声のように聞こえた。
胸の奥の痛みがさらに深く刺さる。
今ここで思い出すつもりはなかったが、記憶は勝手に扉を叩いてくる。
熊谷が遼の顔を覗き込んだ。
「疲れたろう。今日は休め。明日、儀式の準備を手伝ってもらう」
「……はい」
祖母の家の客間に荷物を置くと、遼は畳の上に腰を下ろし、大きく息をついた。
東京のワンルームとは違う、湿った木の匂い。冬の冷気が壁の隙間から入り、肌に触れた。
ここで育った。
だが、もう他人の家のように感じる。
ふいに、スマホが震えた。
画面には、東京の友人・谷口からメッセージが届いていた。
「無事ついた? 写真の締め切り、大丈夫?」
遼はしばらく指を動かせなかったが、ようやく短く打った。
「しばらく戻れない。こっちは問題なし」
本当は問題だらけだった。
撮影の仕事は減り、写真展の準備も行き詰まり、生活もぎりぎりだ。
だが遼は自分の弱さを誰にも見せられなかった。
メッセージを閉じ、遼はごろんと横になった。
天井の梁を見上げる。
その太い木材には子どもの頃に刻みつけた傷がまだ残っている。
妹とふたりで、背比べをした跡だ。
遼は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、誰かが耳もとで呼ぶような気配がした。
「りょう」
目を開けた。
だが、部屋は静まり返っていた。
風鈴の音すらしない。
夢か、幻聴か。
あるいは——。
遼は胸に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。
明日は祖母のための準備がある。
村の人間として、逃げるわけにはいかなかった。
翌朝、遼は熊谷に連れられて集会所へ向かった。
外はまだ薄曇りで、山の中腹には白い霧がまとわりついている。
遠くで鹿の鳴く声が響き、雪解け水の流れる音が道沿いに続いていた。
集会所には村の男衆が集まり、儀式で使う“名札”を作っていた。
白木の板に墨で名前を書く。
その名札を山の祠まで運び、焚くことで“名前を返す”のだ。
熊谷が言った。
「遼、登美さんの名札を書け」
遼は筆を渡され、白木を前に座った。
墨の匂いが鼻をつく。
ゆっくりと呼吸を整え、筆を置いた。
“相馬登美”
書き終えると、胸の奥が熱くなった。
ふと隣を見ると、熊谷が腕を組んで名札を見つめていた。
「いい字だ。登美さんも喜ぶ」
「……僕でよかったんですか」
「家族が書くのが一番だ」
遼はその言葉に複雑な気持ちを覚えた。
家族——その言葉が、この村では重い。
そのとき、背後から声がした。
「遼? 遼くんじゃないの?」
振り返ると、同い年の幼なじみ、美崎悠が立っていた。
十年前と変わらない笑顔だったが、雰囲気は落ち着き、大人になっていた。
「久しぶり。帰ってきてたんだ」
「久しぶり。……悠も、儀式を?」
「うん。うちも去年、祖父が亡くなって。手伝うのが習わしでね」
悠は遼の名札を見ると、少しだけ目を伏せた。
「登美さん、優しい人だったよね。お菓子作るの上手で」
遼は「そうだな」と小さく返した。
悠とは話すのも十年ぶりだが、不思議と距離感はそのままだった。
熊谷が声を上げた。
「よし、名札は揃った。明日の朝、山へ運ぶ」
名札が盆に並べられ、墨の黒が静かに光っていた。
遼はそれを見つめながら、胸のざわつきを抑えようとした。
明日、祖母の名前が山へ返される。
遼にとって避けたい現実だったが、もう逃げる道はない。
そのとき、外からふいに強い風が吹き、集会所の戸ががらりと開いた。
山から冷たい空気が流れ込み、名札がかすかに揺れる。
遼は背筋をのばした。
まただ。
風にまぎれて、誰かが囁いた気がした。
「りょう、まだだよ」
振り返った。
だが、誰もいなかった。
遼は拳を握りしめ、寒気を抑え込んだ。
熊谷が声を上げた。
「よし、名札はこれで全部だ。あとは祠の掃除だな。遼、悠、お前らも来い」
遼と悠は道具を持ち、他の村人たちと一緒に山道へ入った。
山の空気は、村よりさらに静かだった。
雪解け水の匂い、湿った土、折れた杉の枝。
幼いころ、妹とよくここを走り回ったことを遼は思い出した。
山道を上るにつれ、霧が薄くなり、木々の隙間から光が差し込んできた。
「……変わらないね、この道」
悠がつぶやいた。
「変わらないよ。十年経っても」
遼は答えたが、その声は少しだけ掠れていた。
祠が見えてくると、遼の足は自然と遅くなった。
木造の小さな祠。
屋根の苔は深く、賽銭箱は古いが、どこか厳かな気配がある。
そこで、遼は気づいた。
風鈴の音がしない。
村ではどの家にも風鈴があるのに、この山には風鈴の音がひとつもなかった。
それは昔から変わらないことだったが、今は妙に胸に引っかかった。
熊谷が祠の前に立つ。
「ここに名札を供え、明日の儀で焚く。遼、お前のばあちゃんの名札は一番上だ」
遼は名札を持ち、祠の前へ膝をついた。
木の香りと、濡れた土地の冷たさが身体に伝わる。
名札を置こうとした瞬間——。
「……りょう」
また、声がした。
昨日と同じ、かすかな囁き。
だが今日は、よりはっきりしていた。
遼は思わず周囲を見回した。
「どうしたの?」
隣の悠が不思議そうに覗き込む。
「いや……何でもない」
ごまかすように答え、遼は名札をそっと置いた。
胸の鼓動が速くなっているのを自覚しながら、深呼吸をした。
熊谷が祠の掃除を終えると、全員に声をかけた。
「よし、今日はここまでだ。明日は早い。各自、体を休めろ」
一同は山を下り始めた。
遼と悠は並んで歩いた。
霧が薄くなり、山の向こうから午後の日差しが差し込む。
「……遼、さっき本当に大丈夫?」
悠が小声で聞いた。
「平気だよ。ちょっと疲れてるだけ」
「そっか。ならいいけど」
悠はそこから少し黙ったあと、小さくつぶやいた。
「十年前、遼が急に村を出た理由……聞いていいのかなって、ずっと思ってた」
遼は足を止めかけた。
だが歩みを強引に続けた。
「過去の話だよ。たいした理由じゃない」
「そう、なんだ……」
悠はそれ以上聞かなかった。
しかし心の奥で、遼は知っていた。
たいした理由じゃない。
そう言えるほど、軽い話ではない。
十年前のあの日、山で起きたあの出来事。
忘れるために村を出たのに、
いま、山は遼の耳元で名前を呼び続けている。
「りょう」
今度は、確かに聞こえた。
風の音に溶けるように、しかし間違いなく“声”だった。
——祖母か。
——いや、違う。
もっと幼い。
もっと、懐かしい。
十年経っても忘れられない声。
妹の声。
遼は思わず立ち止まる。
足元で雪解け水が流れ、太陽の光で白く輝いていた。
悠が振り返る。
「遼?」
遼は胸を押さえ、息を整えた。
「……大丈夫。帰ろう」
だが、胸の奥ではすでに何かが動き始めていた。
山は、忘れていない。
そして——山は、呼んでいる。
夕方、山を下りた遼と悠は、それぞれの家へ戻るため村の分岐点で別れた。
「じゃあ、また明日。遼、ちゃんと起きてよね」
悠が笑って手を振る。
「起きるよ。子どもじゃないんだから」
そう言い返しながらも、遼は曖昧に笑った。
胸の奥で続くざわつきは、家に戻っても消えない気がした。
自宅の玄関を開けると、炊き込みご飯の匂いが迎えてくれた。
祖母がよくつくっていた味だ。
母が鍋から茶碗に盛りながら振り返る。
「遼、おかえり。どう? 準備は進んだ?」
「うん。明日は朝から山だって」
「そう。……あの子の名前も、返してあげるんだね」
母の声は柔らかかったが、どこか遠かった。
食卓に置かれた箸が、かすかに震えているのを遼は見た。
「母さん……」
「いいのよ。十年も経ったんだもの。ようやく、ね」
遼は返す言葉を見つけられず、茶碗に目を落とした。
食事を終えて部屋に戻ると、遼は机の引き出しから古い箱を取り出した。
妹と拾った、小さな山の石が入っている箱だ。
白い石、赤い石、丸い石、貝のような模様の石。
どれも、あの日の記憶の断片だった。
箱を開けた瞬間、ふわりと風が吹き抜けた気がした。
「……気のせいだ」
窓は閉まっている。
風が入るはずはない。
そう思いながら箱を閉じようとしたとき——。
石の下に、紙片が挟まっていることに気づいた。
折り目のついた、小さなメモ紙。
遼はそっと開いた。
そこには子どもの字で、
「おにいちゃん、またあしたもやまいこうね」
と書かれていた。
胸が締めつけられた。
十年前の夏のことが、鮮やかに蘇る。
妹は山が大好きだった。
あの日も、遼の手を引いて先に走っていった。
そして、霧が急に濃くなって……。
思い出したくない記憶が喉元までせり上がる。
そのとき、声がした。
「……りょう」
遼は反射的に振り返った。
誰もいない。
窓も閉まっている。
廊下の電気も消えている。
だが確かに、耳元で呼ばれた。
幼い声。
十年前と同じ声。
——妹の声。
遼は震える手で顔を覆った。
「……なんで、いまなんだよ」
返事はなかった。
静寂だけが部屋を満たす。
やがて、スマートフォンが震えた。
画面には、悠からのメッセージ。
《今日の遼、なんか変だった。無理しないでね》
遼はしばらく画面を見つめ、
——大丈夫
とだけ打った。
送信ボタンを押した瞬間、部屋の灯りが一瞬だけ揺らいだ。
まるで誰かが通り抜けたように。
遼は思った。
山は、明日を待っている。
名を返す儀を前に、何かが動き出している。
胸の奥に深く沈んでいた“あの日”の記憶。
それが、ゆっくりと浮かび上がろうとしていた。
第一章 完
第二章 名を返す朝
翌朝、村はまだ薄い霧に包まれていた。
夜の冷えが残る空気を、遼は外に出た瞬間に肺いっぱいに吸い込んだ。
胸の奥に、ひやりとした痛みが広がる。
家の前には、すでに熊谷が立っていた。
手には木箱を抱えている。
今日、名札を山に返す儀式で使われる箱だ。
「遼、起きたか。……顔色、悪いな」
「大丈夫です。寝不足なだけで」
「ならいいが。今日はお前の家が“先達”になる番だ。気ぃ引き締めろよ」
遼は黙ってうなずいた。
先達——儀式の先頭で祠まで名札を運ぶ役。
祖母の代から続いてきた役目で、今年は遼が担うことになった。
母が玄関から顔を出す。
「遼、お弁当入れたから。山は冷えるから気をつけてね」
「うん。ありがとう」
母は微笑んで見送ったが、その目の奥には別の色があった。
不安。期待。そして、十年分の痛みのような影。
村の集会所に向かうと、悠が待っていた。
手袋を両手でもみながら近づいてくる。
「遼、おはよう。……本当に大丈夫?」
「大丈夫。気にしすぎだって」
「ならいいけど」
悠はそれでも心配そうだった。
遼は昨日の“声”のことを言おうか迷いながら、結局黙った。
集会所には、村人たちが静かに集まっていた。
名札を入れた木箱、祠で焚くための白紙、塩、水。
どれも厳かで、触れるだけで背筋が伸びる。
やがて、熊谷が声を張る。
「これより“名返し”に向かう。遼、箱を頼む」
遼は木箱を受け取り、腕に抱えた瞬間——
箱の中で何かがかすかに触れた気がした。
……動いた?
名札が揺れたのか、気のせいか。
遼は自分の腕に力を入れなおした。
行列はゆっくりと山道へ進み始める。
霧の中、村人たちの足音だけが規則正しく響く。
鳥の声も、川の音も、今日はなぜか遠く感じた。
遼は歩きながら、胸の奥に妙な違和感を覚えていた。
——呼ばれている気がする。
昨日よりも、もっと近くから。
だが、行列の外に声の主らしき姿はない。
やがて、最初の鳥居が見えてきた。
山の入口を示す古い木の鳥居。
十年前と同じ場所に、同じ形で立っている。
鳥居をくぐる瞬間。
「……りょう」
遼の耳元に、息が触れた。
昨日よりはっきりと。
幻聴でも、記憶でもない。
確かな“存在”だった。
遼は足を止めかけたが、悠が袖を引いた。
「遼? どうしたの?」
「……なんでもない」
そう答える声が震えた。
熊谷が振り返り、低く言った。
「遼、集中しろ。今日は“名”と向き合う日だ。迷いは山に呑まれるぞ」
遼は小さく息を呑んだ。
迷いは、呑まれる
熊谷の言葉が、胸に刺さる。
そして遼は思った。
ならば俺は、いつから迷っていた?
十年前から?
それとも、ずっと前から?
霧の先で、山の祠が薄く姿を見せ始める。
遼の手の中の木箱は、なぜか冷たくなっていた。
祠へ向かう山道は、村よりもさらに深い霧に包まれていた。
昨日と同じ道のはずなのに、木々の影がどこか異様に感じられる。
遼は木箱を抱えた腕に力を込めた。
行列が進むにつれ、空気が変わっていく。
湿り気だけでなく、静けさの質が違う。
風が止まり、鳥の声すら聞こえない。
まるで山そのものが、耳を澄ませてこちらをうかがっているようだった。
遼の背中に、冷たい汗がゆっくり伝う。
隣を歩く悠が、そっと囁いた。
「……遼。やっぱり変だよ、今日の山」
「うん、俺も思ってた」
言った瞬間、木箱がかすかに震えた。
遼は驚き、落としかける。
「今、揺れた!? ねぇ、遼!」
悠が声を潜めて聞く。
「……中の名札が動いた気がした」
「そんなわけ……でも……」
悠も言葉を飲み込んだ。
儀式を前に、無闇に不吉な言葉を口にするのはよくない。
それは村に昔からある暗黙のルールだった。
やがて、霧の向こうに祠が見えてきた。
昨日と変わらない、小さな木造の祠。
ただし——。
遼は違和感に気づいた。
——扉が、開いている。
「え……?」
昨日、熊谷と閉めたはずだ。
誰かが来たのか。
それとも、風……いや、風ではこの扉は開かない。
熊谷も気づいたらしく、眉を寄せて足を速めた。
行列が祠の前で止まる。
熊谷は周囲を見渡し、低く言った。
「……誰か先に来たか?」
誰も答えない。
遼と悠も視線を交わしたが、心当たりはない。
熊谷は慎重に祠の前へ立ち、扉に手をかけた。
その瞬間。
祠の奥で——何かが動いた気配がした。
ざ……り。
微かな音。
遼は身体を固くする。
熊谷が静かに扉を押し開けた。
中は暗い。
薄い香の残り香が漂っている。
昨日、名札を置いた場所に、束ねた名が整然と並んでいるのが見える。
——ただひとつ。
遼の胸が凍りつく。
妹の名札だけが、列から外れ、祠の床の端にそっと置かれていた。
遼は一歩前に出た。
「なんで……」
悠が同時に息を呑む。
村人たちのざわめきが背後で広がるが、遼には聞こえなかった。
妹の名札は、誰かが触れたとしか思えない位置にあった。
熊谷が低い声で言う。
「……遼。心を落ち着けろ。儀はこれからだ」
だが遼は名札から目を離せなかった。
十年前の記憶が、喉の奥でざわめく。
そのとき。
——りょう
祠の中から、確かに声がした。
昨日までよりも近い。
耳元ではなく、真正面から。
遼は木箱を落としそうになりながら、祠の闇を見た。
闇の奥で、淡い光が揺れた気がする。
誰も気づいていないのか、村人は静かに準備を続けている。
悠だけが、遼の横顔を見て震える声を出した。
「……遼? ねぇ、いま、何か——」
遼は小さく首を振った。
「……聞こえた。祠の中から」
悠の顔から血の気が引いた。
誰も何も言わないまま、山の空気だけが深く沈んでいく。
遼は思った。
山は、何を返そうとしている?
“名”を返すのは俺たちだけじゃないのか?
そして確信した。
今日、山は“何か”を返し始めている。
祠の前の空気は、ひどく重かった。
霧が濃くなるたび、足元の土が湿り、山全体が息を潜めているように感じられる。
熊谷が儀式の準備を進める声が響く。
「白紙を用意。名札はこの器に」
言葉は淡々としているが、声の奥には微かな緊張があった。
妹の名札が移動していたこと——熊谷も見逃していないはずだ。
遼は木箱を祠の前に置いた。
箱の底はまだ冷たい。
遼の指先は、小さく震えていた。
悠が横に立ち、袖をそっと引いた。
「ねぇ遼……さっき、本当に……声、したの?」
「……した。間違いない。妹の声だ」
悠は息を呑んだ。
「じゃあ……遼の妹さんは、まだ……」
「いないよ。もう十年だ。だから……ありえないんだ」
そう言ったものの、遼の胸には“ありえない”では片付けられない何かが渦巻いていた。
熊谷が遼を呼ぶ。
「遼、先達が最初に名を供えるんだ。来い」
遼は深く息を吸い、祠の前へ進んだ。
白い器の中には昨日と同じように名札が並べられている。
だがその一番上、祖母の名札のすぐ下に——妹の名札が置かれていた。
遼自身が置いた位置とは違う場所に。
熊谷が気づき、目を細めた。
「……妙だな。誰が動かした?」
誰も答えない。
答えられるはずがない。
遼は震える手でその名札を持ち上げた。
木の肌は冷たかったが、その奥に微かな温度のようなものが感じられた。
妹の名前。
文字の形まで十年前の記憶と同じだった。
胸が痛む。
十年分の痛みが、名札一枚に凝縮されたようだった。
その時だった。
祠の奥の闇が、ふっと揺れた。
遼は気づく。
闇が揺れたのではなく、何かが“顔を覗かせた”。
淡い光を帯びた小さな影
人影に見えた。
——りょう
声が再び響く。
今度ははっきりと、幼い少女の声で。
遼は息を呑み、後ずさりした。
熊谷が慌てて腕を掴む。
「落ち着け!」
遼は目を見開いたまま祠の奥を見つめる。
悠も声にならない叫びを漏らす。
「……い、今……人影……!」
返事はなかった。
代わりに、祠の奥に置かれていた鈴が――ひとりでに揺れた。
ちりん——。
山風のない、静寂の朝に不釣り合いな音。
遼は気づいた。
妹の声は、記憶の残響なんかじゃない。
山に呼ばれているのでもない。
——“ここにいる”。
その確信が、遼の背骨を伝って冷たく走った。
熊谷が皆に指示を飛ばした。
「全員、後ろへ下がれ! 今日の儀は……慎重に行う!」
誰もが恐れと戸惑いの表情で祠から距離を取る。
だが遼は動けなかった。
目の前の闇から目が離せなかった。
そして、淡い光がまた揺れた。
まるで——
祠の奥にいる“誰か”が、こちらへ歩み出ようとしているかのように。
光が揺れるたび、祠の奥の闇はゆっくりと形を深めていくようだった。
熊谷は息をのみ、静かに手を合わせた。
「……お戻りいただく儀ではない。違う。これは“応え”だ」
誰に言うでもなく呟いた声は、恐怖よりも混乱に満ちていた。
遼は熊谷の袖を掴む。
「どういうことだ。儀式は“山に名前を返す”……名を呼ぶのは山のはずだ。なのに……」
熊谷は答えることができなかった。
答えがあるのかどうかすら分からないという顔だった。
祠の奥の光は、こちらに滲むように近づいてくる。
悠が震える声で言う。
「……遼、本当に……妹さんなの……? これ……“人”に見えるよ……」
「わからない。でも……声は、あいつのだ」
「声だけなら、山の……」
悠が言いかけたその瞬間。
光がふっと強まった。
闇に溶けていた“輪郭”が浮かび上がる。
小さな肩。
細い腕。
十年前のままの、あの背丈。
遼の喉がひきつった。
「……嘘だ……」
祠の奥の影が、一歩だけ前へ踏み出したように見えた。
その瞬間、熊谷が叫んだ。
「遼、見るな!!」
腕を強引に引かれ、遼は後ろへ倒れ込む。
だが遼の視線は離れない。
影は確かに動いたのだ。
妹が、十年前に山で消えたはずの妹が。
悠が泣きそうな声で言う。
「やだ……これ……なんなの……? 人じゃない……でも……人みたい……!」
熊谷は震える手で数珠を握りしめた。
「これは……“返す儀”では起こらん。何かが……名を返される前に、こちらへ来ようとしている……。山の理が、乱れている……」
「どうすればいいんだ……!」
遼が叫ぶ。
熊谷は即答できなかった。
その代わり、祠の奥の影が答えるように、ふたたび“声”が響いた。
——りょう、かえして。
遼の心臓が止まる。
十年前、たった一度だけ迷子になった妹が泣きながら言った言葉と同じだった。
“返して”。
何を?
命か。
名前か。
記憶か。
それとも——。
熊谷は絶望した表情で呟いた。
「……遼。おまえ……妹さんの“名”を、この十年……返していないのか……?」
祠の奥の光が、返事のようにふっと脈動した。
遼は立ち尽くした。
妹の名を呼ぶことができなかった十年。
名前を封じるようにしまい込んだ十年。
それを、山が知っているというのか。
そして“本人”が——。
——りょう、かえして。
声はもう幼い響きではなかった。
祠の奥の影が、一歩分、完全に光の輪郭を持った。
十年前と同じ姿。
だが——顔が見えない。
白くぼやけた空白。
遼は思わず後ずさる。
熊谷が低く叫んだ。
「遼! 見るなと言っただろう!! “顔が戻っていない”うちは、まだ——」
その言葉の先を、祠の鈴の音が遮った。
ちりん……。
山風のない朝に、三つ、続けて鳴った。
まるで——
“迎えに来たよ”
と告げるように。
鈴の音が三度響いたあと、祠の奥の影は動きを止めた。
静寂が戻ったはずなのに、山全体がざわつき始めたように感じる。
木々の葉がわずかに震え、霧の濃淡が脈を打つように揺れる。
熊谷が低く言う。
「……“三度鳴き”だ。迎える側の合図だ」
「迎えるって……誰を……?」
遼が問う。
熊谷は顔を強張らせたまま、ほんのわずかに首を横に振る。
「分からん。だが——戻ってきた者のためではない」
遼は祠の奥を見つめた。
白い影は、少女の体の形をしていた。
だが、顔だけがどうしても戻らない。
輪郭の中心が、白い霧のように漂い続ける。
それは“人の姿を模している”としか見えなかった。
悠が涙声で言う。
「遼……逃げよう。違うよ……これ、ぜんぶ……間違ってる」
「違う……でも……」
遼の胸の奥では、十年分の後悔が膨らみ続けていた。
妹の名前を呼べなかった。
思い出すことすら避けてきた。
名札を作ったのも、今年が初めて。
それを、山が見ていたというのか。
そして“彼女自身”が——。
祠の奥の影が、ふっと揺れた。
その動きは、まるで息を吸ったようだった。
次の瞬間。
——りょう。
その声は、さっきよりも近い。
遼のすぐ耳元で囁かれたように。
遼は震えた。
だが逃げなかった。
「……ごめん。呼べなかった。ずっと……呼んじゃいけない気がしてたんだ」
遼は名札を両手で抱えるように胸に当て、祠へ向かって一歩踏み出す。
熊谷が声を荒げた。
「遼!! 前に出るな!!」
だが遼は止まらなかった。
妹が死んだと受け入れきれなかった十年。
行方不明のまま、記憶を閉ざし続けた十年。
その“名”を、山に返すことも、呼び戻すこともできなかった俺は——
やっと今、向き合っている。
遼は名札を掲げた。
「——玲奈」
祠の奥の影が、ぴたりと動きを止める。
白い霧のような顔の中心が、ゆっくりと揺れた。
まるで“探していた音”を掴まえたように。
熊谷が息を呑む。
悠が遼の腕を掴んだまま震えている。
遼はもう一度、はっきりと呼んだ。
「玲奈!」
その瞬間——
祠の闇が、息をするように吸い込まれた。
白い影が、一気に霞んでいく。
足元から崩れるように形がほどけ、輪郭が霧の中へ溶けていく。
——りょ……う。
最後の声は、悲しみでも、恨みでもなかった。
ただ……やさしい、幼い声だった。
そして光は完全に消えた。
祠の奥には、元どおりの闇だけが残った。
山は、静まり返った。
熊谷が低く言う。
「……名を返したんだ。十年越しに、やっと」
遼はその場に膝をついた。
胸に押しつけていた名札が、ぽとりと地面に落ちる。
悠がそっと遼の背に手を置いた。
「……遼、おつかれ……」
霧の奥で、遠く鳥の声がした。
新しい朝の光が、山の影をほどいていく。
第二章 完
第三章 呼び戻される声
山の霧が晴れ始めたころ、遼たちはようやく祠から離れた。
だが、儀式は中断という形で終わってしまった。
熊谷はその責任を背負うように黙り込み、悠は遼の腕を握ったままなかなか離そうとしなかった。
遼は無理に笑って言った。
「もう大丈夫だよ。……ありがとう」
悠はゆっくり手を離したが、不安をぬぐえない表情のままだった。
山道を下る最中、熊谷がぽつりと言った。
「祠に現れた“あれ”は……全部が妹さんではない。あれは……名の欠片を喰って、姿を寄せてくる“影”だ。十年前の玲奈さんが、まるごと戻ったわけではない」
「……影?」
遼が問い返すと、熊谷は続けた。
「本来、名を返す儀は“山に名を返す”行為だ。だが……返されなかった名、呼ばれなかった名は、形を失いながら山に留まる。長く留まるほど、人だったものか、山のものか、曖昧になる」
その言葉が遼の胸に刺さった。
——十年呼べなかった自分が、それを作ったのかもしれない。
山の下についた頃、熊谷は振り返り、深刻な顔をして言った。
「……遼。帰ったら、家族と話せ。十年前のこと、もう一度」
遼は息を飲んだ。
十年前—妹が山で行方不明になった日。
両親と一度も“まともに話していないこと”があった。
避けてきたのだ。
それが、今になって呼び戻されている。
だが、そのときだった。
悠が不意に立ち止まり、遼の袖を掴んだ。 「……ねぇ。遼……これ……」
悠の指先が震えていた。
遼が視線を向けると、山道の脇。
苔むした石の隙間に、何か白い紙片が押し込まれていた。
遼は眉をひそめて近づく。
紙の端をそっと引っ張ると
湿った白紙が一枚、ぬるりと出てきた。
白紙のはずの紙には、文字が浮かんでいた。
黒いにじみのような筆跡で、たった一行。
——かえしにきたよ
遼の心臓が跳ねた。
熊谷が慌てて駆け寄り、紙を一目見た瞬間、顔色を変えた。
「……遼。これを見つけた場所、十年前……玲奈さんが最後に目撃された場所と、まったく同じだ」
遼は思わず周囲を見回した。
静かな山道。
鳥の声すらしない空気。
遼は紙を握りしめたまま、かすれた声で呟いた。
「……何を返すっていうんだ……玲奈」
足元の落ち葉がひとりでに揺れた。
悠が再び遼の腕を掴む。
「遼……」
「……行かなきゃいけない。家に、家族と向き合うため。」
十年前の“あの日”を掘り返すため。
そして——名を呼べなかった理由を、自分自身に説明するため。
遼は紙を胸にしまい、山を下り始めた。
その背後で。
誰もいないはずの山道に、かすかな足音が一つ、ついていくように響いた。
遼の家は、山から下りてすぐの集落のはずれにある。
十年前から何一つ変わらない。
外壁のひびも、庭の石灯籠の欠けも、そのままだ。
だが、家の前に立つと、遼の足は自然と止まった。
胸の奥がざわつく。
“ただいま”と言えない家だ。
悠が心配そうに見つめる。
「大丈夫……?」
遼は頷いたつもりだったが、声にはならなかった。
熊谷が一歩前に出て言う。
「遼。覚悟しろ。家族が何を隠していても、今日は聞け。お前が聞かない限り、十年分の影は消えない」
その言葉に背を押されるように、遼は玄関の引き戸を開けた。
家の中には、薄い線香の香りが漂っていた。
誰かが今朝、仏壇に火をつけたのだろう。
居間には母が座っていた。
遼を見るなり、驚いたように立ち上がる。
「……遼?」
遼はぎこちなく頭を下げた。
「……ただいま」
母は言葉を失い、遼を見つめる。
その視線に、十年間のずれが詰まっていた。
やがて母は、小さく息を吐いた。
「……祠へ行ったのね」
その一言に、遼は胸の奥がざわついた。
祠の名を、すぐに言い当てた。
遼が問い返す。
「どうして……祠って分かった?」
母は目を伏せる。
「お父さんは……今も玲奈を探してるのよ。十年経っても、祠に行くのをやめなかった。遼が戻ったなら、きっと同じ場所だと思って……」
「父さんが……?」
遼は息を呑んだ。
十年前の事故から、父は口を閉ざし、遼ともほとんど話さない。
だが——祠に行き続けていた?
母は続ける。
「本当は……遼にも話さなきゃいけなかった。でも……あなたを巻き込みたくなくて」
「巻き込むって、何に……?」
母は答えなかった。
代わりに、遼の胸ポケットから覗く白紙に目を止めた。
「それ……」
遼は震えながら取り出した。
“かえしにきたよ”と書かれた紙。
母の顔から血の気が引く。
「やっぱり……まだ終わってないのね……」
遼は耐えきれず問い詰めた。
「母さん。“返す”って何なんだ!? 俺は……なにを返さなきゃいけないんだよ!」
母は唇を噛み、何度も言葉を飲み込んだ。
そのとき——
奥の襖が、音もなく開いた。
遼と母が同時に振り向く。
襖の向こうには、父が立っていた。
疲れ切った顔。
目は赤く、声は掠れていた。
「……俺が話す」
遼は動けなかった。
十年ぶりに聞く父の声だった。
父はゆっくり居間へ入り、遼の正面に座る。
そして、まっすぐ遼を見て言った。
「遼。お前には……話していなかったことがある。玲奈が山で消えた日のことだ」
母が小さく首を横に振る。
父はそれを制するように手を上げた。
「もう、隠していられない」
遼の喉が鳴る。
父は深く息を吸い、十年間胸に押し込めていた言葉を吐き出した。
「——最後に玲奈を見たのは、俺だ」
空気が止まる。
父は続けた。
「玲奈は……山で“誰かと話していた”」
遼の心臓が跳ねた。
“誰か”。
十年前の妹は、誰と話していた?
父は震える声で告げた。
「誰もいないはずなのに……玲奈は、祠の奥に向かって……名前を呼んでいたんだ。
——“返すから、待っててね”って」
遼の全身から血の気が引いた。
熊谷がゆっくりと息を呑む。
悠は遼の腕を掴んだまま、震え続けている。
遼は辛うじて声を絞り出した。
「玲奈は……誰に向かって……“返す”って言ったんだ?」
父は震える唇で答えた。
「……それが……お前なんだよ、遼」
遼の意識が一瞬白くなる。
「——なぜだ」
父は苦しそうに目を伏せた。
そして重い声で告げた。
「玲奈は……“遼から返してもらうものがある”と、言っていた」
家の奥から、線香の煙がゆらりと揺れた。
まるで、誰かがその言葉に反応して――
戻ってきたかのように。
玄関の戸を閉じたまま、遼は背中を預けてしばらく呼吸を整えた。家の中の空気は、昼間よりわずかに冷たく、湿り気を帯びている。誰もいないはずの廊下から、水滴の落ちるような、かすかな音が一拍ずつ刻まれていた。
雨は、もう上がっているはずだ。
遼は音のする方へ歩いた。廊下の突き当たり、昔、妹・芽衣の部屋だった襖の前で、音がぴたりと止んだ。まるで、気配そのものが潜り込んでいくような静けさが続く。
「……いるのか?」
返事はない。あるはずもない。
だが、襖の下の隙間に、薄い影が一瞬だけ揺れた。まるで、小さな足の形のように見えた。
遼が息を呑んだその瞬間、厨房の方から、古い戸棚が軋む音が響いた。妹の部屋から離れていくように、家全体が低くうなる。
遼は強く目を閉じ、唇を噛んだ。
山が呼んでいるんじゃない。
これは、俺自身の“名の記憶”が、まだ返ってきていないのだ。
芽衣の幻影は山だけにいるわけじゃない。遼が向き合いきれていない部分――言えなかった言葉、返せなかった名、手放せずにいた後悔――それらが家の中でも姿を変えて現れているのだ。
そのとき、背後で玄関の戸が、コトリ、と小さく揺れた。
遼が振り返ると、戸の陰に、赤い紙片が落ちていた。拾い上げて目を凝らすと、それは山の古い風習で用いられる“名結び”の一部だった。だが、そこに書かれていたのは見覚えのない名前――
「遠野 雪」
芽衣の名ではない。
遼は眉をひそめた。だが、どこかでその響きを知っている気がした。記憶の中に薄く靄がかかっていて、掴もうとすると逃げていく。
そのときだった。
階段の上から、ぎし、と重い音が落ちてきた。人が一段だけ踏むような、そんな落差を伴う音。
遼は顔を上げた。階段の最上段に、誰かが立っていた。
輪郭は曖昧で、光ににじむように揺れている。妹より大きい。大人の女性の姿だ。だが、その髪の輪郭はどこか、遼の記憶と噛み合う。
女性はゆっくりと顔を向けた。
目が合った気がした瞬間――家全体の灯りが一斉に揺れ、ふっと消えた。
闇が落ちる。
遼は立ち尽くしたまま耳を澄ませた。階段の上の気配は、完全に途切れていた。だが、消える直前の顔だけが脳裏に焼きついて離れない。
女性の表情は、怯えと哀しみが入り混じったような、助けを求める顔だった。
――遠野 雪。
暗闇の中で遼は、ゆっくりとその名をつぶやいた。
舌の上で転がした瞬間、胸に小さな痛みが走った。忘れていたはずの、古い古い傷をこすられるような痛みだ。
灯りがひとつ、低い音を立てて復帰した。
階段にはもう誰もいない。
だが、床の上に小さな足跡がついていた。水滴の跡のように点々と、妹の部屋の方へ向かっている。
遼は唾を飲み込んだ。
これはただの怪異じゃない。
山も、家も、俺の中の記憶も。
すべてがひとつの場所へ繋がり始めている。
そのとき、携帯が震えた。
亮介からのメッセージ――
「遼、来い。すぐに。祠の前だ。お前に見せたいものがある」
遼は、しばらく動けなかった。
祠の前。
芽衣が最後に笑った場所。
名前を返そうとした場所。
そして、いま再び“何か”が動き始めた場所。
遼は玄関に置いたライトをつかむと、決意を飲み込むように息を吸った。
「……わかった。行く」
外の闇は、山の黒さと同じ色をしていた。
遼はその中へ、一歩踏み出した。
山道に入ると、湿った冷気がまとわりつくように肌へ吸い付いてきた。遼はライトをかざし、ゆっくりと足を進めた。夜の山は、昼間とは別の生き物のように沈黙している。風の音すら、どこか遠くのものに聞こえた。
祠へ続く道は、亮介と何度も歩いたはずなのに、今夜は距離感が歪んでいた。一本の杉が、まるで見知らぬ巨人の肩越しに迫ってくるような圧を放っている。遼は無意識に歩幅を狭めた。
そのとき、前方にぽつんと灯りが揺れた。
祠だ。
そして、その前に――亮介が立っていた。
「遼!」
亮介の声は掠れていた。走り続けてきたか、誰かと揉み合った後かのように息が荒い。
「来たか……すぐ見ろ。これ、どう考えてもおかしい」
亮介が指差した祠の前に、暗い影がひとつあった。
細長く、背が高い。それは石段の手前にうずくまるように置かれていた。
遼は近づき、ライトを当てた。
白いワンピース。
濡れた髪。
顔を伏せ、膝を抱えるようにして座る女性。
遼の呼吸が止まった。
「……妹じゃない。違う。だけど……」
亮介が喉を鳴らして言った。
「俺、見たんだよ。ここに来る途中の分かれ道で。あいつ、こっちを見てた。手を、振ってたんだ」
遼は女性の顔に目を向けた。暗がりで表情は見えない。だが、その姿勢、その輪郭、その空気――遼の胸の奥で、さきほどの名が脈打つように疼いた。
遠野 雪。
女性の肩が、かすかに震えた気がした。
遼は亮介を制し、ゆっくりと近づいた。
「……遠野、さん……?」
その名を呼んだ瞬間、祠の奥から冷たい風が吹き抜け、紙垂がざわりと揺れた。
女性がゆっくりと顔を上げた。
ライトの光がその顔を照らした。
遼は息を呑んだ。
知っている。
だが思い出せない。
なのに、あのときの記憶の手前で、何かが途切れている。
女性の瞳は深い湖のように澄んでいて、そこに遼の姿がまっすぐ映っていた。怯えも、怒りも、恨みもない。ただ、懇願するような静かな光だけが宿っている。
「……あなたは、返しに来たんですか?」
遼は声が出なかった。喉が凍りついたように動かない。
亮介が息を飲んだ。
「返す、って……何をだよ……?」
女性はゆっくりと遼にだけ視線を向けた。
「あなたが、呼ばなかった名前です」
遼の胸が強く締めつけられた。
まただ。妹のときと同じだ。
俺は……何度、名前を返しそこねてきたんだ。
遼が震える唇を開こうとしたその瞬間――
祠の奥から、もう一つの影が立ち上がった。
ひどく小さな影。
子どもの背丈。
妹・芽衣が笑っていたときと同じ高さ。
遼は叫びかけて、声が出なかった。
亮介は後ずさりし、唇を噛んだ。
「遼……あれ……」
影はゆっくりと遼に近づき、石段の端で足を止めた。
風が止む。
森の音が消える。
世界が遼の鼓動の音だけになった。
影が顔を上げた。
妹ではない。
だが、妹の最後の姿と重なる何かがあった。
影は口を開き、掠れた声で言った。
「返して。わたしの名前を……」
次の瞬間、祠の周囲の木々が一斉にざわめいた。
白い影と小さな影が同時に遼へ向かって伸びるように揺れ――
闇が、遼を呑み込んだ。
第三章 完
第四章
闇は深い水の底のようだった。
沈んでいるのか、浮かんでいるのかすら分からない。
遼は手を伸ばしたが、指先には何も触れなかった。
——りょう。
幼い声が、水にしみ込むように届いた。
妹の声だ。
だが、十年前に聞いたままの声ではない。どこか遠く、掠れ、悲しみと安堵が同時に滲んでいた。
「芽衣……?」
返事はない。
かわりに、光が一筋、闇を裂くように立ち上がった。
その光の向こうに“何かの記憶”が浮かび上がる。
夏の強い日差し。
川のせせらぎ。
白い石を拾って笑う少女――芽衣。その背後、少し離れた場所に、もう一人、誰かがいた。
遼は眉をひそめた。
誰だ……? こんな記憶、俺は——。
少女と同じ年の、短い髪の子ども。
顔は光の向こうでかすれて見えない。
だがその子は、遼に向かって笑っていた。
——どうして忘れたの?
声が、胸の奥でこだました。
記憶の風景が揺れる。
光が走る。
遼は息を呑んだ。
白いワンピースの女性。
祠で見た、あの“遠野雪”と名乗った影が、記憶の端に現れた。
なぜ……この記憶に遠野さんがいる?
俺は、あの人のことを……。
遼が考えようとした瞬間、記憶はぱちん、と切れた。
闇が完全に崩れ、世界が反転するように明滅した。
遼は跳ね上がるように目を開けた。
見慣れた天井。
木の香りのする部屋。
熊谷家の座敷だった。
遼は荒い呼吸を整え、ゆっくりと体を起こした。
「……目、覚めたか」
襖の向こうから低い声がした。
熊谷だった。
眉間に深い皺を寄せ、湯呑を手に遼の方へ歩み寄る。
「亮介が担いで戻ってきた。祠のことは……後で聞く」
遼は口を開こうとしたが、喉が痛んだ。
熊谷は湯呑を差し出しながら言った。
「遼。お前、何を見た?」
遼は迷った。
妹の影。
遠野雪。
そして“もう一人の小さな影”。
どれも説明できない。だが、どれも現実だった。
遼は唇を湿らせ、絞り出すように言った。
「……返せ、って言われた。
俺が……呼ばなかった名前を」
熊谷の手が止まった。
何かを思い出したように、表情が硬くなる。
「遼。“名前を返せと言われる”のは……普通じゃない」
「普通じゃないのは、分かってる。でも……」
遼は拳を握った。
「俺、忘れてる誰かがいる。
妹だけじゃない。
あの女の人も……あの子どもも……」
熊谷は静かに息をついた。
その目は、どこか覚悟を決めた者のようだった。
「遼……お前に話さなきゃならんことがある」
遼が顔を上げる。
熊谷はゆっくりと座り直した。
「十年前の事故の“本当のこと”だ」
遼の心臓が強く跳ねた。
熊谷の声は、部屋の温度を数度下げるほど重かった。
「十年前の事故……あれは“事故”じゃなかったんだ」
遼は一瞬、意味が理解できなかった。
耳鳴りがした。
部屋の柱が遠のいて見えた。
熊谷は続ける。
「その日、お前は芽衣を探しに山へ入った。そこまでは周りの話と同じだ。だが――お前は一人じゃなかった」
遼は肩を震わせた。
「……一人で行った。覚えてる」
「いいや、違う」
熊谷は首を振る。
「もう一人、子どもがいた。お前と芽衣の“友だち”だ」
遼の喉が乾いた。
記憶の底が軋む音がした。
熊谷はゆっくりと言葉を重ねた。
「その子は……名前を持っていなかった」
遼は息を呑んだ。
「何だそれ……そんなはずない。そんな子、いるわけが」
だが、頭のどこかが疼いていた。
川辺の記憶。
光の奥で笑っていた幼い影。
あれは……誰だ?
熊谷は深く息を吸った。
「正確には、“名を村に記されていなかった子”だ。
あの頃、名を祠に記す習わしはもっと厳しかった。
外から来た子どもは、理由がない限り名を記されない。
だから――その子の名を覚えているのは、お前だけだった」
遼の視界が揺れる。
「待ってくれ……そんな話、聞いたことない。俺は……」
熊谷が遼の言葉を遮った。
「遼、お前は十年前……“その子の名前を呼ばなかった”。
呼んでやれなかったんだ」
遼の脳内で何かがひび割れた。
熊谷は静かに言った。
「だからあの日、その子は山で消えた。
名をもらえなかった子は、山の影に飲まれる。
これは昔から言われていることだ」
遼は拳を握りしめた。
「でも……妹は……」
熊谷は目を閉じた。
「その子を追って芽衣も山へ入った。
お前が追いついたときには、もう……影が三つ、祠の方へ向かっていくのが見えたと――お前自身が言った」
遼は首を横に振る。
「そんな……そんな話……」
忘れていた。
全部。
忘れたまま十年を生きてきた。
熊谷は続けた。
「遼。お前はそのとき、こう言ったんだ。
“ごめん。名前を……思い出せなかった”」
遼の心臓が痛んだ。
胸の奥で、何かがひどく冷たく震えた。
熊谷は静かに、決定的な言葉を落とした。
「祠に現れた白い女は――その子の“成れの果て”だ。
名を返されなかった子が、十年かけて“形”を取り戻した。
そして、お前の前に姿を見せた」
遼は床に手をついた。
息ができない。
「じゃあ……あの子どもの影は……?」
熊谷は目を伏せた。
「芽衣だ。
だが――あれはもう“人”じゃない。
名を返されずに山へ入った者は、影としてしか戻れん」
遼の目の奥で、二つの影が重なる。
白いワンピースの女。
小さな影。
どちらも、遼が忘れた名前を抱えたまま、山に取り残された存在。
そして
“返せ”と遼に手を伸ばしてきた。
熊谷は湯呑を置き、遼の肩に手を置いた。
「遼……覚悟しろ。
山は、お前に“決着をつけろ”と言っている。
一度忘れた名でも、呼び返すことはできる。
だが――間違えれば、お前が飲み込まれる」
遼の胸の奥で、かすれた声が蘇る。
——どうして忘れたの?
遼は震える手で顔を覆った。
俺が……忘れたから。
二人を……。
遼はしばらく言葉を失ったまま、部屋の畳を見つめていた。
その沈黙を破ったのは、襖の向こうから聞こえた小さな足音だった。
「……遼くん、起きた?」
悠だった。
顔色は悪いが、遼の無事を確認してほっと息をつく。
「亮介くんから聞いたよ。祠で倒れたって……。本当に大丈夫?」
遼はゆっくりと首を振った。
「大丈夫じゃない。
でも……逃げられない場所まで来てる」
悠は眉をひそめた。
熊谷は黙ったまま湯呑を片付け、席を外した。気を利かせたのだろう。
部屋には遼と悠の二人だけが残った。
悠は畳の上に正座し、遼をじっと見つめた。
「ねぇ遼くん……昨日からずっと変だよ。
なにか“見てる”でしょ? 私たちには見えないもの」
遼は唇を噛んだ。
言うべきか迷ったが、もう隠せる段階ではなかった。
「悠……俺は十年前、
妹と、もう一人の子を……“忘れた”んだ」
悠の瞳が揺れた。
遼は続ける。
「その子は……名前がなかった。家族とも離れて、村にも馴染めなくて……
だから、俺が勝手にあだ名をつけて……それで一緒に遊んでた」
悠は息を呑む。
「でも、ある日……その子が山で迷って、
俺は……本当の名前を聞いてなかったから……呼び戻せなかった」
言葉にすると、胸の痛みが鋭く増した。
「それで芽衣も追いかけて……二人とも消えた。
俺は全部忘れて……いや、忘れたふりをして十年、生きてきたんだ」
悠は両手で口を覆った。
「そんな……そんなの……遼くんのせいじゃない。
子どもだったんだよ? どうしようもないよ……」
遼は首を振った。
「違うんだ。
名前って……本人そのものなんだ。
山では“名を呼べないこと”が何より危険だって、ずっとそう言われてきたのに……」
悠は遼の手をそっと握った。
その指は強く震えていた。
「……ねぇ、遼くん。
祠に現れた人……その子、だったの?」
遼はゆっくりと頷く。
「白いワンピースの女性……“遠野雪”って名札にあった人。
でも多分、それは本当の名前じゃない。
十年前、俺が忘れた“あだ名の子”が……ああいう形になったんだ」
悠の目が潤む。
「遼くん……じゃあ、どうすればいいの……?」
遼は目を伏せた。
「熊谷さんが言ってた。
“名は呼び返せる”。
でも……一度忘れた名を呼ぶには、“思い出さなきゃいけない”」
「思い出すって……どうやって?」
遼はそっと胸に手を置いた。
「俺が山に戻るしかない。
祠の奥へ。
あの子が消えた場所へ」
悠は遼の手を掴んだ。
「だめ。そんなの危ないよ。
遼くん、昨日からずっと変だし……山に入ったら、もう……」
遼は静かに言った。
「悠。俺が行かないと……妹も、あの子も、帰れない。
“名前を返せ”って言われた。
返すためには、俺自身が思い出すしかないんだ」
悠は震える声で言った。
「じゃあ……私も行く。
遼くん一人でなんて、行かせない」
遼は首を横に振った。
「悠は無理だ。山に呼ばれていない人間が入ったら……」
「呼ばれてるよ。」
遼は息を呑んだ。
悠は真っすぐ遼を見た。
その目は、怯えながらも強い光を宿していた。
「私も聞こえた。
祠で……“返して”って声。
誰かの名前を呼ぶ声も。
遼くんだけじゃない」
遼は言葉を失った。
悠は震える手で遼の袖を掴んだ。
「遼くんの一人分の痛みじゃないよ。
私も……一緒に背負っていい?」
遼の胸の奥が熱くなる。
十年分の罪悪感に塞がれていた場所に、小さな光が流れ込むようだった。
そのとき。
廊下から荒々しい足音が響いた。
「遼! 悠! すぐ来い!」
亮介の叫びだった。
ただならぬ声色。
遼と悠は顔を見合わせ、すぐに立ち上がった。
縁側の扉を開けるやいなや、冷たい外気が一気に流れ込んだ。
朝のはずなのに、山の空気は異様に重い。
亮介が立つ庭の奥には、村のほうへ続く細い道が見える。その先で、人々がざわめき、誰かが叫んでいた。
「なにがあったんだ?」
遼が問うと、亮介は険しい顔つきで言った。
「……儀式小屋から、“名札”が消えた」
遼の胸が強く跳ねた。
「消えたって……全部か?」
「いや。全部じゃない。だが――」
亮介は息を飲み、遼と悠を振り返った。
「消えた名札の中に、“遠野雪”がある」
悠が青ざめる。
「そんな……だって祠の中にあったんじゃ……」
亮介は首を振った。
「祠にあったのは、あくまで“現れた影”のほうだ。名札はあの日の夜、儀式小屋に戻されてる。それを今朝、熊谷さんが点検したら……いくつかが跡形もなくなくなってたんだ」
遼の手が震えた。
――雪。
十年前の“名のない子”。
遼がつけたあだ名を唯一の手がかりにして消えていった少女。
その名札が……再び姿を消した。
亮介は続ける。
「それだけじゃない。山のほうから、妙な音がしてる。動物じゃねぇ。木々の揺れ方がおかしい」
遼は思わず山の方角を見た。
山のてっぺんから、薄い白煙のようなものが立ちのぼっている。
いや、煙ではない。
あれは――“霧の道”だ。
十年前、芽衣とあの子が消えた時にも見えた。
森の奥へと続く、見えない境界線。
「……始まってる」
遼が呟くと、悠が隣で小さく震えた。
「遼くん……あそこに行くの?」
「行かないと。名札が動いたってことは、あの子が何かを求めてる」
亮介が遼の肩を掴んだ。
「無茶だ。昨夜倒れたばっかだぞ。それに、お前は“呼ばれてる”。下手に近寄ったら……」
「呼ばれてるから、行くしかないんだよ」
遼の声は弱く震えていたが、その奥には揺るぎない決意があった。
十年逃げ続けた場所。
十年目をそらし続けた後悔。
十年分の“呼び声”に、答えなければならない。
その時、熊谷が小屋から走り出てきた。
「遼、悠! 来い。見せたいものがある」
三人は熊谷の後について儀式小屋へ入った。
中の空気は凍ったように冷たかった。
棚に並べられているはずの名札の列には、いくつもの穴が空いている。
「……こんなに」
悠が息を呑んだ。
消えた札は五枚。
その中に――遠野雪の札がある。
熊谷が机の上の紙を示す。
「これを見ろ。“名の根”の記録だ。過去に返されなかった名と、行方不明になった者の照合表だ」
遼は紙をのぞき込んだ。
そこには、遠野雪の名前の横に、はっきりと書かれていた。
本名不明
呼称:ゆき
返名記録:なし
行方:山中にて不明
遼の手が止まる。
悠がうわずった声を漏らした。
「……本当に……名前がなかったんだ」
熊谷は重々しく頷いた。
「おそらく、あの子は“名を持たないまま山に残された”。
だから呼ばれるたび、別の名を借りて“現れる”」
遼は震える声で問う。
「じゃあ……今のあの姿は?」
「“遠野雪”という名を借りただけだ。
本当の名は、まだどこにも存在しない。
戻る場所も、呼ばれる場所もない」
遼の胸が締めつけられた。
そんな存在を……十年前、山に置き去りにしてしまったのか。
熊谷は遼を見つめながら、静かに言った。
「遼。山は今、お前に“選ばせようとしている”。
名を返すのか。
名を創るのか。
あるいは――“名を持たないまま祠に縛りつける”のか」
悠が叫んだ。
「そんなの……どれもひどいよ!」
熊谷は頷いた。
「そうだ。どれも残酷だ。だが、名を持たずに死んだ者は、“存在の形”が定まらぬまま山に漂い続ける。
……だからこそ、“名を与えた者”の責任が生まれるんだ」
遼は息が詰まった。
“名を与えた者”。
それは――自分だ。
「遼。最後に選ぶのはお前だ。
あの影は、お前を待っている」
遼はゆっくりと顔を上げた。
外では、再び木々がざわりと鳴った。
霧が濃くなり、山の輪郭がゆっくりと飲み込まれる。
十年前、少女が消えた瞬間と同じ光景。
悠が遼の袖を強く掴んだ。
「行こう、遼くん。
“二人”の名前を取り戻しに」
遼は小さく頷いた。
「……ああ。もう逃げない」
亮介が二人の前に立った。
「俺も行く。
お前を死なせたら、芽衣に合わせる顔がねぇからな」
遼はかすかに笑った。
三人は山へ向かうため、静かに歩き出した。
背後で、熊谷が低く呟いた。
「……どうか間に合え」
その声に応えるように、山の霧がわずかに揺れた。
山へ向かう道は、朝であるはずなのに薄暗かった。
霧が濃い。いつもの湿り気ではない。
まるで“形のない誰か”が行く手を塞ぐように、白い幕がゆっくりとうねっていた。
亮介がひとつ息を吐き、遼と悠を振り返る。
「山道は俺が先頭で行く。何か聞こえても、勝手に動くな。いいな?」
二人はうなずいたが、霧の奥から風が逆向きに吹きつけてきた。
その風は冷たいのに、どこか懐かしい匂いが混じっている。
――呼ばれている。
遼はまた、あの十年前の“気配”を思い出していた。
濃い霧の向こうで、振り向いては消える小さな影。
名前を呼べば、少しだけ近づいてくる影。
「……雪」
思わず漏れた声に、悠が振り返った。
「遼くん、今――」
「聞こえたんだ。俺を……呼んだ気がする」
亮介が眉をひそめる。
「気のせいじゃない。山全体が揺れてる。なんか……近いぞ」
霧の向こうから、木々がひとつ、またひとつざわりと震えた。
あれは風ではない。葉の揺れ方が“何かの通り道”を示している。
遼は胸の前で手を握りしめた。
――行かないと。
ようやく姿を現してくれたのに、また置いていくわけにはいかない。
そのとき、悠が足を止めた。
「見て……!」
霧の中に、一本の細い“縦の線”が立っていた。
光ってはいない。むしろ暗い。
なのに、はっきりと輪郭が見える。
十年前、芽衣が「道じゃない。あれは境目だ」と震えながら言った“霧の裂け目”。
亮介が低い声で呟く。
「……開いてるな。完全に」
遼の喉が鳴った。
霧の裂け目の奥には、木々の影が静かにこちらを向いている。
遠くで“カラン”と何かが落ちる小さな音がした。
名札だ。
それも、ただの名札ではない。
誰かに“持たれた”まま、ここに運ばれてきたような音。
「行くぞ」
亮介が霧の境界へ一歩踏み出した瞬間、霧はまるで息を呑むように「ふ」と引いた。
通り道ができる。
遼と悠も続く。
霧は足首をすり抜けるたび、ひどく冷たい。心臓を直接掴まれたような感覚が走る。
やがて山道がわずかに開けた場所へ出ると、そこに“それ”は立っていた。
小さな影。
十年前と同じ高さ。
霧に溶けかけた輪郭。
だが今回は――逃げなかった。
影はゆっくりと顔を上げる。
その手には、薄く光る木札が握られていた。
“遠野雪”。
遼の喉がきゅっと締まった。
影は、木札を遼へ差し出していた。
奪うでもなく、隠すでもなく。
――返してほしがっている。
遼は震えた手で札へ触れようとした。
しかし、その瞬間。
影が揺れた。
いや――揺らされたのだ。
山全体がぐらりと震え、地面が大きくうねる。
遼の足がよろける。
悠が悲鳴を上げ、亮介が二人を支える。
「なんだ!? 地震じゃねぇ……山が怒ってる!」
霧が一斉に渦を巻いた。
影の輪郭が崩れかける。
「待って! 来ないで……! そのままだと――」
影の声が、かすかに風に混じった。
確かに聞こえた。
十年前は聞こえなかった声だ。
遼は叫んだ。
「雪! 俺は……お前の名前を――」
そのとき、影は遼から視線をそらし、別の方向を向いた。
山の奥、もっと深い闇へ。
そこから、
もうひとつの“気配”が歩いてきていた。
重く、静かで、長い年月を抱えたような存在。
亮介が息を呑む。
「……誰か、いるぞ」
霧がゆっくり割れ、黒ずんだ衣が見えた。
その者は、まるで山の化身のように深い影をまとい、ゆっくりと遼たちの前に歩み出た。
手には――もう一枚の名札。
遼は息を止めた。
そこに刻まれていたのは、
“芽衣”
――妹の名だった。
霧が大きく震えた。
影が震えた。
遼の心臓が、凍りついた。
第四章 完
第五章
山の奥から歩み出てきた影は、明らかに“人の形”をしていた。
だが、その輪郭は木々よりも黒く、霧よりも淡く、まるで山の闇そのものが人の姿をとったようだった。
遼の手が震えた。
その影が握る名札――そこに刻まれた文字は、揺らめきながらも確かに読める。
芽衣
十年前、遼の前から消えた妹の名前。
あの日、自分が守れなかった大切な名前。
「……めい……?」
遼の声は掠れ、ほとんど音にならなかった。
だが影はその名に反応したように、ゆっくりと顔を上げた。
目はない。口もない。
しかし、その“向けられる気配”だけで、遼は確信した。
それは、人でも、霊でもない。
“名を喰った山の記憶”。
熊谷が語っていた、“返らなかった名”が溜まり続けた果ての存在。
影が、名札を持つ手を遼へ向けた。
まるで「取り返せ」と促すように。
しかし遼には、その手へ触れる勇気が一瞬持てなかった。
十年。
ただ逃げてきた。
忘れたふりをして、向き合うべきものから目を背けてきた。
その結果が――今、目の前の闇となって立っている。
悠が遼の肩に触れた。
震えているのに、その手はしっかりと遼を支えていた。
「遼くん……行って。芽衣ちゃんを、迎えに行って」
遼は小さく息を飲んだ。
その横で亮介が前に出る。
「安心しろ。お前が取り戻すまで、俺らが絶対そばにいる」
遼は二人の気配に背中を押され、影へ向かって一歩踏み出した。
山がざわつく。
霧が遼を飲み込むようにうねる。
それでも遼は進んだ。
影の目の前まで来たとき、
遼は震える声で告げた。
「……返してほしい。芽衣の名前を」
影は動かない。
遼は胸の奥に沈み込んでいた後悔を、すべてさらけ出した。
「俺は――逃げた。
芽衣のことも、あの子のことも。
自分のせいじゃないって言い聞かせて……全部忘れたふりをした」
影の手がわずかに揺れる。
「でも、もう逃げない。
名は……返すものだ。
俺が呼ぶ。
何度でも呼ぶ」
遼は影の手にある名札へ手を伸ばした。
ほんのわずか……触れた瞬間。
遼の意識が、一気に引きずり込まれた。
光も音も消えた暗闇。
あの日の山道。
霧の奥で振り返った、小さな二つの影。
「……にい……ちゃん……?」
耳の奥で、妹の声が確かに響いた。
遼は膝が崩れ落ちそうになるのを必死にこらえた。
「芽衣!!」
叫んだ声が闇に吸い込まれた瞬間、
影の輪郭が大きく揺れ、霧がはじけた。
闇が裂け、その向こうに
小さな女の子がうつむいたまま座りこんでいた。
白いワンピース。
十年前のままの姿。
ただひとつ、手には札が握られている。
“名のない子”の札。
芽衣の横で、雪の影がこちらを見ていた。
遼は息をのみ、そっと手を伸ばした。
「……二人とも、迎えに来た」
その瞬間、山が大きく鳴った。
名を呼ぶ声。
名を返せという声。
名を求める声。
すべてが混ざり合い、山がざわりと震えた。
そして
闇のさらに奥から、もうひとつの“気配”がゆっくりと姿を現し始めた。
闇の奥から姿を現した “それ” は、影とも霧ともつかない、揺らめく塊だった。
人の形をしているようで、まったく人ではない。
山そのものから剥がれ落ちた“名の残滓”が集まって形になったような存在。
――名を持たぬ者たちの、最も深い淀み。
遼は息を飲む。
その存在が近づくほど、体の奥がじわじわと冷えていく。
声が出そうにないほどの圧迫感。
芽衣が怯えるように遼の袖を掴んだ。
その姿は十年前とまったく変わらない。
だが遼の胸を締め付けるのは懐かしさではなく、恐怖だった。
――芽衣まで、飲まれる。
雪もまた、芽衣の後ろで小さく震えている。
“名を持たない子”の札をぎゅっと胸に抱え、そのか細い影が揺れていた。
遼は二人を庇うように一歩前へ出た。
「……来るな」
声は震えていた。
しかし、揺るがない意志を込めた。
影は答えない。
ただ、波打つように形を変えながら、ゆっくりと遼へ迫る。
遼の背後に、悠と亮介の気配が寄り添った。
「遼くん……!」
「引くなよ。絶対に離れんな」
三人の気配が重なり、闇の侵食をほんのわずかに押し返す。
だが、影の中心部――その真っ黒な核の部分が、遼へまっすぐに“何か”を求めて伸びてくる。
名だ。
それは“名”を求めている。
十年間、返らなかった名。
本来あるべき場所へ戻れなかった名。
誰にも呼ばれず、忘れられ、こぼれ落ちていった名前たち。
その積み重ねが、いま遼に殺到している。
――おまえが返せ。
言葉ではない声が、頭の奥でざらついた。
遼は歯を食いしばる。
「……違う。俺だけのせいじゃない!」
その瞬間、影がビクリと揺れた。
遼は続けた。
「名が消えたのは、俺があの子の名前を聞かなかったからじゃない……
“誰もその子に名前を呼んでやらなかった”からだ!」
闇の核が大きく震えた。
遼は叫んだ。
「雪だって芽衣だって、俺が連れて帰る。
でも……“おまえたち全てを返す”なんて、俺にはできない!」
黒い霧が渦になる。
山の底がうなり、木々が悲鳴のように軋む。
遼は一歩も引かず、真っ向から影を睨んだ。
「俺が返せるのは――“俺が呼んだ名”だけだ!!」
その言葉に呼応するように、雪の影がふるふると震えた。
ぎゅっと抱かれた札が、淡く光り始める。
遼は雪のところへ這うようにして手を伸ばした。
「……おまえの名前、思い出した」
雪が、かすかに顔を上げる。
そこには十年前、山で迷うと怯えて泣いていた、小さな少女の眼差しがあった。
「ゆき……じゃない。
あれは俺が勝手につけた呼び名だ。
おまえの本当の名前は、たしか――」
口にすると同時に、遼の頭に激痛が走る。
まるで十年前の霧が再び脳の中に入り込み、名前の記憶を邪魔してくるようだった。
影が咆哮する。
山全体が震え、霧が遼の視界ごと揺らす。
だが、遼は叫んだ。
「それでも……思い出す!!」
指先が、雪の抱く名札に触れた瞬間――
遼の意識がまた闇に飲み込まれた。
しかし今度は恐怖ではない。
十年前の記憶が、走馬灯のように一気に溢れ出してくる。
霧の道。
笑う妹。
隣で手をつないでいた、あの子。
そして――
自分に名を呼ばれるのを、ずっと待っていた顔。
遼の唇が震え、ゆっくりと形をつくった。
「…………」
名前を呼ぶ声が、闇を切り裂き始めた。
山の影が狂ったように暴れ出した。
想像以上に――その名は、この山の核心を揺るがすものだった。
闇が暴れ狂う中、遼の口からこぼれ落ちかけた“名前”は、喉の奥で引き裂かれるように途切れた。
叫び声のような風が、谷間を衝いて吹き抜ける。
雪の抱く名札が強く脈打ち、白い光が迸った。
「……っ!」
遼は目を閉じ、光に耐えながら、その名の形だけを必死に掴もうとする。
だが、霧がそれを阻む度に、記憶が歪む。十年前の笑顔と泣き顔が混じり合い、輪郭が千切れ、名前の一文字一文字が霞の中に溶けていく。
影が吠えた。
その声は、悲鳴ではなく嘆きだった。
名を失った者たちの群れが、返される瞬間を恐れるように、祈るように震えている。
――呼ぶな。
――呼ばれてしまう。
そのざわめきは、怨嗟と望みの境界に揺れていた。
遼はかすれた息を吐く。
「……違う。呼ぶ。俺は……あの子を置いて帰らない」
雪の輪郭がふっと揺れ、遼の手を掴んだ。
温度はほとんどなく、それでいて確かに“いる”と感じさせる力。
「……おにい……ちゃん……」
震えるような声がした。
十年前、霧の中で泣き濡れた少女の声だ。
その一言が、遼の記憶の扉を強引に押し開いた。
霧の山道。
妹を探していた遼に、怯えた顔で寄り添ってきた少女。
名前を呼んでほしくて、涙の奥でじっと見つめてきた瞳。
あのとき――
遼は確かに名を聞いた。
聞き、そして……忘れた。
忘れたまま山を下りた。
それがどれほど深い傷となり、この山にどれほど長い影を落としたかを、遼はようやく理解した。
胸が苦しくなる。
遼は歯を食いしばり、影の咆哮が耳を裂く中で、再び口を開いた。
「…………」
霧が割れた。
山の風が一瞬止まり、全てが静止したかのような沈黙が落ちる。
遼は確かに聞いたのだ。
“その子の名は、雪ではなかった”
十年ものあいだ、霧と恐怖の中に封じ込められていた本当の名前。
遼は震える声で――
「……紗凪……だろ?」
その瞬間、山が大きく鳴動した。
影の渦が悲鳴のように弾け飛び、黒い霧が雪……いや、紗凪の周囲から吹き飛ぶ。
紗凪の小さな唇が震え、光に包まれながら、ゆっくりと形をつくる。
「……うん……
わたし……紗凪……」
名前を取り戻した瞬間、紗凪の影がすうっと薄くなり、輪郭が柔らかく溶けていく。
だが。
影の大群は消えない。
むしろ、紗凪を奪われたかのように、狂気じみた怒りを発してうねり始めた。
名の核を一つ返されたことで、彼らは理解したのだ。
――この男は、忘れられた名を思い出すことができる。
影の渦が遼を包囲し、雪崩のように迫ってくる。
「遼くん、逃げて!!」
悠の叫びが、遠くで歪んだ。
亮介が抱えた芽衣も、怯えたように呻く。
しかし遼は一歩も動かなかった。
「……まだ終わりじゃない」
遼は影の中心をまっすぐに見返した。
「“名を返せ”って言うなら……
俺が返せる名は、まだもう一つあるだろ」
山が息を呑むように静まり返る。
影たちが一斉に遼を見る。
遼は震える息を整え、闇に向かって、もう一つの名前を呼びかけた。
「――芽衣!!」
光が爆ぜ、闇が狂ったように暴れた。
影たちは“その名の主”を引き戻されることを、必死に拒むように渦を巻く。
遼は叫んだ。
「芽衣!! こっちに来い!!」
亮介に抱かれていた芽衣の体が、ふと軽く浮き上がった。
黒い霧の中から、小さな手が遼のほうへ伸びかけ――
その瞬間、闇の底で、“まったく別の誰か”の声がした。
――返サレテイナイ名ガ マダ アル。
遼の背筋に、刺すような寒気が走った。
その声は芽衣でも、紗凪でもない。
もっと深く、もっと古い。
山そのものが語りかけてきたような響きだった。
山の奥底から響いたその声は、単なる“影”のものではなかった。
紗凪でも、芽衣でもない。
名を失った子どもたちの群れでもない。
もっと深く、もっと古く。
この山が、長い時間をかけて蓄えてきた“忘れられた名”そのもの。
――返サレテイナイ名ガ マダ アル。
声が落ちてきた瞬間、足元の地面が脈打つように震えた。
黒い霧が一斉に揺れ、影たちが慌ただしく退いた。
遼は息を呑む。
「……まだ、誰かが……?」
亮介が低く唸る。
「違ぇよ、遼。これは“誰か”じゃねぇ……“全部だ”」
遼は顔を上げる。
影の渦が割れ、山の中心――霧の“根”が、ゆっくりと姿を現した。
それは形を持たない巨大な影の塊。
木の根のように見える部分が脈動し、まるで数千の名前が絡みついてひとつの意志になったかのようだった。
紗凪が遼の袖を掴む。
「……あれ、こわい……でも……
あれの中に……たくさんの声がいる……」
遼は紗凪の肩を抱き寄せ、静かに息を整える。
「わかってる。紗凪、もうおまえの名は返した。
ここに縛られてる理由は、もうどこにもない」
紗凪は小さく頷いた。
その顔は、たしかに“生きていた頃の少女”そのものだった。
だが、影の核はそれを許さないように、低く唸りを上げる。
――一ツ返シテモ、足リナイ。
――十年分ノ名ハ、ドウスル。
「十年分……?」
遼の胸が縮み上がる。
霧の核から、無数の声が、一つの意思のように襲いかかってきた。
――忘レタ名。
――呼バレナカッタ名。
――竜胆、雫、千世、澪……
――無数ノ名ガ、返ラナイママ、 山ノ底ニ沈ンダ。
その列挙は呪いにも似ていた。
遼の膝が震える。
俺一人に……そんな全部を返せっていうのか?
影の核がゆっくりと近づく。
オマエハ、十年前、名ヲ呼バナカッタ。
呼ブコトガ出来タハズノ名ヲ、捨テテ帰ッタ。
一人ダケ返セテ、済ムト思ウナ。
遼は歯を食いしばった。
「……違う。違うだろ」
影が一瞬止まる。
遼は震えながらも、影の核を真正面から睨んだ。
「俺が返せる名は……俺が聞いた名だけだ!!
この山のすべての名を返すなんて、俺は“神様”じゃない!」
山が低く唸る。
だが、遼は続けた。
「だけど……忘れた名を、もう一度思い出すことはできる。
“言える数は限られてる”かもしれないけど……
それでも、俺は逃げない!!」
影の波がざわめく。
紗凪が震えながら遼の背中に隠れると、遼はそっと頭を撫でた。
「あの日、紗凪の名を忘れたこと……俺はずっと後悔してた。
それを返せたのが、十年かかった。
ほかの名前だって、返すのに十年かかるかもしれない」
深呼吸する。
「それでも……時間がかかっても……
“返されるべき名”は、必ず返す。
それが俺の罪で、俺の選んだ答えだ!」
影の核が大きく震えた。
山全体が、唸りをあげる。
だが、渦の外側で――亮介が叫んだ。
「遼! 時間ねぇぞ!!」
影の一部が芽衣の身体を引き込みはじめていたのだ。
小さな手が黒い霧に飲まれかける。
「め……い……!」
遼が叫ぶと、影の核が怒り狂ったように震え、巨大な波となって遼へ迫ってくる。
返セ。
全部返セ。
名ノ欠片ヲ、残サズ返セ。
「全部なんてできない!!
でも――“芽衣の名”は返す!!」
遼は闇に飛び込んだ。
その瞬間――
影の核の中で、芽衣の声がはっきりと聞こえた。
「……おにい……ちゃん……」
霧が裂け、光がほとばしる。
そして――遼の視界の中に、十年前のあの日とまったく同じ、
小さな妹の“本当の名前” が、鮮やかに蘇った。
遼は喉が裂けるほどの声で、その名を呼んだ。
「――芽衣!!」
瞬間、山の底で渦巻いていた黒い霧が、雷鳴のような衝撃とともに裂けた。
闇の核に絡みついていた“記憶の泥”が一気に吹き飛び、光に照らされた芽衣の小さな身体が浮かび上がる。
亮介が叫ぶ。
「遼! 離れるな!!」
だが遼はもう耳に入っていなかった。
伸ばした手が、たしかに芽衣の指先に触れたのだ。
芽衣の声が震えながら漏れる。
「……おにいちゃん……わたし……ずっと……」
「遅くなってごめん。十年……遅くなって……!」
掴んだ指を離すものかと、遼は必死に握りしめた。
その光景を見て、影の核が激しく脈動する。
――返サレタ名ヲ、奪ウナ。
――名ハ、時ニ忘レラレ、時ニ……滅ブ。
「滅ばせない!!」
遼の声が山響きを突き破った。
「芽衣の名は……忘れない!
俺が呼ぶ。何度だって呼ぶ。
この山が忘れても、俺が覚えてる!!」
その叫びに呼応するように、紗凪の身体から淡い光が広がった。
返された“名”が持つ力――思い出された存在の輝きだった。
紗凪が遼の背に手を添え、震えながら言った。
「……遼くん……
“返された名”は……闇には戻らないよ……」
その言葉と同時に、芽衣の身体を覆う影が焼け落ちていく。
霧が後退し、光が芽衣の輪郭をはっきりと照らす。
影の核が怯えたように震えた。
――一ツ……モドッタ……
――十年ブンガ……
――欠ケテ……
「そうだよ」
遼は影の中心に向き直る。
「“十年分の名”を一度に返すなんて、俺にはできない。
けど――」
強く息を吸い込む。
「今日、この瞬間……俺は一つ取り戻した。
それで十分だ。ここから先も、俺は逃げない。
返すべき名は、時間がかかっても……いつか全部返す。」
影の核が怒りとも悲しみともつかない声を上げた。
――名ハ忘レラレ、
――記憶ハ風化ス。
――オマエ一人デ、守レルモノカ……
「守るよ」
遼は迷いなく言い切った。
「紗凪も、芽衣も。
この山に埋もれた名も。
全部じゃなくていい。
でも――思い出せる限り、俺は思い出す。
思い出し続ける。
それが俺の答えだ!」
一瞬、影の核が揺れた。
霧の渦が止まり、山の奥底から、かすかな“名もなき声”が聞こえる。
――覚エ……テ……
――忘レ……ナイデ……
その声に、遼は深く頷いた。
「忘れない」
すると、影の核は音もなく崩れた。
黒い霧が霜のように消え、数え切れない名前の残響が風に溶けていく。
山の静寂が戻ってきた。
遼はゆっくりと芽衣を抱きしめた。
小さな肩が震え、遼の胸に涙の温もりが広がる。
「……おにいちゃん……こわかった……」
「大丈夫だ。もう離さない」
紗凪が微笑む。
亮介が大きく息を吐く。
「ったく……死ぬかと思ったぞ」
遼は小さく笑い返した。
「ごめん」
「まぁ……これで、十年前の借りは少し返せたかもな」
風が吹き抜ける。
山の奥深くに沈んでいた“名”たちの気配は薄れ、代わりに新しい朝が訪れようとしていた。
遼は空を見上げた。
忘れたくないものを、
忘れてはいけないものを、
ひとつずつ思い出しながら生きていく。
その決意だけが、胸の底で確かに熱く灯っていた。
完




