#88.のど飴みたいなもの
◇◇◇
(セリエッ──あいつ、何を考えてる!?)
崩れた外壁の割れ目に指を掛け、一息でよじ登る。まだ⦅煙幕符⦆の白が低く漂っているが、⦅拡感⦆で視界を押し広げれば、数百メートル先──土煙の向こうで、散り散りの兵をかき集めているセリエの姿が見えた。夕闇の色を吸った大楯が、合図のように高く掲げられる。
「まだ立てる者は、こちらへ! わたくしが撤退を援護しますわ! 固まって、陣形を崩さないで!」
彼女にはキースのような広域念話はない。だが⦅祝福⦆の薄金色を流し込み、声を張って、一人ずつ背中を押していく。生き残った者の肩が、わずかに持ち上がるのが見て取れた。
(……わかってるのか、いまの危険が)
──ぎゃあああ!
別方向から、鋭い悲鳴。獣の咆哮にかき消されかけながらも、確かに届く。ガレフが無差別に喰い荒らし始めた。あの進路なら、セリエの一団とぶつかるのは時間の問題だ。
「くそッ!!」
駆け出そうと踏み込んだ踵を、背後の声が引き留めた。
「待ってくださいフィン君! 策があります!」
(……策?)
溜めた力を殺して振り返る。キースが壁影にもたれたまま、それでも覚悟の据わった目でこちらを射抜いていた。たしかに、ただ合流しても、見つかった時点で詰みだ。倒すにせよ退くにせよ、動きを鈍らせる手が要る。
(……結局、正面から“賭け”だな)
セリエとミレッタを拾って離脱──その目論見は、状況が許してくれない。小さく息を吐き、俺はキースの喉元に掌を当てて⦅治癒⦆を流し込む。聖職者じゃない俺の回復は、初級魔法の域を出ない。せいぜい喉を潤す程度が精一杯だ。
「すまん。気休めだが……のど飴くらいの効き目はあるだろ?」
キースが喉を撫で、苦笑まじりに頷く。
「ええ、だいぶ楽に。ありがとうございます」
掠れが少し和らいだ声色に、俺も釣られて肩の力が抜ける。
「分かった。乗るよ。ただ、期待しすぎるな。俺は手数はあるが、地力はあんたらより数段落ちる」
「承知の上です」
キースの口角がわずかに上がる。
「それでも、さっきからの不意打ちの妙は信頼に値する。あなたは“間”を読むのが上手い」
そう言って、胸元から紫水晶を嵌めた銀の首飾りを取り出した。冷たい月光を飲んだような、深い紫。
「私が剣で押さえている間に、これを奴の首に掛けてください。本来は獣化の呪いを抑える“補助具”ですが、いまの父に使えば、体内に流れ込んだ獣の力を縛るはずです」
受け取りながら、素朴な疑問が口をつく。
「それで今度は、キースが獣になる……なんてオチはないよな?」
苦笑して、彼は首を振る。
「ありません。これは、私が学園都市へ出るとき父から預かったもの。封印域内では本来不要です。だから私が堕ちるということはない」
「ふーん。で、効果のほどは?」
「……恐れながら、試したことがありません」
申し訳なさそうに目を伏せるキースの肩を、俺は軽く叩いた。
「気にすんな。のど飴みたいなもんだ。効けば儲け、効かなくても舌は潤う」
「なんです、それ」
くだらない、と小さく笑い合う。決死の前に、ほんの一口ぶんの余白ができた。
「ああ、可笑しい。……ええ、そういうものです」
呼吸を揃え、目を一度閉じる。開いた瞳に、覚悟の光が宿る。
「じゃ、いくか」
「はい」
足下で砕けた石が鳴る。遠く、黒門の青黒い嫉焔が夜空に薄い縞を描いている。俺たちは、その縞の下へと踏み出した。




