#86.黒獅子
◇◇◇
「フィン、逃げるわよ」
──させぬ。
ミレッタの声に重なるように、別の誰かの声が脳髄を叩いた。次の瞬間、世界は耳鳴りと砂を噛むようなノイズで満たされる。
同じ衝撃が仲間たちにも走ったらしい。ミレッタはこめかみを押さえて蹲り、俺も歯を噛み締めながらどうにか瞼をこじ開ける。
「いったい……何が──」
バキ、バキ、と骨と鉄を一緒に噛み砕く、嫌な音がした。
音の方へ視線をずらす。黒い影が、ミルダに覆い被さっている。影は静かに咀嚼を続け、砕けた鎧片が赤い泡と混じって落ちた。彼女はもう痛みを知らない。それだけが、唯一の救いだった。
「……ひッ」
喉の奥で小さな悲鳴が漏れる。その音に気づいたのか、影がゆっくりと立ち上がり、こちらへと顔を向けた。
それは──黒い獅子の獣人。
頭から尾の先まで濁りのない漆黒。獰猛に見開かれた双眸だけが血のように紅く輝く。首周りは逆立つ炎めいた鬣に覆われ、長槍で突こうと、刃はその奥までは届かないだろう。人の胴ほどもある四肢は、ひと振りで並の甲冑を紙のように圧し潰すに違いない。
獅子は血に濡れた牙を剥き、低く唸った。
──貴様か? 我の獲物を奪ったのは。
怒っている。その理由も問いの意味もわからないのに、圧だけが胸骨を叩く。言い訳の言葉は喉で潰れ、首を横に振ることしかできなかった。
「……ぁ……」
喰われる──そう思った刹那、俺の横から一歩、足音。
「やめてください、父上!」
キースが前へ出て、獅子を“父”と呼んだ。
◇◇
「……ッ!!」
(まさか、これが……ガレフさん?)
姿も、声も、纏う気配も、俺の知る団長とは似ても似つかない。だが、キースの目は揺れていない。彼は“確信”している眼だった。
「呪いに……呑まれましたか」
キースが小さく吐く。
◇◇◇【Side:キース】
黒門が目覚めた瞬間から胸奥で鳴っていた悪感が、最悪の形で現実になった。
黒門は──呪われている。
我らが一族、マルゼンシュタイン家の長子にだけ伝わる古伝は、ずっとそう告げてきた。黒門と、一族の使命について。
幼い頃から幾度となく聞かされた語りが、脳裏に澄んで立ち上がる。
◇◇
────古の時、この地に大いなる災いがあった。
災いは黒い獣の姿で現れた。万魔殿の魔、嫉妬の眷属。
獅子はあらゆる生を嫉み、憎み、喰らった。
王は嘆き、姫を差し出す代わりに獣に去るよう懇願した。だが獣は王女を喰らい、今度は国土のすべてを呑むと吠えた。
その跳躍に身を投げ出して王を庇ったのが、一人の若き騎士──我らが祖、ローラン。
獣が彼の肩に喰らいついた瞬間、天より光柱が降る。水の女神レンフィアが人の勇を憐れみ、助力を与えたのだ。光に晒された獣は徐々に石と化し、やがて動かぬ像となった。ローランの傷は癒えたが、その肩には獅子の紋のアザが残った。
レンフィアは告げた。獣は強大で、一朝には討てぬ。長い時をかけて弱らせねばならぬと。
そしてアザは呪い。獅子の力が血に混ざった。清き血と交わり血を薄めよ。決して闇に呑まれるな──と。
王は獣像を地の底に封じ、その上に要塞を築き見張らせた。
若き騎士の一族は番人となり、代々、獣の力が尽きるその日まで見続けると誓った。
黒門は獣を封じる檻。
我らは、その番人。
力で弱らせ、血で薄め、呪いを恐れよ──。
◇◇◇【Side:フィン】
「本当に……アレが、ガレフさんなのか!?」
問いに、彼は短く頷く。
「事実です。あれは我が家に巣くう“業”──呪いの具現」
「くッ……なら、正気に戻す術は!?」
「無理です。呪いに呑まれた者が戻った例は、ただの一度も……」
言い切り、キースは獣を睨んだ。顔に浮かぶのは哀切と決意の混ざった色。
「だから──息子として、騎士として、貴方を止める!」
騎士剣を構える。魔導鎧の推進回路が唸り、土が足裏で鳴った。
キースは最愛の父、獣人へ向かって一直線に駆ける。
◇◇◇




