#77.昆蟲大戦・伍──嫉妬の焔
◇◇◇【Side:ガレフ】城塞内部・制御室──
『父上……団長、今です!! 《嫉焔》を!!』
掠れた声が直接、ガレフの胸腔へ落ちた。息子の焦りが、言葉の棘になって刺さる。
第五障壁が砕けたとの報。間を置かず第六も危うい。だが、この瞬間までにまだ誰一人として城内で倒れていないことを、黒門に繋がったままのガレフは確かに知っていた。
黒門と魔力を、否、意識まで同調させるにつれ、城の内外に散らばる「生きているもの」が、燭台の火のように一点一点、明るさを伴って胸裏に灯る。逃げ込む第一大隊、泥を運び続ける第二、投石台で肩を焼く第三、空に格子を編む第四・第五。教会で祈る老女の指の震え。冒険者どもの乱暴な笑い。そして、憎悪を隠しもせず群れを睨み、まっすぐに自分を呼ぶ息子の声。
──それらすべてが、ひどく美味そうだと思った。
(……腹が、減った……)
胃袋ではない。骨の髄がからっぽになって、何か濃くて温いものをそこへ注ぎ込みたくてたまらない、目の前の「生」を餌としてしか見られなくなる衝動。伝承の語る禁忌が、黒門の獅子の紋からじわりと滲み上がってくる。
「馬鹿を言うな……!」喉の奥で噛み砕く。「そんなもの、この私が許すものか!」
ガレフの額に汗が滲む。
(ふふ……どうだかな?)
視界の隅で、黒門の獅子が微かに口角を上げたように見えた。長い長い三百年、細く「放出」し続けて飢えさせられてきた門は、今まさに現界の縁にいる。
(だが、舵は私が握る。喰らう先を選ぶのは門ではなく──団長である、私)
「喰うなら──そちらだ」
ガレフは門へと命じ、獅子の鬣から放射状の影を地へ滑らせる。触れた影は影へ、糸が糸を手繰るように増殖し、群れの全体へと繋がった。
──門の奥で、黒が息をする。
この黒はただの炎ではない。嫉妬の焔だ。
名を与える。宣告は刃だ。
──《嫉焔》。
羨み、妬み、奪い合い、その澱を燃料にして世界を灼く黒。
「……吠えろ、黒門。《嫉焔》、上がれ」
黒門の楔から、嫉焔が立ち上がる。
あれは侵略の火ではない。封じた獣が、この世を羨むあまり吐き出す嫉妬の焔。それは、“群青”の冷たい火──黒獅子の喉奥に宿った災いそのものだ。
触れたものの内側から熱を奪い、心まで凍てつかせる“群青の恨み”。
命を失った肉は瞬く間に腐り落ち、脚から、関節から、甲殻の重なり目から、腐り溶ける音が重奏で上がる。
──ッギチギチギチギチギチギチギチキシャァァ!!!!
悪臭と悲鳴が音の皮を剥ぎ、ただの「振動」にまで堕ちて制御室の壁を震わせた。ガレフは歯を噛み合わせ、ただ一片の命も城内へ向けぬよう、焔の舵取りに意識を張りつめた。
◇◇◇【Side:フィン】城壁上──
黒門の根元から、群青の火がじわり、と地へ広がった瞬間を、俺は確かに見た。影が燃えるなんてのはゲーム時代の演出で散々見てきたが、これは違う。
目に見えない「恨み」が目に見える「焔」になって、影から影へ移る。踏み込もうとしていた蟲が、脚だけを奪われて壁にへばり付き、胴体ごとずるりと落ちた。
「っ……!」
誰かが喉の奥で吐いた。俺も鼻の奥が熱くなり、思わず舌で歯を押した。腐った蛋白と、土に染みた脂と、甲殻の油が混ざる匂い。冷気の層が何枚も重なって顔を撫で、耳が一瞬膜に覆われたように遠のく。
壁上の面々は言葉を失っていた。さっきまでの熱気が嘘のように静かで、冷たい。落とされた槍が石に当たり、かしゃんと軽い音を跳ねさせる。その音だけが妙に遠くから聞こえる。
「……これが、騎士団の栄誉ある戦い??」
誰かが零し、別の誰かが「黒門がこんなにも恐ろしい物だったなんて……」と続ける。ざわつきが縁から広がり、崩れる前の砂壁みたいにざらざらと崩れかけたその時、念話が鋲みたいに全員の意識を止めた。
『静まりなさい!! まだ戦闘は終わっていませんよ!!』
キースだ。若いのに声に芯がある。
『飛行型は健在。第四、第五は対空任務を継続。第二、第三は“嫉焔”が消えるまで現陣地で待機。遠見は“女王”の所在と生死の確認に集中──繰り返す、確認に集中』
命令が骨組みになる。崩れかけた士気が、呼吸の揃いと一緒に持ち直すのがわかった。
「セリエ、⦅鎮心符⦆だ。俺に合わせて深呼吸」
「は、はい……っ」
俺はセリエの手の甲に軽く触れて、呼吸の拍を揃える。指先から薄い緑の光が流れ込み、喉の震えが収まっていく。彼女の視線がもう一度、まっすぐ前を射た。
「第三の皆さん、灰になりきらないやつは投石と火矢で追い打ちしますわよ! 影が消えるまで徹底的に、ですわ!!」
「了解ッ! ほらアンタたち! 聞いてたんならさっさと動く! まだ闘いは終わっちゃいないよ!」
ミルダが即座に拾い、投石台の火皿に新しい油が注がれる。セリエは⦅祝福⦆を重ね、笑顔で弾薬運びを繋ぐ。笑顔は術だ。祝福は、士気を押し返す。
上空には、第四・第五の対空砲火がいくつも長い線を引いている。飛行型が嫉焔の範囲を嫌い、より高くを飛んでいるためだ。黒門の焔は地を舐め続けているが、壁の基壇や壁外の第二大隊には襲いかかることなく寸前で止まっている。ガレフの制御が尋常じゃないのが、皮膚でわかった。
「副官殿、第一大隊は、我々は何を──」
『第一は補給と負傷者の回復を。ゴルドー大隊長の後任は……』
キースの声がほんの一拍、沈む。俺はその沈みで、喉の奥がつられて痛んだ。ゴルドー。さっき、炎の中で──。
「これ!! 待たんかいキー坊!! わしゃあまだ生きとるわい!!」
聞こえた。あの独特の腹から出る声が、壁上の喧噪を割って飛び込んできた。反射的に振り向くと、視界の端に、ヒビだらけの魔導鎧が倒れている。胸が上下し、喉が唸っている。生きてる。
『…………ゴルドー……さん?』
キースが振り向く。目が見開かれ、感情が追いつかない顔をした。あの完璧主義者の顔が、子供みたいにぐしゃりと崩れる。
「……え。あれ? いや、おかしいですね……。なんで、涙が……なんで、ゴルドーさんが……??」
頬を伝う涙の筋が、光を引いた。俺は息を吐いて、初めて肺に入った冷たい空気の温度を感じた。
ゴルドーの傍らで、黒衣の女がふわふわした帽子で風を送っていた。ローブの裾が焦げの匂いを運び、帽子の縁が陽を受ける。
「あらあら? 色男さん。この髭のお爺ちゃんが大好きなのね」
ミレッタが、満足そうに微笑む。転移の痕がまだ残っている。空気がきしむみたいな、空間の継ぎ目の違和感。彼女がゴルドーを蟲の口から一瞬でさらったのだ。
ミルダが「隊長ォ!」と叫んで駆け寄る。第三の連中が一斉にどよめき、誰かが「姐さん、泣くな!」と茶化して殴られた。セリエは胸に手を当てて、涙と笑いの中間みたいな顔で息を吐く。
(どういう“風”の吹き回しだ? お前が人を助けるなんて)
俺は小声でミレッタに念話を送る。
(あら、私は別に誰かを助けることを躊躇ったりしないわ。それに、あのお爺ちゃん──私の好きな人に少し似てるのよ)
微笑みのまま、ミレッタは小さく応えた。
群青の焔はまだ地を舐めている。勝利でも敗北でもない、ただ続いている戦闘の音が、遠く近くに重なっていた。
俺は欄干に手を置き直し、指先の微かな震えを握り潰す。いまは見届ける。まだ、終わってはいないからだ。
【更新予定】
毎日20:00更新!
【次回】#78『更新——ワールドクエスト』
ゴルドー生還の報に騎士団が沸く——全軍、被害なし。しかし俺は知っている。天の声は、まだ鳴ってない。
面白かったらブクマ&★評価、明日からの20:00更新の励みになります!




