#76.昆蟲大戦・肆──矜持
◇◇◇
“第五障壁”が砕けた衝撃が、壁上の石畳をわずかに波打たせた。甲板みたいに低く唸り続ける振動が靴底から脛に登ってきて、焦げた脂と湿った土、それに甲殻が焼ける甘苦い匂いが風に混じる。俺は胸当ての留め具を一段締め直し、欄干に身を乗り出した。
城外では、第一大隊が黒門へ向けて一斉に馬を駆けさせている。泥田を避ける蛇行の軌跡が、秋の畑地を鋭い筆で斜めに掃いたように刻まれていく。先頭を切っているのは、掌から火炎弾を撃ち出す、あの豪快な老人だ。
『撤退じゃあああ〜〜!!!! そこぉ! 早よせんかい!! 第六障壁は他よりいくらか分厚いが、いつまで保つかはわからんぞ!!』
拡声された声が壁上まで突き上げてくる。炎が彼の手からぽんと生まれて、追ってくる蟲の面に咲いてはばちばちと黒く散った。
『まったく、キースも人使いが荒いわい!! こんな老いぼれに危ない任務ばかり寄越しおってい!!』
『ゴルドーさん? 聞こえていますよ?』
『だから言うておるんじゃろうが!!』
怒気のこもった一撃が掌から迸り、数十体をまとめて巻き込みながら炸裂する。炎の光が甲殻の面に赤い斑点をばらまき、遅れて熱の波が頬を撫でた。
『もう少し保つかと思っていましたが、少々早かったですね』
『なんじゃい、ワシらの働きに不満でもあるんか?』
『いえ、ただの独り言ですよ。突進の勢いは止めたつもりだったので、第五障壁が砕けるのが思ったより早かった、と』
『ふん。大方はその前の四層で殺しきれんかった突進の勢いが初撃にでも乗っとったんじゃろうが』
『そうとも限りません。……第六の削れも思っていたよりずっと速い。残された時間は、長くはない。急がせてください』
『そう急ぐない!! いまやっとるわ!!』
やり取りは軽口めいているのに、二人の声から笑みは剥がれていた。俺も前線から視線を外さない。
第五障壁の前には、押し潰された死骸が白濁した油を滲ませて折り重なっている。今、第六を叩いているのはそれを乗り越えた新手だ。甲殻の山を踏み台に、面の圧がさらに増している──だから、削れは速い。
実際、透明な壁面のあちこちに細い白い線が生まれ始めていた。氷に息を吹きかけた時みたいな、粉っぽい音で。
◇◇【Side:ゴルドー】城塞外──
──退く時は部下を先に、隊長は最後。若い頃、死体袋を担いで城門を潜った夜から、そのやり方は一度も変えたことがない。それがゴルドーの掟であり、矜持。
馬の首を黒門へ向けさせつつ、片方の掌は障壁へ魔力を流し込み続ける。一秒でも長く第六を保つ。出来ることは全部やるのだ。掌が痺れる。指の節が熱い。でも振り向かない。死臭には慣れない。慣れたら終いだと彼は思っている。
第一大隊の連中は、よくやった。魔力の限り敵を削り、誰一人欠けることなくここまで戦った。
言うのは簡単、だが守らせるのは難しい。隊長の看板は、軽くはないのだ。
あのキー坊も、もう坊ではないか。声に迷いが消えていた。ゴルドーは、自分を見上げていた頃の、幼い彼を知っている。こうして肩を並べて戦う日が来るとは。
本当に頼もしくなったと、ゴルドーは嬉しく思う。彼の命令になら、この命を預けて悔いはない。
『ゴルドーさん、殿が退がり終えましたよ!! さあ、壁内に避難を!!』
「やっとか!! ヒヤヒヤさせおって……」
◇◇【Side:キース】壁上──
キースはふうと息を吐く。
第一大隊の末尾が黒門を駆け抜けた。あとはゴルドーのみ。大丈夫。言葉ではああ急かしたが、まだしばらく第六は保つだろう──もう一度《遠目》で戦場全体を上から見下ろすように確認する。
群れ全体の勢いは変わっていない。確かに削れ方は激しくなっているが、障壁の受圧、渦流、甲殻の衝突頻度は安定している。“面と面”のぶつかりだ。割れる時期は予想できる。
(……?)
その時、キースの遠目に黒い影が映る。蟲の群れの上をスッと伸びる一本の影──
見張り台の兵士の指先が空を刺す。影。日輪の縁をかすめる黒い線が、落ちてくる。
「飛行型の、垂直降下特攻──!」
◇◇【Side:フィン】壁上──
地面の影が異様に大きい。
視野の上端にすべり込む黒い槍。矢ではない、翅の群れだ。耳の内側で、風切り音が悲鳴みたいに細く尖る。
──ッズドドドドドドドドドドン!!!!!!
飛行型が第六障壁の一点に、上空から叩き付けられた。“面と面”ではない。“面”に“点”でぶつかってきた。
衝撃が、壁そのものを一拍遅れて鳴らす。魔力の面がたわみ、軋む。ひびの線が一斉に太る。
──バキンッ!!
割れた。砕けた光の破片が昼光をはじいて雨になる。堰が切れる音。第六で堰き止められていた群れの先頭が、雪崩みたいに、黒門に向けて落ちてくる。
『──ッ!! 黒門を閉じなさい!!』
キースの声が、脳髄へ直接叩き込まれる。
魔導機構が唸り、歯車がギシギシと回る。遅い。
門の前では兵士達が総がかりで板金に肩を押し付け、歯を食いしばる。だが黒門は重い。半扉の隙間が、指二本分ずつしか縮まらない。
(……間に合わない!)
黒門から一挙に城内に雪崩れ込む蟲を想像し、腹の底が一気に冷える。だがそれは、現実にはならない。
門前へひとりの男が歩み出たのだ。背に幅広の大剣。灰白の髭は短く刈られ、眼はまだ若い。
「退がれ、儂がやる」
ギルドマスター、コーダ・レイ。
彼が両掌を板金に当て、腰を落として押す。音が変わる。軋みが低くなり、門扉が一気に地を噛んで進む。隙間がじわじわと狭まる。
その隙間の向こう、泥と甲殻の濁流の前で、最後尾の騎影が振り返りもしないで馬の尻に鞭をくれているのが見えた。ゴルドーだ。
コーダがほんの僅か力加減を緩めた。ゴルドーの声が、風に裂けて届く。
「よい!! 我に構わず閉じられよ!!」
ゴルドーは跳んだ。鞍から、土へ。
掌に魔力を掻き集める。両手の上に、真昼の太陽から火の欠片をむしり取ってきたみたいな、白い芯を抱いた火球が二つ、膨らむ。あの笑い声とともに。
「うわーっはっはっはぁ!! 我こそはぁ!! 辺境最強の騎士団“黒獅子の咆哮”、第一大隊長の──」
言い終えるより早く、黒い波が飲み込んだ。
──ッカ!!
光が、地面の下から突き上がったみたいに弾けた。爆炎が層になってめくれあがり、甲殻の破片が溶けた飴みたいにねじれて、空に撒かれる。熱が頬を刺す。
鼓膜が突き上げられ、音が消える。
──キィィーーン……
硬質の尖った耳鳴だけが響き、全ての音が遠くなる。焦げと鉄の匂いが鼻の奥へ流れ込んで、喉が勝手に唾を飲み込むと、やっと少し音が戻ってくる。
初めに聞こえたのは、門に肩を押し当てたままのコーダが、誰に聞かせるでもなく放った低い一声。
「……お見事」
彼はさらに体重をかける。
門は唸りを深め、黒い口を閉じ切った。刻印が走り、機構が次々と噛み合う。
数拍遅れて、衝撃が城を揺らす。
俺は欄干を握る手に力を込め、爆煙の裂け目の向こう──炎で白く焼け抜かれた穴の縁で、なおも蠢く影を、息を詰めて見据える。
風が、熱を運んでくる。隣でセリエが盾を構え直し、乾いた喉で一度だけ息を飲む音が聞こえた。
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【次回】#77『昆蟲大戦・伍——嫉妬の焔』
ゴルドーの命をかけた時間稼ぎにより、間一髪黒門は閉じられた。ついに黒門発動の合図が送られる——次回、嫉妬の焔
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