#72.襲来
◇◇◇
朝、窓を開けた瞬間に違和感が胸に刺さった。
東の稜線からいつも通り日が上がり、街路樹の葉は金色の木漏れ日を落としている。風は乾いてきて、冬の手前特有の冷たさが頬を撫でる。──なのに、鳥の声がしない。渡り鳥の群れは、まるでフィリスを避けるように高く遠巻きに線を引いて飛んでいく。
「来る」と、街も獣も知っている。蟲の大群が、もうすぐそこだと。
昼を少し回った頃だった。
カーン──……カーン、カーン、カーン、カーン……。
甲高い鐘が城壁から降ってきて、広場全体の空気が一度きゅっと縮む。次の瞬間、押し合うようにざわめきが膨らんだ。俺たちは大広場の練兵場で最終の手合わせをしていて、その音を聞いた。
「先遣の報告どおり。そろそろだな。こちらは準備万端だ。皆は?」
マントの裾を翻したミルダが、遠見台の方に視線を投げたまま、俺たちに問う。
「問題なし。ミルダさんに叩き直してもらったお陰で、身体は動く。あとは “黒門” が伝承どおりに目を覚ましてくれればね」
俺は肩を回し、装備袋の札束の重さを確かめる。昨日のトーナメントをはじめ、ここ数日の模擬戦でミルダが一番驚いていたのは、俺が近接じゃなくて付与術師、つまり後方支援職だということだった。
「いや、君に合わせるの、私でも割と必死だったよ。 “黒門” は信じてくれて構わない。だが──君たち三人の手並みなら、通常の魔物は各個で十分に相手できる」
ミルダがそう言うので、俺はついチラとミレッタを見る。
「俺とセリエはともかく……“魔法なしのミレッタ” が蟲と張り合えるとは、正直思えないんだが……」
ゲーム時代の知識が口から滑る。ミレッタを“まともに”運用するには、常時「愛の言葉」を捧げ続ける必要があった。動画サイトのコメント欄が「リア充爆発しろ」で荒れるのも、お約束だった。
「あらあら、そんなに見つめないで? お姉ちゃん照れるじゃない。心配なら “愛してる” って言ってくれればいいのに……蟲なんて、あっという間に消し炭よ?」
ミレッタは頬をぽっと染め、いつもの調子で笑う。千年を生きた大魔女。前の周回で、俺を消しに来た相手。
──俺は、その言葉を言うつもりはない。騎士団にも、彼女の実戦協力は知識の提供を主とする、と事前に釘を刺してある。
「ミレッタ。悪いが、俺はその台詞を口にしない。これからも、だ」
「ふうん。どうしてそんなに避けるのかしら。魂が引き合っているのを確かに感じるのに……フィンって、案外、鈍い? ──でも平気よ。私、強いから」
舌を出して悪戯っぽく笑う彼女。
(……ゲーム内の“ミレッタ”と、いま目の前の“ミレッタ”は確かに別物だ。もし本当に魔力放出なしで強いなら、扱いを間違えると爆弾になる。だから、距離感は保つ)
「フィン!」
セリエが、斧槍を軽く振って柄のしなりを確かめながら振り向く。大楯の縁は磨かれ、金具が陽を弾いた。
「ミレッタさんがそう言っているのですから、気にする必要はありませんわ! それより──この前みたいに勝手をして大怪我する真似は、厳禁ですこと!」
“聖女”と呼ばれる声が、市のあちこちで上がるようになって数日。彼女は姫騎士としての立ち姿に、聖女の視線を背負う覚悟を、きっちり纏っていた。
「ああ。無茶はしない。……お前こそ、街の象徴になったんだ。倒れるなよ、セリエ」
「力ある者として、そして“聖女”としての務めですわ。勝利の旗は、私が掲げます。フィン、いつものように支えて頂戴?」
その顔は、静かな自信で満ちている。
この数日、俺たちはミルダだけでなく、手の空いた騎士団や冒険者組合の猛者たちとも片端から手合わせした。やはり、実戦を経験した者との訓練は質が違う。こちらに転生して以降、レベルは10も上がっている。
極め付けは、トーナメントでの準優勝。あの経験は、更に彼女の自信を深くした。
「了解。今回俺はサポートに徹する。前衛は任せた」
経験値は分配だ。ならば、“旗”を高く掲げる役に集中してもらった方がいい。
俺たちが目で合図を交わすと、ミルダが踵を返した。
「では、持ち場へ」
練兵場を抜け、石畳を城壁へと向かう。
遠見台から、風に乗って声が落ちてくる。
「見えます──“蟲”群、前衛、黒帯状に接近!」
城壁の外、地平線の手前で、地面が砂煙のように揺れていた。ざわ、ざわざわ……と、無数の脚が地表を爪弾く音が、厚い石造りを通しても足裏に伝わってくる。
セリエが一歩前に出る。大楯の裏に左腕を通し、斧槍の穂先を低く、楯の角と水平に合わせた。
ミルダは魔導鎧の装甲を閉じ、胸の拘束具で魔導回路を固定する。
ミレッタは金刺繍のローブの裾を払って、目を細めた。
俺は呪符の束を扇のように指で捌き、強化と抵抗、拡声と後光の順番に上から並べ替える。まずは士気だ。見せて、押す。
カーン──……。
鐘が一段低くなり、城門の機構がうなる。内壁の通路に足音が重なっていく。
俺たちは、黒門の上の持ち場へ走った。
今日の息を揃えるために。明日の命を繋ぐために。
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【次回】#73『昆蟲大戦・壱——父と子』
遂にあらわれた大波——見渡す限りの蟲の群れ。騎士団は作戦の発動に向け、動き出す。
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