#7.決断
◇◇◇
——ギャオオオオオオオオウ!!!
背骨を素手で撫で上げられたみたいな咆哮が、肺の空気をひっくり返す。合図も相談もなく、俺とラミーは同時に地面を蹴った。湿った腐葉土が弾け、朝露が脛に飛び散る。
「……まずい。気づかれた」
ラミーが指を絡めるみたいに俺の手を強く引く。縞の尻尾と前腕で枝をいなし、木と木の間の“隙間”だけを正確に縫っていく。息は荒いが、歩調はまるで乱れない。足裏が柔らかい土を噛むたび、弾性のある反力が膝に返り、体が勝手に前へ送られる。
それでも——背後から土を喰う重い足音が、規則正しく間を詰めてきた。一打ごとに地面が低く鳴り、胸腔の奥の空気が揺れる。差は縮む一方だ。学園で“最速”の名を取ったラミーの脚と並走する化け物。いや、それ以上。
「……もう一段、上げる」
振り返ったラミーが苦い顔で睨み、握る手にさらに力を込めた——
……ブンッ。
俺は、その手を振り払った。掌が離れた瞬間、体温の名残がひやりと指先に凝る。
「ラミー。俺の足じゃ——いや、俺を連れたお前の足でも逃げ切れない。お前一人で逃げろ」
幹を避けて並走しながら、短く、はっきり告げる。呼気が白くならないのが不思議なくらい、胸の奥は冷えきっていた。
「やだよ。そんなの——あたし達、“パートナー”でしょ」
強がった声に、震えが混じる。ラミーは速度をほんの少しだけ落とし、もう一度、掌を差し出してきた。猫科の薄い爪が、震えでかすかに覗く。
「さっきの“勘”、当たった。あれは普通じゃない。置いていけないよ。——手、握って」
俺は、その手を取らない。指が勝手に固まる。
「俺には、お前との学園生活で閃いたユニークスキル“タイマン”がある。使えば足止めはできる。けど“タイマン”は1対1でしか発動しない。二人で相手にしたら——二人とも、ここで終わる」
ラミーの喉が、小さく鳴った。背後の足音が、ひとつぶんさらに近い。木々の影が長く揺れ、俺たちの輪郭を追いかける。
「……どうすべきか、わかるな」
短い沈黙。森のざわめきが、その間だけ音を失う。ラミーがうつむいたまま、かすれ声を落とした。
「なんで……なんで、こんな——」
「逃げる時間は、俺が稼ぐ。ざっと1時間ってとこか?」
正面の木立を見据え、呼吸のリズムを意図的に落とす。余計な震えが声に乗らないよう、喉の奥でいったん熱を潰してから言葉にする。安心させるため、無理に口角を上げた。頬の筋肉がぎこちなく引き攣る。
「いつかはどこかで果てる命さ。ここで張らなきゃ、男がすたる」
ラミーは目尻を赤くし、首を横に振った。涙は落とさない。けれど、その瞳は真っ直ぐで、逃げ場がない。
「……必ず、助けを連れて戻る。だから——絶対に死なないで」
「約束する」
本当に? と問い詰めるみたいに視線が刺さる。嘘は混ぜない。混ぜたら、足が止まる。
「本当だ。もし破ったら——」
「そのときは、脇腹に蹴り入れてでも起こすから」
唇をぎゅっと結び、ラミーが小さく息を吸う。泣き笑いにも似た、ほんの針先ほどの笑みが口端に灯る。縞の尻尾が一度だけ高く跳ねた。
「1時間までに、戻るよ」
「ああ、待ってる」
言うなり、ラミーは身体をしならせて加速した。爪先が腐葉土を軽く抉り、落ち葉が跳ねる。橙の髪が朝の光を撥ね、斜面の先で縞の尾がふっと視界から消えた。
「……必ず、戻ってくるから」
風にほどけた声が、葉裏の水滴を揺らし、森に吸い込まれる。
その背を見送ると、俺は進路を切った。彼女から遠ざかる方向へ。わざと枝葉を鳴らし、獣道から半歩外し、目立つように駆ける。靴底の沈み跡を濃く残し、匂いの流れに自分の汗と血の匂いを混ぜる。
怪物の気配をこちらに引きつけながら、肺に火を入れて、森を駆ける。胸の中心に小さく灯した“約束”の温度だけを、落とさないように握りしめて。
◇◇◇
【更新予定】
11/9–11/12:18:00 & 21:00 の二本立て
(#1–#9/序幕完)
11/13〜 :毎日20:00更新
【次回】#8『約束』
置いていく言葉と、振り返らない背中。戻ると言った彼女、守ると言った自分。
面白かったらブクマ&★評価、明日からの20:00更新の励みになります!




