#61.この戦いが終わったら
◇◇◇
────…………。
──……ン。
「……フィン。」
胸の奥をなぞるような声が、水面に差す朝の光みたいに薄く揺れて、意識の暗がりへと染み込んでくる。まぶたの裏に白が滲んだ。重い石をどかすみたいに目を開けると、いちばんに飛び込んできたのはセリエの顔——濡れた翡翠みたいな瞳が、真っ直ぐ俺を掴んで離さない。細い指が、俺の手を包み、脈を確かめるみたいに規則正しく押していた。
「フィン、気がつきまして? もう、心配しましたわ」
しっとりとした温度が、握られた掌から腕へ、胸へと戻ってくる。乾いた喉に空気を流し込みながら、俺は上体を起こそうとした。
「……あれ、俺は……?」
背中に敷いた上掛けがさらりと鳴る。鼻先に、石鹸と花精油が混じった淡い香り——騎士団別棟のリネンに染みついた匂いだ——が立ちのぼる。そこでセリエが慌てて身を乗り出し、細い肩のわりに力強い手で俺の胸を押し戻した。
「いけませんわフィン! もう少しであの “痴女” に窒息死させられるところだったんですから、もう少しゆっくり横になっていないとダメですわ」
ベッドの脚がきゅっと鳴る。セリエは言葉こそきついが、押し戻す手の震えが、ついさっきまでの恐怖を物語っていた。窓の外からは、城壁の上で交代する兵の靴音、遠くの訓練笛、曳き馬の嘶き——フィリスの朝の音が薄く重なる。
彼女の説明を要約すれば、俺はミレッタの胸に顔を埋めたまま、危うく酸素と永遠の別れを交わす寸前だったらしい。こっちは“観測者の間”で時間がスローモーションになっていたが、現実側は普通に進む。安全確保せずにルシフェルへ繋いだのは、最悪級の判断だった。
(……なるほど。あのまま意識が切れてたら、“お帰り”って言いながら笑顔で手を振るルシフェルの画が浮かぶわ。あいつ、間違いなく腹抱えて笑ってたな。危なかったぜ)
次からは、座る椅子と呼吸路の確保を“サポート接続の手順”に入れておく。俺は心の中で赤太字の付箋を貼った。
「そうか……すまない、心配をかけて。それで、あの2人はどこへ行ったんだ?」
枕元の水差しで舌を湿らせ、俺はミレッタとミルダの所在を尋ねる。セリエは一拍おいてから、言葉を選ぶみたいに視線を伏せた。
「ああ、あのミレッタとかいう女性とミルダさんは “黒門” に向かわれました。なんでも、戦闘が始まる前に確認しておきたいことがあるそうで、ミルダさんは本当はフィンにお願いしようとしていたみたいですけれど、ミレッタさんなら申し分ないとのことでしたわ」
黒門。重い名だ。扉の向こうにいるはずの千年もの魔女と、帝国随一の戦鎚使い。嫌でも胸の鼓動が一段深くなる。セリエはそこで少し唇を噛み、ためらいを押し切るみたいに続けた。
「……あの女性、ミレッタさんにはあまり近づかないようにして下さいませんこと? あの女性がどれだけすごい人物なのか私は詳しく存じ上げませんが……、うまく言えないのだけれど、なんだか嫌な胸騒ぎがしますの」
「ミレッタが? ……確かに、今回は少し危なかったが、これは基本的に俺の不注意が招いた事故のようなものだし……」
言いかけたところで、セリエがばっと顔を上げた。涙で縁取られた緑の瞳が、火をともしたみたいに強い。
「違いますわ! あの女は本気でフィンを殺そうとしていたんですのよ! だって、彼女は……私の “夢” の中で貴方を……」
言葉の刃先が震える。そこにいるのは、王国の公爵令嬢ではなく、ただ大切なものを守りたいだけの少女だ。俺ははっきり悟る。セリエも遂に見たのだ——俺の“前世の記憶”と、その“最期”を。
あり得ない角度から胸骨を締め付けられるような感覚が一瞬走ったが、すぐに意図的に呼吸を整える。ここで俺が揺れれば、彼女はもっと揺れる。
「セリエ……。わかった。ミレッタには気をつけるよ。それに、必要以上に近づかないことにする」
「ええ、そうして下さい」
小刻みに上下していた肩が、少しだけ落ちる。吐息が彼女の前髪を柔らかく揺らした。
「だが、セリエが見たものは所詮は “悪い夢” だ。あまりそのイメージに囚われ過ぎるのは良くないぞ? ちゃんと、お前の目で見たものを信じ、判断しろ。俺は死なないし、ミレッタがどう言おうが俺の “パートナー” はお前だ、セリエ。まずは二人で、この城塞都市に迫る危機を乗り越えることに集中しよう」
語尾に余計な力を入れない。宣言ではなく、確認。俺はそういう声音で言う。セリエは目を伏せ、瞳の水面がゆっくり引いていく。やがて、ふう、と細い息を吐いて、表情を和らげた。
「もう、きっといつかフィンが私に話した “夢” の話が原因ですわ。最近変な夢ばかり見るのです。それこそ、フィンが別の女性と……」
そこまで言って、ぴたりと口を結ぶ。頬が、りんご飴みたいにじわっと色づいた。場の空気が少し緩んだのを感じて、俺も肩の力を抜く。
「そうだ、フィン。私はまだ諦めていませんよ? この戦いが終わったら、必ず “収穫祭” に二人で行きますの。約束ですわよ!」
光に濡れた瞳が、いたずらな星みたいにきらっと揺れる。笑顔に引っ張られる形で、俺の口角も勝手に上がった——が、同時に頭の中の“フラグ検知”がけたたましく鳴く。経験上、今のは赤色回転灯が三つは回る類いのやつだ。
(おいおい、こんなに鮮やかな死亡フラグ、久々に見たぞ……)
でも、言葉は選べない。ここでうろたえるのは、彼女の好意に泥を塗るのと同じだ。俺はわざとらしくない範囲で胸を張った。
「……そ、そうだな。セリエ、必ず見に行こう。約束だ」
「ええ、 “絶対” ですわよ」
“絶対”。二度目の強調が、逆に可笑しくて——怖くて、愛おしい。窓辺の薄いカーテンが、朝の風にふくらんで、しぼむ。遠くの大広場では、鍛冶台の槌の音が律動を刻み始めていた。フィリスが“戦いの日の顔”に着替えていく。
俺は自分の身体に意識を沈める。筋束の反応速度、詠唱の立ち上がり、⦅付与魔法⦆の回路の通り具合、視野の周辺での光量の変化に対する瞳孔の即応性——ぜんぶ、まだ“最適”には遠い。転生で持ち越したスキルは頭では呼び出せるのに、肢体がそれに追いつかない瞬間がある。ステップからの半身、斜め回避の重心、詠唱短縮の呼気配分。足りないものは、山ほど。
けれど——ルシフェルが整えた盤面、俺の知識、セリエに与えられた“女神の祝福”、“黒獅子”の牙。噛み合わせ次第で、巨獣の喉元だって裂ける。俺は枕元の短杖に触れ、掌に残るセリエの体温を重ねるみたいに握り直した。
(この世界はもう作り物じゃない。だから、脚本のフラグなんてもの——ぶった切って前に進むだけだ)
頭の中で、赤い回転灯の電源を自分で落とす。代わりに、淡い金色のラインを一本、胸の奥に引く。そこにはただ一語——“約束”。
俺はセリエに頷き、彼女の手をそっと握り返した。窓の外、黒門のある南の空はもう白んでいる。戦いの時は迫っている。俺たちは行く。二人で。約束を守るために、まずは“災厄”に勝つために。
◇◇◇
【更新予定】
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【次回】#62『迫る決戦——鉄と油の匂い』
大広場に作られた練兵場。俺とセリエは連携を磨く——のはずが、騎士団と冒険者で起こる新たな火種。試合の時、迫る。
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