#54.秋空と紅葉と
今回は途中視点が切り替わります。
◇◇ “黒獅子の咆哮” 騎士団本部別棟──
「ん〜〜。今日は本当に色々あったなぁ。初日でこれは流石に詰め込みすぎでは?」
キースと別れて自室に戻ると、俺は腰を落ち着けるより先に荷物の点検を始めた。剣油の小瓶、応急薬、包帯、護符類。どれも揃っている。テーブルには、つい先ほど空にした晩飯の木盆が残り、香草入りのスープの匂いがまだ薄く漂っていた。
客間は兵舎より一段上等で、黒獅子の紋を織り込んだ壁掛けと、磨かれた真鍮の燭台が目を引く。床板は乾いた音を返し、窓辺の厚手のカーテンは帝国趣味の重さがある。キースは去り際に「バルコニーには危ないので、出ないでくださいね?」と妙な釘を刺していたが、床材でも腐っているのか? 掃除も手入れも行き届いて見えるし、手すりの金具も頑丈そうだ。
……少しくらいならいいだろ。風に当たって頭を冷やしたい。
重い扉を押し開け、バルコニーに出る。外気は乾いていて、焦げた麦殻や油の匂いが微かに混じる。見下ろせば中庭の石畳が弧を描き、その向こうに別棟の屋根と、さらに遠く、夜に沈む街の灯。耳を澄ませば、どこかで笛の旋律と、酒場の笑い声が葛籠の底から漏れるみたいにくぐもって響いてくる。
それにしても——空だ。
夕陽はとうに落ち、秋晴れの夜が空を洗い切ったらしい。薄青い昏さを底に、星が砂粒のように撒かれている。そして、役者は一つ。大きな、大きな月。学園の入学や卒業は“春”にやるのが通例だが、チェイズは南半球にある。だから今の季節は“秋”。頭では知っていても、胸のどこかはまだ春の残像を握っているから、こうして見上げる秋の空は、毎回すこし不思議だ。
この世界の夜空は、地球のそれと似ているようでいて、決定的に違う。大気の成分のせいだと学園で聞いた。闇に青や赤や紫の“色”が濃く滲む。絵の具を薄く溶かして幾層にも塗り重ねたみたいな、宵闇の深み。星の瞬きは速く、月の輪郭は刺すように鮮烈だ。
「うわ〜、デケェ〜」
思わず声が漏れる。続けて、
「すっごいキレイじゃん」
心底から出た感想だった。——これが、後で命取りになりかけるとも知らずに。
◇◇【Side:セリエ】団本部別棟・浴場──
——〜〜♪〜〜〜♪
——おうま〜がときは〜〜♪
——んんん〜ふふふふ〜〜♪
——あなたも〜わたしに〜♪
——かえる〜〜♪♪
わたくしの声が、薄い湯気の天蓋の下に丸く広がっていく。客用の大浴場は中庭に面した半露天で、白い蒸気が夜気にほどけ、灯籠の橙が揺れるたび床の水面に小さな星がいくつも生まれては消えた。縁に肘をのせ、脚を組んで頬杖をつく。歌詞は所々うろ覚えだけれど、音程は外していないはず。チェイズでも歌の授業は真面目に受けてきたのだもの。
湯はほんのり桃色。仄かな甘い香り——薔薇? それとも帝国の薬草? 硬すぎないとろみが肌に薄膜を作って、肩を伝う雫が遅い。胸がぷかりと浮き、笑って押し沈める。
「ん〜〜、最高ですわ〜」
鼻から大きく息を吸い、目を閉じる。耳を澄ませば、サワサワと植え込みを梳く風。ずっと遠くから、広場の楽士の撥弦。戦いが迫っている都市だなんて、嘘みたいに穏やかな夜。——いい街。レーヴェンとは違うけれど、古い石の匂いと人の息遣いがしっかり混じり合っている。
(この泉質、気に入ったわ。レーヴェンの屋敷にも同じ薬剤を取り寄せられないかしら。あ、どうやってお湯を支度しているのか、明日キースに聞きましょう)
そんなことを考えて目を開くと——あら?
目の前に、薄く白い霞のような、小さな光。湯気の綿に似ているけれど、縁だけが淡く光っている。掌を伸ばす。くるり、と光は触れられるのを嫌がるみたいに逃げて、ふわふわと宙へ昇っていく。
(湯煙……ではない。灯精? 珍しい)
立ち上がって視線を追おうとした、その時——
「うわ〜、デケェ〜」
……わたくしの真上、バルコニーの方角から、聴き慣れた少年の声。間をおかず、
「すっごいキレイじゃん」
………………。
ワナワナ、と肩が震えた。怒りの、いえ——羞恥と怒りのないまぜで、声が出ない。
わたしとて、貴族子女である以前にひとりの乙女。たとえ想い人であろうとも、いえ想い人だからこそ、卑怯な騙し討ちめいたこのような真似は、“決して”許していい行為ではありません。
「……フィン。貴方……最低ですわ」
抑えた声で、しかし有無を言わせない色を乗せて言う。返ってきたのは間の抜けた返事。
「……え」
「見ましたわね??」
視線は向けない。湯に腰まで戻し、背筋を伸ばして問う。
「い、いや。見てないぞ? お、お……俺は何も見てな——」
「嘘おっしゃい! 今しがた信じられないような台詞を口にしておきながら! ……そういうところも、許せませんわ!!」
唇が熱くなる。わたくしはキッとバルコニーを睨む。そこには——空を見上げて固まっているフィン。こちらを見ないのはむしろ誠実? いえ、その“誠実”こそが怪しいのです!
「ちょ、フィン!! 聞いているの!? どこ見てるのよ!! ちゃんとわたくしの目を見て言いなさい!!」
「い、嫌です!! 絶対、絶〜〜対嫌です!! そっちだけは絶対に俺は見ません!!」
その必死さが、余計に腹立たしい。
「……わかりました。暫くそこで待っていなさい。すぐに参ります。逃げたら——許しませんわよ」
「——ッヒィイ!!」
底冷えする声が自分の喉から出たと自覚する。湯から上がり、布を巻き、髪を絞り、戦支度——いえ、お仕置きの支度を整え、バルコニーへ向かった。
◇◇【Side:フィン】団本部別棟・バルコニー ──
背中に氷を押し当てられているみたいに、動けない。視線は月に縫い付ける。動かせば死ぬ。——戦場で何度も学んだやつだ。いや、ここは戦場じゃないが……ある意味、もっと危険だ。
(キースの「危ない」は、床材じゃなく“視線の落とし穴”のほうだったか……!!)
やがて足音。扉が開き、怒りのオーラ——いや、ハローの逆側みたいな重圧が近づく気配。俺は月から目を逸らさず、乾いた喉で言う。
「ま、待て。誤解だ。俺が見てたのは——」
「証明なさい」
低く短い命令。逃げ道はない。
俺は胸元から一枚の札を取り出す。“真贋符”。キースを“試した”時は白紙にハローで色を乗せたと言ったが、これは本物だ。貴少なインクを使って作るものだから、自分の潔白を証するためだけに使うのは少し癪だが——背に腹はかえられない。
「俺は今、月しか見てない。さっきの“デケェ”“キレイ”は——ぜんぶ月に向けた感想だ。これで判断してくれ」
魔力をそっと流す。札が淡く緑に光り、嘘なら色が濁る……はず。セリエは腕を組んだまま見つめ、数拍。やがて、ふん、と鼻を鳴らす。
「……合格、ですわ」
胸の奥で、どさり、と何かが落ちた。——が、終わらない。
「けれど。礼節の教育的指導は、別件ですの」
「ちょ、待っ——」
ぱん、と軽い音。次いで、じんわりと熱。頬に葉の形の紅い色が浮かぶ未来が、瞬時に頭に描かれた。
◇◇◇
——翌朝。客間の前の廊下にて。
朝一番に俺の顔を見たキースは、開口一番ため息をついた。
「まさか、バルコニーに出たんですか? だから危ないと言ったでしょう」
“危ない”の内訳が、今は骨身にしみている。俺はもごもごと返す。頬にくっきり残った“紅葉”をどう隠しても、発音は最悪だ。
「うん、ひょうなんら。ふぉれでねキース、めちゃめちゃ大事な話があるんら。聞いれくれ」
「……どうぞ」
「一応言っれおくけろ、あの“真贋符”、本物らから」
「はあ。わかっていましたけど?」
キースの顔が“やっぱりね”で固まる。俺はつい身を乗り出す。
「キース……いや、キースせんふぁい。セリエの前では絶対にアレが偽物らとか言わないで下ふぁい。マジれお願いしまふ」
懇願の手。キースはこらえきれず、肩を震わせ——盛大に吹き出した。
「ははははっ! 了解した、首席殿。——ところで、紅葉の形が実に見事だ」
「うるひゃい……」
顔が熱いのは、昨夜のせいか、今の笑いのせいか。とにかく、今日も忙しくなる。扉の向こうでは湯汲みの車輪がコロコロと転がり、廊下の窓からは、秋の空に薄い雲が刷かれはじめるのが見えた。
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【次回】#55『覚醒——聖女と獅子』
聖女としての新たな“力”に目覚めたセリエ——そして、俺たちのまだ知らない“黒門”の正体——
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