#10.狭間の空間
◇◇◇
「……ここ、どこだ」
白い。
上も、下も、右も左も。輪郭のない白が、無限に続いている。真昼の霧の中に突き落とされたみたいで、遠近感も、影も、温度すらない。
足元に地面の手応えはないのに、落ちる感覚もない。浮いている、とも違う。ただ「そこにあることを許されている」ような、ふわふわした安定。重力が休憩中って感じだ。
「ロビー? メンテ中のセーフルーム? それとも大型アプデの新UIか……?」
言いながら、自分の声がすこし遅れて返ってくるのに気づく。反響じゃない。録音した音を再生されたみたいな、妙な遅さ。
そこで、目の前にふっと光がともった。
空気もないこの空間に、ぽうっと、丸い光の玉が浮かぶ。ろうそくの炎を球状に固めて、そこに優しいフィルターをかけたみたいな、くすんでいない白金色。まぶしいはずなのに、目は痛くない。
たぶん、チュートリアル時に横に浮いてついてくるあのガイドバルーンの進化系。そう見えた。
『やあ。やっと来たね。待たせたかな?』
光の玉から、声がした。声はどこか無機質に整っていて、それでいて、柔らかい。女性でも男性でもない、性別の匂いを感じさせない声。
「来たばっかだ。で、何のポップアップ? スキップはどこだ」
俺は反射的に手を動かす。空中に×ボタンがあるはずの右上、閉じるアイコンがあるはずの左下、スキップ、次へ、確認。この2年で指が覚えた癖のまま、空をタップし、スワイプし、ピンチする。
何も出ない。指先は空気しか触れない。本当に空気すら触ってない感じさえする。
エフェクトも、クリック音も、UIのフレームもない。今どきのチュートリアルにしちゃ、ずいぶん不親切だ。
『私は——そうだね、この世界の所有者であり、管理者であり、観測者でもある者。ここは“狭間の空間”。“シミュラクル”の観測点のひとつだよ』
当たり前みたいに言われる。やたら整った言い回しだ。マニュアルからそのまま読んでる系の硬さがある。
「……はいはい。GMアバターね。分かったから、まずアカウントを戻せ」
わざと軽く言って、牽制する。こっちの要求を先に通すのは、基本だ。
『アカウント?』
「メアリのいるアカウントだよ」
言葉が熱を帯びたのを、自分でもわかった。
「勝手に別のに切り替わってただろ。2年かけて回した“チェイズガチャ”なんだ。562周やったんだぞ。いい加減メアリ引けたんだぞ。ロールバックでいい、最新のセーブを指定するから」
思い出すだけで胸が熱い。あの転移門の前、震える指先、差し伸べられた手。やっと“パートナー”になるって言ってくれた、あの瞬間。
あれが全部、バグで消えるなんて冗談は、聞く気もない。
『“アバター”のことなら——全部あるよ、君の562個。……ひとつは壊れたけど。他は時間凍結中。学園都市の転移門の先から、いつでも転生できる』
「それなら話は早い。今すぐメアリのデータに——」
食い気味に言いかけたところで、光が静かに遮る。
『待って。まだ話は終わってない』
光の玉が、俺の周りをふわりと一周する。真横を通ると、ほんのかすかな圧が頬に触れた気がした。風とも熱とも違う、触れた/通り抜けたの中間みたいな感触。
「終わってるよ」
イラつきが喉に集まって、言葉が勝手に荒くなる。
「UI不具合も、死亡時強制ログアウトも、ターゲット制御も、ぜんぶバグ報告まとめて出すから。まず復旧——」
俺は指を鳴らすまねをしながら、念押しするように続ける。
「復旧後でいいよ、話は。サポートチケットでも何でも作ってくれりゃ、いくらでも読むから。今は先に戻せ。メアリと、俺を」
『ほんとうに、分かってる?』
光の玉の声が、少しだけトーンを落とした。
『ここがどこか。“どうして”君がここにいるのか』
「ここがどこか? 簡単だ」
吐き捨てるように言う。
「シミュラクルのロビーだろ? メンテ中の隔離ルームか、新エリアの導入用プレルームか、そういうやつ。あと、回りくどい話し方はよしてくれ」
こっちを取り囲む白い空間は静かすぎて、余計に苛々する。さっきまでの森の湿った匂いも、土のぬめりも、あの怪物の咆哮もここには何一つない。まるで、現実味だけ丸ごと抜かれた後みたいだ。
「俺はな」
こらえてた分が一気に出る。
「待ちに待った運命の相手との冒険をお預けされて気が立ってるんだよ。やっと手に入れたんだぞ、“彼女とふたりで世界に出る”ってやつ。そこをぶった切った上に、今のアカウントは違います、はい切り替わりましたーって何だよ」
スキップできないチュートリアル玉に怒鳴るなんて、冷静じゃないのは分かってる。でも、止まらない。
「その謝罪も碌にないお前の話を、なんで俺が大人しく聞かなきゃならない。別に詫び石せびろうなんて思っちゃいねえよ。レア装備もガチャ券もいらねえ。早くあの場所に戻せ。俺の要求は、それだけだ」
歯の奥がぎり、と鳴る。腹の奥に、まだ灼けるような熱が残ってる。あの爪に裂かれた痛みが、生々しく蘇ってきて、余計に怒りが濃くなる。
(何だってこんな目に遭わなきゃならない)
(さっきの化け物との戦いだって、痛覚遮断機能がバグってた。俺、設定は30%にしてる。なのに腹が……焼けるみたいに熱かった。あんなの、演算だけで出していい強度じゃない)
(大型アップデート? は? どこが祝祭ムードだ。バグまみれのエラーだらけじゃねえか)
(思い出しただけでも腹が立つ……!!)
怒りは、恐怖をごまかすために最適化される。そういう形で燃える。
『それは……本当にお勧めできない』
玉の声が、さっきよりほんの少しだけ、静かになった。
『まずは、君の“パートナー”がその後どうなったか——君は知るべきだ』
その言い方が妙に引っかかって、俺は一瞬だけ口を閉じる。
「……ラミー? あいつは逃げられた。災厄ってのは俺が引きつけたんだからな」
森の中、ラミーの手を振り払って、あいつだけ走らせた。あいつの足の速さは知ってる。俺の“タイマン”も発動してた。ディノケンタウルフのターゲットは、完全にラミーから外れていたはずだ。
だからその後は、安全圏まで一直線だったはずだ。
『あの時は、ね……』
光が、じわりと暗くなった気がした。光そのものの明度は変わらないのに、周りの白がほんの僅か灰に寄って、温度が下がる。
胸の奥がひゅっと冷える。
この玉が発する声は、妙に穏やかだ。慰めるみたいで、諭すみたいで、でもどこかで「もう起きてしまったことは変わらない」という諦めの色が混じっている。
嫌な予感が、背骨の内側をぞりっと撫でた。
「……なんだよ、それ」
言葉が低く落ちる。喉が乾いて、飲み込む音だけがやけに大きく響いた。
「“あの時は”って、どういう意味だよ」
【更新予定】
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【次回】#11『コピー』
語られるラミーの最期。そしてここは——もうゲームじゃない。
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