魔王の子
父上が魔王と呼ばれ始めたのは、確か私が5歳の頃だった。
絵本の最後のページを閉じ、私の額にキスをして、おやすみと言った数時間後。父上はすでに変わられていた。
ぬいぐるみの腹綿を裂き、暖炉に絵本をくべる父上を見上げながら、私はこれを一時的な不機嫌だと勘違いする事にした。
「小国1つ陥すのに、何故これほど損害を出すのか? 」
申し訳ありません。
何度も潰したはずの水ぶくれが、今も皮膚の下に溜まり続けている。
「亡くした兵は帰らず、無くした腕は戻らぬのだ。気を付けるような次が、来るとでも? 」
申し開きのしようもございません。
「お前は我を落胆させるのが何よりも楽しいと見える」
私の頭に向けて投げつけられた書類は、空中でバラバラに解かれて頬をかすめた。
父上は私に期待しておられる。私は父上に期待されている。
私などが知っている謝罪の言葉では、父上の慰みにすらならない。そう思ってしまうと、声が出なくなった。
「今、外を見ただろう」
ーーまたやってしまったーー
父上のお言葉に思わず力が入る。
「・・・・・・」
指の下で服に滲んでいるのは、水か血か。頭の悪い私は、こんな時でも余計な事ばかり考えてしまう。
「いっそ芝生の上で走るだけの犬畜生にでもなるか? 」
「・・・・・・いやです」
懐かしい。
もう10年も前、いっそ犬になりたいと口答えした私は、身ぐるみを剥がれて、森に放り出された。
「犬では栄誉を頂くことができません。私の価値は、敵を駆逐し、国家を富ませ、微力ながら父上のお役に立つ事のみ」
紙で切った頬から血が流れ、首筋を撫でた。
「お前は口ばかりだな」
父上は何故私を殴る為に、わざわざ立ち上がらねばいけないのかと億劫なご様子だった。今日は代わりに頬杖をつき、殺気を暗い瞳に集めて、私を睨め上げた。
「もう結構。顔も見たくない」
獣が新たな獲物を見付け、わざと音を立ててしゃぶっていた骨を吐き捨てるように、父上は私を部屋から追い立てた。
今背を向ければ、私は殺されるだろう。
「大変失礼いたしました」
あらゆる限りの反省を込めて、私は詫びた。 何について謝っているのかは、自分でもよく分からなかった。
父上の視線を感じながら扉を閉め、息を潜めて廊下を歩いた。
自分の寝室にだどり着くと同時に、押さえていた腕から力が抜けた。
ヴィンデミアトリクス
長くて覚えにくいと、よく言われる。まだ父上が“お父さん”だった頃は、呼んでもらえた。
「ここで会ったが100年目! 今度こそお前に勝つ! ヴァンダミュアトリス! 」
17年しか生きてないのに、どうして100年なんて嘘を吐くんだろう。
「ヴィンデミアトリクスだ。略してくれて構わないのに」
「いいやダメだ! 敵の名前を覚えておかなかったら、俺の英雄譚を書く時に支障が出るだろうが! 」
いいか? もう一回言ってやる! と意気込む彼に、私は構えていた武器を降ろした。
「ヴァンダルアトリクス・・・・・・違うな。ヴァントデミトリス、じゃなくて、ヴァンダイナムコ? 」
ここが戦場だという事を完全に忘れて、彼は首を捻っている。
「ヴィンでいい」
「ダメだ。うちにはもうヴィンセントがいる」
「・・・・・・ウィンディーで」
彼と会うと、父上からお叱りを受けた後のように疲れる。
「もう一回、もう一回だけ時間ちょうだい。ヴィン、デミ、アトリ、クス。ヴィン、デミ、アトリ、クス・・・・・・。よし! 」
最初は仲間が来るまでの時間稼ぎかと警戒していた。
「おい、アルゲバル! 何やってんだ早く攻撃しろ」
「いや待ってって、今名乗り合いの途中だから。行くぞ! ヴィン デミ 、アトリ クス! 」
が、本当に私の名前を覚えようとしているだけだった。
ちょっと呪文みたいになってる。
「ウィンディーも知り合いにいるのか? 」
「いない」
「ならウィンディーと呼んでくれ。毎回時間の無駄だ」
頭が硬いせいか、よく彼の言動に理解が追いつかなくなる。
「殺す相手の名前など、後から適当に付けておけばいいのに。私も君の名前を覚える気はない」
アルゲバルは私の小言を無視し、真っ直ぐ切先を向けると、高らかに宣言した。
「ダメだ。ヴィン デミ アトリクスは強大で手強い敵だったと、俺の名前と共に歴史に名を残すんだ」
彼にどんな書かれ方をするのか、ちょっと不安だ。
「俺は、人々を力と恐怖で支配する魔王を倒し、世界に平和をもたらす英雄になる! その為に今日、1番の側近であるお前を倒す! 覚悟しろヴィンデミュアトリクス! 」
「噛んだな」