070・悪夢の終焉
(本当に山みたいだ……)
現れた『悪夢の白蛸』の巨大さに、僕は圧倒されてしまう。
ザパァン
白蛸は、長い吸盤のある触腕を伸ばして、湖面に集まった魚を捕まえ、8本の足の付け根にある口へと運び、湖水ごと飲み込んでいく。
人間より大きな3メード級の魚も丸飲みだ。
しかも、
(思った以上に、素早い)
ゆったりした動きに見えて、その巨大な足の移動距離は凄まじい。
更に、動きも正確だ。
水中深くに逃げようとする魚も次々、捕まっていく。
ボヒュ
時折、白蛸の口の奥から湖水が吐かれ、同時に肉片と赤い血も広がる。
…………。
僕らには、見向きもしない。
獲物の魚に集中しているみたいだ。
だけど、
ザパッ ザパァン
巨大な8本の足が蠢くたび、大きな波が起きて、小型船は上下に大きく揺れる。
僕は、必死に船体にしがみつく。
そんな中、
「――よし、じゃあやるよ」
赤毛の美女が告げた。
ボボォン
手にした『炎龍の槍』から炎の翼が広がり、軽い跳躍で彼女はその柄に飛び乗った。
火の粉を散らしながら、上昇。
僕らを見て、
「奴の注意をアタシに向ける。その隙にティア、頼んだよ!」
「はい」
「ククリも出番を待ってな!」
「う、うん!」
彼女の言葉に、僕らは頷く。
赤毛の美女も頷き、
バヒュン
炎の翼をはためかせ更に上昇、白蛸の上空へと移動した。
途端、ギョロッと魔物の眼球が動いた。
(!)
思ったより、目もいいんだ。
視線がぶつかり、炎姫様は獰猛に笑う。
次の瞬間、
ボッ ボボボッ
彼女の周囲に無数の火球が生まれる。
そして、直下の『悪夢の白蛸』へと降り注ぎ、
ボバァアン
盛大な爆炎が広がった。
(う、わっ!)
熱波で水が蒸発し、白煙が噴き出した。
高温の水蒸気に、僕の肌もヒリヒリと焼かれてしまう。
ティアさんは船の縁を片手で掴みながら、紅い瞳を細め、その水蒸気の奥を鋭く見つめる。
風で水蒸気が流され、
(ぁ……)
その先には、無傷の白蛸がいた。
……あれで、無傷?
僕は茫然。
ティアさんも、少し険しい表情だ。
そして、白蛸は2本の触腕を持ち上げ、
シュウン
その先端に、直径5メードはありそうな『水球』を発生させた。
水魔法だ。
小石をヒョイッと投げるように、触腕が動く。
魔法の水球はシュレイラさん目がけて飛び、彼女は炎の翼をはばたかせ、簡単にそれをかわす。
水球は、遥か遠くへ。
そして、
バカァン
湖岸にある反り返った崖に命中し、それを破壊した。
(――――)
100メード近い崖が粉々だ。
湖面に白波を立てて、崩れた崖が落下する。
もし、あれがポポもいるルクセン町や、湖岸にある他の村や町だったら……?
想像だけで震えた。
回避した赤毛の美女も「チッ」と舌打ちする。
水球が次々に飛ぶ。
今度はかわさず、炎姫様も魔法の炎で迎撃する。
ボバァン ボボバァン
巨大な水と炎がぶつかり、空中に水蒸気の白い花火が何度も生まれる。
なんて戦い……。
でも、白蛸の意識は、完全に彼女に向いていた。
僕らの存在を、忘れている。
ガシャ
僕の横で、『氷雪の魔法大剣』を手にティアさんが立ち上がった。
息を吐き、
リィン
その額に、紅い紋様が浮かぶ。
――神紋。
勇者の証。
その膨大な魔力が注がれ、大剣の刀身と魔法石が青白い光に美しく輝く。
「はっ」
彼女は、大剣を振るう。
ビキッ
小型船の数メード先から、湖面が放射状に凍り始めた。
ビキビキビキ……ッ
それは凄まじい速度で広がり、湖面に浮かぶ白蛸の6本の足と胴体を巻き込み、氷漬けにする。
魔物の巨大な目玉が動く。
驚きの気配。
広がる氷は湖面の水を凍らせ、500~700メードの範囲を白く染めた。
深さも100メード以上はあるかもしれない。
(とんでもない力だね)
ほんの数秒で、まるで氷の山を湖面に作ったみたい。
白蛸も動けない。
……いや?
ビキッ バキン
凄まじい力で氷を砕き、触腕が湖上に現れる。
ブォン バキャン
その巨大な質量を上方から氷に叩きつけ、更に砕いて、自由を取り戻そうとしている。
衝撃で、高波が発生。
僕らの船が激しく揺れる。
「わ……っ!?」
「くっ」
水に落ちないよう、僕は船体にしがみつく。
ティアさんも片手で船の縁に掴まりながら、大剣を再び輝かせ、振るった。
ビキィン
氷の表面から氷柱が生え、触腕に到達。
再び、そこで凍らせる。
白蛸も力尽くでその氷を砕き、また自由を取り戻そうとして……ティアさんもそうはさせじと更に氷柱を生みだし、凍らせていく。
ティアさんの魔法と魔物の綱引き。
リィィン
彼女の額では、紅い紋様が強く輝いている。
そして、その間にも『悪夢の白蛸』は、上空の炎姫様と魔法のぶつけ合いも行っていた。
凄い……。
(何だ、あの魔物……)
僕は、恐怖と感嘆を覚える。
人類最高峰の強さの美女2人と1体で互角に渡り合っている。
とんでもない怪物だ。
…………。
いや、感心してる場合じゃない。
(今度は、僕の番だ)
2人が魔物の動きを止めている。
今の内に、奴の目と目の間の弱点を射抜かなければ……。
急いで『魔法弓』を構える。
でも、
ザパァン
(うわっ!?)
暴れる白蛸の影響で、高波が収まらない。
船は上下左右に、不規則に揺れる。
く……っ。
それでも必死に構え、
ガクン
突然、船が3メードも落下し、僕は転倒する。
「ククリ君!?」
慌てたようなティアさんの声。
黒髪のお姉さんは白蛸と綱引きしながら、僕を心配そうに見てくる。
僕は、
「ご、ごめん!」
謝り、慌てて立ち上がる。
ザパァン
(うわっ)
波がぶつかり、今度は前に転ぶ。
くそっ!
的は大きい。
だけど……こんな状況じゃ、まともに射れないよ!
◇◇◇◇◇◇◇
(シュレイラさんの言う通りだね……)
武技には足場が大切だって、それを今、まさに実感しているよ。
でも、理解できても意味がない。
実際、どうする?
(船の下の湖面も凍らせたら……?)
ふと思いつく。
だけど、見れば、ティアさんも白蛸との力比べで余裕がない感じだ。
下手に魔法を分散したら、氷雪の力が足りず、白蛸が一気に自由を取り戻してしまう気がする。
バキッ バキィン
白蛸は、今も自由になろうと暴れている。
砕けた氷片が、湖面に落ちる。
その上空では、炎姫様も白蛸と魔法を撃ち合っている。
ボボォン
水蒸気の花火が咲き続ける。
赤毛の美女の美貌にも、余裕が見えない。
(回避できないからか)
流れ弾で万が一、周辺で暮らす人々に被害が出ないよう、全ての水球を迎撃している。
ある意味、全てを受け止めているから、精神的、魔力的な消耗が激しいんだ。
2人とも、手一杯。
そして、このままじゃ……多分、こちらが根負けする。
2人とも、尋常じゃない魔力量を使ってる。
勇者のティアさんはともかく、シュレイラさんはいつか魔力切れを起こすだろう。
そうなれば、水魔法が抑えられない。
現状でも互角なのに、水魔法までティアさんに向けられたらどうなるか。
そうなったら、
(――負ける)
その結論に、僕は唇を噛む。
だから、その前に僕が決着をつけなければいけないんだ。
それなのに、
ザパァン
(うぐっ!)
激しい揺れに、僕は船床に身体を打ち付けてしまう。
その僕が、この体たらくだ。
何か、何か方法は……?
一瞬でいい。
揺れない状態を。
正確に狙える1秒間が欲しい。
その時だった。
白蛸が半分氷漬けにされた巨体を蠢かせ、胴体に生えた突起物を上向けた。
ブシュウウ
(!?)
黒い煙みたいなものが噴き出した。
それは、空中のシュレイラさんの眼前で広がり、その視界を奪う。
「何っ!?」
驚く彼女の美貌。
それも、黒い煙の奥に消える。
(……あ)
ほんの数秒かもしれない。
けれど、炎の魔法が止まってしまう。
その間に、水魔法を使う2本の触腕は僕らの方へ……いや、ティアさんへと向けられていた。
奴の方が、決定的な時間を作っていた。
目を見開くティアさんの顔が見える。
駄目だ。
駄目だ……このままじゃ。
ティアさんが……殺されてしまう!
「――――」
咄嗟に、僕は走った。
揺れる甲板を蹴り、縁を踏み台に跳躍する。
――空中なら!
揺れる足場に邪魔されない。
あとのことも知るもんか!
僕は斜めになりながら、空中で『魔法弓』を構える。
光の弦が生まれ、それを引く。
弓の前に輝く『光弾』が発生し……その先に、巨大な白蛸の目と目の間が見える。
……何だろう?
不思議と、世界がゆっくりに感じる。
だから、狙いもつけ易くて、
(ああ……)
もう、絶対に外さない確信が生まれた。
パシュン
魔法の矢を放つ。
あの『悪夢の白蛸』の巨体に比べたら、針のように小さくか細い魔力光の軌跡だろう。
だけど、その威力は、
チュン
白い表皮を簡単に穿ち、遥か背面まで貫通した。
巨体が停止する。
触腕の先に生まれた2つの水球が、崩れるように消える。
それ以外の足も、氷を砕こうと足掻く力が抜けていた。
そして僕は、
ボシャン
湖面に落下し、水中に沈む。
ゴボッ
世界の速度が戻り、けれど、呼吸ができない。
落ちた衝撃で水を飲み、衣服が肌にまとわりつく。
く、苦しい。
そして、泳げない。
その時、
ボシャン
上からもう1人、落ちてきた。
(!?)
見上げれば、水中に長い黒髪をなびかせながら、人魚のようにティアさんが泳いでいた。
必死の表情で、僕を捕まえる。
目が合い、
ニコッ
彼女は、泣きそうに微笑む。
そのまま、僕を抱えるようにして水面へ。
ザパッ
「ぷはっ!」
「はぁ、はぁ」
僕らは、必死に息を吸う。
湖面に出ても、彼女は僕を強く抱きしめたままだった。
熱い身体。
背中に、彼女の胸の弾力が押し当てられている。
長い黒髪が、僕の肌にも絡む。
でも……凄く安心する。
(……あ)
そうだ、白蛸は?
ハッと思い出し、僕は視線を巡らせる。
すると、弱点の重要な神経の束を断たれた白蛸は、氷漬けのまま動けなくなり、その上に炎姫様が立っていた。
手にある『炎龍の槍』は、白い胴体に刺さっている。
ボッ ボボボッ
隙間から、炎が漏れる。
(ああ……)
身体の内側から焼いているみたい。
魔物の目には、もはや生気はない。
もう2度と奴が動くことはないのだろうと、僕は理解した。
と、炎姫様が僕らを見る。
白い歯を見せ、
「よくやったよ、2人とも」
満足げな笑顔で、左手の親指をグッと立ててきた。
チャポ チャポ
湖面に浮かびながら、
「…………」
「…………」
僕とティアさんは、顔を見合わせてしまう。
そして、一緒に破顔した。
…………。
長年に渡り、この美しい大湖に巣食う悪夢から、人々はこうして解放されたのだ。