17.絶望
「生き……てた。まだ、生きて、くれてた……っ!」
母は汚れた私を厭わずに抱きしめ続けてくれる。
私も母が生きていてくれて嬉しい。既に死んでいるか、生きているとしてもミフェルによって捕らえられて不自由な思いをしているかと思っていた。
いや、病だけ治されるも不自由な思いをしていたが、ハヴェルたちによって救われたのではないか?
それにしては身綺麗で活力がある。
「お母さんは、どうしてここに……?」
「ロマを助けるために決まっているでしょ!」
今の母に説明を求めるのは酷だった。涙を浮かべながら、むず痒いくらいに思いが一直線だ。冷静さはない。
私は母の近くにいたベランジェールに、目で訴えかける。
「ロマを救うために囮を買って出てくれたのよ」
「囮を母にさせたのか?」
「…………私たちとて不本意よ。でもそれしか方法はなかった」
「そんなものただの――」
「私が強く望んだの。ロマ、彼女たちを責めないであげて」
私の言葉に母は被せる。母の意思を受けて、言葉の続きを言うか言わないか迷う。
そんなものただの言い訳だ。守るべき民間人を、どうして囮と危険に曝す。
よりにもよって母を。私が一番に大切な、危険から最も遠ざけたい人を。
私なんかを救うために、囮に使わないでくれ。
迷った末、疑問を投げかける。母を囮に使った怒りは一旦蓋にして、出てきた疑問だ。
「どうして私を救おうとする」
母ならわかる、と呟く。
私がどれだけ離れようとしても、手放してくれなかった。私だけでなく、母もまた私を想ってくれている。
「対価を払っていないのに。利なんてないのに」
母の治療を対価に、ハヴェルを守ることになった。
そのときは守り手が少なく、私のようなハヴェルを殺してみせた実力者がほしかった時期だ。だが、今は死に戻りで時が戻ったとしても、着実に味方は増えている。
騎士団を動かし、膨大な手間をかけ、裏社会のボスが率いる組織相手どってまで、私を救う利なんかない。
ベランジェールは呆然としてから、わなわなと身を震わせる。
なぜ怒っている?
「そんなの――」
ごうと身をあぶられるような熱さが起こり、話は中断される。
思い出す。ここはまだミフェロのアジトで、ミフェロはまだ抵抗している。だが、もう制圧は済むらしい。
ミフェロが爆発の魔道具を使い、魔法使いのシャンタルが風の障壁を作って防ぐ。私を庇ったハヴェルはあの風の障壁で無事だったのだろう。そのハヴェルは意気軒昂にミフェロを剣で斬りつける。ミフェロは風の障壁によって阻まれ返ってきた爆発の魔道具によって負傷しており、ろくに抵抗できなかった。ハヴェルがとどめを刺すのを、周りの騎士がとめる。親友のノルベルトも来ていたようで、ノルベルトがハヴェルを羽交い絞めまでしてようやく静止した。
ほっと安堵した騎士はミフェロを拘束する。騎士たちの間に油断はないが、裏社会のボスを捕らえたことによる喜びがある。
ミフェルは大人しく、取り乱すことはなかった。無駄な抵抗はする男ではない。ボスにまで成り上がった矜持がある。だが、あまりにもその静けさに、不気味なものを感じる。
「どうせ無駄だ」
……幻聴か?
空いた距離と大人数がいる喧騒さがある中だ。疑問と警戒の目をミフェルに向けていると目が合う。ぎらぎらと獲物を狙う、飢えた獣のような目だ。まだ諦めていないというのか。
私の体を包む腕が強まる。母は怯えて、ミフェルを見ていた。そして気付く。ミフェルは私を見ているのではない。近くにいる母を見ている。ぞっと肌が粟立つ。
「憐れだな、ロマ」
ミフェルはよく通る声で言う。しんと場が静まり返る。
「そのなくした右腕でこれからを生きるのか。俺という障害を排除したことで、その男が死んで時が戻ることはない。もう右腕を取り戻すことはなくなった」
「……お前がやったことだろう」
「否定はしない、俺が指示したからな。だが、従順であったから、次は欠陥なくいさせてやろうと思っていた」
「もう叶わないことだ」
「そうだな。俺は失敗した。だから、せいぜい敗者らしく祈ろう。俺のような障害が現れることを。やり直す機会があることを。――俺自身で動かず他者に任せ期待するなど、業腹ではあるがな」
長々と話したミフェルは、騎士によって口を縛られる。私だけでなく、騎士たちもうるさい口を閉ざしたいと考えたのだろう。
「娘は命をかけたというのにな」
最後にミフェルはそう残し、この場から連れられていく。
気味が悪い。
ミフェルは捕まり、この件は終息するだろう。だが、やけに饒舌で諦めていなかったミフェルがまだ企みを残しているように感じる。
その不安感を上書きするかのように、私は母に抱擁される。安心感に満たされる。
「ロマ、愛してる」
名残惜しそうにそっと温もりが離れる。
「お母さん?」
どこに行くのか、という疑問は飲む。幼い子どもみたいな感情だ。まだ側にいてほしいなんて。
それでも母の姿を目で追いかけてしまう。母はしゃがんで何かを拾い、ハヴェルの元に走る。
「ぁあああああああああああああ!」
その張り上げた声は聞き慣れなくて、誰のものか直ぐに気付けなかった。
「何をしているんだッ!!!!」
母はハヴェルの近くにいたノルベルトによって、腕を捻り上げられている。その腕の先から短剣が落ちる。私の短剣だ。
「え?」
母の元に騎士が殺到して、ハヴェルから離される。母に向けられるのは険しい表情ばかりで。
「待て!」
なくした右腕をこんなにも惜しく思う。このバランスの悪さが、立ち上がり転ばずに行くまで時間がかかる。
「何かの間違い……だよね?」
そうであってくれ。目に見える事実を信じたくなくて、母に問いかける。
母は体をわななかせる。このような母が、暴力とは無縁な母がハヴェルを短剣で刺そうとしたなんて、やはり間違いだったのだ。
母は今にも泣きそうになりながら、なんとか私を見ている。
「私も、守りたいの」
「え?」
「ロマは私を守ってばっかりじゃない。私はロマを守ったらいけないの?」
「守るって……」
「その右腕で、これから生きていけるの? 私ができることなら、養うことでもなんでもしてあげる。でも、そんなのよりも、右腕が元に戻るなら戻った方がいいでしょ? その方法が手に届きそうなところにあった。だから…………だから、殺そうとした」
罪を自覚した震える声で、理由を語る。私は呆然としつつ、言葉が漏れる。
「私の右腕なんか……」
「ロマが自分を蔑ろにするから! 私ばっかり大切にするのが嫌なの。ずっと、ずっとそう! 私に迷惑かけないようにずっと帰ってこないのも、ロマだけ手を血に染めて治療費を稼ぐのも、治療の対価に護衛するのも、何回も死んで右腕をなくしてまで一人犠牲になるのも……ッ!」
堰を切ったように母は語る。私は立っているのもやっとの気持ちに陥る。
「私なんて生かさなくていい! ロマの重荷になんかなりたくない。自由に生きてほしいの。――母がそれを望んではいけないことなの?」
私の内心を見通していて、どきりとする。
だって、私は悪だ。裏社会で暗殺者として生き、戻れないところまで来ている。
それに対して母は善だ。こんな私を娘として受け入れてくれた。
そんな母が病で死にそうになっていたら、私のせいで裏の事情に巻き込まれていたら、私はどんな手を尽くしても守るべきだろう。血を流すことになっても、もう私は汚れ切っているのだから更に汚れても同じだ。
だが、母は違うだろう。母は善だろう。
母の白い手が赤で染まっているのを幻想して、吐きそうになる。
ハヴェルを殺そうとしなくてよかった。母が救われるのなら、私の右腕なんて本当になくてよかった。……そう思ってしまう私だから、母にそのような行動をさせてしまった。
母がハヴェルを殺して、時を戻そうとするのは誰でも考えることだ。善人でも考えてしまう。実際、母だけでなく、騎士の一人も過去に実行はしなかったものの考えていた。
母は直ぐに処罰されなかった。私がそう願ったよりも、ハヴェルが許したのが大きかっただろう。ハヴェルに接近させなければ害がないことも、一考の余地を作った。その時間で、死に戻りは起こった。一日も経たないうちだった。




