10.英雄
「なんだこれは……」
死に戻ったのはいい。屋敷が完全に燃やされたときにはその覚悟はできていた。
だが、この屋敷を取り囲む大勢の人々はなんだ。
朝方からぽつぽつと人が集まりだし、昼頃にはピークと化した。人々は大声で訴える。
「いつになったら普通の生活が送れるんだ!」
「今日を何度繰り返せばいい!」
「いつまでも終わらねえ!」
「英雄が死ぬから!」
「英雄なんかいらない!」
「他国に引き渡せ!」
「悪魔は出ていけ!」
デモが暴動になるのも時間の問題だろうか。
私はどうするのだと騎士を見遣る。呆れたことに打開策はなく、ただハヴェルの護衛に徹している。護衛も必要だが、この状況を打破する方法も考えないといけないだろう。こんな大勢の敵とはまともにやれないぞ。
騎士の士気はとてつもなく低かった。死に戻りが繰り返されていることを無能だ怠惰と罵られ、デモに対して人手を割かれて溜まりに溜まった休息はなおさらとれていない。
私も流石に疲れたな。
体のコンディションはリセットされていいが、精神が不味い。横になって休みたい。
デモという今までと異なる緊張感があり、デモに紛れて急襲はいつ起こってもおかしくなかった。
悪魔、悪魔と何度も叫ぶ声が耳に障る。悪魔の子どもと呼ばれる赤子はいたのだから、考え至るべきだった。悪魔と呼ばれる存在についてもいるだろうと。
考え至らなかった程に私は疲弊して頭が回っていなかったのだろう。悪魔と呼ばれる存在は勿論ハヴェルのことだ。死に戻りの元凶だからだろう。確かにそれだけを聞くと悪魔の名称に相応しいものだが、その本人は命を狙われて何度も死んでおり、私たちのように記憶も引き継がれていない。引き継がれていないことは死を忘れられるので幸いにもなろうが、ただ一人記憶がないというのは酷なことだろう。自身だけが知らないことがあり、対して周りは自身のことさえ知っている。
ハヴェルは悪魔と呼ばれる筋合いはない。
だが、屋敷を取り囲む大勢の人々はそんな事情を顧みず、時が正常に戻ってほしいために、死に戻りを繰り返している私たちを、ハヴェルを責め立てる。
そのように扇動する者がいるため、相まって。
死に戻りが起こらないようにするために、ハヴェルが死なないようにするためにハヴェルを閉じ込めろという声が出るはずだがそれがなく、出て行けという声ばかりだった。ハヴェルが自国を出て行けばヨサンダスに侵略されることは民衆でも知っていることだというのに、時の正常化のためにハヴェルを追い出す手段しか叫ばない。
明らかに歪められた思考で、扇動している者も目立つ行動のため目星がついていた。
だが、民衆に交じっているため、手出しはできない。手出しをしたら、暴力で意見を黙らせたと、抵抗して暴動が始まるので悪手だ。だが、何をしないでいるのも悪手だが、暗殺技術しか持ちえていない私はどうすることもできない。
他人任せで、だが母が生きているのだからそれでいい。戦闘力しか、私は期待されていない。
こうして私が考え込んでいるのは馬鹿らしいな。
デモが抑えられても、暴動が起こってももうどちらでもいい。
身に任せよう。ただ私が疲れるか疲れないかの些末な問題だ。
騎士団の意志が折れてしまって、母の治療を対価に私の助力を必要としない状況に陥ったならば困るが―――
ぼんやりとした思考さえも落ちる。そのときに体を支えられる感覚で、ふっと思考が浮かび上がって相手を見る。
「ハヴェル?」
物言わぬ相手を見つつ、一人で立てると体を支える腕をどける。
私は寝そうになっていたことを反省し、意識をしっかりと保つ。理由は分からないが、ハヴェルのおかげで眠気は飛んでいった。
ハヴェルは何か言いたそうにしつつも立ち去った。部屋から出て行った。護衛も連れずに。
私たちは一拍遅れて事態を把握し、ハヴェルを追いかける。いったいこの状況下でどこへ行くつもりだ。
トイレならばよかったが、向かう先は屋敷を取り囲む民衆だ。走って逃げだしている訳ではないからとめることはできたが、とめてはならないと思う覇気を纏っていた。誰も声すらかけられない。不安を抱えながらついていくしかない。私はそんな騎士たちに合わせた。
後から思えば、期待もあったのだろう。ハヴェルの後姿は私たちを導く英雄のように迷いがなかった。
ハヴェルの姿を見た民衆は一瞬静まり返り、扇動する者が先駆けで声を上げていたことで罵声を浴びせる。ただ姿を見せる前より勢いはない。
本人を前にしては堂々と言えないということか。
「出て行けと言うならば、出て行こう」
体がびりびりと震えるような声だった。寡黙であるハヴェルが、このような声を出せるのか。
民衆からの罵声はやみ、この場に集まる人数に似合わない静寂が占める。
その中でハヴェルだけは朗々と語る。
「必要とされるからカスペにいた。必要とされないならば、どこへでも行こう。この身は軽い。金を得るために、生きていくために戦っていた頃に戻ろう」
同じだ。私も生きていくために戦うようになった。
違うのは私は裏社会で、ハヴェルは表社会で体を血で染めた。
そして、ハヴェルは英雄となった。
「だが、心残りとなるならば、英雄と呼ばれる俺を殺そうとする者が数多くいるということだ。俺を狙うということは、カスペの英雄を狙っているということだ。俺がいなくなってカスペが危機的な状況に陥らないか」
「お前がいるから、こうなっているんだろう!」
「既にそんな状況になっている!」
勇気ある民衆が、ハヴェルに言い返す。
「その通りで、だが、この状況に抑えられているとも言える。献身的に俺を守ろうとする彼らの働きによって」
ハヴェルは私たちの方を一瞥する。
「何度も死に戻りは起きている。だが、一つずつ着実に死を解決していると聞いている。前回死んだことも、解決できると信じている」
ハヴェルはこれまで打ち明けてこなかった内心を吐露する。
「彼らは責め立てることなかった。英雄と呼ばれる俺が何度も死んでいる無様さを。俺にはいくらでも言うがいい。俺は忘れてしまっているが、お前らは事実を言っているのだろう。だが、彼らに関しては、その献身を認めてほしい。彼らは尽力している」
騎士とノルベルトは感銘していた。涙ぐむ者は多く、ノエルベルトに至っては滂沱の涙である。
場の流れをハヴェルが把握していた。民衆はハヴェルの言葉に心を打たれ、ハヴェルが出て行った後のことを考えて不味いのではないかという正常な思考の囁き声が聞こえてくる。
だから、この瞬間が狙い目だった。正常な思考回路を再度歪にし、ハヴェルはいらない、悪魔であると民衆の心に刻む。
ハヴェルを殺すための弓矢が放たれる。
私は冷静にこの場を見て警戒していた。護衛として弓矢を防ぐことは簡単だったが、動きそうになる体を留める。この場では譲るべきだ。
「ああ、そうだ。お前らにも、言いたいことはある」
ハヴェルは素手で弓矢を掴む。弓矢を放った刺客は動揺するも逃げることはない。他の民衆に紛れていた刺客と合わせて殺そうと、ハヴェルに殺到する。
真っ赤な炎が視界を熱く染め上げた。刺客は炎で身を焼かれている。ハヴェルの魔法だ。炎に構わずハヴェルを殺そうと襲いかかる者は、大剣の餌食となった。無情にもあっさりと刺客は死ぬ。
「出て行くにしても、お前らは殺す。これまでのように思い通りにいくと思うな」
怒気を孕んだ、低い声だった。最初に動かなかっただけでこの場に潜んでいる刺客に向けられている。いや、自身にも怒っているのだろうか。
猛る炎は刺客を燃やし尽くすまで消えることはなかった。
ハヴェルの英雄の力の一端を目撃した民衆は、もうハヴェルを罵ることなく解散していった。その力が自身に向けられることがないことを、敵にのみ向けられることに安堵と頼もしさを感じ、恐れを隠すように解散した。