伍ノ話 数直線の左端
そして初霜宅のチャイムを鳴らして、壁に背中を預けて待つ。
しばらくしてから、妙に髪が濡れたままの理が黄緑色の鞄を持って出てきた。
「……髪拭いたか? お前」
「拭いたよ?」
別に理は髪が長いわけではない。俗に言うボブくらい。
だから髪を拭くのはそこまで時間がかからないはず。
の割には髪はまだ濡れている。
「今日暑いじゃん? 自然乾燥すると思うんだよね」
「するだろうけど、それ本当にいいのか?」
「大丈夫でしょ。……多分」
最後の平仮名にして3文字の言葉は、聞き取れないように早口かつ小声で言った。
「なんか言ったか?」
「いや? 別に」
普通に翔太の耳には理が濁した単語は届いていたのだが、別に翔太にはどうでもよかった。結局2人そろったので、また炎天下を歩いてカラオケまで行く。
「あ、今度はちゃんとタオル持ってきたよ! 私用の」
思い出して嬉しそうに理は自分の黄緑色の鞄からタオルを引っ張り出して見せた。
ちなみに翔太が使っている鞄は理の色違いの青。
同じ時に偶々同じ物を買ってしまった。
「……それ頭拭くように使えよ。悪いことは言わねぇから」
「別に大丈夫でしょ、これくらい」
この人間に女子力と言うものはないのだろうかと、翔太は歩きながら考えた。
「そういやお前、この間料理練習するって宣言してなかったっけ」
何かテストでもないかという思考の結果、翔太は『流石にカップラーメンより難しい料理はできるようになったよな?』という念を込めて少し軽くジャブを放った。
「……もちろん。練習したよ?」
「へぇ。何作れるようになったんだ?」
「聞いて驚け。茹で卵!!」
ビシッと効果音をつけたくなるような動作で翔太を指さした。
2人の間に沈黙が流れた。
「更に、目玉焼き!!」
「いや、練習しようと思ったことない俺でも作れるが」
「まだ他にも作れるよ。卵焼き!! は作れなかった」
「卵好きか? お前。いや、てか作れねぇのかよ」
流石に思ったことを言った。
「だってさ。卵料理簡単なんだもん」
「ちょっと待て、お前の料理はどの程度からを言うんだ?」
「もちろん、カップラーメンからだよ」
翔太は『流石にスクランブルエッグくらい作れるようになるんだろうか』という淡い希望をドブに捨てた。
そういえば、これも卵料理だった。やはり卵料理という分類は簡単らしい。
ため息を一つついた後、翔太は
「……まだ俺の方が上手いぞ? 料理」と止めを刺した。
「……はぁ。練習するよ」
「お前、段取り丸暗記できるだろ? それで練習すればいいじゃんか」
「興味がないことはてんで覚えなくてね」
ある意味、使えない頭脳。
「てことでなんだけど、今日人いないね。暑いからみんな引きこもってるのかな」
理が言った。
「まさか、全人類暑さに弱いわけでもないだろ。だがまぁ、暑い+特に外出する予定がなかったらまぁこうなるんじゃないか?」
「そだね。私も普通だったら家で引きこもってるもん」
「じゃあなんで外出してるんだよ?」
ただ人通りがあまりないのは事実で、現に今歩いている道には人が数える程しかいない。
「これじゃあ不審者が歩いててもバレないな」
「……いや、不審者わかるの? 翔太」
「一目見てその人に『不審者ですか?』って聞くやつが不審者だよ」
その時は、翔太と理は後ろを気にしていなかった。
後ろから黒ニットにサングラスにマスクという『不審者』が近づいてることを知らなかった。
「はぁ、友達欲しいな。できれば男子の」
「あ、やっぱり欲しいんだ。そしてできるとしたら多分男子だからそれは心配しなくていいと思うよ」
「それもそっか?」
と他愛無い話をしてる2人にその不審者が走ってきている。
そして翔太と理の間から理を突き飛ばして、走り去った。
「痛っ……!」
急のことなので反応しきれず、理は乱暴に弾き倒された。
「……、おい? 大丈夫かコトワリ!? 」
頭を必死に追いつかせながら、翔太は叫んで駆け寄った。
「うう……頭打った」
理は自分の頭に手を置いて苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……って、あれ? 私、鞄は?」
「は?」
言われてみれば、理が肩に提提げていたはずの鞄が無い。
「アイツ、持ってったんじゃ!?」
「え?」
後ろを見る。
「あ、持ってるアイツ!!」
全速力で逃げるその不審者(これから『男』と呼ぶ)を見ながら翔太は言った。
「翔太、追いかけて!!」
「……分かった!」
翔太は走る男の背を全速力で追いかけた。
時々後ろを見ながら走るが、放っておいていいものかと悩む。
理は頭を殴られてた。アイツ、ひ弱だから大丈夫だろうか。
ただ、よくよく考えたら『別に放っておいてもどうでもいいだろ。勝手に置いてかれろ』という思考が今まで理に煮え湯を飲まされて喉が潤いきっている翔太が思いついてしまった。
「……何も考えずに走った方がいいなこれ。アイツは気にするな」
現状緊張感も何もないに等しいまま、翔太は走り出した。