逃亡の果てに
「エリシオン、すまない。疲れているだろうが、あと少しだ。あと少しで国境を抜ける」
愛馬竜エリシオンの首筋を撫でる。何とか日が落ちる前に国境を抜けたい。すでに追手が出ている可能性もあるが、国外まではそうやすやすとは手が届くまい。
私が異変に気付いたのは、ここ数週間のことだ。
皇帝である父や宰相、将軍や大臣まで……明らかに様子が変わったのだ。むろん、帝国の版図を拡げることに賛成というわけではないが、富国強兵の考えも理解できなくもない。
これまでは、私の理解の範疇で侵略戦争は行われていた。それは統治下に置いた被支配国の人々の扱いも含めてだ。これからは、同じ帝国民となるのだから、無駄に虐げ搾取しても意味がないわけで、各国の王族や貴族はそのまま残して、その上に帝国が宗主国として緩やかな支配をするという形だったのだ。
しかし、突然、皇帝陛下は変わられてしまった。
被支配国の人間を次々奴隷にしてゆき、噂では怪しげな実験を繰り返しているらしい。まさか人体実験をしているのではと、調査に向かわせたが、誰一人として戻ってこなかった……。
それだけなら、父上が乱心されただけだと考えることもできたが、理性のかたまりのような宰相を始め、誰一人、苦言を呈す者すらいないのはおかしい。
しかも、最近では、若い女性たちが連れ去られている等、妙な噂も立ち始めている。国民からの視線が厳しいものになるのも時間の問題だ。
そして、決定的だったのが、今日の食事だ。
もちろん毒見はされているのだが、最近の不穏な空気もあって、念のため侍女のメアが二重の毒見をしてくれている。その彼女が、突然苦しみだし、意識を失ってしまったのだ。
幸い、意識はなくとも、呼吸はしっかりしている。
私はその瞬間、国を出る決心をした。
皇女である私が狙われたのだ。メアを置いていくことなどできない。私は事前に準備していた最低限の荷物とメアをエリシオンに乗せて、密かに城を出た。私はよく、街へお忍びで出かけるので、衛兵もまたか、といった感じで、止められることもなかったのは幸いだった。
最初は隣国に嫁いだ姉を頼ろうかと考えたが、迷惑がかかるのは間違いがなく、いっそのこと、遠くの国で冒険者にでもなろうと考えた。これでも、剣や魔法の腕前は相当に自信がある。
路銀も十分余裕があるし、帝国の情報を定期的に確認するためにも、都合が良いだろう。
今は、とにかく少しでも帝国から離れることだ。コーナン王国まで行けば、船で遥か遠くまで行ける。そこまでは、少々辛いが、町では泊まらずに、夜通し移動するつもりだ。
エリシオンは帝国随一のスタミナとスピードを併せ持った名馬竜だ。その気になれば、三日間走り続けることもできる。
唯一心配なのは、侍女のメアの容体だ。
何の毒を飲まされたのかはわからないが、早く治療をしてあげたい。不安と焦りが募るが、そんなものは、あとでいくらでもまとめて味わえば良いのだと自分に喝を入れる。
『ふるるるる~!!』
エリシオンが優しく鳴く。大丈夫、任せろとでも言うかのように。
すでに国境線は抜けた。自分自身でも気付かない緊張があったのだろう。まあ、命を狙われたのだから当然だが。一気に冷や汗が流れ出る。まだまだ気は抜けないとはいえ、国外に出たことで、危険は格段に減ったのは間違いない。
『フルルッ!?』
「うわっ!?」
突然、エリシオンが急停止する。
危うく落馬しそうになるが、何とか堪える。
「どうしたんだエリシオン?」
唸り声を上げながら、前方の森をにらみつけるエリシオン。まさか、敵か?
「ほほう、さすがは天下の名馬竜。罠に気付かれるとは思いませんでしたよ?」
「貴様……ジョバンノ子爵……なぜここに……」
「なぜって? 貴女を捕らえるために決まっているでしょう? コンスタンティア殿下」
ジョバンノ子爵が髭を撫でつけながら合図をすると、五十名ほどの騎士が現れる。いつの間にか囲まれてしまったようだ。
なぜここに近衛騎士団がいる? そもそも、追いつくのはともかく、先回りなど出来るわけがない。
「私とて同胞を斬るは忍びない。道を開けよ!」
この人数ならいける。ただし、手加減する余裕は無い。やるなら殺す覚悟が必要になる。
「ふふっ、もしかしてやる気ですか? やめたほうがよろしいですよ?」
ジョバンノ子爵と騎士たちの身体がメキメキ音を上げながら、その姿を異形の魔物へと変える。背には羽が生えており、おそらくは、空を飛んで先回りしたであろうことを、ここにきて理解する。
「その姿は一体……?」
「ふふふ、城へ帰れば、すぐに殿下も仲間入りですよ? その侍女のようにね!!」
「ふふっ、さあ殿下、一緒にお城へ帰りましょう?」
振り向けば、異形と化したメアの変わり果てた姿。あれは毒ではなく、魔物化させる薬だったのか?
何ということだ。様子がおかしいどころではない。
すでに……帝国は終わっていたのか。
気持ちが、心が折れかける。
いや、まだだ、ここで私が魔に堕ちれば、世界中が終わる。何としても切り抜ける!
すまん……メア。お前を助けられなかった。
いつか必ず助ける方法を見つけてやるから、今は……お別れだ。
魔力を極限まで高めてゆく。
「舐めるなよ? 帝国最強の一角、雷皇コンスタンティア参る!!」
『そこまでだ!』
その場にいた全員の視線が、声の主へと注がれる。
「貴様は……ヌー伯爵!?」
最悪だ。ほんの少しだけ味方を期待してしまった自分の甘さが憎らしい。
ヌー伯爵といえば、悪名高きクズだ。異変を感じるずっと以前から。
「ヌー伯爵、一体なぜ貴方がここに? 殿下の捕獲は私の任務。邪魔しないでいただきたいですね?」
『ふふっ、私は以前の私ではない。殿下には指一本触れさせませんよ?』
なっ!? まさかの味方……なのか?
『殿下、私の後ろにいてください。なあに、あの程度の魔物、どうということもないです』
そう言われても、お前……戦闘力ゼロだったよな? 肉壁にもならんぞ?
だが、その瞳に宿る確かな自信が私を信じさせる。なんか格好良い……とはまったく思わないが。