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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

僕は飼われた

作者: ねぃむろす

《人間は、変わり続けることしかできない生き物だ》


 僕は買われた。

 と、言っても人身売買と思ってはいけない。合法的に契約を交わしてという意味だ。契約内容云々を詳らかにしたところで面白味はないので割愛するとしても、僕を買った人間についてほんの少し語ったほうがいいだろう。

 玖蛹渚の年齢は10歳程度だ。僕は、女の子に年齢を訊くのは気がひける性格の持ち主なので、見た目で判断してしまっているが、大方間違ってはいないと思われる。幼顔で、矮躯で、ツインテールであり、夏であるのにアニメキャラがプリントいる長袖のシャツを着用しており、下はフリルのスカートにタイツで、ランドセルを背負っていれば、実は中学生でしたとは告白されたりはしないはずだ。事実、中学生であっても大した違いはないが、見た目から彼女を小学生として僕は接してみる。見た目で年齢高く見られるよりはましだと相手の立場を考慮しての結果だった。そう、それぐらい僕は彼女を知らないのだった。

「お兄ちゃん、渚は楽しかったと思っているんだけど、お兄ちゃんはどうだったのかな? お兄ちゃんはあまりというか殆ど自分の気持ちを口にはしないから、渚はお兄ちゃんの気持ちが判らないの。だから、訊くしかないの」

 どこか甘えたような声色で玖蛹渚は僕に声をかけてきた。

 テーブルの上には今日遊園地で買ってきた品々が置かれたままになっている。帰宅した直後、優先されたのが会話であったから開封されておらず手付かずのままだ。僕はトイレに行けば手を洗うような自然行動で帰宅後彼女の好きなメロンソーダをコップに注いでいるところだったから、一室で二人きりで背中越しにロリボイスを聴いている場景は傍からみれば、兄弟かそれに類似した関係かと思ってしまうだろう。しかし、僕達の関係はそうではなかった。たった2週間の契約を結んでいるだけのただの赤の他人同士。仕方なしで結ばれている他人以上の他人の関係に過ぎない。

僕は注ぎ終えたメロンソーダを手にとってテーブルの前に、行儀良く座っている主人の前に差し出すと、彼女の対面にどっさりと腰を下ろした。

「わーい!」

 遊園地から帰宅したばかりだというのに、屈託した表情をみせずストロを起用使って僕の出した飲料水で喉を潤している。僕は彼女とは正反対で疲れて行儀悪く寝そべった。疲労困憊で座ろうという気分すら起きない。正直なところ眠りたいの一言だ。だとしても、ここは彼女の家で僕は彼女に買われ飼われている身分であるから、我が儘は許されるはずがない。許されなかったとしても彼女にお願いしたら快く承知してくれるだろうが、僕にもある程度の矜持はあった。飼われている段階でプライドはないようなものだが、彼女に対しての最低限の感謝であると言ったほうが解り易いかもしれない。背中を平らな床に押し付けていたのが原因なのか少し居心地が悪くなった。僕が寝返りを打とうとしたところで、声がかかった。

「お兄ちゃん。お兄ちゃんもメロンソーダを飲むといいよ」

 声をかけてくれているのにぞんざいな態度を取れなくなってきた僕は身体を起こして、彼女と向かい合ってみる。彼女は規範となるように正座して礼儀正しく鎮座していた。

「はい、まだ氷が融け切ってないから冷たくて美味しいよ」

 彼女が指したメロンソーダは冷蔵庫に入っている新たなメロンソーダではなく、僕が注いだ彼女の分のメロンソーダだった。コップにはストロが挿されていて、液体が半分以上残っている。僕のために残していたと判り易い分量だった。

飲んでいいものか? そういった倫理的な観点からいえば、飲んではならないだろう。兄弟であれば問題はないが、僕と彼女は他人で男女の関係なのだから直接ではなく間接的といえども彼女の唾液が付着しているストロに口をつける行為は、良いとは判決されないだろう。だからといって、僕は彼女に買われ飼われているのだから、断れる立場ではないのも優先されるべき事柄なのだった。だからではないが、僕は逡巡する時間もなくストロに口をつけるとメロンソーダを飲み干した。間接的だったとしても味はメロンソーダの味しかしなかったのはいうまでもない。

「美味しいよ。でも、メロンフロートだったらもっと美味しかったかもね」

 テーブルに両膝をつけて感想を待ってくれている相手に対して、皮肉った言葉しかかけられないのは僕の性格を如実に現している。

『美味しい』と一言で済ませられるはずなのに、自分でも解っているはずなのに言えない僕は正直な人間ではないのだろう。正直でなければ正しいことはできない。正直ではなく正しいことをしたとしても、それは本当の正しさではなく、他人から感謝されない自己満悦の正しさになってしまう。自己満悦の正しさ得るために努力するぐらいなら、僕はいまのままを進んで行きたい、とか言ってしまえればカッコ良いのだが、そんな信念は残念ながら持ち合わせてはいない。僕は変われないままなのだ。切掛けと呼ばれる遭遇があれば話は別なのかもしれない。

 と。

 そんな僕の心情など見透かせるはずもない彼女は不快を表情に表さず、満面の笑みを保持していた。

「よかった。渚が不味いと云われたらどうしようかと思った」

「…………」

 メロンソーダの感想ではなく間接キスについての感想を待っていた彼女は、ほんの少し焦点のずれている女の子である。まあ、ずれていなければ僕を買って飼うなんて所業は冒さないのかもしれないし、常にランドセルを抱えてももいないだろう。だからといって、普通から逸脱しているからといって、僕がとやかく言えはしないし、言うつもりもない。今日で別れる人間に言う筋合いはない。部屋が汚かったとしても、酒ビンや食料の空ケースが転がっていて人が住むような空間ではなかったとしても、親がいなかったとしても、彼女独りだけだったとしても、僕が干渉する要素は一つもない。

正直で正しい人間であるなら、彼女を救うだろう、自己満悦で正しい人間であるなら、見て観ぬ振りをするだろう。さて、僕ならどうするか? どうもしない。

「あっ! そうだ!」

 大げさなぐらいの元気よさで両手を合わせて彼女は云った。

「お兄ちゃん。まだ、時間あるよね? 契約が切れるのはまだったよね?」

 時計で確認した。

「あと2時間程度はあるんじゃないかな? いや、もう2時間は切ってるかもね」

「じゃあ、それなら」

 僕の皮肉った言葉など気にもした風もなく、天真爛漫さを惜しげもなく繰り出して唇を動かす。

「いまから、メロンフロートを食べに行こう!」

 彼女は立ち上がり僕に近づくと手を摑んで、立たせようと引っ張った。僕は別に拒絶をして座り込んでいるわけではなかった。あと一呼吸したあたりで立ち上がり、彼女の要望を応えようと思っただけだった。それを彼女は独自の解釈を持って理由が必要だと判断したらしい。

「もう、お兄ちゃんと逢えなくなっちゃう前に最期の想い出作り」

 哀しい素振りは何一つ見せずに彼女は云い続けた。

「ありがとう、お兄ちゃん。お兄ちゃんは渚の我が儘を一杯いっぱいきいてくれた。一緒に遊んでくれて、一緒にご飯を食べてくれて、話を聴いてくれたし、色々教えてくれて、家族になってくれて、兄妹にもなってくれた。渚は楽しかった。渚は凄く楽しかったの。いままでなかった一杯いっぱいの楽しい想い出をお兄ちゃんは作ってくれたから、渚もお兄ちゃんに想い出を作ってあげたかったの。何か作ってあげたかったの。お兄ちゃんは何も自分のこと話してくれなかったから、何で喜んでくるか判らなかったから、困ってたんだけどやっと話してくれたね。やっとお礼ができる。やっと感謝できる。やっと喜んでもらえることが解った。だから、お兄ちゃん――」

 彼女は、

「――渚の最期の我が儘に付き合って下さい――」

 云った。

「――よかったら、こんな女の子が居たって渚のことを偶に思い出して下さい」

 笑顔で。

 笑顔で。

 笑顔で。

 楽しそうに。

 夢でも語るように。

 だから、僕は答えた。

「渚が連れて行ってくれるところのメロンフロートが、想い出になるぐらい美味しかったら、メロンフロートを食べているときぐらいは思い出せるかもね」

『そうだったらいいな』なんて僕の皮肉った言葉に正直な相槌を打つかと予想していたのだが、彼女は初めて、出会って初めて何も返さなかった。

「…………」

 無言だった。

「…………」

 言葉は無く。

「…………」

 僕の腕を摑んでいた力もなくなって。

「…………」

 表情の力もなくすと、

「わあぁ~ん! ああぁん!」

彼女は泣いた。泣いて近づき僕の胸に顔を押し付けて泣き続ける。僕のシャツを濡らして、自分を枯らすぐらい豪快に涙を落とし続ける。外聞も恥も知らずに、泣く行為だけは知っていた。わんわんと、強く、わんわんと、激しく。自分の体重を人形のようになくすぐらい、涙のほうが重く感じられるぐらい。彼女はそうやって真剣に泣いた。

「そう……だ、よ……」

 嗚咽の交じり合った声色が僕の耳朶に触れる。

「な、ぎさ……。渚は、なぎ、さの……、名前、なん……だよ……」

 少しだけ泣くことに慣れた彼女は胸から顔を上げると、僕を観て云う。

「私は……、渚です。玖蛹……渚……です。私はここにいるよ、お兄ちゃん――」

 名前なんてと僕は思う。でも、そんな彼女の名前を僕はいま初めて呼んだのだと知る。彼女には大切なものだったのだと知る。泣くぐらいには。真剣に泣くぐらいには。呼ばれて笑顔で泣けるぐらいには彼女にとって名前は大切なものだった。彼女の事情はよく知らない。よく判らない。知りたくもないし、解りたくもない。彼女をどうでもいいと思っている僕に言えるのは、変われない僕に言えるのは空気を読まない言葉だけ。

「いつまで泣いてんの? メロンフロートを食べに行くんじゃないの? 渚」

 僕は泣かせない正しい台詞は言えそうにないのだ。

 彼女は僕の声を反芻しているのかこくこくと頷いて嗚咽を止めると、目元を拭い離れ立って居住まいを正した。

「そうだね。お兄ちゃん。もう、時間ないしね。早く行かなくちゃ」

 旅行前の子供のように彼女は玄関へと走って行った。玄関を開く音が聞こえる。行動力は見習わないといけないのかもしれない。でも、観察力は見習わないが。時計を観る。針はさきほど確認した場所から2時間後を指していた。これぐらいだったなら問題ないかな、それよりも彼女に追いつかないといけないと思い立ち上がり玄関から一直線の位置にきたところで、どさり、と僕に重みがぶつかった。立っていてぶつかったから弁慶の泣き所の部分が主にだったからか、痛みが奔った。それぐらいの衝撃だった。身体が傾いて倒れて半身を起して、僕にぶつかったものがなんであるか確認できた。

彼女だった。

 転がっている彼女。小さな身体を丸めて、痛みを耐えるようにして喘いでいた。

情報が足りなくて時間を使った。理解しようとして時間を使った。使っているとのっそりとした緩慢な動きのでっぷりとした男が入ってきて、彼女を見下ろしているのが見えた。見えたからといって理解はできない。男は躊躇いなく彼女を思いっきり蹴った。蹴った。蹴った。蹴った。その一撃、一撃、一撃、一撃、一撃に耐える彼女。笑顔を絶やさなかった彼女。でも、流石にこのときまでは笑顔ではなくて苦悶に満ちた、必死に満ちた表情だった。

ゴスゴスと続いて響く鈍い音。彼女は耐えられないだろう。数分耐えられれば奇蹟だろう。男と彼女の体型はあまりにも違いすぎた。良くて骨折、悪くて絶命。でも、彼女が死なずにいられるのは――

「くそ! くそ! くそがッ!」

「う、うっ、や、止めて、よぉ。お、とう、さん……」

 耐えるのに呼吸をするタイミングを逸して言葉が区切られる。

「ああ! 止めろだぁ? 俺に命令するなクズが! お前が悪いんだろうが、お前が俺を苛々させるから悪いんだ! お前があの女に似るから。お前が抱かせる怒りをお前で処理して何が悪いい! お前に俺の何が判る! お前等が居なければ俺はこんな惨めな思いはしなくて済んだんだ。くそが、このゴミが! お前に価値はねぇ、俺のストレスを解消させるぐらいの価値しかねぇ。そうだろう? 違うかこら! はぁ、はぁ、はぁ、クソッタレがッ!」

 一時的に音が止んで、時計の針の動きを知らせる音が響く。男は肩で息をしていた。はぁはぁと吐き出される息が漂ってきたのか、急に酒の臭いが鼻についた。

「……お、お兄ちゃん……」

 蹲っている彼女が声を発した。数分前に聴いていた声とは違って、別のものに聴こえる。弱々しく無理矢理搾り出される声に、僕は反応も返事をせずにただ彼女を観ているだけだった。代わって彼女の声に反応した男は、いま気づいたといわんばかりに僕をぎろりと睨みつけてくるが、どうでもいいように視線を外すと、彼女を踏みつける。

「お前が連れ込んだのか! そうなんだな!」

「う、うぅ、うっ……」

 僕を連続で恫喝する力が男にはないようだった。楽なほうへ楽なほうへと蹲っている彼女を見下す。見下されていると気づく余裕のない彼女は、重みに耐えながら僕に顔を向けて申し訳なさそうに云う。

「ごめんなさい。もう、時間過ぎてたんだね。ごめん、なさい……。お兄ちゃんに想い出、作ってあげられなかった。本当に、ごめんなさい。うっ、うっ……。わ、私の想い出ばかり作って、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、謝ることしかできなくて……、ごめん、ごめんなさい。私、もう、お兄ちゃんに何もしてあげられないから……だから……お兄ちゃん……帰ったら、私のこと――」

 薄っすらと、彼女は泣いたように、笑った。

「――二度と思い出さないでね――」

 小さくちいさく煙のように雲散霧消する声のあとに動いた唇は『ばいばい』と僕だけに聴こえるように、別れの挨拶を云っているように、見えただけで解りはしなかった。

「お前はどこまであの女に似て!」

 どすん。

 男の蹴りに彼女は耐え続ける。

 背中に背負っていたランドセルで顔と心臓を護りながら。誰にもばれないように護りながら。暑さを我慢して肌を隠しながら。誰にも救いを求めずに耐えながら。僕に謝りながら。僕を助けながら。僕を救いながら。僕に云いたくもない嘘を吐きながら――彼女は――。

「解った」

 了解を伝えて、すっと立ち上がれるほどに僕の脚の痛みは止んでいた。男に暴力を振るわれている彼女を見下ろしながら、僕は帰ることにした。僕の用は既に済んでいて、僕は用済みだ。僕が彼女にできることはない。やれることはない。僕ができるのは帰ることだけ。

「ばいばい」

 僕は蹲っている彼女にそう一言だけ別れを告げると、玄関に向かい靴を履きノブに手をかけ、外に出た。男にとって僕はやはり重要ではないようで、一部始終を目撃した僕に口止めもせずに無視したままだった。玄関のドアを閉める。防音設備が確りしているのか音が外には洩れてこない。彼女の部屋はアパートの2階だったので階段を下りて、下に停めてある僕の車へ向かう。ポケットから車の鍵を取り出して開錠する。ノブに手をかけ運転席に腰を下ろし深呼吸をすると助手席に準備しておいたジュラルミンケースに手をかけ、車から降りた。施錠し、アパートの2階に向かって見慣れた部屋のドアを前に立つと、僕はインターホンを鳴らした。鳴らした行為に別段意味はない。扉を開き、今度は土足で進入するとジュラルミンケースを机に置き、僕は装着していた牛革の手袋を装着し直した。男はようやく僕に興味を抱いたようだった。僕は興味がないから自分の作業を進める。作業といってももう大方終わっているようなものだが。

「貴様、人の家に土足で――」

 僕は手の届く距離まで男に近づくと、ジュラルミンケースから取り出したシャープペンシルを男の腕に突き刺した。

「う、ぐあァァァ!」

 特にシャープペンシルではなくても良かったが、偶々摑んだのがシャープペンシルだったらしい。男は痛みを誰かのように耐えながら這いずり部屋の奥へと向かっていった。僕も後を追うと、そこには見慣れた彼女がいた。

「よっ、久しぶり。3分振りぐらいかもね」

「お、お兄ちゃん……」

 軽く挨拶を交わして、僕は男に視線をやって近づいていく。腕から文房具が生えて、血がシャツに滲んでいる。額からも汗が滲んでいて、身体の各所に穴が開いているようだ。実際に穴が開いているのだから、比喩ではないのだが。壁を背にして逃げられないと気づいた男は僕を見て観て云った。

「き、貴様、な、なんなんだ。ど、どういう神経でこんな、ことを」

「動機なんてどうでもいいじゃないか? 聴いても理解できないだろうし、理解してはいけないものだろうからさ。それでもあえて言うなら、刺したかったから刺した」

「さ、刺したかったから刺した……だと?」

「ほら、理解から程遠い声を出すしかない」

 最小限の動きで僕は男の太ももにコンパスを刺した。鉄の尖った部分ではなくて鉛筆のほうだ。確かえいちびぃだったはずだ。隠すようにねじりこむ。

 悲鳴が聞こえる。聞いても男の悲鳴は良いものじゃない。男は助け呼ぼうと大声を上げ始めたから、冷静さを取り戻させ黙らせるために知っているはずの事実を教える。

「大声を上げて助けても無駄って知っているんじゃないの? 知っているから娘に暴力を堂々と振るっていたわけだから。冷静に考えてみるといいかもね。都合よく貴方の場合だけ助けられるかどうか。それとも自分の娘に頼んでみる? 『お前が連れ込んだ男に自分が殺されかけているから助けろ』ってね」

 斜め後ろにいる彼女へ視線を向けた。男もそれにつられて弱々しい眼を向けた。力なくぐったりとして僕達を観ている。衝撃を吸収し切れなかった身体は小刻みに震えていた。僕は男に視線を戻した。

「無理だろうけど。彼女は貴方の暴力によってボロボロだ。無力だよ。しかしでも、貴方が暴力を振るっていなければ助けてくれたかもね。残念」

「ひ、ひぃ――」

 男は自分の死期を悟ったのか、僕に助けを求めるだけだった。聞き飽きた月並みな生命乞いをある程度聞き流してやって僕は彼等に言う。2人に伝える。

「別に発狂しなくていい。僕は貴方を殺しに来たんじゃない。実は商談をしにきたのさ」

 僕の言葉は嘘になってしまっているようだ。男に安堵の余裕はない。背後に壁があるのも忘れて少しでも僕から離れようと努力する。男は少し悲痛な表情を止めずに、反して彼女は何も云わずに黙って僕の言葉を待っている様子だった。

「回りくどく話すは得意じゃないから、簡潔的にいうよ。貴方の娘さん。彼女には幾らの価値がある?」

 僕は続けて言う。

「身を呈するだけの価値がどれほどある? 貴方の云い値で僕が娘さんを買い取ってあげるよ」

 嘘を真実にするために、僕はジェルラミンケースから小帯紙付きの札束を取り出して床に置いた。

「!」

 隣に大帯紙。男の眼の色が変わった。

「最低額は零。上限はなし。価値が百万というなら百万出そう。1千万というなら1千万出そう。1億というなら1億出そう。一億は流石に持って来れてはないけどね。出して、加えて貴方の生命も保証するよ」

 十束重ねたところで、男の頬が緩む。緩むのは当然といえば当然だろう。死に直結した人間に生命を保証され働かずとも一生遊んで暮らせるだけの金を得られるチャンスを得たのだから。男の決断は早かった。早く云わなければ僕が取りやめにするとでも思ったのかどうかは知らない。だからといって話を最期まで聴かないのはよくない。

「だったら……」

「話はまだ終わっていないかもね」

「…………」

 男は口を噤んだ。

「1回で1万円分だ」

「?」

 汗まみれの顔を歪めた。

「提示した金額分だけ、貴方を刺し挟み穿ち斬る。身を呈するというのはこういう意味。云われる前に言っておこうかな。リスクのない美味しい話はない」

「…………」

「不満な表情だね。都合いいタイミングでそっちが勝手に話を終わらせただけだろう? 話は最後まで聴くのが定石だ。それとも自分だけが特別だとでも思った? 間違えてはいけないよ」

 安心感を叩き壊す声色で僕は断言する。

「人間一人の価値が金だけで売れるほど安くないんだよ」

 僕は続ける。

「さて、話の続き。現在、貴方は2回僕に刺されている。最低でも2万円と貴方の生命は保障されているわけだ。しかし、娘を売らないというなら、僕は貴方に金はやれないし生かしもしないんだけど。どうせ、娘を無価値としていた貴方だから、売らないという選択肢はないだろうから、選択肢のない貴方に1つだけボーナスをあげるよ。これは美味しい話かもね。娘さんの質問に答えてくれるかな? 答えられたら、身を呈さなくて好きなだけの金額を支払うよ。娘を何でも解っていて自分より大切にしている良きお父さん、という名目親子愛に免じて、娘を好きな値段で売るのも、身の安全も完全に保障するよ。美味い話だろう? だから、ほら、最後の最期の別れの会話を僕に見せてくれないかな?」

 僕は身を引いた。破綻した親子関係。破綻させた親子関係。ボロボロになった二人は視線だけ合わせている。同じ目線に立った2人の関係は終わってしまっているはずなのに、僕が見た中では一番――親子らしくみえた。

「お父さん」

「なんだ?」

 たった一言ずつの短い会話は当たり前すぎて、彼女がした質問も当たり前すぎて、答えも当たり前過ぎて、僕にも答えられるほどつまらないものだったのだが、親子の会話とはこんな当たり前のものなのだろう。

「私の名前を云ってみて?」



 僕は身代金を彼に支払って彼女を買った。買ったというか人身売買は認められていないので正しくは誘拐だが、大した違いはない。買われ飼われていた人間から買い飼う関係ぐらい大差はない。

 ウィンカを出してハンドルを左に切った。曲がるついでに隣をみれば、助手席に彼女が乗っていた。乗っているというよりはしゃいでいるというのが正しい表現で、誘拐された自覚が全くないように見えた。

「お兄ちゃん、見て観て夜景が綺麗だよ!」

 彼女の一つひとつの発言に気の抜けたレスポンスを打っていると、変化でも与えようと思ったのか僕しか答えられない質問をしてきた。

「お兄ちゃんはどんなお仕事をしているの?」

「犯罪者」

 僕の即答に助手席を占領している彼女は「ああ、なるほど。犯罪で商売をしているのかぁ」と納得の声を上げる。

「だから、お金を一杯持っているんだね」

 別に犯罪者じゃなくともお金を一杯持っている人間はいる、と教えなくてはならないのかと迷ったが止めておいた。彼女の話がまだ続きそうだったからだ。

「お兄ちゃんがお金を一杯持っているのはよく解ったよ。でも、どうしてなのお兄ちゃん。お金を一杯持っているお兄ちゃんはどうして、私と一緒にいてくれたの? 私お兄ちゃんにお金あげられたわけじゃないでしょ? お兄ちゃんは私といて損をしていると思うよ。損をしていたら商売が成り立たないのに」

「…………」

 視界の端に見た覚えのある公園が通り過ぎていく。砂場で独り遊んでいる彼女の光景を思い出すには丁度いい材料だった。

『独り?』

『うん』

『独りは楽しい?』

『楽しくないよ』

『だったら、友達とか両親とかと遊べば楽しいかもね』

『友達はいないよ。お母さんもいない。お父さんは……』

『ふーん。それよりも』

『話をふったのはお兄ちゃんなのに』

『真夏なのに暑くないの? そんな格好で』

『うん。もの凄く暑いよ』

『ふーん。そうなんだ』

『…………』

『何? お腹でもすいた?』

『……どうして?』

『ん?』

『どうして、どうしてって云わないの?』

『どうしてって、どうして云わないといけないの?』

『みんな云うから』

『僕はみんなじゃないからじゃない?』

『渚がどうしてこんな格好なのか理由を知りたくないの?』

『まあ、知りたくなったら訊くよ。それでペットを飼う気はない?』

『あ、うん? ペット?』

『期限付きだけどね。独りよりかは楽しいかもね』

『…………』

『お代はその泥団子でいいや』

『ペットって犬? 猫?』

『僕』

 がたりと僕の思考を止めるように、後部座席に積んだ荷物が倒れた。今日買った荷物の一つがバランスを崩しただけだろう。彼女が沈黙を貫いているので僕はつまらなそうに言った。

「お金が一杯あったら商売は成り立つんじゃないの?」

 僕は右手首を観る。ボタンが外れかかっていた。きちんと閉めるのは癖のようなもの。身だしなみを気にする僕としては当然の行為だ。彼女は暫くだんまりを決め込んでいたが僕の発言に対抗するように「ふーん」と反応だけして、突拍子もなく話の流れを無視して――笑顔を向けて、


「お兄ちゃん。こんな私にも人一人を救える分の価値があるんだって教えてくれてありがとう――」


 彼女は場違いな台詞を場違いな僕に吐いた。

 首を傾げつつ隣の彼女を凝視する。場違いな台詞を吐いたというのに、表情にそんな自覚は微塵も見られない。見せる様子もない。なおも続ける。

「あんな人でも私のお父さんだから、死んで欲しくなんだと思う。憎いけど。お父さんにとって私は無価値だけどあの瞬間だけは価値があったんだと思う。怨んでるけど。少なくともお兄ちゃんにとっては私にはお父さんの生命を救うだけの価値があるんだと、お金以上の価値があると、無価値ではないと教えてくれたんでしょ? そうじゃなきゃ、あんな面倒なことをしないんじゃないかと思う。選択肢なんて与えなくて、ただ、生命を奪うだけでよかったんだと思う。どれくらい振りかな。お父さんと会話したの。もう、随分前だったから覚えてないや。お兄ちゃんのおかげですっきりした。訊きたかったことが聴けたから。私はお父さんが嫌いだけど、お兄ちゃんは大好き」

 本当に彼女は少しずれた女の子である。いや、少し程度ではないかもしれない。犯罪者の僕を大好きと云えるぐらいはずれている。僕は嘆息する。

「僕は渚の家族を崩壊させた張本人だって気づいてる?」

「うん、気づいてるよ」

「仲直りする可能性を潰したって解ってる?」

「うん、解ってるよ」

「誘拐されてるって知ってる?」

「うん、知ってるよ」

「だから、僕は正しくない」

「そうだね」

「それで、僕は正直じゃない」

「そうだね、でも――」

 そんな人間にできたのは――

「――お兄ちゃんは私を名前で呼んでくれるよ。それだけ私は、十分以上に感謝してるの」

 ――変わらない犯罪行為ばかり。

 温かい感触。彼女はそこまで人語で話すと「にゃん。にゃん。う~にゃ~ん!」と買われ飼われた子猫のように鳴いて僕に思いっきりじゃれてきた。僕は一度も彼女にそんな格好はしなかったが、本当はそうしなければならなかったのかもしれない。する気はないけど。まあ、そんな僕だから彼女に、僕は――

「そう。じゃあ、渚、メロンフロートを食べに行こう」

 飼われた?

 買われた?

 変われた?

 僕はかわれない。

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