藍降って君を請う
「夕日が沈むね」
そう彼は言った。丘の上で、2人で飽きもせずそれを見つめて。徐に帰ろうかと言ったのはどちらだったのか。
夜がやってくる前に帰らないといけない。離れがたいけれど、でないと親が心配してしまうから。どうして遅かったんだと聞かれてしまうから。彼とは互いに秘密の関係で、まだもう少しだけ、社会人になって独り立ちできるまでは内緒にしておきたい。
それでもやはり離れがたくて、どちらからともなく歩調が遅くなる。ゆっくり、ゆっくりとしたそれに転ぶ危険があるはずもなく。空を見上げれば、橙色と藍色がその境界線上で混じり合っていた。
藍色が、橙色へ向かって降っていくようだと思った。橙という明るい色に恋い焦がれて、手を伸ばしていくような。それはまるで、自らにない色を欲するように。
(……手を伸ばしたって、遠ざかるのに)
そう思ったら、自然と足が止まった。数歩先で彼の立ち止まった気配と、怪訝そうにこちらの名を呼ぶ声。上を見上げているから見えないけれど、きっと不思議そうに首を傾げているんだろうなと思った。
橙色を追う藍色。同じように、彼のことを私はずっと追うような気がした。追うだけで、届かない。それはずっと、彼と付き合いだしたころから感じていた不安。心の奥底に押し込めていた感情だ。
社会人になったらお互いに両親へ話そう。そう言っていたけれど、自分の両親は喜んでくれるだろうか。彼の両親には嫌な顔をされないだろうか。話せる年になるまでに彼はーー彼の心は、離れていってしまわないだろうか。
彼女というひいき目で見ても彼はかっこいいと思う。何故私と付き合ってるんだろう、と度々思うくらいに。そんなまだ大学生にすらなっていない2人には、『社会人になるまで』という時間が途方もないような気がするのだ。その長い期間、私と彼は一緒にいられるだろうかーー。
「ねえ、」
不意に掴まれた手と、かけられた声。目を丸くして視線を彼へ向けると、彼はいやに真剣な顔をして見つめてきていた。
「どうして、……そんな顔してんの」
「そんな、顔?」
彼の言っている意味が分からない。目を瞬かせると、彼は一瞬答えることを躊躇うように視線を彷徨わせた。そうして視線を合わさないまま、彼は指で頬を掻く。
「ええと、なんというか……悲しそうな顔」
「……悲しそうな顔……なんて、してた?」
問い返すと、なんというか、そんな感じのーーそう答えが返ってきた。悲しそうな顔、と口の中で繰り返す。ゆっくりと視線を上げると、彼も顔を上げる様子が視界の端に見えた。
「……夜の藍色は、夕方の橙色をずっと追い続けるんだなって思ったの」
「夜の藍色と、夕方の橙色……」
見つめていると、段々藍色の範囲が大きくなっていることに気づいた。夜が本格的に近づいてきている。そろそろ帰らないといけないな、と思ったその時だった。
握られていた手をしっかりと握り直されて、そっと視線を向ける。握られた手まで下ろす予定だったその視線は、すでにこちらを見ていた彼の視線を絡まって止まった。
「じゃあ、俺はずっとお前を追い続けるってことかな」
「……え?」
彼は今何と言った。彼が私を追いかける?逆だろう。追いかけるのは私で、追いかけられるのは彼だ。
その想いが顔に表れていたのだろうか。彼が重ねて口を開く。
「だってそうだろ?俺が追っかけられることは多いけれど、俺が追っかけるのは1人なんだから。ちゃんとゴール地点で待っててくれないと困るけど」
その屈託のない笑顔に、その疑問すら抱かないような口調に。思わずため息をついてしまったのは仕方のないことだと思う。
追っかけられることが多いって自分で言うことだろうか。いや、間違ってはいないけれど。しかも素面で追っかけるのが1人、なんてよく言えるものである。
そして同時に悟る。少なくとも、今現在。彼と自分の間に一緒でいられないような要素は存在していない。そして彼は未来でも自分と一緒であることを疑っていない。
能天気、そうとも取れるけれど。
「……勿論。むしろ追い抜いて先にゴール地点へ走らないでよ?」
「ははっ、やらかしそう」
「ちょっとー」
彼がそう思ってくれるのであれば、あとは私が信じていないといけないのだと思う。
だから。
「ちゃんと、一緒にいてよ?」
そうして、君を請う。