別れの時
紫苑side
時が過ぎるのが早く感じるのは、いつからだっただろうか。
人は楽しい時はすぐに流れると思い、退屈な時間は時間が遅く感じると言う。
しかし、時間は誰にとっても平等に流れており、誰か1人のために早まったり、遅くなることはない。
私にも似たような感覚があり、つい先日までは退屈という感情から時の流れがスローモーションに感じるほどだった。
それが今では、もう春の訪れを感じることに驚きがある。
始まりとなったのは、ある男と関わるようになったから。
それに対して、複雑な心境が残る。
何故なら、ここまでの状況、私の感情までもある女の想定通りに進んでいる気がしてならない。
この学園で最初に、私の関心を引き出した存在。
いつかはその実力を確かめるために、一戦交えたいと思っていたが、残念ながらその機会には恵まれなかった。
このことに対して、めぐり合わせの無さを呪うこともあった。
しかし、彼女の性格を知れば、不運などというものとは関係がないのだと思う。
私が今日、この花園館に足を運んだのは文句を言うのであれば、この時しかなかったからだ。
卒業式。
3年生は今日を最後に、この学園を去ることになる。
それは同じく3年生である彼女もまた、例外ではない。
花壇の前で待ち人の最後の登校を待っていると、10分立たずに姿を現した。
「あら……珍しい子がお出迎えね」
「……待ちかねたぞ、桜田奏奈」
先輩ではあっても、私は最後まで自身のスタンスを崩すつもりはない。
彼女も私の態度に触れるつもりはないらしく、平然とした態度で歩みよる。
「私のことを待っていただなんて、面白いことを言ってくれるわね。だけど、ごめんなさい。卒業生への挨拶なら、そんなに時間は取れないわよ?」
「挨拶……ではないな。残念だが、私はあなたを華々しく送るつもりはない。言うなれば、最後に文句を言いに来たというのが正しい見解だ」
「フフッ、それはあなたらしいわね。逆に安心だわ」
その笑みを見ていると、不快感を覚えてしまう。
それを潰すための機会を窺っていたが、そんなものは来なかった。
花壇の前で、対面する形で顔を合わせる。
「結局、あなたと戦うことは叶わなかった。勝ち逃げされた気分が、ここまで屈辱的なものだとは思わなかったぞ」
「戦っていないのに、勝ち逃げ?何を言っているのかしら」
はぐらかすような物言いだが、私の意図に気づいていないとは思えない。
なぜなら、彼女は今、この怒りを向けられて笑みを絶やさない。
この女の性格の悪さは、すでに承知している。
「あなたは私が、あなたと戦うことを望んでいることを知っていた。だからこそ、私と戦う機会を徹底的に潰してきた。違うか?」
「あらあら、何を言い出すかと思えば……。めぐり合わせが無かった。それだけの話よ。私にはどうすることもできない話だわ」
巡り合わせという言葉を使ってはぐらかそうとするが、それで逃すつもりはない。
「それでは、質問を変えよう。桜田奏奈、あなたは私と戦うことを望んでいたのか?」
「……いいえ。それにははっきりと、NOを示すわ」
やはりか。
そうでなければ、私の違和感に説明がつかない。
「それは、私と戦えば負けると思ったからか?」
こちらも笑みを浮かべ、挑発とも取れる言い方をしてみる。
しかし、それに乗っかる女ではない。
「勝ち負けの問題じゃないわ。あなたは私に闘志を見せた。だから、戦いたくなかったのよ」
相手が闘志を見せたからこそ、それを拒絶した。
だからこそ、私は勝ち逃げという言葉を使ったのだ。
「あなたは人が悪い。後輩のささやかな願いを叶えてやりたいとは思わなかったのか?」
「願うだけじゃ望みは叶わないってことを教えてあげるのが、先輩としての優しさのつもりだったのよ」
欲望を口にした時点で、私は負けていた。
そのことに気づくのに、3月までかかってしまった。
「勝負が成立することが、私としての勝利条件だと考えたわけか。いい勉強になった。願っていたところで、自分で動かなければ意味がない。相手が拒絶した場合でも、望む舞台に立たせることの難しさをな」
私は桜田奏菜との勝負を望む意思を、彼女に示してしまった。
その時点で、彼女は考えたのだろう。
勝負が成立した場合、その結果が私の勝利であろうと敗北であろうと、満足してしまうと。
闘争を求める者は、その結果ではなく過程を楽しむものだ。
結果は愉悦の終了後のおまけに過ぎない。
私が戦いを愉しむということは、欲望が満たされることを意味する。
彼女はその望みを絶ったのだ。
椿円華という、最強の壁を利用して。
「いつか、会った時に言っていたな、椿円華に勝てたのであれば、勝負すると。あの時点で、私の望みを絶っていたと考えるべきだろうな」
「そうね。あの子はあなたと違って戦いを愉しむ子じゃない。だからこそ、あなたが円華と戦うことを望んだとしても、それに対して乗ってくることはない。あなたが、あの子を勝負から逃げられない状況に追い込まない限りは」
「そして、結果として私は彼に敗北した。あなたと戦うことも叶わず、無様な話だな」
自嘲する表情を浮かべながら、桜田奏奈に手を差し出す。
「完敗だ、桜田奏奈。あなたは私に初めて、戦わずして勝った存在として記憶に刻んでおこう」
言いしれぬ屈辱感はある。
それでも、敗北を受け入れざるを得なかった。
円華のように、勝負が成立した上での敗北は納得ができるものだった。
しかし、これは違う。
絶対的な強者とは、状況を意のままにコントロールする。
それは私が望んだ時点で、その希望を絶つことができるほどに。
その事実を、私は証明されたのだ。
彼女は私の手を握り、少し力を入れる。
「実際に私とあなたが戦ったら、勝負の内容によってはあなたに黒星を付けられていたでしょうね。あなたのこれからの戦いには、期待しているわ」
「ご期待に添えるように、精進させてもらおう」
言いたいことを言えたことで、そのまま手を離して横を通り過ぎようとした。
しかし、あとから気づいた違和感が足を止めた。
「戦い…?」
何故、桜田奏奈はその言葉を選んだのか。
引っ掛かる。
こういう時は、社交辞令でも『戦い』という言葉は普通は使わない。
精々、『学園生活』という言葉が正しい。
クラス競争のことを言っているのか?
それとも、今後行われるであろう特別試験のこと?
・・・違う。
『戦い』という言葉を発した時の彼女の目力と握った手への力の入れよう。
あれはただの社交辞令ではないことを、訴えていた。
「桜田奏奈」
振り返っては、彼女の背中を見て名前を呼ぶ。
「……あなたは、どこまで知っている?私の戦いのことを」
抽象的な質問だったのはわかっている。
それでも、聞かずにはいられなかった。
この女が、私の使命を知っている可能性があったからだ。
奏奈はこちらに背中を向けたまま、人差し指で下を指さした。
「ここから下の世界までのことなら、何となくは耳にしているわ。――――最上のおじ様から、ね」
その名前が耳に届いた時、動揺を隠すことができなかった。
今までの前提が、全て覆される感覚。
それが師のことを指していることに、気づくのは早い。
そして、大きく後悔した。
彼女はこの瞬間、この時まで私に隠していたのだ。
だからこそ、それを気づかれないように接触してこなかった。
私からの勝負を受けなかった理由が、もう1つ見えた。
「あなたが私と戦わなかった、もう1つの理由……。それは、ただの勝負では終わらない可能性があったから。違うか?」
「……正解よ」
彼女は顔を横に向け、憂うような流し目を向けて肯定した。
そして、左手を軽く上げれば、薄っすらと手の甲に桜の紋様が浮かび上がる。
「誰にも見せたことは無いけど、最後だから特別にね。これは桜田家の者が受ける呪印。異能者に確かな敵意を向けた時、それは殺意へと変貌する。だから私は、あなたに敵意を向けたくなかったのよ」
異能者に向ける感情を、敵意を発動条件に殺意に至らせる呪い。
私は最上高太の弟子であり、彼女は桜田玄獎の娘だ。
桜田玄獎のことは、師から聞いている。
もしも私と彼女が勝負に発展すれば、それは桜田家にとって私をこの世界から排除するという絶好の機会となる。
勝負という条件が成立すれば、それは桜田家の使命に則った行動に移らざるを得ない。
それは異能者の抹殺。
間違いなく、殺し合いになる。
一族の使命には、彼女であっても抗えないものだったのだ。
「真央が希望の血に手を出した時は、流石に焦ったわ。円華が割って入って来なかったら、私はあの子を殺していたかもしれない。そのためだったら、身体の限界まで解放されてね」
もはや、使命のために動く傀儡と化すわけか。
桜田玄獎。
師の言っていた通り、危険な思想を持つ男だ。
「あなたのような存在と決闘することになれば、無意識にでも敵意を向けることになる。そしたら、息の根を止めなければ気が済まなくなる。不便よね……血筋の憎悪って」
私は桜田奏奈のことを誤解していた。
彼女は私のことを、守ろうとしていた。
そのことに気づくべくもなく、屈辱などという感情を抱いていた。
この事実に気づき、真意を知った今、彼女に向ける目が変わる。
「……桜田、先輩」
敬称を付けて呼んだことに、彼女は触れずに「何?」と聞いてくる。
「今まで、ありがとうございました。ご卒業おめでとうございます」
何の皮肉もなく、ただ尊敬する先輩に対して向ける最後の言葉。
それを受けて、彼女は小さく笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。とても嬉しいわ」
それ以降、言葉を交わすことができなかった。
交わしたい言葉、聞きたいことがあるというのに、何も言うことができなかった。
行ってしまう彼女を、もう呼び止めることもできない。
あぁ、そうか。
私は今、悲しいと思っているのだ。
時よ止まれと、柄にもなく思うほどに。
今まで、彼女のことは超えるべき強者としか見ていなかった。
しかし、本当ならば学ぶべき強者として言葉を交わせば良かったのだ。
本当はもっと……感謝を示すべき恩人だった。
彼女と命掛けの戦いをしたとして、私は勝てただろうか。
その答え合わせは、禁忌だ。
彼女は私を生かすために、戦わないことを選んでくれたのだ。
一族の使命に、反してまで。
そのことに、別れの時が訪れるまで気づくことが無かった。
私という女は……どうして、こうも遅いんだろうな。
遠ざかっていく桜田先輩を見送る時間が、とてもゆっくりに感じた。
しかし、それは退屈な時間だと思っていたからではない。
行ってほしくないという願いが、彼女が去っていく現実を認めたくなかったからだ。
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