未来視マッチ ~設計された悪夢~
七つの時計の針が刻む、不協和音にも似た微かな囁きが、杉本明の空間を支配していた。
カチリ、カチリ、チッ、チッ――。
それぞれが異なるリズムで、彼の設計した「完璧な時間の構造」を奏でている。
築五十年を経た団地の一室。
壁紙は黄ばみ、天井の隅には雨漏りの染みが地図のように広がっているが、杉本の意識はそこにはない。
彼の視線は、壁に貼られた巨大な青焼き図面――。
かつて彼が魂を注ぎ込んだ「21世紀記念タワー」の立面図に注がれていた。
その図面は、わずかに傾いていた。
精密な水準器を当てると、針は正確に左へ3度振れる。
何度測っても結果は同じだ。
設計そのものは完璧だったはずだ。
美は、永遠でなければならなかった。
しかし、この部屋では、彼の最高傑作すら歪んで見える。
「……違う」
乾いた唇から、か細い声が漏れる。
指先が震える。
人差し指と中指の爪の間に深く刻まれた、無数の測量痕。
設計士としての栄光と挫折の印。
彼はその指で、床に落ちた午後の光が描く六角形の模様をなぞった。
その輪郭を執拗に計測し、1.2ミリの非対称性を見つけ出しては、神経質に顔をしかめた。
完璧ではない。
ここも、完璧ではない。
その時だった。
視界の隅で、赤いものが揺らめいた。
――炎。
燃え盛る炎の中に映る、自分の顔。
杉本は息を呑み、幻視に身震いした。
心臓が冷たい手で掴まれたように軋む。
六年前の悪夢。
タワーの一部が崩落したあの日。
計算ミスなどでは断じてない。
あれは、美への冒涜に対する、世界の報復だったのだ。
けたたましい電子音が、彼の思考を断ち切った。
固定電話の呼び出し音。
壁の時計の一つが、12時13分を示している。
ディスプレイに表示された名前は「裕子」。
五年前に別れた元妻だ。
「……もしもし」
掠れた声で応答する。
「明さん? 私だけど」
電話の向こうから聞こえる裕子の声は、かつての快活さを失い、どこか疲れた響きを帯びていた。
彼女は現在、杉本とは対照的に、新しい家庭を築き、安定した生活を送っているはずだった。
だが、その声色には、拭いきれない諦観のようなものが滲んでいた。
「ああ」
「もうすぐ隆太の誕生日でしょう? 何か、欲しいものとか聞いてないかなって」
隆太。十二歳になる息子。
建築に興味を示し始めている、唯一の希望。
しかし、杉本の意識はすでに電話から離れ、壁に走る微細な亀裂へと吸い寄せられていた。
長さ11.2センチ。
壁面に対して正確に23度の角度で、それは存在していた。
彼は受話器を肩と耳の間に挟み、ポケットから折り畳み式の金属製スケールを取り出すと、ひび割れの深さを測り始めた。
0.7ミリ。
数字が脳内で完璧な座標を形成する。
「……聞いていない」
「そう。あの子、最近あなたのことばかり話すのよ。昔の設計図とか引っ張り出してきて……少し心配で」
「心配?」
杉本は眉をひそめる。
ひび割れの計測に集中していた彼の思考が、わずかに乱される。
「何がだ」
「ううん、なんでもない。プレゼント、何か考えておくわ。じゃあ、また連絡する」
一方的に切れた通話。
ツー、ツー、という無機質な音が、七つの時計の囁きに重なる。
杉本はスケールを仕舞い、無意識に洗面所の鏡へと歩を進めた。
蛍光灯の下に晒された自分の顔。
四十を過ぎた男の、疲れ切った表情。
彼は震える指先で、自分の顔の左右非対称性を測り始めた。
眉の高さ、0.8ミリの差。
頬骨の幅、1.2ミリのずれ。
許容できない欠陥だ。
「……ずいぶん、老けたな」
呟いた瞬間、鏡の中の顔がぐにゃりと歪んだ。
深い皺が刻まれ、目は落ち窪み、皮膚はたるんだ老人の顔。
杉本は息を呑んで後ずさる。
『お前は、誰だ?』
耳元で、乾いた囁き声が響いた。
部屋には誰もいない。
幻聴か?
いや、違う。
この声は知っている。
彼は慌てて壁に目をやる。
七つの時計が示す時刻。
12時13分、12時15分、12時17分、12時20分、12時24分、12時28分、12時30分。
最も早い時計と遅い時計の差は、正確に17分。
彼の制御下にある、唯一の完璧な構造。
時間の美。
彼はそのずれが生み出す調和に、束の間の安堵を見出した。
隆太へのプレゼント。
何か、形に残るものを。
杉本は重い腰を上げ、埃をかぶったコートを羽織った。
かつて足繁く通った、下町の商店街へ向かうことにした。
完璧な贈り物を見つけるためには、完璧な手順が必要だ。
◇
冷たい雨がアスファルトを濡らし、再開発によって無機質なビルが立ち並ぶ風景を鈍色に染めていた。
かつての面影はほとんどない。
古い木造家屋が取り壊され、真新しいチェーン店が幅を利かせている。
杉本はこの変わり果てた風景に、自分が場違いな異物であるかのような感覚を覚えていた。
世界から、3度傾いて取り残されているような。
アーケード街の入り口近く、奇跡的に昔のままの姿で残っている老舗の和菓子屋「亀屋」に、彼は吸い寄せられるように立ち寄った。
「おや、杉本さん。お久しぶりですな」
白髪頭の店主が、ガラスケースの向こうから顔を出した。
皺の深い、人の良さそうな顔。
この男は、杉本がまだ裕子と結婚していた頃からの顔なじみだった。
建築家としての杉本の成功も、そしてその後の転落も、おそらくは知っているだろう。
「ご無沙汰しています」
杉本は短く応える。
「いやはや、この辺りもすっかり変わっちまって。寂しいもんですな」
店主はため息をつきながら、外の景色に目をやった。
「昔ながらの店は、もううちくらいのもんですよ」
「……そうですね」
店主と当たり障りのない会話を交わしながら、杉本の視線は商店街の奥へと向けられていた。
雨に煙る通りの向こう、古い建物が密集する一角に、何か異質な光が見えた気がした。
「あの店は?」
杉本は無意識に指を差していた。
他の建物の煤けた壁とは対照的に、そこだけが不自然なほど明るい灯りを放っている。
木造二階建ての、古風な佇まいの店。
看板には、掠れて読みにくいが「火影堂」と書かれているように見えた。
店主は怪訝な顔で杉本の指差す方向を見る。
「何のことですかい? あそこには、もう何十年も何もありませんよ」
「いや、あそこに……」
「ああ、火影堂のことかね? あれはもう、三十年以上前に焼けてしもうたんですよ。ほら、あの、御巣鷹山に飛行機が落ちた、あの日と同じ日にね。大きな火事で、この辺りも危うかった。忘れようにも忘れられませんよ」
店主の言葉が、冷たい楔のように杉本の胸に打ち込まれた。
三十年前に焼失した?
では、今見えているあの光は、あの建物は何なのだ?
その瞬間、杉本の視界がぐらりと揺れた。
足元のタイル張りの路面が、まるで粘土のように波打ち、23度の角度で傾いて見える。
胃の腑が引きつるような、強烈な違和感。
吐き気がこみ上げる。
しかし、彼の両足は、まるで磁石に引き寄せられる鉄のように、意志とは無関係に動き出していた。
雨の中を、あの異様な光を放つ店へと。
◇
「火影堂」と記された古びた木の看板の下、杉戸を開けると、ちりん、と小さな鈴の音が鳴った。
店内に足を踏み入れた杉本は、息を呑んだ。
外観からは想像もつかない空間が広がっていた。
奥行きが異常にある。
店の奥、背面からの光源によって、壁がどこまでも続いているように見えるのだ。
そして、壁と壁が交わる角度がおかしい。
直角ではない。
鋭角でも鈍角でもない。
建築物理学的に、ありえない角度で空間が捻じれている。
彼の建築家としての全感覚が、「これは存在し得ない」と悲鳴を上げていた。
壁一面には、古今東西のありとあらゆる「火を灯す道具」が、博物館のように整然と、しかしどこか偏執的に陳列されていた。
火打ち石、ギリシア火薬の壺、原始的な摩擦発火器、オイルランプ、燭台。
そして無数のマッチ箱。
空気中には、硫黄と、焦げた木材の匂いが濃密に漂っていた。
その匂いが、彼の脳の奥深くに眠っていた記憶の扉をこじ開ける。
五歳の頃、自宅で起きた小さな火事。
台所の天ぷら油に火が移り、あっという間に天井まで炎が舐め上がった光景。
母の悲鳴。
焦げ付く匂い。
断片的な記憶が、不快な熱を伴って蘇る。
「……いらっしゃいませ」
店の奥の暗がりから、静かな声がした。
ゆっくりと姿を現したのは、一人の老人だった。
七十代くらいだろうか。
痩身で背筋が伸び、古風な作務衣のようなものを身に着けている。
白髪は綺麗に撫でつけられ、顔には深い皺が刻まれているが、その瞳は年齢に似合わず鋭く、すべてを見透かすような光を宿していた。
――この老人は、杉本明の前に立つために、この瞬間に存在している。
杉本は直感的にそう感じた。
老人は、まるで杉本の来訪を予期していたかのように、穏やかな表情で彼を見つめていた。
「建築家の方がお見えになるのは、珍しい」
老人は、細く長い指で、杉本の存在そのものを指し示すように言った。
その姿に、杉本は強烈な既視感を覚えた。
老人の左手首には、古びた革バンドの腕時計。
文字盤が、彼のアパートの窓と同じように、わずかに――正確に3度――傾いて取り付けられている。
そして、その指先。
杉本自身の指と同じように、細かな測量の痕が無数に刻まれている。
さらに、杉本の背筋を凍らせたのは、老人が無意識に行う癖だった。
彼は店内の品々に視線を送りながら、目でその寸法を測り、唇を微かに動かして数値を囁いていたのだ。
それは、杉本自身の、誰にも指摘されたことのない、病的な癖そのものだった。
「あなたに、お見せしたいものがありましてな」
老人はそう言うと、カウンターの下から、黒檀の艶やかな光沢を放つ精巧な木彫りの箱を取り出した。
手のひらに収まるほどの大きさだが、異様な存在感を放っている。
箱の表面には、複雑な幾何学模様がびっしりと刻み込まれていた。
杉本が思わず目を凝らすと、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
それは、彼が設計した「21世紀記念タワー」の基礎構造――。
彼自身しか知り得ないはずの、最も複雑で、最も美しさにこだわった部分が、視覚的に不可能な角度から投影された図案だった。
さらに恐ろしいことに、その模様の中には、彼が幼い頃、息子・隆太と二人だけで作り、誰にも見せたことのない秘密基地の設計図までが、完璧に組み込まれていたのだ。
老人はゆっくりと箱の蓋を開けた。
絹のような赤い布が敷かれた中に、軸の部分まで深紅に染まった奇妙なマッチが、隙間なく整然と並べられていた。
まるで、これから執り行われる儀式を待つ生贄のように。
「未来を照らすマッチです。一日、一本まで。その約束をお守りになる限り、未来の光は、あなたを導くでしょう」
老人は箱から一本のマッチを取り、その赤い軸を杉本の目の前に差し出した。
硫黄の匂いが、一層強く鼻孔を突く。
「ただし」
老人の瞳が、鋭く光る。
「見るだけに、留めなさい。決して、未来を『設計』しようなどとお考えにならぬことです。そうなされば……」
老人の言葉は、店内に漂う焦げた匂いの中に溶けて消えた。
杉本の耳には、ただ一つの声だけが、繰り返し響いていた。
六年前、調査委員会の席で、彼自身が言い放った言葉。
『設計ミスではない。美しさは、完璧だったのだ』
赤いマッチの先端が、まるで生き物のように、微かに揺らめいているように見えた。
商店街からアパートへ戻る道すがら、降り続く雨は杉本のコートを重く湿らせていた。
濡れたアスファルトが街灯の光を鈍く反射し、彼の目にはそれが現実とは異なる、3度の傾斜を持って見えた。
建物の影は不自然なほど鋭角的に伸び、まるで空間そのものが彼の歪んだ知覚に阿るように形を変えているかのようだ。
再開発を告知するけばけばしい看板だけが妙に鮮明で、他の風景は輪郭が滲み、揺らいで見える。
世界が、彼の内面の崩壊と共鳴している。
◇
自室に戻った杉本は、コートを脱ぎ捨てるのももどかしく、ポケットからあの黒檀の箱を取り出した。
指先の震えを抑えながら、赤い軸のマッチを一本つまみ出す。
老人の「一日一本まで」という言葉が脳裏をよぎったが、今はそれどころではなかった。
確かめなければならない。
あの店で感じた異常な感覚。
老人の不気味な符合。
そしてこのマッチが持つという「未来を照らす力」を。
彼は部屋の中央に立ち、七つの時計がそれぞれ示す時刻を確認した。
18時05分、18時07分、18時09分、18時12分、18時16分、18時20分、18時22分。
それぞれの針が刻む音の隙間、その完璧な不協和音の中心に、彼はマッチ箱の側面を置いた。
息を止め、赤い頭薬を擦る。
シュッ、という乾いた音と共に、炎が灯った。
それは尋常な炎ではなかった。
まるで生き物のように、異常なほど高く、歪な形に伸び上がる。
部屋の空気が一瞬で熱せられ、彼の顔を焦がすような熱波が襲う。
硫黄と、焦げた木材の匂い。
そして、あの火影堂で感じたのと同じ、微かに甘く、記憶を掻き立てるような香りが鼻孔を突き抜けた。
炎の揺らめきの中に、映像が浮かび上がった。
そこは見慣れない、明るいカフェの店内だった。
窓際の席に、息子・隆太が座っている。
その隣には、見知らぬ男が腰掛け、親しげに隆太の肩に手を置き、笑顔で何かを話しかけていた。
男の姿勢は、わずかに左に傾いている。
杉本の計測眼は、即座にそれを3度の傾斜と断定した。
完璧ではない。
不快感が込み上げる。
そして、男の左腕。
そこには、かつて杉本が裕子に贈った、シンプルなデザインの腕時計が巻かれていた。
隆太は、目の前に置かれた白い皿の上のケーキを前に、屈託のない笑顔を見せている。
イチゴが乗った、ショートケーキだ。
杉本が食い入るように見つめていると、不意に、炎の中の隆太の視線がふっと上がった。
黒目がちな瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えている。
まるで、時空を超え、炎の向こう側にいる父親の存在に気づいたかのように。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
その瞬間、炎が彼の指先まで迫り、灼熱が皮膚を焼いた。
「あっ!」
思わず息を吹きかけると、炎はあっけなく消え、後には焦げた匂いと、指先に走る鋭い痛みだけが残った。
小さな火傷が、水ぶくれになりかけている。
そして、耳の奥で、声がした。
『お父さん……どうして嘘を……』
それは紛れもなく、隆太の声だった。
しかし、その声色には、非難と、深い悲しみが滲んでいた。
◇
翌日の昼下がり、杉本の携帯電話が鳴った。
ディスプレイには再び「裕子」の文字。
「もしもし、明さん?」
昨日よりも幾分か明るい声だった。
「急で悪いんだけど、今日、少し時間あるかしら?」
「……何だ」
「うん、あのね、隆太に紹介したい人がいて。正樹さんっていうんだけど……」
正樹。その名前に、杉本の心臓が嫌な音を立てた。まさか。
「……今からか?」
「ええ、駅前のカフェにいるの。隆太も一緒よ。すぐだから、お願いできない?」
断る理由はなかった。
いや、断れなかった。
確かめなければならないという強迫観念が、彼の足を動かしていた。
◇
指定されたカフェは、昨日マッチの炎の中で見た店と酷似していた。
窓際の席に、裕子と隆太、そして一人の男が座っている。
杉本は息を呑んだ。
あの男だ。
炎の中で見た、隆太の肩に手を置いていた男。
「明さん、こっちよ」
裕子が気づいて手を振る。
杉本はぎこちない足取りでテーブルに近づいた。
「紹介するわ。彼、佐伯正樹さん。私の……再婚相手になる人よ」
裕子は少し照れたように言った。
佐伯正樹と名乗った男は、柔和な笑顔で立ち上がり、杉本に手を差し出した。
四十代半ばだろうか。
中肉中背で、清潔感のある服装をしている。
人当たりが良く、誠実そうな印象を与える男だった。
しかし、杉本の目には、彼の存在そのものが異物として映っていた。
「初めまして、佐伯です。杉本さんのことは、裕子さんや隆太くんから伺っています」
「……どうも」
杉本は短く応え、差し出された手を無視して席に着いた。
隆太は少し緊張した面持ちで父親を見上げていたが、正樹が優しく話しかけると、すぐに表情が和らいだ。
二人の間には、杉本が入り込む隙のない、穏やかで親密な空気が流れている。
杉本の胸に、黒い嫉妬と焦燥感が渦巻く。
だが、彼の視線は、テーブルの上に置かれたケーキの皿に釘付けになっていた。
隆太の前に置かれているのは、チョコレートケーキだった。
炎の中で見た、イチゴのショートケーキではない。
――ズレている。
さらに、正樹の姿勢。
彼は話しながら、時折身振りを交えるが、その体はわずかに右に傾いていた。
杉本の計測眼は、それを正確に2度の傾斜と捉えた。
炎の中で見た「左に3度」ではない。
――ここも、ズレている。
この「設計ズレ」の発見は、杉本に奇妙な安堵と、同時に説明のつかない眩暈をもたらした。
未来は、完全には固定されていない?
それとも、マッチが見せる映像そのものが不確かなのか?
「あら、隆太、チョコレートケーキにしたのね」
裕子が息子の皿を見て言った。
「昨日はショートケーキがいいって言ってたのに」
「うん。だって、雨が降ってるから」
隆太はこともなげに答えた。
「雨?」
「うん。雨の日は、なんとなくチョコの気分なんだ」
裕子はくすくすと笑い、杉本に向き直った。
「ごめんなさいね、急に呼び出して。でも、ちゃんと明さんにも紹介しておきたかったの」
その後、他愛のない話をした気がするが、杉本は「設計ズレ」が気になって話の内容をほとんど覚えていなかった。
カフェを出る時だった。
隆太が、意外な言葉を口にした。
「お父さん、この後、僕の部屋に来ない?」
「え?」
「作ったもの、見てほしいんだ」
◇
杉本は二人が住んでいるマンションに立ち寄った。
隆太に案内されて部屋のドアの前に立つ。
そして、ドアを開けた瞬間、杉本は全身の血が凍りつくのを感じた。
壁一面。
そこには、彼が目を背け続けてきた過去が、執拗なまでの密度で展示されていた。
「21世紀記念タワー」の巨大な設計図のコピー。
タワー崩壊を報じる新聞記事の切り抜き。
構造解析のグラフや数式。
そして、部屋の中央には、信じられないほど精巧に作られた、タワーの巨大な模型が鎮座していた。
それは、杉本の記憶にあるタワーと、微妙に異なっていた。
一部分の構造が、彼のオリジナルデザインとは違う形で組み上げられている。
そして、その変更箇所を見た瞬間、杉本の全身に電流が走った。
一目でわかった。
その修正は、構造力学的に、より安定した形を示している。
しかし、それは同時に、彼が最もこだわった「美しさ」を、わずかに損なうものだった。
「お父さんの塔、直してみたんだ」
隆太は、誇らしげな、そして少しはにかんだような表情で言った。
「この部分……この梁の角度の計算が、ほんの少し、1.2度だけずれてたんだよね? それが、あの事故の原因だったんじゃないかなって」
――1.2度。
その数字を聞いた瞬間、杉本の頭の中で何かが砕け散る音がした。
それは、彼が六年間、頑なに否定し続けてきた数字。
心の奥底で、最も恐れていた真実。
彼の完璧な美学、天才建築家としての矜持、その根幹を揺るがす、致命的な欠陥。
美しさを優先するあまり、彼自身が生み出してしまった、構造的な弱点。
「僕もね、将来、建築家になりたいんだ。でも、お父さんとは違うやり方で。完璧に美しくなくてもいい。頑丈で、安全で、そこに住む人が本当に幸せになれるような建物を、僕は作りたい」
息子の無邪気な言葉が、鋭利な刃物のように杉本の胸を抉る。
模型の傍らに、無造作に置かれたファイルが見えた。
表紙には「21世紀記念タワー 構造計算書」と記されている。
彼が事故調査委員会で「ありえない」と一蹴した、構造計算担当者が提出した報告書。
そのページが開かれ、赤ペンで、まさに隆太が指摘した箇所に、正確な計算ミスの指摘が書き込まれていた。
杉本の視界がぐにゃりと歪む。
床が、まるで荒れた海面のように波打つ感覚。
鼓膜の内側で、七つの時計が狂ったように異なるリズムを刻み始める。
耳鳴りが酷い。
「なぜ……どうして……」
杉本はかろうじて声を絞り出した。
「誰が、これを教えたんだ……?」
「え? 自分で調べたんだよ」
隆太はきょとんとして答えた。
「図書館とか、インターネットとかで。お父さんの仕事、僕、全部集めてるんだ」
「全部……?」
「うん。だって、僕の夢なんだ」
隆太は真剣な眼差しで父親を見つめ、衝撃的な言葉を続けた。
「僕、お父さんの設計ミスを、全部見つけたいんだ」
その言葉は、宣告のように響いた。
杉本は震える手で、ポケットの中のマッチの箱を強く握りしめた。
指先に残る火傷の痕が、じくりと痛む。
――私が見ているのは、本当の未来なのか?
それとも、私自身の否認が、歪んだ現実を作り出しているだけなのか……?
マッチとの出会いから一週間が過ぎた。
杉本の生活は、あの赤い軸の虜となっていた。
当初は自制していた「一日一本」のルールは、もはや形骸化していた。
朝、目を覚ますとまず一本。
それはその日の「業務」――部屋の計測と記録――の指針を得るため。
そして夜、寝る前にもう一本。
息子、隆太の行動と思考を覗き見るため。
マッチを使わない時間は、彼にとって「見えない未来」という名の耐え難い暗闇であり、息苦しいほどの強迫的な不安に苛まれた。
彼の計測癖は、新たな段階へと移行していた。
部屋の角度やひび割れの長さへの執着は薄れ、代わりに、マッチが見せる未来と、実際に起こる現実との間に生じる「ズレ」を記録するという、新たな強迫観念に囚われていたのだ。
アパートの壁には、いつの間にか新しいチャートが出現していた。
彼自身が「未来予測ズレ記録表」と名付けたその紙には、几帳面な文字で、あらゆる誤差が執拗に書き連ねられていた。
『チョコレートケーキのズレ:種類不一致(ショート→チョコ)。原因:天候(雨天)による隆太の気分変化か?』
『正樹の姿勢角度:5度のズレ(左3度→右2度)。原因:不明。観察者の主観混入の可能性?』
『カフェの壁紙:色彩強度13%のズレ。原因:照明条件の変化、または記憶の減衰?』
「ズレは最大でも4.8%……誤差の範囲内だ。私の制御は、まだ及んでいる」
杉本は壁のチャートを睨みつけながら、乾いた唇で呟いた。
「完璧な未来を見るためには、完璧なマッチの使い方があるはずだ。角度、位置、そして……時間」
◇
その夜、彼は「ズレ」を最小化し、未来を完全に制御するための実験に取り掛かった。
三本目のマッチ。
ルールを破ることへの罪悪感は、もはや麻痺していた。
彼は部屋の中央に立ち、七つの時計に目をやった。
それぞれの針が、彼の設計した完璧な不協和音を刻んでいる。
彼は、その七つの時計が、一瞬だけ、すべて同じ時刻を指し示す奇跡の瞬間を待った。
12時17分00秒。
その瞬間を捉え、彼はマッチ箱の側面で赤い頭薬を擦った。
擦る角度は正確に45度。
箱の位置は床から1.2メートル。
完璧な条件下で点火されたはずの炎は、しかし、彼の予測を裏切り、天井に届くほど巨大な火柱となって燃え上がった。
部屋全体が灼熱のオーブンと化す。
熱波が彼の眉毛を焦がし、露出した腕の皮膚に無数の水疱を形成する。
息ができない。
炎の中に浮かび上がる映像は、もはや連続したストーリーではなかった。
断片的で、ノイズが走り、時間軸が捻じ曲がったように過去と未来のイメージが激しく明滅し、重なり合う。
耳には、複数の声が洪水のように押し寄せた。
『構造計算が、1.2度ずれています』 (若い部下の、怯えたような声)
『この設計では、タワーの美しさが損なわれてしまう!』 (六年前の、彼自身の苛立った声)
『杉本さん、申し訳ありませんが、安全性を最優先にすべきでは……』 (当時の部下の、困惑した声)
『私の完璧な美を、お前たちが壊すつもりか!』 (怒りに震える、六年前の自分の声)
『お父さん、どうして嘘を……』 (隆太の、悲しみに満ちた声)
映像が切り替わる。
そこは杉本の知らない空間――いや、よく見れば、彼のアパートの台所だった。
だが、様子がおかしい。
壁には「21世紀記念タワー」の修正図面が無数に貼られている。
床には設計図らしき紙片が破り捨てられ、散乱している。
そして、その中央に、彼自身が立っている。
手には、見たこともない設計図の束。
その表情は、狂気に満ちている。
映像が激しく乱れ、一瞬、隆太の部屋が映る。
隅に置かれたランドセル。
その横に、何か、赤い染みが広がっているように見えた。
血? いや、絵の具か? 判別できない。
さらに映像が切り替わり、壁に掛けられた一枚の設計図が大写しになる。
それは――彼が六年前、プライドのために「見る価値もない」と否定し、破り捨てたはずの、若手部下が提案した「21世紀記念タワー」の修正案だった。
そこには、彼の美学を根本的に損なうことなく、構造的な欠陥を修正する、驚くほど巧妙な解決策が示されていた。
彼が見ることを拒んだ、もう一つの可能性。
「うわあああああっ!」
恐怖と混乱で叫びながら、杉本は燃え盛るマッチを手から落とした。
赤い軸は床のカーペットに落ち、小さな炎を上げて燃え広がろうとする。
彼は半狂乱でそれを踏み消した。
焦げ臭い匂いが鼻をつく。
指の火傷は、以前よりも深く、抉るように痛んだ。
そして、カーペットには、決して消すことのできない、歪んだ人型の焦げ跡が残った。
それはまるで、あの火影堂の老人――傾いた時計をつけた、あの老人の影のようだった。
◇
その日を境に、杉本はマッチの力に抗おうと試みた。
あの恐ろしい映像、そしてカーペットに残った不気味な焦げ跡が、彼に警告を発しているように思えたからだ。
彼は震える手で、六年間封印してきた「21世紀記念タワー」のオリジナルの設計図面一式を引っ張り出した。
ホコリを払い、一枚一枚、神経質なまでに細かく、構造計算を再検証し始めた。
そして、彼は発見してしまった。
隆太の指摘は、正しかったのだ。
1.2度のずれ。
彼の美学的完璧主義が生み出した、微細でありながら致命的な計算ミス。
それは、タワーの特定の条件下での強度を、許容範囲ぎりぎりまで低下させていた。
事故は、起こるべくして起きたのだ。
さらに恐ろしい事実に、彼は気づいてしまった。
タワー崩壊の後、フリーランスとして細々と請け負ってきた他の小さな設計案件。
それらの図面を改めて確認すると、そこにもまた、無意識のうちに、あの忌まわしい1.2度の「美的傾斜」が、まるで署名のように組み込まれていたのだ。
「これは……私が……私が、やったのか……?」
全身から力が抜け、杉本は床に崩れ落ちた。
激しい頭痛がこめかみを締め付ける。
意識が遠のき、暗転する。
どれくらいの時間が経ったのか。
彼が再び目を開けた時、部屋の様子は一変していた。
壁一面に、見覚えのない走り書きが、まるで狂人の日記のようにびっしりと書き殴られていたのだ。
『構造は嘘をつかない。設計者は嘘をつく』
『美は真実か? 否、美は逃避だ』
『1.2度の誘惑。悪魔の角度』
それは紛れもなく、彼自身の筆跡だった。
そして、その言葉の下には、彼が今まで頑なに否定し続けてきた設計ミスの詳細な図解が、まるで自白するように、彼自身の手によって克明に描かれていた。
無意識のうちに、彼の中に抑圧されていた真実が、狂気という形で噴出したのだ。
「違う……こんなものは……」
恐怖に駆られた杉本は、よろめきながらアパートを飛び出し、火影堂へと向かった。
あの老人に会って、この悪夢を終わらせてもらわなければ。
◇
商店街に着くと、人々は彼の問いかけに怪訝な顔をするだけだった。
「火影堂? さあ、そんな店、聞いたこともないねえ」
「あんた、大丈夫かい? 顔色が真っ青だよ」
存在しない店。
狂っていく自分。
◇
七つの時計が刻むバラバラのリズムが、頭蓋骨の内側で増幅し、彼を苛む。
夜も眠れず、食事も喉を通らない。
鏡を見れば、そこに映る自分の顔が、一瞬、あの火影堂の老人の顔に変わる幻覚に、彼は日々苛まれていた。
そんな憔悴しきった彼のもとに、電話が同時にかかってきた。
隆太からだった。
弾んだ、興奮した声。
「お父さん! 僕の新しい模型、見てほしいんだ! 今度こそ、お父さんの21世紀記念タワーを、本当に完璧に直したよ!」
そして、その後すぐに、また電話がかかってくる。
裕子からだった。
切羽詰まった、不安げな声。
「明さん……隆太が、最近本当におかしいの。あなたの設計のことばかり話して、部屋に籠りっきりで……正樹さんも、すごく心配してるわ。あの子、なんだか、あなたにそっくりになってきたみたいで……」
二つの電話の内容が、杉本の脳内で恐ろしい像を結んだ。
――私の欠陥が、隆太にまで伝染したというのか? 隆太もまた、私と同じ「完璧な美」という名の、破滅の罠に落ちようとしているのか?
限界だった。
思考は完全に麻痺し、残されたのは、息子を救わなければならないという、父親としての本能的な衝動だけだった。
彼は震える手で、黒檀の箱から四本目のマッチを取り出した。
「息子を……隆太を救うための……最後の手段だ」
彼は壁に掛かった七つの時計を、狂ったように手当たり次第に狂わせ始めた。
針を折り、ガラスを割り、歯車を逆回転させる。
完璧な時間の構造は破壊され、部屋は耳障りな不協和音と、部品の砕ける音で満たされた。
その混沌の中心で、彼は四本目のマッチを擦った。
炎は、もはや炎ではなかった。
部屋全体を満たすほどの、巨大な光の奔流。
杉本の皮膚感覚が、燃え上がるような激痛に包まれる。
視界も聴覚も失われ、ただ、炎の中に映し出される映像だけが、彼の意識を捉えていた。
そこは、隆太の部屋だった。
隆太は一心不乱に、「21世紀記念タワー」の改良模型に取り組んでいる。
その手つきは、かつての杉本自身のように、正確で、迷いがなかった。
隆太は確かに、父親が犯した1.2度の設計ミスを修正していた。
しかし――その修正方法は、杉本の血を凍らせるものだった。
隆太は構造的な安定性を確保する代わりに、新たな「美的完璧さ」を追求していたのだ。
よりシャープな稜線、より軽やかな曲線、より劇的な光の反射。
その結果、模型は別の箇所に、新たな構造的不安定さを抱え込んでいた。
それは、素人目にはわからない、しかしプロの目から見れば致命的な欠陥。
まるで、父親の歪んだ遺伝子を、そのまま受け継いでしまったかのように。
映像はさらに展開し、未来の隆太の姿を映し出す。
隆太は建築家として成功を収めているようだった。
しかし、その目は虚ろで、顔には父と同じ深い苦悩の皺が刻まれている。
隆太の心は、徐々に、杉本自身と同じ「美の強迫観念」に蝕まれ、設計する建物は次々と問題を起こし、最終的には――隆太自身もまた、父親と同じ悲劇的な運命を繰り返す姿が、そこにはっきりと映し出されていた。
「ああ……ああああ……」
隆太衝撃と恐怖に打ちのめされながらも、杉本の脳は、かつてないほどの明晰さで、真実を理解していた。
マッチの炎が見せるのは、単なる未来の可能性などではなかった。
それは、彼自身の否認、彼の歪んだ美意識、彼が目を背け続けてきた責任――それらが凝縮し、具現化した「影」だったのだ。
その影は、火影堂の老人という形をとり、彼の前に現れ、そして今、彼の最も大切な存在である隆太にまで侵食し、同じ破滅へと引きずり込もうとしている。
「止めなければ……私が……この連鎖を、私が断ち切らなければ……!」
炎が消え、部屋には焦げ臭い匂いと、破壊された時計の残骸だけが残った。
杉本の全身は火傷の痛みと、未来の映像がもたらした戦慄で震えていた。
しかし、彼の心は奇妙なほど澄み切っていた。
狂気と混乱の嵐が過ぎ去り、そこには揺るぎない一つの決意だけが残されていた。
「逃げるのは……もう終わりだ」
彼は瓦礫の中から立ち上がり、震える手でポケットを探った。
あの黒檀の箱。
中には、赤い軸のマッチが、ただ一本だけ残っていた。
最後の希望、あるいは最後の呪い。彼はそれを慎重に取り出し、コートの内ポケットにしまい込んだ。
そして、机の引き出しからメモ帳とペンを取り出すと、震える文字で書き記した。
『私は杉本明。21世紀記念タワー崩壊事故の設計ミス責任者である』
短い、しかし彼が六年間、口にすることも、考えることすら拒み続けてきた言葉。
それを胸ポケットにしまい、彼はアパートのドアを開けた。
隆太の元へ向かう。
自分の犯した過ちを認め、そして何よりも、息子を歪んだ美の呪縛から救い出すために。
◇
裕子が住むマンションの一室。
杉本は密かに作っておいた合鍵を使って部屋に入った。
隆太の部屋のドアの前に立った杉本は、深呼吸を一つした。
ドアノブに手をかける。
ひんやりとした金属の感触が、彼の決意を鈍らせようとする。
しかし、彼は迷いを振り払い、ゆっくりとドアを開けた。
その瞬間、杉本は息を呑み、その場に凍りついた。
部屋の中は、悪夢の再現だった。
彼自身の、あの狂気に満ちたアパートの一室と、あまりにも酷似していたのだ。
壁一面に貼られた「21世紀記念タワー」の設計図、修正案、新聞記事。
それらはすべて、彼の部屋と同じように、中心から放射状に、そして正確に3度ずつ傾けて配置されている。
天井からは、まるで不気味なモビールのように、小さな時計が七つ吊るされ、それぞれが同期することなく、バラバラの時を刻んでいた。
部屋の中央には、あの巨大なタワーの模型。
「隆太……」
声が掠れる。
部屋の奥、模型の前に座り込んでいた隆太が、弾かれたように顔を上げた。
その目は異様なほど輝き、頬は興奮で紅潮している。
「お父さん! 来てくれたんだね! 見てよ、これ!」
隆太は満面の笑みで、中央の模型を指さした。
その姿は、数日前にカフェで見た無邪気な少年とはまるで別人だった。
何かに取り憑かれたような、危うい熱気が彼を包んでいる。
「完璧に直したんだ。お父さんの設計を超えた、完璧なタワーだよ!」
杉本は、鉛のように重い足を引きずりながら模型に近づいた。
震える指先で、その構造を検分する。
隆太は確かに、父が犯した1.2度の設計ミスを修正していた。
しかし、その方法は――杉本の全身から血の気が引いていく。
構造的な安全性を確保するためではなく、彼自身の歪んだ美学を、さらに純化させ、推し進めるような形での修正だった。
より鋭く、より繊細に、より危うく。
それは、美しさの頂点であると同時に、崩壊への最短距離を示す形だった。
「どうして……どうして、こんな角度にしたんだ?」
杉本は恐る恐る尋ねた。
声が震えているのが自分でもわかった。
「だって、この角度が一番きれいだから!」
隆太は、まるで神の啓示を受けたかのように、恍惚とした表情で答えた。
「3度の傾斜。これが、光の反射を一番きれいに見せるんだ。お父さんの設計と同じように、いや、それ以上に!」
その言葉が、最後の楔となった。
杉本の心臓が、氷のように冷たくなる。
隆太は、無意識のうちに、彼の歪んだ美学、完璧主義という名の「業」を、完全に継承してしまっていたのだ。
それは、もはや単なる影響ではない。
呪いの継承だ。
「隆太……聞いてくれ。私は……私は、間違っていたんだ」
「え? 何が?」
隆太は不思議そうに首を傾げる。
その無垢な表情が、杉本の胸を締め付ける。
「この設計は……私の設計は……美しい。だが、危険すぎたんだ。美しさのために、大切なものを見失っていた」
部屋の空気が、びりびりと震えるような感覚。
壁に掛けられた七つの時計が、一斉にカチリ、と音を立てて針を止めた。
永遠にも思える静寂が、部屋を支配する。
「……何を言ってるの? お父さんの設計は完璧だったじゃないか。ただ、ほんの少し、1.2度のズレがあっただけだよ」
隆太の声に、戸惑いと、かすかな怒りの色が混じる。
「そのズレこそが、私のミスだったんだ」
杉本は息を吸い込み、腹の底から声を絞り出した。
「私は、それを認めなかった。プライドのために。独りよがりの美のために。安全を……人の命を、犠牲にしたんだ」
隆太は混乱した表情で、父親を見つめている。
「でも……それじゃあ、お父さんが今まで言ってたことは……全部……」
「嘘だった」
杉本は、はっきりと告げた。
涙が頬を伝うのがわかった。
「私は、完璧な建築家を装うために、真実から、責任から、ずっと逃げ続けてきたんだ」
告白の言葉が、部屋の歪んだ空気に響き渡った瞬間。
部屋全体が、ぐらりと揺らぐような錯覚が起きた。
隅に置かれた姿見の鏡面が、水面のように波打つ。
そして、その中に――あの老人の姿が、ぼんやりと映り込んだ。
杉本がはっとして振り返ると、部屋の扉口に、影のように、あの火影堂の堂主が立っていた。
いつからそこにいたのか。
気配は全くなかった。
老人は、静かな、しかし有無を言わせぬ威厳を漂わせ、杉本を見つめていた。
「時は、来たようじゃな」
老人は静かに言った。
その声は、古い井戸の底から響いてくるように、冷たく、深かった。
「未来を、正しく設計できなかった建築家よ。これが、君自身が作り出した、運命の構造じゃ」
老人の顔が、陽炎のように揺らぎ、一瞬、杉本自身の老いた姿と重なって見えた。
深い皺、虚ろな目、絶望の色。
しかし、不思議なことに、今の杉本には、もはや恐怖はなかった。
「私は……あなた、なのか?」
「いかにも」
老人は微かに頷いた。
「わしは、『責任から逃げ続けた未来のお前』じゃ。このマッチも、かつてわし自身が手にし、絶望の中で過去の自分に渡したもの。永遠に繰り返される、美という名の嘘に囚われた、哀れな魂の循環よ」
老人の言葉は、すとんと杉本の腑に落ちた。
この悪夢の構造が、ようやく理解できた。
「どうすれば……この循環は、終わる?」
「お前自身が、もう知っておるはずじゃ」
老人の目が、鋭く杉本を射抜いた。
「己の罪を認め、その歪んだ美を受け入れ、そして……息子を、その呪縛から解放すれば」
杉本は、ゆっくりと隆太に向き直った。
彼の心の中からは、かつてあれほど執着した美への渇望も、失敗への恐怖も、綺麗に消え去っていた。
ただ、深い後悔と、息子への痛切な愛情だけが、そこにはあった。
「隆太。私の美学は、歪んでいた。間違っていたんだ。この世に、完璧な美など存在しないのかもしれない。ただ……ただ、そこに住む人間の幸せを守る、安全な構造があるだけだ。私は、その単純な真実を認められずに、お前のお母さんも、そして自分自身をも失ってしまった」
杉本の魂からの告白に呼応するように、壁の七つの時計が、一つ、また一つと、音を立てて床に落下し、砕け散っていった。
部屋を満たしていた不協和音が消え、奇妙な静寂が訪れる。
隆太は言葉を失い、ただ父親の顔を見つめている。
扉口に立っていた老人の姿が、徐々に薄れ、透き通っていくのが見えた。
「お父さん……」
隆太の目に、大きな涙の粒が浮かんだ。
「僕……僕はずっと……」
「お前は、私の道を辿る必要はない」
杉本は、震える手で息子の肩に触れた。
「お前は、お前の道を歩めばいい。お前自身の、本当の美を、見つければいいんだ」
杉本はポケットから、黒檀の箱を取り出した。
そして、それを隆太の小さな手に、そっと握らせた。
「これは、見るだけにしろ。未来を、自分で設計しようなどと考えるな。ただ、そこに示される可能性を見て、最後は、お前自身の意志で選べばいい」
隆太がマッチの入った黒檀の箱を受け取った、その瞬間だった。
部屋の中心にあった「21世紀記念タワー」の巨大な模型が、まるで生命を失ったかのように、ガラガラと音を立てて崩れ始めた。
同時に、部屋全体が激しく揺れる。
小さな、しかし確かな地震が発生したのだ。
天井からパラパラと壁材が落ち、壁に亀裂が走る。
「危ない!」
杉本は隆太を抱きかかえ、部屋から脱出しようとした。
しかし、その時、壁際にあった大きな本棚が、ぐらりと傾き、彼に向かって倒れてきた。
「行けっ!」
杉本は最後の力を振り絞り、隆太をドアの外へと突き飛ばした。
次の瞬間、本棚が彼の背中を強打し、轟音と共に天井の一部が崩落してきた。
視界が暗転する。
彼は、崩れた本棚と瓦礫の下敷きになっていた。
朦朧とする意識の中、杉本はすぐそばに、同じように瓦礫に埋もれた老人の気配を感じた。
老人は、もはや実体ではなく、半透明の影のようになっていたが、穏やかな表情で杉本を見つめていた。
「……私たちの循環は、これで終わる」
杉本は、血の混じった息で囁いた。
唇の端に、かすかな微笑みが浮かんでいた。
二人の間に、どこからともなく、あの赤いマッチが現れ、ひとりでに燃え上がった。
炎は優しく、暖かく、二人を包み込む。意識が薄れゆく中、杉本は炎の向こうに、最後の未来を見た。
建築家として成長した隆太の姿。
彼は、父の過ちから学び、安全で、人間味あふれる建物を設計している。
彼の広々とした設計室の机の上には、時計が一つだけ置かれ、それは正確に時を刻んでいた。
歪みのない、健やかな時間。
「未来は……設計、できない……」
杉本の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「だが……正直に……創ることは……できる……」
それが、彼の最期の言葉となった。
老人の影は、満足げに頷くと、すうっと杉本の体の中に溶け込んでいく。
七つに分断され、歪んでいた彼の時間が、ようやく一つに融合し、静かに停止した。
杉本は、生まれて初めて、歪みのない、完璧な安らぎの中で、目を閉じた。
杉本明の悲劇的な死から、十八年の歳月が流れていた。
杉本隆太は、三十歳になり、自身の建築事務所「明光設計」を都心の一角に構えていた。
ガラス張りのモダンなオフィス。
壁には、彼が設計し、数々の賞を受賞した建物の写真が飾られている。
そして、その中央には、大きなアナログ時計が一つだけ掛けられ、正確に時を刻んでいた。
七つの狂った時計に支配されていた父の部屋とは対照的に、隆太の空間は、静かで整然とした秩序に満ちていた。
彼は、父が最期に残した言葉と、あの日の出来事を決して忘れなかった。
「安全と美の両立」――それを自身の設計哲学の根幹に据え、父の過ちを繰り返さぬよう、常に自らを戒めながら仕事に取り組んできた。
彼のデスクの引き出しの奥深くには、あの日、父から託された古い黒檀の箱が、今も大切に保管されている。
中には、軸まで深紅に染まった、あの奇妙なマッチが一本。
十八年間、彼は一度もそのマッチを使ったことはなかった。
今日、隆太は人生における一つの大きな節目を迎えていた。
彼が数年がかりで取り組んできた、最大のプロジェクト「光影タワー」の最終設計図が、ついに完成したのだ。
それは、かつて父が設計し、そして崩壊した「21世紀記念タワー」の跡地に建設される、新たな街のランドマークとなるタワーだった。
父への鎮魂と、未来への希望を込めた、彼の建築家としての集大成。
構造性能と美的価値の完璧な調和を目指し、彼は持てる技術と情熱のすべてを注ぎ込んだ。
夕暮れ時、仕事を終えた隆太は、一人オフィスに残り、静かにデスクの引き出しを開けた。
ひんやりとした黒檀の箱を、久しぶりに手に取る。
表面に刻まれた複雑な幾何学模様。
それは、彼が今日完成させたばかりの「光影タワー」の最上部の構造デザインと、不気味なほど酷似していた。
まるで、十八年前のあの日から、この瞬間が予見されていたかのように。
「……今日だけは」
隆太は、誰に言うともなく囁いた。
「見せてほしいんだ、父さん」
彼は箱から、十八年間眠っていた赤いマッチを、震える指でつまみ出した。
夕陽が差し込む窓辺に立ち、深く息を吸う。
そして、意を決して、マッチ箱の側面で、その赤い頭薬を擦った。
シュッ、という乾いた音。
炎は、驚くほど静かに、穏やかに灯った。
ただ、ゆらゆらと揺らめき、暖かな光を放っている。
その炎の中に、未来の光景が映し出された。
完成した「光影タワー」が、夕陽を受けて黄金色に輝いている。
人々が展望フロアに集い、眼下に広がる街の景色を楽しみ、笑顔で語らっている。
タワーの構造は、隆太が意図した通り、美しく、そして同時に、揺るぎない堅牢さを備えていた。
父が果たせなかった夢が、そこには実現していた。
しかし――炎が揺らめき、映像の焦点がタワーの最上階、彼が最も美しさにこだわり、繊細なデザインを施した部分に合った時、隆太は息を呑んだ。
そこに、微かな、しかし明確な「ズレ」が生じていたのだ。
ほんの僅かな、1.2度の傾き。
それは、構造計算上は全く問題のない、許容範囲内の誤差。
だが、その傾きは、彼が計画した完璧な光の屈折を、わずかに歪めていた。
父が犯した、あの致命的なミスと同じ角度。
炎を見つめる隆太の瞳に、一瞬、迷いの色がよぎった。
このままでも、タワーは安全だ。
誰も気づかないだろう。
この微妙な傾きが生み出す光の揺らぎも、ある意味では「美」と言えるかもしれない。
父と同じ、完璧な美への誘惑が、彼の心に囁きかける。
だが、彼はすぐに首を振り、隆太は静かに呟いた。
「明日、この部分の設計を修正しよう。美しさよりも、安全を。完璧さよりも、正直さを選ぶ」
彼がふっと息を吹きかけると、炎は素直に消えた。
指先に、微かな痛みが残ったが、それは皮膚を焼くような苦痛ではなかった。
彼はデスクに戻り、設計図を開くと、迷いのない線で、構造部分に修正を加え始めた。
作業を終え、マッチを箱に戻そうとした時、彼は初めて、箱の底に何か小さな文字が刻まれていることに気づいた。
目を凝らすと、そこには古風な字体でこう記されていた。
『火影堂 明治三十二年創業』
そして、その下には、さらに小さな文字で、謎めいた言葉が刻まれていた。
『時は灰となり、灰は光となる』
火影堂。
それは隆太の父が迷い込んだ、幻の店。
明治三十二年……百年以上も前のことだ。
一体、これは何を意味するのか。
時は灰となり、灰は光となる……?
隆太は、ふっと微笑みを浮かべ、窓の外の景色に目をやった。
夕焼けに染まった空の下、彼が数年前に設計を手がけた小さな公園が見える。
そこは、かつて父の隆太が「火影堂」があったと主張した場所だった。
再開発で更地になっていた土地を、彼は安らぎの空間として再生させたのだ。
公園の中心には、彼がデザインしたシンプルな時計台があり、それは今も、正確に時を刻み続けていた。
「未来は設計できない。だけど、正直に創ることはできる」
隆太は、その言葉を、静かに呟いた。
その声には、確かな決意が宿っていた。
彼が窓辺を離れ、オフィスを出ようとした、その瞬間。
磨かれたガラス窓に反射した自分の姿が、一瞬だけ、深い皺の刻まれた老人の顔に見えたような気がした。
火影堂の老人、あるいは――老いた父の顔に。
しかし、瞬きをすると、そこには三十歳の、決意を秘めた建築家の顔があるだけだった。
夕陽の光が作り出した、単なる幻影だったのかもしれない。
彼の手元で、黒檀のマッチの箱が、ポケットの中でわずかに温かいような気がした。