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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

続くかも知れない短編集

椿の見た夢

作者: 笠倉とあ

 特に家の予定もなく、友人に誘われてもいないそんな時、足の向くままに里を散歩するのは、その少年――コノエの小さな日課だった。

 秋の終わりの山里は、涼しげな風が吹いている。のんびりと歩きながら見上げた空は高く、薄い靴を履いた足がいつもの道と違う方向に向いてしまったのはその青さに誘われたせいなのだろうか。

 麻布で作られた簡素な服のポケットに手を突っ込んで歩くうち、コノエはいつの間にか人家のある地区を抜けていた。


 ――いつの間に、人家が途切れたのだろう。


 家から離れ過ぎてしまったかと小さく首を傾げるも、コノエは焦って戻ろうという気にはならなかった。

 コノエの母は、いつも部屋に籠もって本ばかり読んでいるコノエを心配して、外で遊んできなさいと叱り付ける人だった。結局は出かける時まで本を手放さないコノエを見て、呆れた溜息を吐くのだけれど。

 里の散歩を日課にしたのは、母が毎日困った顔をすることに、多少の罪悪感を感じたからだ。そんなコノエが外を出歩く気になったのなら、少々帰りが遅くなったとて、母は怒らないだろう。

 すぐに家へ帰る必要もない。そう思ってしばし考えた後、行く手に現れた小さな森に、コノエはふらりと入っていった。


(こんな所までやって来たのは初めてだな……。母さんに話したら何て言うだろう)


 鬱蒼とした森の中をゆっくりと歩きながら、コノエはそう考えた。

 生まれてから十三年間をこの里で暮らしているコノエは、生来の読書好きな性格のせいで、やや積極性には欠けている。山と森に囲まれた里に育っていても、自然を駆け回るような遊びは滅多にしたことがなかった。遠出するより、近くの広場で本でも読んでいる方が好きだったから。


 ――ふ、と何かを感じた気がして、コノエは顔をそちらに向けた。


 人の気配のない森で、誰かが自分を呼んだ気がした。

 考えるでもなく方向を変える。ゆっくりとしたペースを変えないままで、導かれるように歩き始めた。

 やがて薄暗い森が途切れる。足を止めたコノエの前に、小さな空間が広がっていた。

 

(……花……?)

 

 木に囲まれた空間に、一本の花の木が立っていた。

 子供の拳ほどもあるそれは、真っ赤な椿の花だった。一面に赤い花をつけた木が、風に煽られて揺れている。

 ――ふと、コノエは思い出した。里で通りすがりに耳にした、密やかな噂話のことを。

 何でも、コノエの住まう里のどこかには、一本の椿の木があるそうだ。かつては白かったその椿は、いつの頃からか真紅の花をつけるようになり、四季を通して狂い咲いているという。

 香りのない椿の花はそこに在ることさえ疑わしくなるほどの希薄さで、それでも尚訪れる者を魅入らせながら、枯れることなく咲き続ける。そんな話を、コノエは確か、どこかで聞いた。


 単なる噂話だった。その木を実際に見た者は誰もおらず、ただ話だけが伝わっている。

 だから、別に信じていたわけではない。けれどこの椿を見て、コノエは真っ先にその噂話を連想した。


 花の散らない木のもとに、コノエは静かに歩み寄る。そうして初めて、そこに誰かが立っていることに気がついた。

 

「――……なあ。誰か、そこにいるのか?」


 先客だろうか。そう思ったコノエは一拍迷ってから、なるだけそっと声をかけてみた。そうして初めてコノエの存在に気付いたらしく、相手がぱっと振り返る。


 それは、小さな白い髪の子供だった。

 歳はコノエとそう変わらないだろう、まだ幼い顔立ちの少年だ。白い着物に、裸足の足。深い森の色を湛えた瞳がゆらりと揺れて、コノエの目を見つめてきた。


「――誰?」


 ことりと小首を傾げる様は、年齢からしてもひどく幼い。コノエは答えた。

 

「オレはコノエ。里に住んでる」

「そっか。オレは、覚えてないや」


 白髪の子供はそう言った。ひらりと靡いた着物の裾が、子供にじゃれつくように舞った。


「自分の名前、覚えてないのか?」

「うん」


 少し困ったような顔をして、子供はこくりと頷いた。

 白い布に包まれた、色素の淡いその子供は、目の前にいるというのに、今にも消えそうなほど儚い。どこか夢幻に似たその光景を眺めながら、コノエは問いを続けた。


「なあ。お前は、ここで何をしてるんだ?」

「人を待ってるんだよ」

「どれくらい待ってるんだ?」

「分からないや。二百年、くらいかな」


 緑の瞳で赤い椿を見上げ、ぽつりと言われた言葉に、コノエは否定することなく、ふぅん、と呟いただけだった。

 何故か、嘘だとは思わなかった。この少年が待ったと言うのなら、きっと彼は二百年、本当に待っていたのだろう。

 それから、コノエはもう一つだけ聞いた。


「誰を待ってるんだ?」


 その問いに、また困ったように首を傾げ、子供は言った。


「忘れちゃった」


 コノエはもう一度、ふぅん、と言った。


 子供の視線を追うように、大きな椿の木を見上げる。生い茂った枝には、真紅の花が一杯に咲いていた。さわりと葉擦れが起きて、黄色い花芯が揺れる。


「――明日も来ていいか?」


 コノエの問いに、子供は黙って頷いた。





 翌日からコノエは、言い付けられた用事を片付けた午後の時間のほとんどを、その椿の木の下で過ごすようになった。

 コノエが通うようになってからも、子供は変わらず静かにそこにいた。

 たとえ雨が降っても、コノエは子供が傘を差しているところを見たことはなかった。まるでその空間だけが周りから切り離されているかのように、雨粒が木の葉を擦り抜けることはない。そんな不可思議な光景が、ここでだけはまるで当たり前のようだった。

 白い着物に裸足の子供は、コノエがいつ来ても同じ姿で、椿の下で一人立っていた。

 このまま何年経とうとも彼は変わらないのだろうと、黙って子供の傍に座り続けながらコノエは思った。きっとこれからもこうなのだろう。今までずっとそうだったように。

 コノエがやって来て顔を合わせても、子供とコノエは何を話すでもなく、いつもただ揃ってそこにいた。

 子供は椿の下で、じっと誰かを待っていた。片膝を抱えて木に凭れ、本のページを捲るコノエの足元には、形を残した椿の花が落ちていた。


 ――枯れないはずの椿の木は、コノエが訪れるようになってから花を落とすようになった。


 コノエが訪れるたびに、木は落とす花を増やしていった。木に咲く真紅は数を減らし、濃い緑の葉が悲しげに揺れる。

 ここに通い始めた頃、コノエは一度だけ、里に来ないか、と子供に言った。

 子供は、駄目なんだ、と言った。

 動けないんだ、呟く子供は悲しそうだった。オレはここから動けないから、ここで待たなくちゃならない。


「…………」


 ぼとり、とまた一つ、枯れないはずの木が真紅を落とした。昔はこの様が人の首が落ちるようで縁起が悪いと言われていたのだと、コノエは祖父に聞いたことをふと思い出した。

 黒い瞳で隣を見上げる。黙って佇む子供の白い横顔が、空気に溶けてしまいそうに見えた。 



 


 それから更に数日が経った頃には、椿の花は初めて見た時の三分の一以下に減っていた。

 足元に敷き詰められる赤い花に、コノエは何を言っていいのか分からなかった。この花が全て落ちた時、子供はどうするのだろうと、何となく不安になった。


「――ねえ」


 唐突に。

 ぼんやりと立っていたはずの子供から声が降ってきて、コノエは少しだけ動揺した。


「何?」


 今まで子供が話しかけてきたことはない。聞き返すと、子供はその深森の瞳でコノエを見下ろしながら、静かな声で聞いてきた。


「いつになったら思い出すんだ?」


 子供自身のことだろうか、と一瞬コノエは思った。

 だが、こちらを見つめる子供は明らかにコノエに問いかけていた。


 ――お前は、いつになったら思い出すのかと。


「オレは、もう思い出したよ」


 じっとコノエの目を見ながら、子供は言った。

 

「思い出したんだよ、コノエ。オレの名前はトキワだった」


 ――――トキワ、と。


 無意識に繰り返したその瞬間に、コノエの脳裏で何かが爆ぜた。

 瞼の裏で火花が散ったような感覚を覚えて、咄嗟に両目を手で覆う。

 弾けたそれは、固く閉ざされた思考と記憶の扉だった。


(――オレ、は、)


 青褪めていく顔で、両手の下で目を見開いて、コノエは無意識に息を荒げた。


 散歩はコノエの日課だった。ここ最近は、この椿の下で、目の前の彼を訪うことが習慣になっていた。


 ――では、そうでない時は、自分は一体何をしていた?


 夜と朝の記憶がなかった。気がつくと里を歩いていて、日が暮れれば記憶が途絶えた。

 自分がどこに帰っていたのか分からない。どの家の門を出てきたのか分からない。

 母は椿の下の子供について、何も言っていなかった。コノエが話していないからだ。顔を合わせてすらいないからだ。

 最後に友人と遊んだのはいつだ。最後に友人と会ったのはいつだ。

 コノエが最後に、知り合いの顔を見たのはいつだ。


「オレは……っ、」


 ずる、と背中が幹を滑る。茫然と呟くコノエの頬に、初めて彼の前で膝を折ったトキワが、宥めるように優しく触れてきた。


「――オレは、誰だ」

「コノエだよ。オレが待っていた、待ち続けていた人間」


 悲しそうに、トキワは言った。


「お前はコノエだよ。――オレが森の神に捧げられることに、里中でただ一人だけ反対して、そして殺された人間だ」


 そう言って、トキワの顔がくしゃりと歪んだ。


「――ずっと、待ってた」


 泣き笑いのようなその顔に、コノエもゆっくりと手を伸ばした。

 

「――そうか」


 包み込むように触れた頬は、懐かしい温もりを湛えていた。いつだったか、この温もりに狂うほど焦がれていたことを思い出した。


「オレは、ここに埋められたんだな」


 切なげに目を細め、コノエは微笑んだ。

 今も忘れられない、篝火の明かりと、刃の煌き。死装束を纏った大切な子供の目の前で首を落とされた時の痛みと憤怒が、心の奥からじわりと溢れ出すようだった。

 ――かつての夜、最後に網膜に焼き付いたのは、助けられなかった優しい子供の絶望の表情だった。


 そっと目を伏せたトキワが、木の根元を愛おしげに撫でた。


「絶対にオレを助けに来るって、お前は言った。だからオレは、ずっとここに留まっていた」


 行き場のない想いに縛られて。花の木の下で眠る、愛しい人の抜け殻に縋るように。

 約束だけを頼りに、ひたすら待った。

 待って待って待ち続けて、時の流れに取り残されたまま佇み続けるうち、記憶は擦り切れ、自分の名前もその過去も、大切な人の顔すら忘れ果て。

 残ったのは誰かを待たなければならないという妄執にも似た思いと、訳も分からぬ悲哀のみ。


「オレの家なんか、もうどこにもなかったんだ」


 苦笑するようにコノエは呟いた。求める人の存在が抜け落ちた記憶を抱え、二百年の間彷徨い続けた山里は、最早彼が生きていた頃のものではなく。

 ――廃墟となったあの里に、生きている人は、もういない。

 全てが幻のように思えた中で、抱き締めたトキワの存在だけが本物のように感じられた。


 ――ぼとり、とまた一つ、椿が落ちた。


「……待たせて悪かったな」


 囁くと、ふるふる、とトキワが首を振った。


「やっと、会えた」


 ぎゅう、と腕に力を込めて、細い体がしがみついてくる。

 押し殺された声は涙に掠れていた。小さく震える華奢な肩に顔を埋めて、コノエは一筋だけ、閉ざした瞳から涙を零した。


 ――ざあ、と風が吹いて、椿の木がざわめいた。

 空気を掻き乱して風が去っていった後、そこにはもう誰もいなかった。

 切り離された空間に香りのない花だけが残されて、何かを言いたげにゆらりと揺れた。


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