アマモ揺れる海
洋一が島に帰って六ヶ月が過ぎた。六十三歳になった四月のある日、漁師をしている従兄弟の為さんが
「洋ちゃん、ぼちぼちベラやキスが釣れだしたで」
と教えてくれた。洋一は早速挑戦してみることにした。二週間ばかり前に笠岡へ出た時に、買い求めていた磯釣り用の竿をかついで、北の浦を目指して出かけた。山越えの道を二キロばかり歩いて、やっと浜辺に着いた洋一は、わくわくしながら餌をつけて遠投する。この浜は洋一が少年時代、海水浴客が大勢本土からやって来て賑わっていた浜で、トシ君とよく釣りに来た浜だ。夏になると毎日泳ぎに来た。沖合いににアマモが群生していて、そのあたりまで泳いで行くと、よく足に巻きついて怖い思いをしたものだった。
為さんが言っていたベラとかキスなら北の浦に限る。そう思ってやって来たのだ。早速あの頃トシ君がよく陣取っていた場所に腰を下ろす。
【一人住まいじゃけえ仰山は要らん。今晩の酒の肴と、晩飯のおかずが少々手に入りゃええわ】
洋一の好きな良寛和尚の『鉄鉢に明日の米あり、夕涼み』そんな一句を思い出しながら竿先を見つめる。軽い気持ちで出かけたのだが、昔よく釣れた北の浦の浜はどうしたことか、今回はさっぱり引きが無い。
【為さんがあのように言うとったけえ、時期はずれと言うことはねえじゃろう。】
そう思って今度は少し場所を変えて竿を振る。何回も試みるが餌取りもいない。東の方に五十メートルほど移動して挑戦するが相変わらず当りは無かった。
【よし今度は、もうちょっと沖合をねろうてみるか。これ以上遠くへ放ったら、仕掛けがアマモに引っかかって、切れてしまうかも知れんなぁ】
と気にしながらも思い切って遠投した。何回か投げているうちにふと気付いた。
【あれ、このあたりは昔アマモがあったはずなのに、ぜんぜん引っかからんなぁ。おかしいぞ。アマモが無くなってしまったんじゃろうか】
洋一は首をかしげながらとうとう諦めて竿をしまい、
【あーあ、くたびれもうけじゃった。為さんによう聞いてみにゃいけん。少年時代、トシ君たちとよく釣りに来たが、あの頃はベラやキスがよく釣れたのになあ】
とつぶやきながら家に向かった。
夕方、漁師の為さんの家を訪ねる。
「為さん、北の浦に今朝釣りに行ったが、さっぱりじゃったで。昔は沖にアマモがぎょうさん生えとったが、今どうなっとるんかなぁ」
「うん、昔はあったんじゃけどなぁ。今は禁止になっとるが、十数年前まであの沖合で海砂を大掛かりに採取して、アマモが絶えてしもうたんじゃ」
「やっぱりなぁ。昔はベラやキスがよう釣れとったけえ、釣れるじゃろうと思うて行ってみたが駄目じゃった」
「アマモが消えたら、魚も寄り付かんけえのう。東浦へ行ってみねえ、あそこなら釣れるで」
「ああ今度はそうしてみらぁ」
洋一は為さん方から帰りながら、
【アマモをどうにかせにゃあ、海が死んでしまうなぁ。組合長の三郎さんに話してみようか】
洋一はアマモのことが頭から離れなかった。
洋一は太平洋戦争の始まる一年前、笠岡諸島の小さな島に生まれた。笠岡から四国まで、点々と飛び石のように三十余りの島々が連なっている。その中で人の住む島は、北から、高島、白石島、北木島、真鍋島、大飛島、小飛島、六島、の七島である。洋一の生まれた島の産業は主に漁業と石材業で、農業で生計を立てていたのは僅か十軒ほどだった。父はわずかの田んぼと畑を耕しながら農作業に従事し、農閑期には地場産業の石材工場で働いていた。
その父も、洋一が大学を出て、横浜の商事会社に就職し、営業で忙しく歩きまわっていた十三年目の冬、風をこじらせて肺炎を患い、あっけなく他界してしまった。六十一歳だった。
父に先立たれた母は生活の糧もなく、洋一の住む横浜に引き取ることになった。島内での結婚だった母は、生まれてからずっと付き合いのある島内の知り合いと別れることをつらがり、なかなか承諾しなかったが、再三の洋一の説得で、しぶしぶ重い腰を上げて、横浜にやってきてくれた。
淳子はそんな母に、随分と気を使いながら世話をしてくれた。夫に先立たれて気落ちしたうえに、慣れない都会の生活が合わなかったのか、母は横浜に来て四年目の春、浴室で脳溢血を起こし、あっけなく逝ってしまった。こう立て続けに両親に死なれて、洋一は孝行も充分出来ないままに終わってしまったことを今でも悔いている。母の望むまま島での生活ができるように、なんとか算段しておけば良かったのかもしれない。今さら後悔しても始まらないことなのに、まだ心に引っかかっている。
母の島への執着を考えて、横浜で密葬して、島に帰って皆さんとお別れをさせた。葬式の後、親戚やら親しい人たちの話が、聞こえなくてもいいのに、洋一の耳に入る。
「横浜に行ってから、間がなかったなあ」
「慣れん所じゃけえ、住みにくかったんじゃろう」
「風呂で死んだそうじゃで」
「嫁とええようにいっとったんじやろうか」
「島へおりゃあ良かったんと違うかのう」
「洋ちゃんが無理やり連れて行ったんと違うんか」
「六さんが死んでからも、元気で一人畑仕事をしょうたのになあ」
「魚を持って行くと、いつも自分で作った野菜をくれとったで」
「畑や田んぼはどうすんなら」
「誰か作らなんだら荒れてしまうで」
「身内の為さんでも作りゃあええのになあ」
「島で生まれてから、ずぅっと此処におったのに、なんで慣れん横浜に行ったんかのう」
「ええ人じゃったが、死んでしもうたらもうおしまいじゃ」
「洋ちゃんもだいぶ歳をとったなあ。退職したら島へ帰って来るんじやろうか」
島を出る時には、誰も救いの手を差し伸べてはくれなかったのに、今になっていい加減にしてくれと、洋一は苦虫を噛み潰すような思いがした。
それから後は、父母の法要以外、お盆に時折墓参りするくらいで、島とはすっかり疎遠になっていた。そんな洋一が、定年を迎え、島に帰って生活したいと思うようになったのには、それなりの理由があった。
商事会社を定年退職して、洋一は以前の仕事の人脈を生かし、ベトナムへ、使い捨てカメラを集めて送る商売を始めていた。先方では再利用して使うので、初めの四年間は面白いほど売れた。しかし、ベトナムも経済が発展し、生活レベルが向上したのと、デジカメが安価に出回りだして、洋一の商売にもかげりが見えてきた。もう潮時と考え、少しのんびりとした生活がしたいと思った。商事会社で三十八年間、生き馬の目を抜くような仕事をしてきた。バブルがはじけるまで、東南アジアや、中国を舞台に売りまくった。子供たちの為にとがむしゃらにがんばってきた。そんな企業戦士としての生活とはもういい加減におさらばしたい。島に帰れば、荒れ果ててはいるが、僅かばかりの畑もあり、ぼろ家でも少し手を加えたら、二人充分に住むことができる。とにかく一息つきたかったのだ。
二つ目の理由は、食の安全性がどれほどあてにならないものか、食料輸入にも携わってきた洋一にとって、判りすぎるほど判っていた。自分で細々とでも野菜を作り、釣りをしていれば、これほど安全な食生活は他にないだろうと考えたのである。
そして今日の釣りであった。五十年前の島の釣り場はすっかり変わってしまい、藻場があちこちで消滅しかかっている。海水が綺麗で、瀬戸内海の東西の海流がぶつかるこの島のあたりは、最高の漁場であったのに。漁師たちは仕方ないから、魚を求めて西、東と船を走らせ、他県の漁師といざこざも絶えないという。困ったものである。たちまち洋一の晩のおかずにも影響する。何とかならないものか。藻場の再生は全国的にも時々報道され、成果をあげているようだ。漁師をしている従兄弟の為さんに又話してみよう。そして藻場を再生して、豊かな魚場を復活させるべきだ。生まれ故郷のこの島に帰って来た洋一の、取り組むテーマが一つ見つかったような気がした。故郷に恩返しをする目標が見つかって、洋一はサバサバした気分を味わっていた。まだ元気一杯で、気力は充実しているのだから、大根や菜っ葉作りで、自己満足して終わるのは勿体無い。そんな思いを抱きながらの島での生活であった。
故郷の島へ帰るにあたり、淳子には洋一の思いを何回も話し、やっとしぶしぶながら承諾してもらった。
島へ帰るとなれば、事務処理やら後始末がある。取りあえず淳子を連れて島に帰り、近所へ紹介をして、洋一はもう一度横浜に戻った。そして事務処理が片付くまでの間に、淳子に家の整理をしてもらうことにした。淳子にとっては慣れない土地なので、毎日電話で情報交換をしたが、一ヶ月も経つと、淳子も少しずつ近所付き合いに慣れて、少し落ち着いたようであった。
後顧の憂い無く撤退するのに、案外長くかかった。淳子を島に行かせて、二ヶ月ほど経った九月の終わり、台風六号が四国から中国地方に上陸するとの予報が出た。
「台風が来るというので、普段より少し早く戸締まりをしたの。もう寝るしかないと蒲団を敷いていたら、急に胸が苦しくなってね。
おまけに少し吐いちゃったのよ」
「今までそんなことは言っていなかつたのに」
「ええ、私もびっくりしたわ。診療所の閉まる時間だったけど、急いで行ったら、まだ先生がいらしてね」
「良かったじゃねえか」
「すぐに診察してもらったの。そしたら大変な診断が下されて、もうどうしようかと思ったわ」
麻酔から覚めた淳子は、ことの真相をポツリポツリ話してくれる。
「先生、休もうと思っていたら、胸が急に苦しくなって、少しおう吐したんです」
「今までこのようなことがありましたか」
「いえ、風邪で病院に行くくらいで、今までこんなことはありません」
「狭心症のようですが、心筋梗塞を起こす恐れがあるので、すぐに本土の専門病院に行ってください。倉敷の病院に紹介状を書きます。救急処置として、とりあえずニトロを投与して起きましょう」
「そんなに急を要しますか。主人は今横浜に行っているんですけど」
「ご存じのように、心筋梗塞は怖いですから、精密検査を一刻も早く受けてください」
そう言われて淳子は慌てた。主人はいないし従兄弟の為さんに診療所の電話を借りて事情を話した。為さんは大雨の中をすぐに診療所に駆けつけてくれた。
「倉敷の病院で精密検査を急いだ方がいいということなの」
「弱ったで、淳子さん船が出せんど、この風じゃあ」
「何とかしてちょうだい」
「ちょっと無理と思うが、与一に言ってみるか」
洋一の同級生与一は、フェリーを持って本土と行き来している。
「奥さん、この風じゃあ、なんぼうわしでもよう船を出せんで。台風が通過するのを待つしかねえなあ」
女先生に事情を話して、診療所のベッドで船が出るまで休ませてもらうことにした。早く台風が通過してくれと、この時ほど淳子が神や仏に祈ったことは今までになかったという。
発作を起こしたのが夜の八時過ぎ、テレビの予報では、瀬戸内海を通過するのが夜半過ぎという。建てつけの悪い診療所の上を、嵐が吹きまくる。ガタガタ、ギシギシと揺れて気が気ではない。この悪魔のような嵐が、通り過ぎてくれるのを待つ間のなんと長いことか。台風の予想進路が変わり、朝の二時過ぎに近畿地方に上陸と、テレビは報じているが、海は吹き戻しの風でまだ船は出せないという。心細く不安な思いを抱きながら、風のおさまるのを待つしかない。
夜がほんの少し明らみかけた午前四時頃、やっと船を出せる程度に風が収まり、まだ波は高かったが、為さんや与一の計らいで、島に一隻ある海上タクシーを特別に頼んでくれた。大揺れに揺れながらも、やっと港に到着し、手配済みの救急車で、倉敷の専門病院に到着した時は七時を回っていた。待機していた医師によって検査が終わり、主治医の説明を聞く。
「心臓の血管に狭窄部位が発見されたので、拡張手術をした方がいいでしょう。カテーテルを入れ、ステントを装着します。手術には家族の同意が必要です。」
為さんから、晩の九時過ぎに電話をもらった洋一は慌てた。新幹線の最終はもう発車した後だ。でも何とか帰る方法はないか。夜行バスの情報を知りたいと、急いで横浜駅に向かった。幸い十時前の岡山行きのバスがあるという。岡山まで帰れば何とでもなる。地獄に仏とはこのことか。洋一は着の身着のままでバスに乗った。今までそんな症状に襲われたことの無い淳子だったので、洋一は気が気ではない。どうか大したことが無いようにと、祈るばかりである。周りの乗客は乗るとすぐに、シートを倒して眠る用意をしている。洋一も倒すには倒したが、とても眠れるものではない。それでもじっと目をつむって、バスに揺られていると、淳子と一緒になった頃のことが、昨日のことのように思い出される。
「明日の休日は予定がありますか」
「別に予定はないけど、何でしょう?」
「映画を観に行きませんか」
取引先の受付嬢をしていた淳子との、初デートは映画館だった。観たのは「サウンドオブミュージック」だった。そして帰りに一所に食事をして、始めてゆっくりとお互いのことを話し合った。
「僕は岡山県の西の端の、笠岡の沖合にある小さな島の生まれです」
「岡山は判るけど、笠岡は聞いたことありませんわ」
「人口六万人ほどの小さな町です。福山はご存じですか」
「ええ、日本鋼管がある城下町ですね。知っています」
「福山の東隣の町です」
「淳子さんは、ご出身はどちら?」
「私は琵琶湖のほとりの大津です」
「琵琶湖はいいところですね」
そんな話をしてその日は別れた。何回かのデートを重ね、横浜市内のダンスホールにもよく踊りに行った。ハイキングに行くと、決まって美味しいサンドイッチを作って持ってきてくれた。社員寮の食事は似たようなメニューが繰り返されていて、お世辞にも美味しいとは言えない代物だったので、いつの間にか期待するようになっていた。つきあいだして半年、洋一が二十六歳の秋、山下公園の前に浮かぶ船を見ながら、
「僕と結婚してくれませんか」と単刀直入にプロポーズした。
「今すぐご返事は出来ませんわ。両親とも相談しなくてはなりませんから」
洋一は、これは脈があると内心ほっとした。断られるかもしれないと、内心びくびくものだったのだ。両親が本人に会ってみたいということで、結婚の申し入れをして、一ヶ月ほどして、洋一は大津の両親を訪ねた。明治生まれの厳格そうな父親と、亭主にそっとついて行く、温和なタイプの温和な感じの母親と面会した。
「あなたのことは娘からよく聞かされています。お会いして、実直な方と確信がもてました。娘が良いと言うならどうぞもらってやってください」
父親から快諾の返事をもらい、洋一はルンルン気分で夜行列車に乗り二人で横浜に帰ってきた。帰る間中、洋一は列車の中で淳子の手を握り締めていた。
そして一緒になり四十年、大きな喧嘩もせず、今日を迎えたのであった。ただ悔いるべきは、家のことは淳子任せで企業戦士として働き、仕事とはいえ、子供のことは全部淳子に任せきりであちこち飛び回り、夫らしいこと、父親らしいことは、何一つしてこなかったのではと悔いるばかりであった。
岡山に九時前にバスが到着し、急いで在来線で倉敷に向かった。病院に着いたら、淳子はまだ眠っていた。ああ良かった。さぞかし淳子は心細かったことだろうと思うと、残務整理が長引いたことを悔やんだ。悔やみもしたし、又残念に思った。
担当の看護師から一応の状況を聞いて、一先ず安心する。起こしてはと病室にそっと戻り、淳子の寝顔を見つめながら、バスに乗る前にコンビニで買ったサンドイッチをほおばる。考えてみれば、胃に入れたのはバスの中でサービスのコーヒーを飲んだきりだった。十時過ぎに、担当医から説明がありますからと、呼び出しを受け急いで聞きに行く。
「昨晩CТとMRIで検査をしました。狭心症です。心臓の血管に、狭窄部位が発見されたので、拡張手術をした方がいいでしょう。このままだと心筋梗塞になる恐れがあります。カテーテルを入れ、ステントを装着する手術になります。よろしいですか」
担当医はパソコンを前にして、画像を操作しながら、淳子の心臓の血管の細くなっている部分を示しながら説明してくれた。
淳子が目を覚まして、洋一に話してくれたのと同じ内容であった。良いも悪いもあるものかと思いながら、手術同意書にサインした。そして東京の証券会社に勤務している、息子の健と、看護師をしている娘の裕子に状況説明の電話を入れる。二人とも随分驚き、すぐ帰るからと言ってくれたが、今からでは手術には間に合わないだろうし、仕事の事もあるし無理をしないように、と言って電話を切った。
病院ではすぐに手術の準備にとりかかり、十一時過ぎから緊急手術が始まった。手術は順調に進み、終わったのは午後二時頃で、三時間もの手術に耐えて、淳子はICUでまだ麻酔から覚めていなかった。
子供達二人は二時半過ぎ、あまり違わない時間差で、病院に駆けつけてくれた。窓越しに母親の顔を見ながら、ひと安心したようだった。
手術が終わって、翌日病室に戻った淳子から、台風の夜の顛末を聞いて、子供たちは洋一を責めた。
「不案内な島にお母さんを独り置いて、もし間に合わなかったらどうするん。ひどいよ、お父さんは」
「裕子、お前はそう言うが、仕事の片をつけんといけんから、仕方無かったんじゃ。それに今まで何もなかったんじゃけえ、こんなことが起きようとは思いもしなかったんじゃ」
「大体親父は、今まで仕事、仕事で、僕らぁの事も母さんのことも、ずいぶんと無頓着じゃったけえなあ」
「健ちゃん、そんなにお父さんを責めたらだめよ。お母さんがもう少し、普段から気いつけといたらよかったんやから」
「おい、もうそれくらいにしてくれ。悪いのはワシじゃ」
子供たちは、残務整理に時間がかかりすぎた等と言うのは言い訳に過ぎない。慣れないところに一人置いてひどいという。返す言葉は何も無かった。子供たちは一泊して夕方帰って行き、洋一はもう一泊近くのホテルに泊り、様子をみることにした。
担当医の説明では、経過は順調ということなので、完全看護だから、できるだけ早く仕事を片付けてしまおうと、再度横浜に向かった。なにぶん、洋一が一人で始めた商売ではあるし、外国人相手だから、残務整理は大変である。
五日ほどで整理を終え、病院に行くと、淳子は歩行訓練をするように言われ、病院の廊下を朝、昼、晩と歩いてがんばっていた。洋一はひとまず安心して、淳子の退院後の準備のため島に帰った。ベッドの方が楽だろうと、シングルの簡易ベッドを買い求めたり、風呂にシャワーを取り付けたりして、淳子の帰りを待った。淳子は動脈硬化、高血圧、高脂血症防止に心がけ、食事療法をするようにと指導を受けて、三週間ほどで退院して島に帰ってきた。
しかし、帰ってきて、淳子は島で暮らすことに難色を示し出した。台風の晩に発作が起き、すぐに専門病院に行けなかったことが最大の理由だと言う。運が悪いと言えばそれまでだが、台風と発作が重なったのがいけなかったと、洋一は胸の内で思いながら聞いていた。
特に病気が病気だけに、時間との戦いだから、この島では到底やっていけない。それに淳子の実家の大津では、父親を数年前に亡くし、八十七になる母親が、独り住まいをしながらがんばっている。弟の千葉のマンションは手狭で、母親を引き取ることが出来ない。歳が歳だけに、一緒に住んで面倒を見てくれないかと頼まれていると言う。弟が病院に見舞いに来た時、二人の間でそんな話が持ち上がっていたらしい。
「退院してすぐに、そんなことを言い出さんでもええが。身体がしゃんとしてから結論を出しゃあええ。今度はわしが一緒に居るんじゃけえ」
そう言って夕飯の支度に取りかかった。為さんが退院祝いに届けてくれた鯛のウロコを落として、刺身用に三枚に下ろしながら
【もう淳子は結論を出しているのだろうから、自分が折れるしかないだろう。話し合っても仕方ないかもしれんなあ。でもよく話し合ってみにゃあいけんだろう】と思いつつ夕飯の仕度を終えた。
数日経って朝食の後二人で話し合った。
「あなた、今度だけは私のわがままを許して頂戴。今まであなたの言うとおりにしてきましたが、私の命にかかわることですから」
「お前の言うことは解かるが、せっかくこの島に帰ってきたというのに、別居生活とはなあ」
「でもいざという時に、この前のようなことが起こると、私はたまらないわ。あなたが自分の夢をかなえる為に、この島での生活を望むのは反対しないわ。だから私の希望も聞いて頂戴」
「そりゃあ、一回限りの人生だからなあ」
「母ももう米寿が近い歳で、一人での生活は無理だと思うの。弟も是非頼むと言っているし」
「お母さんのことは切実じゃと思うとる。この島に来てもらってもええで」
「そう言ってくれるのはありがたいけれど、母は体も不自由になっているし、安心できる病院もないこの島では無理だと思うわ。大津なら私の親戚も多いし、いざという時頼れると思うの」
淳子の言うことにも道理がある。一回限りの人生を、悔いなく生きるにはどうするのが最善か、何回も二人で話し合った。又年老いた母親のことも、心配なのは洋一も同じだ。その結果、いざと言う時は、近くに親戚も多く安心出来るということで、淳子は実家の大津に行くことに決定した。お互いの生き方を尊重して、これが二人にとって、最善の方策という結論となった。離島の悲哀がもたらす、悲劇と言えばそれまでだが、子供達二人はそれぞれ独立しているので、洋一の年金を折半すればなんとかやっていける。洋一の島での生活は心配することは無い。自給自足風にやっていけばどうとでもなる。月に一回程度、お互いが行き来して、互いの様子を確認することで妻とは合意した。
淳子は大津に行き、洋一は島に残って、天気のよい日は、畑の開墾をしたり、釣りをしたり、恵まれた自然を満喫しながら過ごして、洋一なりに充実した日々が続いた。洋一は生まれ育った島だから、幼友達も何人かいるしまったく問題は無かった。
淳子が大津に行ったその年の暮れ、洋一は約束通り、大津で実母と暮らしている淳子を訪ねた。久しぶりに会う義母は、すっかり歳をとって、少々足が不自由になっていた。近くのスーパーへの買い物も車椅子で出かけているようだ。だが認知症のけはいは全くないように見える。実の娘が一緒に暮らしてくれること、病気の関係で我が儘を言う娘のことを、洋一に済まないと詫びた。
「洋ちゃん、すんまへんなあ。淳子があんたの面倒を見ずに、わがまま言うて私の世話までしてもろうて」
「御義母さん、僕が一緒にこっちに来ればいいんだけれど、僕の方こそわがままを言ってごめん」
「いやいや、そんなことあらしまへん。早ようお父さんが迎えに来てくれたらええと思うとります」
「何をお義母さん言われるんですか。足は不自由なようですが、まだまだ元気そうに見えますが」
「母はしょっちゅう、お父さんが、なかなか迎えに来てくれん言うのよ。ホントに困ったものだわ」
正月を大津で過ごし、洋一は久しぶりに淳子の手料理に満足した。四日には淳子と京都平安神宮に初詣でに行き、京都駅で別れて島に戻った。自分の我が儘を通したのだから、耐えねばと自分に言い聞かせ、ちょっぴり寂しい以前の独り住まいに戻った。
次は淳子が二月に島に来る予定だったが、義母が肺炎になって、入院したと言うので実現しなかった。彼女が来たら洋一の作った野菜で、色々料理を作ってもらおうと期待していた。白菜や大根、人参など、まあまあ自慢できるほどの出来栄えだったので、少々がっかりしたが仕方の無いことだ。
三月になり、義母が退院してしばらくしてから、淳子が近くの叔母に、義母の世話を頼んで島にやって来てくれた。大津に行って以来四ヶ月振りである。部屋に入るなり
「まあ、だらしないわねえ。掃除をしてるの。少しは片付けなくちゃあ。男寡に蛆が湧くって言うけど、しっかりして頂だい」
と早速の小言である。
「これでええんじゃ。あまり手を出すな。お前が帰った後、物がどこにあるかわからんようになったらワシが困るけえ」
「そうは言ってもこれではあんまりだわ。要る物は自分で片付けてよ。掃除だけしておいてあげるから」
「ええ、ええ。せんでええ。ごみくらいのことで死ぬりゃあせん。ほっといてくれ。それより手料理の上手いのを食わせてくれ。サヨリの新鮮なのとイカのええのを、お前が来るというので為さんが今朝一番に届けてくれとるんじゃ。ワシの作った秋ジャガもええのが出来とるし、キャベツも白菜もあるで」
洋一は久しぶりの料理らしい料理に舌鼓をうった。烏賊とジャガイモの煮付けはうまかった。洋一が作るとどうも味がしみない。サヨリは天婦羅と刺身にしてくれた。天婦羅は油の始末が面倒で、洋一は普段しない。粉のつけ方も良くわからない。白菜は軽く湯がいて生姜醤油で食べた。自分が作った野菜も上手に手を加えればまんざらではない。淳子も新鮮な魚と野菜に満足したようで、洋一は内心気分が良かった。三泊して昼過ぎの定期船で淳子は大津に帰っていった。
洋一はそれから二回ほど大津を訪れ、義母を見舞い、淳子の手料理を味わった。淳子もまた、島に三回ほど大津からやって来て、瀬戸内海の新鮮で美味い小魚を味わって帰っていった。こうして二人は、大津と洋一のいる島を互いに往復しながら、十ヶ月が経った。離婚した訳ではないが島の連中に一々弁明することでもない。ごく親しい者だけに事情を話しただけだ。
こうして妻との別居生活を始めて一年ほど経ったある日、本家の英ちゃんが親父さんの十三回忌の法要で島に帰ってきた。英ちゃんは、地元の商業高校を卒業して、京都の呉服問屋に就職し、真面目さが買われて番頭にまでなった。一度洋一は妻と結婚する前、妻の着物の調達に一緒に行ってお世話になったことがある。彼は着物を着て出て来て、京都弁が板に付いていて驚いた。その後、京都に出張の際に二度ほど会食をしたが、その時は二度とも少年時代の事を懐かしく語り、幼馴染みの良さをしみじみと味わったものだ。
「よく洋ちゃんやトシ君と魚釣りをしましたなあ」
「おうそうじゃ。学校が休みになるのをトシ君はよう知っとって、朝早う誘いに来たで」
「ほんまに、あの子は釣りが上手かった」
こんな話をしているとあの頃のことが鮮明によみがえってくる。
「洋ちゃん、遊ぼうやぁ」
いつものトシ君の声だ。今日から春休み。洋一は一年生を終えて四月からは二年生だ。きっと誘いに来るだろうと思っていたら案の定やってきた。まだ朝の七時過ぎだと言うのに早いことだ。
「何して遊ぶ?」
洋一は家の中から返事をする。出てみると、トシ君は口のほとりに涎を垂らしながら
「釣りに行こうやぁ」
と、近くの藪で切ってきた自作の釣り竿を担いでいる。その頃は遠投用の竿もリールもなく、五メートルほどの竹竿に糸をつけ、思い切って投げるが、届くのはせいぜい十メートルくらいのものだった。
洋一より二歳年下だ。幼児の頃、高熱に冒されて小児麻痺になり、言葉と足が不自由でかわいそうな子だと母から聞いている。右足がやや不自由で、人並の速さでは走れない。でも普通に歩くのには少々不自由なだけで、特に困るようなことは無い。言葉の方も少し不自由である。話す時は口を歪めて詰まりながら話す。でも洋一には大抵のことはわかる。三十軒ほどの小さな集落でも、洋一と同じ年頃の男の子は九人もいた。でもなぜかトシ君は洋一に親しみを覚えて、いつも遊ぶ時は一緒だ。他の連中は面倒がって、本気で相手にしなかったからだろう。
トシ君は三つ下の弟と、五つ上の姉と両親の五人家族だ。弟の勲ちゃんはトシ君に似ず、小柄ですばしこい子で、なぜかトシ君とは一緒に行動しない。仲間が隣の地区にいて、大抵そっちに出かけて遊んでいる。足が速くて運動会ではいつも一等賞をとる。姉の富美さんは背の高い別嬪だったが、戦争に負けたあくる年、肺病で若くして死んでしまった。トシ君をよくかわいがって、葬式の時トシ君が泣きながら、お姉さんの遺影を持って葬列の中を歩いて行ったのを覚えている。あれはいつもになく暑い夏だった。クマゼミがシャン・シャンと鳴いていた。
「ドイツからのええ薬も入ってこず、栄養が足りなかったけぇ、身体が弱ってしもうたらしいで」
母がしんみりと話してくれた。
本家の英ちゃんは洋一より一つ歳下の優しい少年だ。遊ぶ時は何時も三人一緒である。今日も誘って三人で、北の浦に釣りに出かけることにした。早速、港の近くの石がごろごろしている磯で、ゴカイを掘って釣り餌の準
備をする。北の浦は幅三百メートル程の磯があり、東側は松林で、その木陰から竿を出せば涼しくて最高だ。沖合にアマモが群生していて、の手前がポイントだ。三人三様、ここぞと思う場所に陣取って竿を出す。トシ君はいつも
と同じ場所に陣取った。なんでも父親の日出やんから教わったポイントだと言って、他の者には決して譲らなかった。今日はなかなか引きが無い。まだ三月の終りで、海水の温度が低いからかもしれない。辛抱が肝心と思いながら少し場所を変えてがんばっていると、
「釣れたでぇ」
トシ君が歓声をあげた。
【コンチクショウ。先を越されたなぁ。やっぱり場所がええからじゃろうか】
トシ君はバケツに海の水を汲んで、二十センチくらいのベラを取り込んでいる。暫らく辛抱していると
「僕もキスが釣れたで。コレは大けえど」
英ちゃんが歓声をあげている。洋一は少し苛立ってくるが、辛抱、辛抱と自分に言い聞かせながら、竿を持つ手に神経を集中する。コツン、コツンと引くが、すぐに引き上げたら餌をとられる。一、二度そのまま待って、次にゴツンと強く引き込んだ時が合わせ時なのだ。もう一度ググーと引いたところで、合わせたが逃げられてしまった。二人とも釣り上げているのだから洋一に釣れないはずはない。
こうして昼過ぎまで釣りに熱中して、帰る頃にはキス六匹とベラ三匹の釣果だった。トシ君は合わせて十六匹、英ちゃんは十三匹で、一番年長の洋一は差をつけられて少々悔しかったが楽しいひと時だった。
洋一たちには穴場の磯が地区の近くに三箇所あり、天気であれば殆ど毎日、今日はどこの磯に行こうかとローテーションで釣り三昧に明け暮れた。久しぶりに英ちゃんと話していると、少年時代のことが懐かしく甦ってくる。
英ちゃんとは親父さんの七回忌で会って以来である。今は退職して、京都の南の城陽市に居を構えて、息子夫婦と穏やかな生活をしていると年賀状に書いてあったが、法要の席で杯を重ねながら、久しぶりにゆっくりと話をすることができた。
歳をとっても共通の話題は幼い頃のことがどうしても中心になる。京都で会った時と同じで、仲のよかったトシ君と三人で、釣りをしたり、牛飼いに行ったりした頃のことが、二人とも不思議と懐かしく思い出されるのだった。
「洋ちゃん、覚えてはるかなあ。B29が飛んで来て福山が焼け野原になった時のことを」
「うん、よう覚えとるで。怖かったなあ」
洋一は英ちゃんからそう言われて、あの頃のことが昨日のことのように、次々と思い出されるのだった。
あれは洋一がまだ小学校に上がる前のことであった。
「空襲警報発令・空襲警報発令」
トシ君のオヤジさんの日出やんが、地区中を大きな声で叫びながら触れてまわる。夜間に空襲警報が発令された時は「灯火管制」で、裸電球に黒いカバーを懸け、B29が通り過ぎるのを、震えながら待つことが日常であった。空襲の時には枕元に置いてある防空頭巾を被り、小さな身体に非常食の「やっこめ」(焼き米)と自分の衣類や、子供なりの大事な物(メンコやビー玉等の遊び道具)を入れたリュックを急いで背負った。庭の涼み台に座りながら、両親と次姉の四人で空を見上げていた。洋一は真夏なのにブルブル震えが止まらなかった。西の空が真っ赤になっている。その無気味な空を、B29が何機も何機もグルグルと旋回していた。
「危のうなったら裏山に逃げるんじゃけぇ、ちゃんと用意しとけぇ」
そんな父の言葉を聞きながら、洋一は膝がガクガクして立っていられなかった。ちょうど洋一の家から西北の方角に福山は位置していた。家から二キロ先に、四月八日のお釈迦様の誕生日に、毎年「甘茶」をもらいに行く観音寺があったので
「あっ、観音寺が燃よぅる」
洋一が大きな声で叫んだら
「観音寺は燃えとらん。心配せんでもええ。福山がやられたらしい」
父はいつに無く厳しい表情で、洋一の肩に手を置き、ぎゅっと掴んで言った。
「洋、観音寺の向こうに福山があるんで。燃えとるのはずっと西北の福山じゃ。アホやなあ、お前は」
姉の言葉に両親も笑った。
あくる日になると福山の商店の伝票の燃えカスが風に吹かれて飛んできた。福山は完全に焼け野原になってしまったらしい。大人達の話によると、大門の大津野の海岸に空軍の通信所があって、それを攻撃しに来たのではないかということだった。
そして洋一にとって、忘れられない思い出がまだある。幼年期に姉が買って呉れたたった一冊の絵本だ。その絵本に描かれていた絵と文章は洋一にとっていつまでも印象鮮明であった。椰子の木が二、三本生えた海岸べりの風景の中を、アメリカの国旗をつけた飛行機が、黒い煙を吐きながら落下していく。そしてその上を日の丸を付けた飛行機が悠々と飛んでいる。その横に「ツヨイゾ、ツヨイゾ、ニッポン、ツヨイゾ」と赤い大きな文字で書かれていた。
今から考えてみると、当時は軍国主義下で国威高揚のため、幼児の絵本にまでこうした宣伝がされ、国民の意識操作がなされていたのだ。戦時下とはいえ、ここまで徹底していたのだ。
冬のある日、母がサツマイモを蒸して薄切りにし、せっせと天日に干していた。塵がつかないように長屋の屋根の上で干していた。洋一は梯子を掛けて干し芋をツマミ食いをした。
「お前はとんでもねえことをする。慰問袋に入れて、戦地の兵隊さんに送る為に干しとるんで。ばちがあたっても知らんけえのう」
母の意図がわからず、ツマミ食いをしてこっぴどく叱られたものだ。
日清戦争の退役軍人であった父は、銃後の守りと称し、国防婦人に竹槍の訓練をするのだと言って、小学校によく出向いていた。そして「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンを洋一たちにもよく言って聞かせた。
長兄は満州に従軍し、次兄は満州鉄道に就職して、奉天の駅に勤務していた。三番目の兄は水島の三菱の工場に徴用されて飛行機を作りに行ったきりだった。上の姉は本土の小さな村の果樹栽培農家に嫁いでおり、主に岡山白桃を作っていた。次姉は笠岡の女学校に船で通っていた。毎日モンペを履いて、鍬や鎌を持って女子挺身隊だといって、日の丸弁当を手にして出かけた。家に帰ると今日はどこそこの稲刈りだったとか、芋掘りだったとかよく話していた。学校での勉強はほとんどなく、田舎の女学校なので、あちこちの農家に勤労動員として出かけていたようだ。若い男の働き手が兵隊にとられて、年寄りと女だけの農家に応援に行っていたのである。洋一にとってはつらく切ない思い出だった。
洋一の住む南地区は海辺から三キロ程入った固い岩盤の上に家々が散在して、夏になると井戸水が涸れることが多かった。地区内は畑ばかりで、田んぼは少し離れたところに棚田があり、村人は難儀な生活に甘んじなければならなかった。農家はごく少数で、ほとんどは漁師であったが、それでも地区のまとまりは良く、互いに助け合いながら生活をしてきたのだ。
夏休みが真近くなったある日、洋一が二時頃学校から帰っていると、突然頭上に爆音が聞こえてきた。
〈あっ、B29の音じゃ〉
洋一は本能的に道のほとりの小さな溝の中に隠れた。もう一キロ程で我が家なのに運が悪い。早く家にたどり着かねばと、必死になって溝の中を這った。泥まみれになってやっと家にたどり着く。胸がドキドキして暫らく動悸が納まらない。母が不思議そうに
「どうしたんなら。そんなにハアハア言いながら、服を泥まみれにして」
「B29が飛んで来たんじゃ」
「洋は何を言ようるんなぁ。もう戦争は終ったんじゃけぇ心配いらんのんで。阿呆じゃのぅ、あははは」
戦争に負けて、もう攻撃してこないことは頭では理解していた。だがなぜか本能的に溝の中に隠れてしまった。洋一にとってあ「B29」の爆音は、空襲の怖さを暫らく思い出させる悪魔の響きだった。この時以来、戦争は済んだ、戦争は済んだと自分に言い聞かせたが、なかなかB29の忌まわしい恐怖感は消えなかった。でも不思議なもので、それから二年も経つと、次第に恐怖感はなくなっていた。だが何時までもあのB29の爆音は、ほかの飛行機とは違う独
特の響きで忘れることはなかった。洋一のこんな話を聞いていた英ちゃんは、幼い頃のことがよほど懐かしいのか、トシ君とのことを次々と話しかけてくる。
「洋ちゃん、牛飼いもよくしましたなあ」
「あれも三人一緒じゃった」
「何時もトシ君と三人で行きましたんや」
「夏は毎日じゃつたで」
「英、今年から『牛飼い』の手伝いをしてくれぇ」
二年生の夏休みになり僕は父から牛飼いの手伝いを頼まれた。やっと近所のお兄ちゃん達のように手伝いが出来る。英夫はとても誇らしい気分になった。朝八時頃からと夕方四時頃に一日二度同じ事を毎日繰り返す。洋一たちが「牛飼い」と称していた手伝いのことである。普段は大人が畦の草を刈ってきて牛に与える。子供が「牛飼い」の手伝いをすると、大人は草刈の労力が省けて大助かりなのだ。洋ちゃんとトシ君(トシ君は本家の牛を連れて)と三人で出かける。雨の降らない限り毎日出かけた。牛は役牛として牛車を曳かせたり田んぼを耕したりする。さらに牛糞は大事な肥料だ。農家にとって貴重な存在である。雌牛は特に繁殖で、農家に現金収入をもたらす貴重な存在でもある。だから農家はどこも雌牛を飼っていた。
毎年獣医の先生がやって来て種付けをしていた。それぞれの農家で成績のいい牛は、二年に一回は子牛を産む。それが飼い主の自慢であった。毎年牛市が本土の笠岡で開かれる。競り市で血統の良い牛の子は高値で競り落とされて農家の懐を暖めた。
父に連れられて僕も毎回子牛の競りについて行った。競りに連れて行く前の日は、裸麦を炊いて食べさせ、当日の朝も、毛ブラシで丹念に身体中梳いてやる。子牛を牛小屋からひき出していると、何となく親牛の目が悲しそうに見える。牛でも判るんかなあと僕も悲しくなった。船に乗せるときは、なかなかすんなりと乗ってくれない。綱をつけて連れて行くのは洋一の役割である。この時が一苦労だった。競り市では「ばくろう」が大きな声で競り落としていく。高額で競り落とされると周りに陣取った飼い主達から、驚きと羨望のどよめきが起こる。次々に競りが進み、僕の家の子牛の番が来る。手塩に懸けて育てた子牛が競り落とされていくのは悲しい。帰りに競り市のすぐ近くの駄菓子屋で、父は飴玉をどっさりと買ってくれる。この時僕の複雑だった思いは、最高の喜びに変わる。子供心とは妙なものだったと英ちゃんはしみじみ語るのだった。
朝八時頃
「洋ちゃん、牛飼いに行こうやぁ」
トシ君の声がする。牛を連れたトシ君が洋一の家の下道から大きな声で呼んでいる。
「おぅ、行こうか」
洋一は急いですぐ隣の本家の英ちゃんの家に誘いに行く。そして牛に綱をつけ、トシ君の居るところまで行って英ちゃんを待つ。三人揃ったところで
「今日はどこへ行くかなぁ」
「西の野山にしょうやぁ」
英ちゃんが大きな声で言う。
「よっしゃ。トシ君、西の野山へ行かんか」
三人は地区の西にある草はらを目指して牛を連れて行く。牛も段々慣れて、初めに向きを決めてやると独りで歩き出す。三匹がのっそり、のっそり歩き出すと、洋一たちは牛の後を付いて行けば良い。気楽なものである。でもそれは一本道に限る。草はらに行くまでには分かれ道が三本もあって、そこからは手綱を取らないと駄目だ。
原っぱに着いたら綱をツノにグルグル巻きつけて放し飼いが始まる。牛が美味い草を見つけて食べ出すと、洋一たちの仕事はひとまず一段落だ。あとはとんでもない所に行くとか、畑に入らない限り牛の自由にさせる。
地区の西に一箇所、北に一箇所、「西の野山」、「後ろの野山」と呼ぶ村有の草はらがある。牛飼いの場所は、この三個所を二、三日置きにグルグル場所をかえて「放し飼い」をした。牛飼いの時は大抵トランプを持って行く。牛が草を食べている間、トランプで勝負をして遊ぶのが日課であった。どの草はらにも子供が四人ほど上がれる広さの、上の平らな大きな岩があった。高さが一メートル三十センチ程で、そこからは野山が一望できる。だから牛の居場所を確認するのに重宝した。その岩の上によじ登り今日もトランプ遊びに興じていると、
「コラー、何をしとるんなら牛が畑の芋蔓を食ようるが」
どこかのおっさんに怒鳴られ、こっぴどく叱られた。慌てて牛を畑から連れ出し、おっさんがいなくなると、性懲りも無く又トランプ遊びを続けるのだった。
「昼を告げる役場のサイレンが鳴るまで、牛飼いを頑張りましたんや」
「それはそうと、英ちゃんはトシ君が溺れかけた時のことを覚えとる?」
「うん、あの時は僕もびっくりしましたんや」
「上級生が人工呼吸をして助かった時はホッとしたで」
「夏休みはよく泳いどりましたからなあ」
「何と英ちゃん、あの北の浦のアマモが、最近消えてしもうてなあ」
「えっ、トシ君の足に巻きついて、溺れかけたあのアマモが消えたん?」
「そうなんじゃ、何とかせんと駄目じゃ。五月の中頃釣りに行ってみたが、さっぱりじゃった」
「そりゃあ、えらいことでんなあ」
あの頃は昼を食べると一時間程昼寝をする。
「食べてすぐに泳いだらいけん。昼寝をしないものは泳いだらいけんで」
大人が子供の安全を考えて掟を作っていた。そして二時頃から四時頃まで泳ぎに行く。洋一たちの水泳場所は北の浦の海岸で、よくべラやキスを釣った浜辺だ。
高校生から幼稚園級まで多い時は二十人程が毎日集まり、ドボン・ドボン泳ぐ。洋一たちの地区と、もう一つ東隣の地区の子供が集まって泳いだ。高校生のお兄ちゃんたちがちゃんと監督してくれるので安心して泳げる。
「おい、洋、一寸上がって甲羅干しをせぇ。唇が青うなっとるが」
あまり長く水に入っていると唇が青ざめて来る。そしたらお兄ちゃんたちが忠告してくれる。海岸に上がって暫らく甲羅干しをしていると、背中が焼けるように熱くなってくる。慌てて又海に入る。磯から二十メートル当たりまでは水深が浅く低学年向きで、そこから先は水深がだんだん深くなっていて、上級者向きだ。百メートルほど沖にはアマモが群生していて、足に巻きついて小さい子は危険なのだ。だから洋一たちはまだ沖の方までは許可が出ない。早く沖の方まで泳いで行きたいなあと思いながら、ドボン・ドボンするしかない。ところがトシ君は沖の方まで泳いで行って、アマモに足をとられて溺れかけたのだ。
手をバタバタさせて、顔が海面から出たり沈んだりしているのをお兄ちゃんたちが見つけて助けあげた。浜辺に横たわったトシ君は身動きしない。みんなで「トシ君、トシ君」と大声で叫んだ。お兄ちゃんたちの一人が馬乗りになり、顔を真っ赤にしながら人工呼吸をした。五分ほどした時、トシ君は口からガボッと水を吐き出して助かった。皆周りを取り囲んで見ていたが、思わずやったぁと歓声を上げたものだ。あの時はどうなるかと心臓が破裂しそうだった。
でも炎天下では最高の遊びであった。八月のお盆前までは毎日泳いだ。お盆が過ぎると水泳禁止と学校から言われていた。
二時頃から北の浦で二時間ばかり泳いで帰る。帰ってきたら自分で麦飯の握り飯を二つほど作って頬ばり、四時頃牛飼いに出かける。日が落ちても夏は七時過ぎまで明るい。少し薄暗くなりかけると牛のツノに曳き綱をクルクル巻きつけて、尻をポンとたたいて帰り道に鼻面を向けてやる。牛は心得たもので、のっそり・のっそりと自分の牛小屋まで帰っていく。こうして毎日朝、夕二回の牛飼いの手伝いが終わるのだった。これが洋一たちの夏休の日課であった。英ちゃんはよく覚えていてしみじみと語った。
洋一も感動的な事件を思い出していた。あれは昭和二十三年の八月十日、地区にとっても記念すべき日であった。ロシアに抑留されていた分家の守さんが、地区最後の復員兵として帰還して、重苦しかった地区もやっと明るさが戻ってきた。人口百八十人少々の集落で召集兵が二十三名、戦死者八名であった。そしてロシアの捕虜になり音信不通となっていた守さんの帰還を、地区民全員が祈っていたのだ。これでわずか三十軒ほどの小集落にも戦後の自由・平等で平和な雰囲気が浸透し、若者衆が帰ってきて地区はやっと戦前の活気を取り戻し始めたのだった。
その手始めとしてお盆の十四日の夜、地区の盆踊りが復活した。この頃の農家ではそれぞれの家の庭が、物干し場として確保されていて、穀物などの乾燥に使用していた。その広場に集まって、地区民総出で夜が更けるまで踊るのだ。時には網干し場で踊ることもあった。最初の会場が守さんの自宅の庭だった。帰還を祝っての盆踊りが繰り広げられた。盆踊りは洋一にとってはじめての新鮮な催しであった。
若い衆を中心に太鼓を叩く者、音頭を取る者、踊る者と、それぞれ浴衣に下駄履きでそれはそれは楽しい一夜だった。音頭は「水かえ踊り」「大黒踊り」「備中松山踊り」と三つあって、喉に自慢のある留さんや幸さんや治夫さんが音頭をとり、勝さんが太鼓を叩きその周りを囲んで踊るのだ。
「子供も入って踊れぇ」の掛け声で、洋一たち子供も大人の後ろに続いて、見よう見まねで団扇を手にして着いていく。トシ君も不自由な体ながら踊っている。ゆっくりとした太鼓のリズムと音頭に合わせて、手や足の運びに迷いながらも一生懸命踊った。周りの家々に太鼓の音がこだまして、何とも言えないのんびりとした楽しいひと時であった。
守さんのお母さんは長男の無事帰還を祝って、あれこれと料理を作ってもてなしてくれた。湯がいたシャコ、海老の天麩羅、枝豆等酒のツマミが主であったが、子供の洋一も遠慮がちに手を出して食べた。井戸で冷やしたスイカは冷たくて最高だった。
踊りは十一時頃まで続き、夏休みなので子供も最後まで遊んでいても許された。この年を皮切りに毎年、青年団が中心となって庭の広い家や、網干し場を順番に回って、毎年開かれ夏の思い出を飾ってくれた。
少年時代の洋一にとってもう一つ楽しいイベントが再開された。戦時中は中止していた八幡神社の秋祭りである。六百戸ほどでお祭りしている島の神社で、小高い丘の上のこんもり茂った森の中にあった。大きな楠の木が三本、銀杏の木が二本、周囲を圧倒するようにそびえていた。
祭の前夜は神社の境内で神楽を奉納したり、青年団が素人芝居を演じたりして、島民総出で夜遅くまで楽しんだ。夕方から夜店が立ち並び、それはそれはにぎやかで、戦後の物資の少ない時なので何もかもが物珍しく、子供の洋一たちの一番はこの夜店であった。ガス燈のカーバイトの匂いに誘われて、誘蛾灯に集まる虫のように出店を取り囲んだ。お菓子も玩具も珍しく、目の前でグルグル回して作ってくれるアイスクリーム、綿菓子、イカ焼き、鯛焼きなど、どれもこれも一年に一度の楽しみであった。だから時たまもらう小遣いは、この日の為に大事に貯めていた。
トシ君や英ちゃんと紙カン鉄砲を買ってパチパチやって遊ぶとか、小遣いのある限りあれこれと買って食べた。洋一は戦争に負けた時、子供なりに悔しい思いを抱いたが、戦争のない平和な世界が、こんなに楽しいということを身をもって体験した。
「本間に戦争中は大変でおましたなあ」
英ちゃんが朝鮮戦争の始まった頃の話をしだした。日本は米軍の物資調達のお蔭で戦後の復興は目覚しかった。藁草履はゴム草履に変わり、今度は随分長持ちしたものだ。ゴム草履は重宝したが、あれは小学校に上がる前のことだった。配給物資のくじ引きで運動靴が当った。英ちゃんのお母さんは大喜びで農協に出かけて、配給切符と交換して買って帰った。足を合わせるとまだ少し大きくて、大事にタンスの中にしまい、正月が来るたびに足を合わせた。少しだぶついたが待ちきれず、三年ほど経って履いて遊んだら、一週間ほどで裏が擦り切れてしまった。大人は再生ゴムじゃけえ仕方がないなあとこぼしていた。
米軍の物資調達は洋一たち子供にも恩恵を与えてくれた。それは食用蛙釣りである。島に一つだけ周囲が百メートルほどの溜池があり、田んぼの水を補っていた。その池に食用蛙が繁殖していて、この頃から海釣りに代わって、洋一は英ちゃんやトシ君と夏休みに、食用蛙(牛蛙)を釣りに行くのが日課となった。二年間ほど洋一たちにとっては唯一の小遣い稼ぎとなった。
ウオーン、ウオーンと牛が鳴くような声なので「牛蛙」と呼ばれるらしい。缶詰めにしてアメリカに輸出するらしく、まとめて買ってくれる業者があった。小遣い稼ぎによく釣りに出かけた。食用蛙釣りのコツは、特殊な針の先に何でもいい赤か白の布切れを付けて、蛙の鼻先に近づけて揺り動かすとカブッと食い付く。池の土手の物陰からそっと近づき鼻先をねらうのだ。音を立てたり姿を見られるとガバッと水にもぐりこんでしまう。
夏はトシ君と三人でよく蛙を釣りに行った。小遣いを貯めては洋一と英ちゃんはカバヤのキャラメルを買ってカードを集める。そのカードを五十点集めて送ると硬い型紙の表紙で作られた物語本を送ってくれる。大当たりは十点、カバの絵のカードは八点・・・・・とカードを集めた。早く五十点になるのが楽しみだった。「シンデレラ姫」「宝島探検」「隊長ブリーバ」「トムソーヤの冒険」といった本の届くのが待ち遠しく、届くと何はさておいてかじりついて読んだ。
「洋ちゃん、あげらぁ」
トシ君はカバヤキャラメルに付いているカードをいつもくれた。洋一や英ちゃんにとっては、カードがねらいでキャラメルを買っていたので大助かりだった。
「洋ちゃん、どの本にする?」
重なるとまずいので、二人で相談しながら送ってもらい、交換しながら読んだ。
「あの本はほんまに面白うおましたなあ」
「ようキャラメルを買って、送ってもらったで」
「物語の世界に没頭して、親から手伝いもせずにとよく怒られましたんや」
「読み出したらやめられなかったで」
「本を送ってもらうのが嬉しうて、食用蛙をよう釣りに行きましたで」
「色んな物語の世界に連れて行ってくれたからなぁ」
洋一にはほかにもう一つの楽しみがあった。小学校に入って小学館の「小学一年生」という月間雑誌を母から買ってもらっていた。この雑誌には幾つかの付録が付いていてそれも楽しみだった。洋一にとってこの本はラジオとか新聞しか情報源のないこの頃、唯一の色々な情報の宝庫であった。多くの知識をこの雑誌から仕入れることが出来た。貧しい農家で現金収入のほとんどない家庭だったが、母が毎日麦稈真田を編んで貯めた金で買ってくれた。読書が大好きだった洋一は小学校の図書室でよく借りて読んだ。だが読みたい物は数が少なくて少々物足りなかった。だから「小学〇年生シリーズ」とカバヤ文庫は、洋一を広い世界に案内してくれる貴重なガイド役であった。
この頃になると夕方ラジオで連続放送劇「鐘の鳴る丘」を聞くのも楽しみの一つだ。「緑の丘の赤い屋根・トンガリ帽子の時計台 鐘が・・・」のテーマ曲が流れてくると、ラジオの下に座って空想を働かしながらドラマの世界に酔いしれた。続いて「南総里見八犬伝」が始まった。神秘なドラマの世界に想像を逞しくし、明日はどう展開するのか待ち遠しい気持ちだった。こうして夕方になるといつもラジオの下にトシ君と英ちゃんと三人で座り込むのだった。当時我が家では、ラジオは貴重品で、棚の上に鎮座していたので、椅子をもって行ってはダイヤルを回したものである。
洋一が中学に行きだしてからしだいに三人で遊ぶことが少なくなってきた。でもトシ君は相変わらず「洋ちゃん、遊ぼうやぁ」と言っては洋一のところによく誘いにきた。小学校時代は宿題を片付けるだけで勉強は足りた。でも中学になると英語や数学など、のんびりとはしておれない科目がある。洋一はトシ君と遊ぶ時間が段々少なくなっていった。
大きくなるにつれ遊びも変わったが、メジロ取りはいつもトシ君と一緒でよく出かけた。
「英ちゃんはなんでメジロ捕りはしなかったの?」
「親父が反対しましてなあ」
「何で反対したん?」
「よう判らんけど、鳥が嫌いだったんと違うやろか」
「いつもトシ君と二人だけじゃった」
母から
「洋はもう中学生になったんじゃけえ、遊ぶばかりしょうたらいけんで」
とよく叱られた。特に冬休みがシーズンで、鳥モチを棒の先に巻きつけて囮のメジロの入った籠に棒を仕掛ける。メジロがやってくるのを木の陰に隠れて待つ。囮の鳴き声に誘われて籠の近くにやってきたメジロが取りモチの棒に止まる。足がくっついて逃げられなくなり、クルット廻ってぶら下がる。急いで駆け寄って捕まえる。
いつ来るか、いつ来るかと息を潜めて待っている時のあの緊張がたまらない。心臓がドッキン、ドッキンする。病み付きになって、冬の朝早く寒いのもかまわずほとんど毎日のように出かけた。枇杷の木のあるところがポイントだった。メジロは枇杷の花の蜜を求めて来るようだ。そんなに簡単には捕まえられず、ひと冬に二、三匹が精一杯だった。雄か雌か見分けて雌は高音を張らないので逃がしてやり、オスだけを捕獲する。
捕まえたメジロは餌付けをして毎日世話をする。魚粉と大豆を粉にしたものと、ホウレン草を擂り鉢ですり、練り餌を与え、さらにみかんを輪切りにして毎朝与える。みかんを食べさせると張りのあるいい声で鳴く。だから蜜柑が家にある時は欠かさず与えた。雄が高音を張り出すと、鼓膜にビンビン響く。何とも言えないほど素晴らしい。チー・チュウ・チー・チル・チル・チー・チュル・チュル・ルルルル・・・・と一回に三十秒くらい続く。一息つくと又鳴き出す。
そのうち保護鳥に指定され、県知事の許可が無いと飼育できなくなった。当時は自由に飼うことができたので、冬はよくメジロ取りに出かけた。
こうした遊びも中学二年になった頃から次第に遠のいた。洋一は英語塾に通い出し、英ちゃんはそろばん塾に行きだした。放課後は二人とも日が暮れてから帰宅した。そしてトシ君との遊びはほとんどなくなっていった。
世の中は戦後復興も軌道にのり、工業化が進み、生活スタイルも大幅に変わっていった。役牛に替わって耕耘機が導入され、農家の生活も自給自足の生活では成り立たない。次第に換金作物の栽培が普及していった。除虫菊、葉タバコ、薄荷、葡萄、アイリスの球根栽培など、次々と農業改良普及所の指導を受けて、父は無事帰還した長兄と換金作物に挑戦していた。台所は薪からプロパンガスになり、自家水道も設置された。漁船は櫓漕ぎの舟からエンジンのついた船に変わり、その頃はヤンマージーゼルが一番いいと評判だった。子供の目にも驚くほどの変わりようであった。
「洋ちゃん、トシ君が死んだ時のことを覚えてはるか」
「うん、あの時は二人で夕方になって墓に参ったなあ」
「あれは僕が中二で、洋ちゃんが三年の秋だったと思うわ」
洋一が学校から帰っていると、公会堂の付近に大人たちが大勢いて、何か慌しく右往左往している。何があったのかなぁと思いながら帰宅すると、母が沈痛な顔で言う。
「洋、トシ君が死んだんで」
何かがあったと思っていたがそうだったのか。
「何で死んだんでぇ」
「風邪を引いて寝ていたらしいが、こじらせて肺炎になり、医者を呼んだ時はもう手遅れだったそうじゃ。かわいそうなことじゃ。まだ十三になったばかりなのになぁ」
母は目に涙を浮かべながら教えてくれた。
「洋はトシ君と仲がよかったなぁ。よう三人で遊びょうたけぇ、辛いじゃろう。」
そう言われると洋一は余計に涙がこぼれそうになり、慌てて庭に出た。泣くまいと思って空を見上げた。夕日が西の山に沈みかけて、茜色に染まっているのが目に入った。一生懸命泣くまいと我慢していたが、涙が止めどなくなく流れてきた。とうとうトシ君はあの世に逝ってしまった。最近トシ君と遊ぶことがなくなっていたが、も少し声をかけてやればよかったなあと、洋一はぼろぼろとこぼれる涙を、拳でゴシゴシと拭いながら、茜空の彼方を見つめて呆然と佇んでいた。
あくる日の昼下り、チーン・チーン、しばらくして又チーン・チーンと野辺送りを報せる鉦の音が聞こえてくる。急いで外に出てみると、トシ君の棺が四人の大人に担がれて共同墓地に静かに向かって行く。父は朝早く出かけて行ったが、もう葬式を終えて白い布を垂らした竹を持って、葬列の先頭を静かに歩いて行く。続いてトシ君のお父さんの日出やんが位牌を胸に抱き、弟の勲ちゃんが遺影を持って続いていく。
周りの山々は色ずんで木々の紅葉が目にしみるような秋の午後であった。トシ君と遊んだ数々の思い出が次々と頭をよぎる。魚釣りや蛙釣り、牛飼いにメジロ取り・・・・・。純粋で心根の優しいトシ君は、洋一にとっては少年時代の大事な友の一人であった。なんとはかない命であろうか。もうトシ君と一緒に魚釣りをすることも出来ず、メジロ取りにも行けない。「洋ちゃん遊ぼうやぁ」という元気な声も聞けない。優しさの塊のようなトシ君に、何度心洗われる思いがしたことだろう。純粋な心の持ち主だったトシ君にだけは嘘はつけなかった。なにかわからないが、洋一の心の中にぽっかりと穴が空いたような思いであった。
「トシ君が死んだ時、夕方に道端の野菊を一輪持って、こっそりとトシ君の眠っている墓地に出かけたなあ」
「うん、まだ土の色の新しい小さな土饅頭が彼の墓でしたんや」
「今は弟の勲ちゃんが石塔を建てて祀ってあるで。秋冷俊・・居士 と戒名が彫ってある」
「洋ちゃん、トシ君は優しい子でおましたなあ」
「うん、トシ君とよう遊んだで」
「魚釣りがほんまに好きでおましたんや」
「そう、そう。よう釣りに行こうやあ言うて誘いに来たで」
「ああ、トシ君はべラやキス釣りが上手かった」
「あんな純粋で優しい心の持主は今時居ないで」
「ああ、そうでしたなあ。トシ君はいっぺんも嘘をついたことはなかった」
法要が済んだ後、二人は洋一の家で杯を傾けながら、夜が更けるまで懐かしく語り明かし、英ちゃんは翌日京都に帰っていった。
今日は八幡神社の大祭りである。この島では地元のテレビにも度々放映され、最近は観光客も増えてきた「走り神輿」という勇壮な催しがある。島には神主がいないので、本土から祭の時にやってきて祭礼をとり行っている。太鼓の音がしだしたので、洋一は急いで神社に向かった。総代さんたちが神妙な顔で神殿に座って神事を見守っている。
神主のお払い・祝詞の奏上に続いて棒術、獅子舞を奉納する。次に神主によって三体の神輿に神霊を移す。九時半から三体の神輿が境内を練り廻り、一体ずつ参道を鳥居まで駆け抜けて行った。これから東浦の港より飾り立てた船に乗せ、舟歌を歌いながら海上渡御して、西浦を目指すのだ。そして西浦のお旅所でも、神事と棒術が奉納されて、いよいよ祭のクライマックスになる。
洋一は神輿が御座船に乗ったところまで見届け、自転車で西浦の港に先回りをすることにした。大漁旗や幟で色鮮やかに飾り立てられた船が三艘、穏やかな瀬戸内の海をエンジンの快音を響かせながら、港に整然と入ってきた。エイサ、エイサとかつぎ手の威勢のいい掛け声で、御座船から下ろされた三体の神輿が桟橋に並ぶ。これから始まる競争に備えて、かつぎ手はお神酒やらジュースやらで喉を潤しながら、出発の合図を待っている。十分ほどすると、ハンドマイクで出発の時間が迫ったことが告げられた。やがて太鼓の合図がドンと鳴り、桟橋前の広い道を三体の神輿がウオーという時の声と共に、一斉に走り出した。一回限りの競争だから、島人も観光客も身を乗り出して見守る。観光客のカメラがカシャカシャと音をたてる。地元ケーブルテレビと民放が、取材で神輿の後を追う。洋一は島を出て以来、今回が初めての走り神輿であった。以前は担ぎ手としての参加だったが、今回は見物である。高校生になると、男は皆かつぎ手としてかり出されたもので、あの頃を懐かしく思い出しながら見ていた。
この走り神輿は、天保九年に神社を新築した時、記念として始まった歴史的に伝統ある行事だったが、担ぎ手の不足やら資金の問題などでしばらく中断していたのを、平成十年に保存会を立ち上げ、翌年、市の重要無形文化財に指定されて復活したと為さんから聞いている。少子高齢化で一体八人、三体で二十四人の担ぎ手を確保する必要から、秋に行われていた祭を、五月のゴールデンウイークに変更して実施している。五月三日が宵宮、四日が本祭、五日が「お帰り」と続き、多くの若者や帰省の島人のうえに観光客も加わり、一年で一番、島の人口の膨れあがる三日間である。島に残っている年老いた親達も、この日の来るのを何よりの楽しみとして、待ち焦がれている祭なのである。いや、祭そのものよりも島を出て行った息子や、娘、孫たちに会うことができる日なのである。正月とお盆とこの祭の三回は、島の人口が四倍にも五倍にも膨れあがり、活気に満ちたかつての島を取り戻す。
競争が終わり、見物の人達はまだ興奮冷めやらぬ面持ちで、それぞれ引き揚げて行く。やがて港はいつもの穏やかな桟橋の風景に戻る。神輿は明日の「お帰り」の行事のため、御旅所に納められた。洋一は自転車を踏みながら、先ほど桟橋で気になっていたかつぎ手のことをまた思い出していた。三体の神輿のかつぎ手二十四名の中に、洋一が島で見知っている若い衆はわずか六名、他は多分この祭のためにわざわざ帰ってきて、祭の存続に協力してくれているに違いない。少子高齢化はこのような伝統行事の維持にも、深刻な影響をもたらしていてこれから先が思いやられる。
祭りの熱気も冷め、帰省していた人たちも島を去り、ひっそりとした日常の島に戻ったそんなある日、
「洋ちゃん、居るんか」
同級生の登志男が神社大総代の、久米やんを連れて突然尋ねてきた。二人揃ってなんだろうと首をかしげている洋一に、とんでもない話が持ち込まれた。
「大総代さんがお前に相談があると言うんで連れて来たで」
「何の話じゃろうか」
「実はなぁ洋一さん、先日の祭の後の総代会で出た話しじゃが、あんたに八幡神社の神主をやって欲しいということになってなあ」
「ええっ、そりゃあまあどういうことです。僕のような者に勤まるんでしょうか」
「洋ちゃんが大学出じゃけえ、一番向いとということになったらしいで」
「今の神主は本土から、祭の時だけ来てもらようるが、島の連中がなぁ、出来れば土地の者が神社の守りをした方がええと言うんじゃ。毎朝太鼓を叩き、祝詞をあげてくれる人を探しとったんじゃ。島に帰ってきて本気で住むと言うのを聞いて、皆があんたがええと言い出したんじゃ。まあすぐにとは言わんけえ、よう考えてみてくれえ。」
えらいことになってしもうたと洋一はすぐは返事が出来なかった。
「折角の話しですけえ、しばらく考えさせてもらいます。」
そう言ったものの、神主は資格が要るはずじゃ。資格が取れるものじゃろうか。全く別世界の仕事で自分に勤まるじゃろうかと思案にくれた。
荒れ果てた畑を冬に開墾してすぐに種蒔きをしたので、今年の春の野菜作りは失敗した。「野菜作りは土つくり」と島の老人達は言っていたがその通りになった。そこで今年は夏の間に鶏糞など入れて耕し、秋の準備をしきた。九月になってぼつぼつ冬野菜の種蒔きの時期がやってきた。今度はもう少しマシな野菜が作りたい。白菜、大根、ほうれん草、水菜、キャベツ、春菊・・と植える物が一杯ある。鍬をかついで五百メートルほど離れた畑を目指す。
「朝早よう行きょうてんなぁ」
「ああ、大根や白菜を植えよう思うてなぁ」
「ようがんばってじゃなぁ」
「荒らしとってもしようがねえけえ。植えときゃあ、なんぼうか出来るけえ」
「奥さんはその後どうしようてん」
「心臓が悪いけえ、女房の実家のある大津におらしとるんですわ」
「そりゃそりゃ大変なんじゃなぁ。まあ大事にしてあげんせえよう」
先日耕していた畑に畝をつくり丁寧に種を蒔く。蒔いた上に発芽するまで日よけをして乾燥を防ぐ。昔、父がやっていたのを思い出しながら見様見まねでやってみたが、上手く芽が出るか心配である。でも蒔かぬ種は生えぬというから挑戦するしかない。作業を終えた洋一は、サッパリとした晴れやかな気分になって家に帰った。
「おう、山本か。元気そうじゃのう」
「いつ島へ帰って来たんなら」
「少し薄うなったなあ」
今日は高校の同級生の定例飲み会である「三四会」の案内をもらい、ユーターンして初めて仲間入りデビューをした。皆言いたい放題を言って飲兵衛の男ども八名が洋一を歓迎してくれた。卒業以来、個人的には時々会っていた者もいたが、大勢に会うのは四十年振りである。それぞれ、高校時代と顔は変わってはおらず、すぐに名前を思い出すことが出来てひと安心する。しかし、頭の毛の薄くなった者、見事な白髪の者、ゴマ塩頭の者、ふさふさ黒々の者と、頭の様相が一番変わっていた。
「奥さんと一緒じゃあねえと聞いたが、どうしたんなら」
「横浜の家はどうしたんなら」
今日は洋一デーになってしまい、島に戻った経緯や、妻のことなど包み隠さず話した。十時過ぎまでハシゴをして、同じく東京からUーターンして、市内に住んでいる省ちゃんの所に一夜の宿を借りた。彼とは東京時代同じ同級生の会で、年に二、三回飲んだり小旅行をしたりしていたので何の抵抗もなかった。
彼は両親の面倒を見るために三年ほど先に帰っていたので、笠岡の生活にも慣れ、色々と情報を提供してくれて助かった。
「三四会はふた月に一回のペースで、日帰り温泉に行ったり、近回りの旅行もしとるんで。又参加したらええ」
「癌になったと聞いた千葉のC君は、その後どんなんかな」
「自分の余命を考えて、出来ることは積極的にやっとるらしいで」
「病気だけはどうにもならんけえのう。脳じゃったら福山にいい専門病院があるし、心臓や癌は倉敷がええど」
と、やはりこの歳になると、病気のことが話題の中心になる。こうして朝の二時頃まで話し込んだ。
年明けて正月の三日に久米やんが神主の話の結論を聞きに来た。洋一は同級生の弟が現職の神主をしていると聞いて同級生を介して色々と情報を仕入れていた。
「もう僕の歳になると神社庁では年齢制限があって六十五を過ぎたら資格を取れんらしいで」
「いやそれでもええ。地元の者は正式でのうても、平常管理してくれることを望んどるんじゃ」
「僕は神道でないけどそれでもええんかなぁ」
「一週間ほど四国の石鎚神社へ講習を受けに行ってくれんか。とりあえず最低限の修行をしてきてくれたらええ。」
洋一はこの申し出を受け、大総代の指示に従って石鎚山に講習を受けに行った。神道に関する事、祭典の基本、お供えの原則などの講習を一週間に渡り受講した。そして春秋の祭典には今まで通り神主を本土から呼んで式典をするが、平常は洋一が神社の管理、清掃、毎朝の祝詞を奏上することになった。
毎朝六時に起きて沐浴をし、白装束に着替えて神社に出向く。簡単な掃除をして太鼓を叩きながら祝詞をあげる。これが洋一の日課となった。朝食はその後に食べる。
祝詞もなかなかリズミカルに唱えることが出来ず、もどかしさをおぼえるが、積み重ねが肝心とがんばった。規則正しい生活のリズムが出来、早朝から高らかに声を張り上げることで、すこぶる体調がよく朝飯が美味い。精神的にも神に仕えるというのはさわやかで清々しい気分であった。地元の人たちからこんな形で、信頼と親しみを与えられたことを心から感謝した。島に帰ってよかったとしみじみと思うのだった。
二月の終わり笠岡の同期の仲間八人と山陰の羽合温泉一泊バスツアーに参加した。大さんが幹事で後部座席を確保してくれていた。不良老人九名が乗るので、他の乗客にあまり迷惑にならぬようにとの配慮であった。四十人乗りのバスはほぼ満席で、我々三四会のメンバーで、酒好きな譲ちゃんや修さん達は、乗るとすぐに持ち込んだ缶ビールを皆に配って早速やりだした。
昨日の宴会がたたって飲まないのは浩さんだけで、洋一は今は要らんと言ったが、付き合いが悪いのうと無理に勧められ、とうとう飲む羽目になってしまった。
「朝から一杯やるのは最高じゃなぁ」
譲ちゃんはご満悦である。
「ビールは寒いけえ酒がええ」
照ちゃんが言う。
「おうワシも酒がええなぁ」
大さんが調子に乗って言う。
「贅沢を言うな。文句を言わずにまあ飲めえ」
いつもの調子で靖さん。
バスが米子道に入ってまもなく、窓の外を見ると雪が降り出した。もうすぐ三月というのに、進めば進むほど雪は激しく、一時間もしないうちに、見る見る辺り一面が銀世界になった。
「おう、最高のロケーションじやのう。大さん有り難う」
英さんや浩さんは感動している。
「いや、こりゃあ予定に無かったで。運がええと言うか悪いと言うか、微妙じゃなぁ」
「トンネルを抜けると雪国だった」
靖っさんがいつものように茶化す。コーディネートした大さんは後の行程が心配らしく、雪がやんでくれんかのうとしきりにぼやいている。
羽合温泉に一泊し、雪で予定を大幅に変更して翌日は帰り道にある中国庭園に立ち寄る。東郷湖のほとりにある、国内最大級の中国庭園で、なかなか手の込んだ異国情緒たっぷりの建物が並び、中国大陸の文化を再現していたが、洋一は台湾にも一年勤務していたし、上海にも二年いたので、本場の物にはさすが及ばないというのが偽らざる感想だった。
いずれにしても今回の旅の秀逸は、天の配剤である雪景色で、終生あの素晴らしい雪景色は忘れることは無いだろうと思った。仲間のほとんど皆が、異口同音に良かったなぁという感想を持ってバスの旅を無事終えた。
人間というのは面白いもので、近所の民やんは八十過ぎだが、畑仕事や釣りに精出している爺さんだ。ちょっと変わった老人で、昔から人に物をやるのを見たことが無い。人からは平気で何でももらうくせに、などと言われている、島一番のケチと評判の爺さんである。その民やんのことで幼友達の与一が
「洋ちゃん、民やんからよう物をもらうそうじゃが、どうなっとんなら」
と言うて来た。
「民やんが肥料袋を担いで坂道で難儀をしょうたけえ、運んでやったんじゃ。多分それでじゃろう」
「ああ、そうかな。ちょっと評判になっとるけえ気になってなぁ」
そう言って帰って行った。
何も見返りを期待してのことではなかったが、その後も何度か手を貸したら、折々に魚をくれたり、白菜やらキャベツやらネギやらミカンやら持って来てくれる。洋一は島で年金生活を始めてから、魚は自分で釣ってくるし、野菜も下手ながら作っている。だから要らんと言うのに民やんは持ってくる。洋一も一人では全部食べきれないので、隣近所の年寄りにおすそ分けする。そしたらその人たちが、また何やかやと物を呉れる。現役の時は自分で稼いで自分で買って暮らしてきた。その頃と比較して、今は物があまり要らなくなって、今の方が考えようによっては豊かである。人も人生も不思議なものだと洋一はつくづく思う。
四月になって、島のグラウンドゴルフのクラブに入会した。メンバーは現在十八人で、小中学校を統合して、空き地になった小学校の運動場で、週三回プレーを楽しんでいる。常連は十二、三人だが、平均年齢七十三歳。ワイワイ、ガャがャ言いながら一時間半程、楽しくプレーする。三ヶ月程になるが洋一はなかなか上達せず、八十過ぎのばぁちゃん達にいつも負ける。でも皆で賑やかにやっていると、ストレス解消になり、年寄りにはちょうど良い運動にもなり、健康維持にはもってこいのスポーツだ。
プレーが済んだら、ばあちゃん達の誰かが、色々な食べ物や飲み物を提供してくれて、しばらくは嫁のことや孫のことや、一人住まいの愚痴など、世間話に花が咲く。
国民年金で細々と暮らすお年寄りにとって、年金支給の不始末は、最近一番の話題となって皆関心が深い。
「何でこがんことになったんじゃろうか」
「保険庁の役人が、本気で仕事をしょうらんからじゃ」
「一所懸命掛け金を払うてきたのになあ」
「せえでも今、調べてくれとるというから、そのうちええことになるじゃろう」
「そのうち言ようたら、私らぁは死んでしまうで」
「ほんまに早うしてくれにゃあ、困るなあ」
「あの桝添なんとかいう大臣が何とかしてくれるじゃろう」
「なんか、年金特別便とかいうのを送るとか、新聞に書いとったで」
とにぎやかなことである。
なんだかんだと話が弾むうちに、泊りがけでG・G旅行に行こうと、会長から提案があった。なんでも、岡山の東端の和気に、日帰り温泉施設なのに宿泊も出来て、おまけに芝生のG・G場があるという。一週間ほどして参加者を募ったら総勢十三名になった。行ってみると芝生が綺麗な、協会公認コースでのプレーは最高だった。バンカーまであって、年甲斐もなくキャア・キャア言いながら、楽しいひと時を過ごした。近くの山裾にはリンゴ園もあって、素晴らしいロケーションの中でのプレーを終え、温泉に浸かって疲れを癒す。みんなの中に早く溶け込まねばと、宴会で洋一は「北国の春」を歌い、拍手喝采を浴びて気分がよかった。
「・・あの故郷に帰ろかなぁ・・帰ろかなぁ」
思い切って島に帰ってきて良かったとつくづく思える二日間であった。
島のあちこちの畑で、ミカンの白い花が咲きだした。我が家の畑にもネーブル、温州ミカン、アンセイカン、夏ミカン、八朔、橙、キンカン、そして花の色は薄紫だがレモンもある。島は温暖な気候なので、帰ってきた時に手当たり次第の柑橘類を植えてみた。三年もするとまだ数は少ないが実をつけ始めた。色々なミカンを使って、手作りのジュースを作ってみる。無農薬なので安心安全この上ない飲み物で重宝している。夏蜜柑は皮と実をグツグツ煮て、ジャムを作る。
今日もいつもと変わりなく、朝食のパンにぬって食べる。食の安全とか偽装問題がうるさく言われているが、もっと消費者が利口になって地産地消を心がけたらよいのにと思う。スローガン倒れにならぬよう、国も本腰をあげて取り組み、食料自給率を高める政策があっても良いのではと思う。
ゴルフツアーから帰って二週間ほど後、待ちに待った七島合同の「島の大運動会」がやってきた。市が島の活性化をねらって「海援隊」と称する部署を設け、その取り組みの一環として始めてから、今年で六年になる。島を輪番に会場として、参加可能な全島民が集い和気あいあいと、一日ゲームに熱中する。今年は高島が会場で、洋一にとっては初めて行く島である。
この高島は、有人七島の中で本土笠岡に一番近い島で、十五分ほどの距離である。古事記では八年間、日本書紀には三年間、神武天皇が九州からの東征の途上、吉備の高島宮に滞在したと伝えられている。吉備の高島宮の位置については諸説あり、真偽の程は定かでないが、島内には神武天皇にまつわる伝説がいくつも残っている。高島神社には神武天皇が祀られており、標高七十七メートルの神ト山の山頂には、高さ八メートルの「高島行宮遺阯碑」が立っている。皇紀二千六百年、文部省により児島郡甲浦村の「高島」(現岡山市)が正式に指定されたが、島の人々は誇りとして今も祀っている。
自分の生まれた島と本土は行き来するが、よほどのことがないと、近隣の島に行くことは無い。参加者は手分けして漁船に分乗して参加した。高島は宝石のように美しい島だった。高齢者が多いので、競技はリクリエーション中心だが結構皆燃えていた。備中神楽も演じられて多彩であった。洋一は玉入れとパン喰い競争に出場した。高校同期生の市長が、挨拶の中で笠岡諸島を市の宝にしたいと言っていたが、リゾートとして活用すれば活性化は間違いなかろうと思えた。
四月の中旬から5月にかけては、さまざまなイベントが目白押しで、洋一を楽しませてくれる。帰郷して久しぶりに見た昨年の八幡神社の祭礼が今年もやってきた。神主は本土からやって来て祭典がとり行われる。今年は神社の守りをしてきた関係で、神主の指示に従って洋一も助手を勤めた。さすが本職の神主だけあって、祝詞は厳かに高らかであった。同級生の与一の話によると、ここ最近は本祭の日に、年々観光客が増えて賑やかになってきたらしい。テレビの録画も、今年は地元のケーブルテレビに、NHKと民放二局が加わり、担ぎ手は意気に燃えているようだ。しかしこの伝統行事を支えるために、帰ってきて担いでいる若者も、これから先は高齢になるし、若者の数も減っているから、存続が危ぶまれる時が来るのは間違いない。祭のあとの静けさと共に心配の種は尽きない。
五月の終わり、また三四会の仲間の大さんツーリスト(自称)から「千屋温泉G・Gと千屋牛を食う会」の案内をもらい参加した。大さんは三年前脳梗塞を患い、幸い軽度で済んで後遺症もなく、田舎で悠々と野菜作りに励み、晴耕雨読の、自称「草取りじいさん」をやっているのだが、口癖に
「おい、生きている内が華と言うが、あれは間違いじゃ。元気な内が華と言い換えた方がええで」
事あるごとに悟ったような事を言う。
「ヨイヨイになって生きとってもしょうがないからなぁ。いつ駄目になるか判らんけえ、皆遊びに付き合うてくれ。ワシがプランを立てるけえ」
今回の旅もそんなことから始まったもので、総勢十一名、新見で昼食をとり神郷を通って二時頃千屋温泉に到着する。早速芝生のグランドでG・Gを楽しむ。大さんと洋一を除いて皆初めての者ばかりで、大さんの指導よろしく二班に分かれてプレーを楽しんだ。そんなに難しい競技ではなくて、洋一は二十五メートルでホールインワンをした。まぐれではあったが気分が良かった。何人かの者が病み付きになりそうだとこぼしていた。余程楽しかったに違いない。
温泉に浸かり千屋牛のステーキとワインで乾杯し、英さんが山下医師と意気投合して夜遅くまで賑やかに飲み、食べ、歌い、語り、久しぶりに洋一は心休まるひと時を過ごすことが出来て大さんに感謝、感謝である。
翌日は哲西町の鯉が淵湿原に行き、約二時間かけてぐるっと一周し、若山牧水の歌碑のある「牧水二本松公園」を訪ねる。
幾山河こえさりゆかばさびしさの
はてなむ国ぞけふも旅ゆく
の歌碑が立っている。大さんの説明によると、この歌は牧水が早稲田大学四年の夏、大学同窓の有本芳水(岡山出身で新聞記者・詩人)に勧められて、郷里宮崎に帰る途中この二本松峠に立ち寄り、熊谷屋という峠の茶屋に投宿した時詠んで、友人の有本芳水に送った葉書に記されていたものだそうだ。
この公園には更に牧水の奥さんである喜志子夫人の歌が二首、息子さんの旅人の歌が一首、歌碑として建立されていた。
後で調べてみると「幾山河・・・」の歌碑は静岡県沼津公園に牧水が死んだ翌年立てられ、さらに長野県小諸市にも立てられているそうだ。この二本松に建てられたのは、有本芳水が自分宛にきた葉書を公表して、詠まれたところがまさしくこの二本松峠であると立証され、哲西町が一九六四年に建立したということである。だから此処の歌碑が一番相応しい場所と言えるだろう。最近になって熊谷屋という茶屋は復原されて、公園の入り口に土地の集会所として利用されている。
この「牧水二本松公園」は今日の極め付きであった。今回の旅は大さん手作りで、温泉あり、GGあり、千屋牛あり、湿原あり、牧水ありの密度の濃い旅で、洋一にとって今までにない収穫の多い旅であった。
旅の余韻冷めやらぬ六月の初め、一ヶ月ほど前に、洋一が神主代理をしているのなら、神社に尺八演奏の奉納をしてやろうと、連絡をもらっていたとおり、大阪で尺八の師匠として活躍している同級生のY君が、洋一の奉仕している神社に奉納演奏にやってくる日がきた。琴の奏者九名を引き連れてフェリーを降り立った時、高校卒業以来四十八年振りの再会だったが、年月は何の障害にもならなかった。お互いに歳相応になってはいても、面影は昔のままである。久闊を叙す間も無く、神社に向かい早速奉納演奏をしてくれた。尺八の音色はなんといっても日本的で神社に相応しい。尺八の奉納を終え、琴と尺八のジョイント演奏に移り、五十人ばかりの島民の参加のもと、島に文化の香りが満ち溢れた一時間少々であった。
今晩の宿は島に一軒ある民宿だ。演奏会を聞きにきてくれた本土からの同級生四名と合流して、総勢十五名で夜の更けるまで飲み、歌い、語り、床に就いた時は日が替わっていた。
Y君が伴った九名の琴の奏者たちは、港での別れ際に異口同音にお魚が美味しかった。又この島に来たいと言って喜んでくれた。洋一は新鮮で美味しい瀬戸内の魚に助けられた思いでホッとした。
郷里の島に帰り、野菜作りに取り組み、自給自足を目指す洋一にとって、収穫の喜びを味わう季節がやってきた。四月の終わりに植え付けた茄子やトマトがやっと実を着け出した。キュウリは手作りのモロミを付けてビールのツマミにする。ナスは塩もみにすると簡単で食がすすむ。トマトは完熟するまで待つととても甘くて、本当のトマトの味がする。都会では年中温室栽培の野菜が手に入るが、野菜でも果物でも旬の物が一番美味い。今、野菜は一切自家栽培で充分間に合う。出来た物を天から戴くという心境だ。キャベツだけは青虫に喰われてなかなか上手く育たないが、時々は手でつまんで退治する。まだ苗が小さく結球していない頃が一番被害を受ける。神社のお勤めの帰りに立ち寄って毎日チェックしていても、青虫だけはなかなか手ごわい。ちょっと油断するとキャベツの葉っぱは穴だらけになる。蝶も子孫を残すのに一生懸命で無理もない。近所のばあちゃん達は「時には殺虫剤を使わにゃあ虫にやられてしまうで」と忠告してくれるが、薬は絶対使わない主義でがんばっていこうとね無理を承知で悪戦苦闘する毎日だ。。
野菜も出来だすと、いっぺんに出来るので一人では食べきれない。漬物にしてもやり方がまずいのか酢っぱくなり、なかなか上手くいかない。糠みそ漬にも挑戦してみたが、毎日かき混ぜることが肝心と、教科書に書いてあっても実行するのは難しい。
ベラやキスがよう釣れとるでと、漁師の為さんが昨日言っていたので、晩飯のおかずを釣りに出かけてみた。波止場の南の端がよく喰っているそうだ。もうぼちぼちチヌが釣れてもよい季節だが、夜釣りの方がよく釣れるからまた次の機会にしよう。そんなことを考えながら竿を延ばす。餌取りのフグが多くて、なかなか釣果が上がらず少し場所を移動する。探り釣りをやめて遠投に代えてみる。
場所を変えてよかった。早速二十センチ程のべラが喰い付いた。キスはさっぱり駄目だったが、ベラ七匹の釣果で今日は終了。「鉄鉢に明日の米あり、夕涼み」を地でいくことにする。夕飯のおかずは煮付けにして戴こう。キスなら刺身が美味いのだが贅沢は言うまい。やっぱり瀬戸内の小魚は美味い。あちこちでその土地の評判の魚を食べてきたが、大きいほど大味で、魚種による微妙な味は、瀬戸内の小魚に勝るものはないと洋一はいつも思う。自分で釣った魚のうえに活きがものを言う。ああ今日も幸せな一日が終わった。島の自然の恵みに感謝、感激である。
洋一の住む笠岡沖の海は備讃瀬戸と言われ東の播磨灘と西の燧灘に挟まれ、西と東の海流がぶつかり合う海域で、国内でも屈指の美味い小魚の獲れる漁場である。
その瀬戸内で、洋一の住む島も藻場が消えかけていることは深刻だと思っている。新聞に岡山県内ではかつての藻場は七分の一に減少していて、四千二百ヘクタールから六百ヘクタールになってしまったと報じていた。藻場は「海の揺りかご」と言われ、潮流を和らげ、外敵から身を守り産卵や稚魚の生息場所として、最適の環境を提供している。
洋一が島に帰って初めて釣りをした時、トシ君や英ちゃんたちと、よく釣りに行った北の浦に竿を出したが、さっぱり釣れなかったことがある。アマモが減少して、魚が居着いていないと為さんも言っていた。かつてのようにアマモ揺れる美しい海、魚の宿る豊かな藻場を取り戻すことが、海を守り漁場を守り、さらに島の人々の豊かさを守ることになる。何とかして藻場を再生したいものだ。
以前、組合長にアマモ再生の件で話をしたことがある。しかし人の問題、経費の問題でなかなか進展しなかった。その時は単なる世間話程度だったが、今回は少し違った。洋一はやっと生まれ育ったこの島に、守るべき物見つけた。そんな思いだった。それで島にいる同級生や懇意な漁師など有志で、何とかアマモ再生に挑戦してみようと考え、与一や登志男と相談して、「アマモを再生しよう会」を作ることになった。
漁師の為さんには、漁師仲間に声を掛けてもらい、公民館長にも話に行き、主旨に賛同してくれる人がいたら、参加してもらうよう依頼した。館長は元小学校校長で、案外もの分かりがよく、本人がまず一番にメンバーに入ってくれた。
全国的に藻場が減少して、再生の取り組みが方々で試みられていることは報道で知っていた。あれこれと調べてみると、色々なことが判ってきた。古い和名では「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」(竜宮の乙姫の元結の切り外し)と言うそうで、イネ科の植物だというのは面白かった。昔、海草を焼いて塩を作っていたことから、藻塩草とも呼ばれ、「来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」という藤原定家の歌もあるそうだ。白い花をつけ、米粒大よりやや小さめの実をつけるので、この種から繁殖するのと、地下茎の分枝が伸びて増殖するのと、二方法があるという。
アマモは七月から八月にかけて種子を残して枯れていく。そして落ちた種子が冬に発芽してまた繁殖する。繁殖地は遠浅の砂泥海底が適していて、太陽光線が届かないと生息できないので、水深四、五メートルあたりに多い。確かに洋一が少年時代に泳いでいて、足に巻きつかれパニックになったことがある。あれは確かこの前釣りに行って坊主だった、北の浦の海水浴場だったと思う。あの頃はアマモが群生していた。だからアマモの繁殖している手前で魚がよく釣れたのだ。
種子を採取して蒔くか、アマモの根を粘土で巻いて植え付けるか「アマモを再生しよう会」で話し合って、具体的な取り組みや作業日程を作成しなくてはならない。これから忙しくなるぞと洋一は覚悟しながら、とりあえず当面の情報収集を終えた。
それから一週間後に、為さんがリストアップしてくれた連中に召集をかけ、土曜日の晩に公民館に集まった。まだ基本的な下相談の段階なので、組合長の三郎さんには、話がまとまった段階で話しに行くことにして、公民館長が誘ってくれた島の有力者の郵便局長の真鍋氏、漁師の為さん、神社総代の久米さん、公民館長の義男さん、そして同級生の与一と登志男と、洋一の七人が寄って相談した。
郵便局長の真鍋氏が加わってくれたことは鬼に金棒だ。平安時代から鎌倉時代にかけて、瀬戸内を縄張りに活躍していた、真鍋水軍の末裔と言われている。地元では人望も厚く、島民全員のことを熟知している人物で、今後の取り組みに必要な強力なスタッフである。
「皆さん、お疲れのところお集まりいただいてありがとう。洋一がアマモの話を持ち出したもので、こんなことになったんじゃ。」
為さんが、口火を切ってくれた。
「わしがとんでもないことを思いき、皆さんに相談しょうと思うて集まってもらったんです。よろしゅう頼みます」
「アマモの再生の話じゃそうだが、どうしょうと思うとんなら」
神社総代の久米さんから、早速質問が出た。
「あのなあ、わしが島に帰って来て、北の浦に釣りに行ったんじゃ。子供の頃はよう釣れとったのに、さっぱりじゃった。それで与一や登志男と相談して、北の浦にアマモを甦らせたいと思うとるんじゃ」
「そう言うても、簡単に出来るんかのう」
「最近方々で、アマモ再生のニュースがあるが、大体成功しているようじゃ」
と公民館長の山さんが言う。
「どうやったらうまく行くか、見通しを話してみようやぁ。色々方法があるらしいで」
真鍋氏も乗り気の様子である。洋一は今日のターゲットは、神社総代の久米さんだと見当をつけた。
「久米さん、藻場を取り戻さんと、漁獲量は増えんで。何とかやってみましょうやぁ」
「そりゃあ、わしも漁師じゃけえ、藻場の減少は気になっとるんじゃ。それでもそう簡単にやれるんかのう」
「まあ、今年は試しじゃ。洋一が燃えとるけえ、いっぺんやってみたらどうなら」
為さんの応援があって、試験的にやってみようということになった。
色々検討の末、七月頃に枯れるというのなら、その時期に東浦の藻場で刈り取って、種子を蒔く方法を、試してみようという結論に達した。藻の刈り取りには大勢が良かろうから多くの人に呼びかけてみよう。それが環境を考える面でも意義があるし、長続きするだろうとそんな話をして今回は解散した。
家路を急ぎながら、洋一は七月頃と言えば後二週間ほどしかない。明日、組合長の三郎さんと、最後の詰めの話をしなければと思った。更に東浦のアマモを刈り取るわけだから、東浦の代表にも、許可をもらわなくてはならない。簡単には了解してくれないかもしれんなぁ。漁師の為さんにも協力してもらおう。同級生の与一や登志男にも付いてきてもらおうと考えた。
昼間は漁に出ていて不在なのは判っていたので、夕飯後申し合わせて組合長宅を訪ねた。辞退したが一杯やりながらと言う三郎さんの頑固さに負けて、酒を酌み交わしながらの話になった。洋一の話を聞いて、三郎さんが腹の内を語り出した。
「藻場の減少については、わしも気になっとるんじゃ。だが事はそう簡単には進まんじゃろう。それに東浦のアマモを刈り取ると、後がどうなるか心配でならん。東浦の組合員に話しても皆が承諾してくれるじゃろうかなぁ。」
「アマモは六、七月頃枯れてまた芽を出すそうなんじゃ。刈りとるのはちょうど枯れる時期じゃけえ心配ねえ。種を蒔いてちゃんと芽が出るかどうかが問題じゃと思う。経験のねえ事をするんじゃけえなぁ。でも水産試験場に聞いたら、日生の方でもうやっとるそうな。全国的にはあちこちで取り組んで成功しとるらしいで」
「刈り取っても心配ねえなら、組合の連中も解かってくれるかのう」
「その点は試験場も大丈夫じゃと言うとるけえ、皆に話してみてもらえんかなぁ」
「おう解かった。一応あんたらの話をしてみらぁ」
組合長が、理解を示してくれたので、四人はほっとした気持ちで別れた。後は三郎さんの返事を待つだけだ。返事がくるまでに、洋一はもう少し情報を仕入れておこうと思った。
数日たった午後、潮時の一番いい時をねらってアマモの刈り取りをすることになった。
組合長からオーケーをもらっていたので、とりあえず今のメンバー十三名が公民館に集合する。東浦の浜へ行き、水深百五十センチあたりまで入ると、アマモの群生にぶつかる。鎌で刈りとって、用意した大きめのタマネギネットに、ギュウギュウ詰め込んで軽トラに積み込む。三十袋ほど刈り取って北の浦に運んだ。そこで石を重し代わりに袋に詰めて背の足るあたりの沖に一メートル間隔で沈めた。五時過ぎにやっと作業を終える。今回はテストケースとしての取り組みで、結果が良ければ来年本格的に実施することを申し合わせて解散した。どうか上手く芽を出してくれることを祈るばかりだ。結果は一月頃に判明するのでそれまでは待機だ。アマモ揺れる海の再生を願って洋一は期待に心を膨らませていた。
アマモを北の浦に沈めてから後、気温はぐんぐん上昇し三十五度を超える日が続き、猛暑の夏の到来である。洋一は夏になって五時に起床して、シャワーを浴び、身を清めて神社に向かうのが日課となった。朝のお勤めもだいぶ慣れてきて、祝詞の奏上も太鼓のリズムに合わせて、自分でもまあまあ上手になったと自負している。朝の六時はまだ涼しくて気持ちよい。境内を掃き清めて、祝詞をあげようと神殿に上がっていると、後ろで話し声がする。こんなに早く誰だろうと振り返ると、近所のG・G仲間のばあちゃんが二人、ニコニコ笑いながら立っている。
「洋さん、おはよう。朝早うから世話になるのう」
「ああ、おはようさん。朝早うから何ですかなあ」
「あんたの叩く太鼓の音を聞くと、安心するんじゃ。今までは神社へお参りしてもひっそりして淋しかったが、あんたが帰ってきて守りをしてくれるけえ、喜こんどんで」
「それはそれは、どうも。わしゃあこれぐらいの事しか、地元に恩返しが出来んけどなぁ」
「わたしらぁは感謝しとるんじゃ。神様も喜んどられると思うで」
「そう言うてもらえりゃぁ、わしも嬉しいことじゃ。ありがとう」
「まあ身体に気を付けてよろしゅう頼みますで」
「ほんならこれから祝詞を上げるけえ、一緒に高天原をとなえてぇ」
そう言って洋一は太鼓を叩きながら、いつもより少しゆっくりと祝詞を奏上した。ばあちゃん二人も神殿の前に立ったまま、唱和してくれた。こうして島の年寄り達に喜んでもらっていることは、洋一にとって何よりの励みになる。年齢制限に引っかかり、正式の神主の資格は取れなかったので、祭典は出来ないが、今のやり方を島の人たちが認めてくれているのだから、まあ良しとしなくてはなるまい。
家に帰り簡単な朝食を済ませ、パソコンの前に座りメールを開けてみる。これがお勤めのあとの習慣になっていた。東京のT君からのメールが一通届いている。十月に関東のメンバーが軽井沢に一泊旅行に行くので、洋一も参加しろという案内だった。まだ八月の終わりというのに早いご案内である。島に帰って来る前は、関東在の仲間と春と秋の二回、泊りがけの旅行を楽しんでいた。リタイアーしても、会社の厚生施設の利用出来る仲間がいて、安くて泊まれる施設に案内してくれ、重宝していた。大企業は、退職後の厚生の面倒も見てくれるというので、ありがたいことだ。早速、是非参加すると返信した。気のおけない仲間と再会できると思うと、その日の来るのが待ち遠しい。
洋一の高校の同級生は、東京でも地元笠岡でも案外交流が深く、しょっちゅう仲間で一杯飲んだり、旅をしたりしている。そういうこだわりのない仲間に恵まれて、いつも良かったなぁと思う。島に帰ってきて日帰り温泉には、もう何回も誘いを受けて遊んできた。今年になってすでに二回、山陰と県北に泊りがけの旅にも誘われ、島で生活している洋一にとって、気分転換には最高である。
少年時代のトシ君や英ちゃん、そして高校時代の親友のことを思うと、持つべきものは良き友とは、よく言ったものである。三四会の仲間には、様々な職業経験者がいる。保険会社、大手電気会社、市役所、教員、現役大学教授、銀行員、寝具店経営、運送会社社長、商事会社と多彩である。集まるとそれぞれの分野での面白い話が披露され退屈しないし、またいい勉強にもなる。多忙でめったに顔を見せないが、三期目の市長もいて、時たま出てくると、あれこれと遠慮のない注文や苦情が頻出して、閉口している様子だ。
九月になり、そろそろ冬物野菜の種蒔きをしなくてはと思って、洋一は島に一軒の雑貨屋に自転車を走らせる。秋野菜の種蒔きは、昨年に続いてこれが二度目になる。白菜、大根、ほうれん草、春菊、人参など思いつくままに買い込んだ。昨年は大根や人参はまあまあ育ったが、白菜は失敗した。
「白菜は種播きが遅れる、としっかりとした結球にならないよ」
と、隣のばあちゃんが教えてくれたので、今年は一番に蒔くことにしよう。そう思いながらも、まだ夏の日差しは強いので、夕方になって出かけた。八月の下旬に畑の準備は済ませている。夏野菜のキュウリはもうダウンしたが、茄子とトマトはまだ元気で食卓を賑わせてくれる。
二ウネ植え床を作り、白菜の種を幅三十センチ間隔で、三粒ずつ点蒔きしたところ、種が随分余った。勿体無いので、茄子とトマトの跡に蒔いてまぶき菜にして食べよう。そう考えながら水遣りをして、乾燥防止に枯草をかぶせて作業を終えた。今年こそ立派な白菜ができればよいが。野菜作りは天候に左右されるので、ふたを開けてみなければ判らない。そんなことを思いながら帰っていると、あちこちで種蒔きをしている姿が目に入り、蒔く時期は間違いないと安心した。
一週間ほどして雨が降り、畑も種を蒔くのにちょうどよい湿りだったので、大根、ほうれん草、春菊、人参など播種した。これから虫と戦わなくてはならない。昨年の秋は散々だったので、今年こそなんとかクリヤーしたいものだ。発芽してからが要注意である。島の年寄りたちが「百姓の来年こそ」ということをよく言っていたが、一回失敗すると翌年のシーズンまで待たないと挑戦出来ないので、こんな言葉が言われだしたらしい。一般の物づくりは、失敗すればすぐに再挑戦出来るが、農業だけは駄目で一年待たなければならない。少々大げさだが、弥生時代に米作りを始めてから今日まで、先人たちが天候との戦いを積み重ねてきた苦労が、身に染みてわかるような気がする。
冬野菜の種まきも終わり、後は成長を待つだけだ。やっと一息ついたころ、洋一の高校の同級生照ちゃんや修さんたちが、泊りがけで釣りにやって来た。今日は朝から秋晴れの好天気に恵まれ、風もなく最高の釣り日和になった。昨年は六月に四人やって来て、キス釣りを楽しんで帰った。夜は洋一の家で釣った魚を肴に賑やかに飲んだ。焼いたり刺身にしたり、煮付けたりの男料理に腕をふるい、焼き過ぎだの、辛すぎるなどうるさく言いながらも、自分達の釣った魚なので、結構喜んで食べてくれた。
その時の味をしめて、まだか、まだかと催促され今日の釣行となった。十時前、大さんの軽のワゴンに乗って一行がやって来た。ビールやら酒やらしっかり積み込んでいる。洋一は彼らの使う釣具と餌を載せて、東浦を目指す。浜に着いたら譲ちゃんや修さんはもうビールを手にしている。
「おい、飲みに来たんじゃないで。釣りに来たんで」
照ちゃんが仕掛けの準備をしながら笑って言う。
「酒はどこにあるかなぁ」
酒の好きな大さんは、カップ酒を持って釣り場に向かっている。照ちゃんはもう竿先を見つめてアタリを待っている。洋一は皆が釣りに熱中しだしたのを見届けて、民宿のおばさんに頼んでいた、昼食弁当を受け取りに引き返した。
島には一軒、釣り客を相手に細々とやっている民宿がある。
お客のある時だけの営業で、今回は昼の弁当と、一泊二食の賄い付きで予約していた。洋一の家でも良かったのだが、連中が男一人のところに、寝具など造作をかけたくないというので、洋一もしぶしぶ一歩譲ったのだった。
弁当を受け取って浜に戻ってみると、一時間ほどの間に、四人でキスとベラを三十匹少々釣り上げていた。それぞれ、わしの釣ったのが一番大きい、いやわしのが一番じゃなどと自慢話で賑やかだ。潮を見て案内をしていたから、午後三時の満潮まで、まだ四時間もある。潮が動いている時がベストなので、皆に話して昼飯は一時頃にしようと、洋一も竿を出した。やっぱりこの浜は、アマモが豊富なので引きが良い。たちまち三匹、形のいいベラを釣り上げた。キスもベラも引きが良いので合わせやすい。ピクピクッとくる感触がなんとも言えない。
民宿の作ってくれた弁当は、おにぎりにタクアンのシンプルなものだったので、洋一は釣ったキスの大きいのを、刺身にして酒の肴に供した。
「やっぱり活きのええのは美味いのう。最高じゃ」
修さんを始め皆ご満悦で、みるまに無くなって、今度はベラの刺身に挑戦してみる。少々脂がのっていて、またキスとは別の味がしてこれも好評であった。
昼食の後は、皆アルコールがまわって感覚が鈍ったのか、それとも潮の関係か、十匹ほどの釣果だったが、バケツを見ると夕食のオカズには充分過ぎるほどで、三時前に切り上げて民宿に戻った。
民宿のおばちゃんはバケツを覗いて
「まあ、こげえに仰山釣ったん。晩のオカズをどうしようかと案じとったが、これなら刺身と煮付けと、天婦羅にして出せるわ」
「よけい釣っとるじゃろう。腕がええけえなぁ、僕らぁ」
譲ちゃんが自慢気に、ニコニコ笑いながらバケツの中の魚を掴んで、
「この一番大きいのは、僕が釣ったんで。すごいじゃろう。」
「そうかな、そうかな。すごい、すごい」
そう言いながら、早速調理場に入っておばさんは食事の仕度に取りかかる。
夜の宴会には、用事で釣に参加できなかった浩さんも加わり、飲み、そして語り、談論風発この上ない賑やかさだった。修さんは奥さんの母親を引き取り、面倒を見る事になって大変だと、しきりに愚痴をこぼしている。
「愚痴るな、愚痴るな。親がいて自分がおる。あの母親有りて愛する奥さん有りなんじゃけえのう」
大さんがいつものように悟ったようなことを言って慰める。
「おめえはいつも解かったような事を言う。わしの母親の時も、解かりもせんくせにえらそうに言うたが、また同じようなことを言うとるのう」
浩さんがむきになって、大さんに食ってかかる。洋一はそんなやり取りを聞きながら、自分の場合どうだったかと、母親を横浜に引き取って面倒を見た時のことを思い出していた。今は介護保険制度が出来て、ショートステイやら、デイサービスなどが受けられる。あの頃はそんな制度も無く、自分の親でありながら大変な思いをし、妻の淳子にも随分苦労をかけたと今でも感謝している。世界に先駆けて始まったわが国の少子高齢化に、どう向き合えばいいのか。国始まって以来の初めてのケースだから、これからの対策が難しいことだろう。福祉国家のスエーデンも参考にならないのではないか。そんなことを思いながら、洋一は皆の話に耳を傾けていた。
八月の終わりに、関東組から軽井沢旅行の案内を受けていたが、いよいよその当日がやってきた。昼過ぎに島を出発した。何十年振りになるか、岡山の後楽園を訪れて時間つぶしをし、岡山発夜九時の夜行バスに乗る。これが一番安上がりだ。今回は何とか眠れてラッキーだった。
ホームで待っていると、男性七名、女性六名が三々五々集まってきた。皆懐かしい顔ぶれである。三年振りだが、ちっとも変わらず皆元気な様子だ。抗癌剤を投与しながら、肝臓癌と戦っている千葉のC君も、見た目には元気そうな様子で参加している。列車の中で三年間の様々を、お互いに語り合った。
軽井沢に着いてみると、あいにくの雨だった。早く宿に入り夜遅くまで話に華が咲き、とこに付いた時は日付が変わっていた。
あくる日も土砂降りに近い雨で、宿から他へ行く気もせず、昼過ぎに軽井沢を引き揚げた。今回の旅は天候に恵まれず、折角の軽井沢も素晴らしいロケーションは期待できなくて残念だった。
東京駅で関東の仲間と別れ、夜の九時発の夜行バスまで息子の健と夕食を共にして時間つぶしをした。探りを入れてみたが、彼女のいる気配は窺えなかった。親の心、子知らずで困ったものだが、これだけはどうしようもない。
洋一は島に帰ってから今日までの三年間で、¬命」について考えることが多くなった。特にこの世に存在する生き物全ての、命の継承、バトンタッチについてである。生あるものは種を受け継ぎ、次の世代に命を伝えていく使命を帯びていると思う。
野菜作りでも、時期になるとどの野菜もちゃんと花をつけ子孫を残そうとする。一度刈り取られた雑草の中にも、秋になると小さいなりに花を咲かせ、冬の来る前に種を残す物もあり驚きである。生物や動物は本能的に命の継承を繰り返すが、人は動物的存在であると同時に、考える葦である。もう少し命の継承について考えねばなるまい。生き方については、個人個人の自由である。しかし命の継承まで勝手であって良いのか。もし良しとするなら、日本はやがて滅びていく運命にあるといわざるを得ない。理想はピラミッド型の人口構成だろう。それが今や大幅に崩れているのは大きな問題である。
人が社会を形成していくうえで、「人類網の目の法則」は何時の時代も生きている。全く自分と関係ないと思うような人とも、気づかないだけで、網の目の中に組み込まれて、お互いが関係しあっているのだ。「人は生かされている」とよく仏教の世界で言われているが、多くの人との関わり合いの中で生きておれるのだ。生かされているのだ。
最近、洋一にとって、恵まれた島の自然と、人情のありがたさをつくづく感じる日々が多くなった。
年の暮れの夕方、漁師の為さんがとれたてのイワシを、バケツ一杯持ってきてくれてビックリした。
「こんなに余計、どこで釣ったん」
「いや、桟橋のあたりで、何ぼでもすくえるで」
「何、桟橋ですくえるんか」
「おう。太刀魚やスズキに追われて、灯りのある港に逃げ込んでくるんじゃ。洋ちゃんも、タマを持って行ってみねえ」
「そりゃあええことを聞いた。わしも行ってみらあ」
「生きがいいやつは生で酢醤油で食うと美味いで」
「こんなに余計、いっぺんには食えんが」
「天ぷらにしてもええし、素干にしときゃあ、お節のごまめになるし、味噌汁の出汁にもなる」
「いや、色々有り難う。早速素干を作ってみよう」
そう言いながら、洋一は生で戴く分を残して、早速干し網に入れて、軒下に吊るした。
なるほど為さんの話からすると、十月の終わりに、夕方に波止場へタチウオ釣りに行った時、港のあちこちでパシャパシャと音をたてていたのがイワシだったのだ。
洋一はこれに味を占めて、一週間ほど後に連れて行ってもらった。漁船を繋留している場所は、階段になっていて海面まで二、三メートルの所まで下りることができる。確かに薄暗い海面にイワシの群が右往左往している。すぐ近くでスズキがガボガボと音をたてている。スズキはすくえないが、イワシは簡単にすくえる。オバサン達が今夜のオカズにと言って適当量すくって帰る。こんなのは初めての経験である。少年時代にはこんなことはなかった。面白い。正月一週間過ぎた今でも捕れるそうだ。
自給自足の生活に徹している洋一にとって、最近気になることがある。新聞やラジオの報道によれば、食料危機とか食の安全とか偽装問題とか世の中が随分と騒がしい。油は値下がりしたが、食料品その他物価が上がり街に住んでいる人達は大変のようだが、離島に住んでいるとほとんど不自由を感じない。魚はいろいろ自分で釣ったり、もらったりして買うことはほとんどない。野菜は週に三,四回、一回二時間ほどの作業で、新鮮で安全な物が年中食べられる。果物もミカン類や柿など、季節の物がいろいろと自分の畑でとれる。鶏を飼えば卵は簡単に手に入る。鶏肉も問題ない。ヤギを飼えば乳も問題ない。やがて水は高性能の簡易浄水器で、井戸水が使えるようになると思うし、海水の淡水化も小規模、少費用で、出来るようになるはずだ。電気は太陽エネルギーやその他の自然エネルギーを利用して、簡単な装置でまかなえるようになると思う。急病の時は救急ヘリコプターを使えば早い。何年か先、瀬戸内の離島は年金生活者にとって一番住みよい場所の一つになるのではないかと思っている。離島生活万歳と言いたいところだ。
そんな夢のようなことを考える洋一であったが正月明けの一月中旬の暖かい日の午後、為さんの漁船で北の浦の海岸に向かう。一メートル間隔で沈めていた、アマもの種の入ったタマネギ袋は、九月の終わりに海底に根付くようにと沈めておいた。今日はアマモの根付きのチェックだ。この日の為に、洋一は筒型の水中眼鏡を工夫して作った。船の上から水中を覗いて見る道具である。全部で三十袋沈めていたが、アマモが根付いているのは十九箇所ほどで確率は良くない。でも三分の二ほどは繁殖しているのが確認され、ユラユラと海中で揺れている。洋一はホッとした。全滅だったら、漁師の連中に顔向けできない。組合長の三郎さんが
「この次はもっと大勢に呼びかけて、この浜全体に仕掛けてみるか。少しでも根付いたんじゃから、もっとたくさん沈めりゃあ全体に広がるじゃろう」
そう言って洋一を励ましてくれた。
生まれた島に帰った洋一にとって、「アマモ揺れる海」は目標であり、生きがいであり、夢であり、実現すべき使命でもあり、ひいては自分のこれからの人生を象徴するものである。そしてそれは島の人たちの夢であり願いでもあり、島人そのものである。家路につきながら、そんなことを思いつつ自転車を踏む洋一であった。
高校同期の遠藤君が、
「若者にも高齢者にも住むなら笠岡じゃ」
と言ってもらえる街にしたいと、市長三期目立候補の抱負を熱っぽく語っていた。一期目は「土作り」と称して、行財政改革に取り組み、退職者不補充、賃金カット、笠岡諸島の活性化を目指し海援隊の立ち上げ、職員から有志を募り、NPO法人「かさおか島づくり海社」を設立して、修学旅行生が段々と島にやって来るなど一定の成果をあげてきた。
二期目は「夢づくり・種蒔き」と位置付け笠岡湾干拓地の有効利用、線引きの見直しなど精力的に取り組んできた。
三期目は「花を咲かせ実を結ばせる」期と位置付け、活力ある福祉都市を目指して、全ての情熱を三期目に懸けるんだと、意気軒昂である。
同期の仲間内では彼が一番若いのではないか。情熱を持って、事に取り組むことの大切さを洋一は思う。自分の生き方と照らし合わせ、アマモ再生に情熱を傾けようと考えている自分に、間違いは無かったと強く思うのだった。
四月の市長選から三日後、一人の老女医が亡くなった。老衰だった。戦後まもなく街から若くて美しい女医が、島の診療所に赴任して来た。扁桃腺炎の高熱で二、三度その女先生に診てもらったことがある。その女先生はすっかり島の生活に溶け込み、そのまま島の住人となり、島民の命のささえとなった。その先生が先日急性心不全に襲われ、八十五歳で亡くなった。島の女先生として人々から親しまれ、医療は勿論のこと、身の上相談まで応じていた。特に島の女達にとっては良き相談相手だった。ごく最近淳子の発病の時も、適切な診断を下してもらい、専門病院を紹介してもらって一命をとりとめたのだった。島では今まで急病の時は診療所に駆け込み、初期の診断と治療をしてもらい、指示に従って何とか健康管理をしてきた。島民にとって貴重な人を失い、島全体が悲しみに包まれた。
散りぬべき ときを知りてぞ
花も花 人も人なれ
とはいうものの、惜しい人を失った。今後の島の医療について、洋一は一抹の不安を覚えるのだった。
葬式にはあまり縁が無かった洋一だが、女先生への感謝の気持ちで、島に戻ってきて初めて葬式に出た。町内会が手配してくれたチャーター船で本土の斎場に出向いた。親族が無く参列者も少なかった。祭壇は花飾りで綺麗だったが、何か形式的で故人を偲び悲しむという雰囲気ではなかった。葬式はこの世に存在した一人の人間を、この世から抹消する儀式であり、悲しいお別れをする時でもあるが、今回の葬儀は前者の感が強い。
帰りの船の中で、自分が死んだ時は葬式などして欲しくない。遺体を焼いて海にでも播いてくれるようにと遺言しよう。そんなことを思いながら、返りのフェリーの上から瀬戸内に沈む夕日をしみじみと眺める洋一であった。
島ではここ二、三年、少しずつ新住民が増えてきた。NPO法人「ふるさと回帰支援センター」が、参加自治体と希望者の橋渡しに着手して八年、功を奏してきたのであろう。笠岡市の有人七島の人口は、十年前と比較して三分の二の二千六百人、高齢化率は五七パーセントで限界集落の仲間入りをしている。そこに市の海援隊やNPO法人・かさおか島づくり海社などの連携した取り組みで「空き家バンク事業」が展開され、二十二世帯五十五人が移住してきたと報道されている。
NPO法人・かさおか島づくり海社の理事をしている石材加工業の河田君に会った。
「おい、よう頑張っとるなあ。たくさん移住して来とるそうじゃぁないか」
「洋一さん、空き家バンクの取り組みはそう簡単に進んだんじゃないんで」
「でも、もう五十人を超える位やって来たと言うじゃあねえか。」
「初めはなあ、五十軒位交渉しても、全部拒否されたこともあるんじゃ。親類や知り合いを介して頼みに廻って、やっと四軒工面がついたのが始まりじゃつた」
「大変じゃったんじゃなあ。この前グラウンドゴルフをしょうたら、あんたはようがんばっとる言うて、島の年寄りが褒めとったで」
「『先祖代々の家を他人には貸せない』、『定年後に戻るかもしれない』、『お盆や正月には帰ってくるから』、『走り神輿の祭には帰って来るから』など、皆好きな事を言うて、登録物件がなかなか思うように増えんのんじゃ」
「家賃が一万円から二万円いうから、借りる方はええが、貸す方は踏ん切りがつかんのじゃろうなあ」
「今まで移住してきて、定住している宅の訪問や、物件の見学をパックにしたツアーも企画してみようかと思うとる」
「まあ、あまり無理をせん方がええで。長続きせにゃぁいけんから、焦らずにやった方がええで」
「ありがとう。また知恵を貸してちょうでえ」
港の波止場でこんな立ち話をして別れたが、洋一は生まれた島に帰ってきてのユーターン組だが、アイターンの人たちは勇気が要るだろうと思った。
その後、河田君は神奈川の霊園まで、墓石を運んだ帰り、都内から家族四人でアイターンする片岡さん一家の、家財道具を自分のトラックで島まで運んだということだ。移住者の片岡さんは
「こんな事までしてもらっていいのかなと思った」と驚き、河田君は「島じゃ助け合うのが当たり前」と事もなげに言ったそうなと島では評判になった。
片岡さんが引っ越しの一ヶ月前に、妻子を伴って下見に来た時、島には一軒も借りることのできる空き家がなかった。島海社のスタッフやPTAが動き、島の子供達の減少を憂える島の人たちが知恵を出し、老朽化した教員住宅を改修して充当したらしい。台所や風呂場のリフォームは、島の大工や有志六人が費用を捻出し、下水道整備は市が負担して、経費は少しずつ返済することで解決し、島海社では「島海社方式」と呼んでいるとか。
その片岡さんに、洋一は夕暮れの波止場で晩のおかずを釣りに行って初めて会った。
「何が釣れますかなぁ」
「ベラとかキスぐらいのもんかな。チヌも時々釣れるが僕はまだ下手でね」
「見かけない顔じゃが、旅の人かな」
「いや、東京から三ヶ月ほど前に移住して来た片岡と言います」
「ああ、あんたが片岡さんか。この前、島海社の河田君が引っ越しの手伝いに行ったと聞いたが」
「ええ、そうです。河田さんには頭が下がります。お蔭で引っ越しの費用がただでした。
「東京では何をしょうられたん」
「元は寿司職人をしていたんですが、事情あって辞めて、しばらく事務員をしていました。ところが慣れないせいでストレスが溜まり、ノイローゼ気味になって悩んでいた頃、テレビで笠岡諸島のことを知りまして、今年の正月にこの島を見に来て、すっかり気に入りまして、河田さんのお世話で移住して来たんです」
「家族は何人いなさるんかなあ」
「妻と妻の母親と息子、娘の五人です」
「あの山下食堂の調理師をされとるんでしたなあ」
「はい。幸い寿司職人をしていたのが役にたちまして、使ってもらっとります」
「山下食堂の女将さんは子供の頃二年間、島の小学校に通っていたんじゃ。その頃の同級生が旦那で、この島に二年前に帰って来たんで。だんなのお母さんが高齢でその世話もあったらしい」
「はい。そう聞いております。良くして頂いて、義母も嫁も家族皆働かしてもらっています。ありがたいことです。初めのうちは『どこの誰かもわからんのに・・・』と島の人から警戒されたこともありましたが、今では家族全員かわいがってもらっています。移住してきてよかったと思っています」
山下食堂の女将によると、今では高齢者向けの給食サービスも手がけているそうだ。
「始めのうちは『どこの誰かも分からんのに』と警戒され、島の人たちに信頼されるまで二年かかったんよ。今では法事の折り詰めや、観光客用の弁当の注文も増えてきてなあ」
「そりゃあ良かったですなあ」
「最近は有人七島の海産物をふんだんにアレンジして出来た、特製弁当の「島弁」作りも始めて、今では片岡さん抜きには始まらんのんよ」
「以前は寿司を握っとったそうじゃなあ」
「イイダコの煮付けやタイラギのフライ、サワラの焼き物、ネブトジャコのから揚げ、ママカリの酢漬け等も上手に味付けして、島外の人々からは珍しがられておるんで。昔から島で食べていた食材なんじゃが、プロの調理師が一味工夫して作った弁当じゃけえ、万人向きなんじゃ」
山下食堂の女将はべた褒めで、安心して任せるので大助かりだとのことだ。
都会での様々な経験を持ち、若くてアイデアを一杯持ち合わせている新住民のパワーは、今では島の活性化に欠かせない存在となりつつある。
隣の島ではフランス料理のシェフをしていた若者夫婦が、田舎ふうにアレンジしたレストランを開き、結構繁盛しているらしい。島の人だけでなく、観光客にも旅雑誌で紹介され人気が出たようである。わざわざそれを目当てで来る観光客もいるとかいう話だ。洋一も来客があった時一度行ってみたが、島の新鮮な魚を上手く料理して、高齢者の口にも合う西洋料理を食べさせてくれた。しかも値段はランチで二千円前後だったと思う。まあリーズナブルといえるだろう。
今まで島にはなかった、新しい文化が入ってきたといえる。石材業の北木島、観光の白石島、漁業の真鍋島、観光と漁業の高島など、有人七島はそれぞれ個性が異なる島で、島の人々の連帯を密にするため、十年前から「島の大運動会」を始めた。毎年順番で四つの島が会場になる。この運動会も移住して来た人々の子供をはじめ、大人たちも若いエネルギーを注いでくれている。洋一はこの人たちが島に溶け込んで永住し、島に活気をもたらしてくれることを心から願っている。その内、アマモの再生事業にも参加してもらわなくてはと、密かにネライを定めている。
同級生の与一が久しぶりに洋一の所を訪ねてきた。彼の話によると、昨日隣の白石島に県知事がやって来て懇談会があったそうだ。。島の活性化について市長特命で出来た「島おこし海援隊」の市の職員、NPO法人「かさおか島づくり海社」の河田君を初め、島の役員の面々、公民館長、移住してきたそれぞれの島の代表など、二十数名が知事を囲んで、現状把握と将来への展望をテーマに語り合った。島々が一望できる高台の特設野外会議場で、三時間に渡って熱のこもった話が展開されたそうだ。知事は日生諸島と笠岡諸島に一年交替で訪れ、島の現状把握に努めている。今までに北木島、真鍋島、飛島で開催され今回が八年目らしい。
北木島での初回の時は、NHKも島弁を取り上げる特集を組み、全国放送されたそうだ。こうした過去の取り組みが功を奏して、全国から移住希望者が下見に来たり、移住してきたりして島の様子が、少しずつ変化を見せてきている。与一はうれしそうにこんな話をして帰っていった。
洋一は今日、隣の島のカウボーイ二人にあってきた。郷里の島にユーターンしてきた変わった男がいると聞いた、Iターンの中野さんが、島つくり海社を通じて洋一にアプローチして招待してくれたのだ。行ってみると、カウボーイ姿の中野さんと岸田さんが、自家製のビーフジャーキー、じっくり煮込んだというスペアリブ、手作りのパン、キンカンのデザートを用意して待ってくれていた。早速バーボンで乾杯する。なるほどカウボーイと呼ばれる所以である。
中野さんは横浜から二年前に、岸田さんは名古屋から昨年九月に移住してきたという。
中野さんは五十五歳の時、定年後は静かな所で趣味に生きたいと考え、適地を捜し求めて、五年間休みを利用しては日本を一周して、この島に流れ着いたという。家賃が安く、高台にある家は眺望も素晴らしい。晴耕雨読の生活を地でいっていると話してくれた。野菜作り、読書、習字・・・と趣味三昧の生活だ。奥さんと早く死に別れ、二人の子供達も独立しているので、年金が使い切れないと贅沢なことを言っていた。
岸田さんは笠岡諸島の移住者紹介のテレビに心を奪われ、この島にやってきたそうだ。奥さんとは趣味や考えが合わず別居している。
「何も無い島です。でも、今までに無い価値を手にすることが出来ます。顔が合えば朝、晩挨拶を交わす。出来た野菜を提供してくれるとか、獲れた魚のおすそ分けもある。互いに助け合いながら暮らす、今の生活が本当の生活と言えるのではと思います。名古屋のマンション生活では、両隣の住人と挨拶をたまに交わすだけだったことを考えると、今までには得られない贅沢な日々です。もしかすると、新しい自分に出会えるかも知れません。わがままを言って申し訳ないが、時には島を訪れて、小生の暮らし振りを見に来てください。」
と島にやって来て三ヶ月程経った頃に、奥さんに送った手紙に書いたと淡々と話してくれた。
洋一は、中野さんとは横浜暮らしで話が合うし、岸田さんとは理由はともあれ、妻と別居している境遇が似ていて、意気投合できる友を得たような思いで、島を引き揚げた。
だが島での生活に憧れて移住を試みた人たちの中にも、残念ながら止む無く島を離れていった家族が、ここ半年の間に四家族十三人いる。だが洋一が聞くところによると、島の人々が原因で離れていったケースは無いという。せめてもの慰めである。
理由を聞いてみると、二家族は四十代の若い家族で、子供の高校進学を機に島からの通学が困難だと、本土に引き揚げて行った。市内の高校なら洋一も通ったように、どうと言うことは無いが、列車を乗り継いでだと大変だろう。一家族は子供の病気をきっかけに、島では不安が解消されないといい、一家族は定年後の年金生活者だったが、亭主が脳梗塞になり、後遺症のリハビリがままならないという理由で、島を離れて行ったようである。いずれも離島の抱える問題を、浮き彫りにするような事例である。島で生まれた若い人たちが離れて行った理由と、ほぼ同じと言って良い。
洋一の妻淳子も、専門病院から遠すぎることと、船便の不便さが災いした。洋一の場合と同じく、此処にも離島の悲哀をもろに被った家族があり、移住を推進しようとする市としても、頭の痛い難問が横たわっているとしか言いようが無い。
洋一が神社で祝詞を奏上しての帰り、海岸沿いの道を親子四人連れ、いや、抱っこされている赤ん坊を入れて、五人連れが朝の散歩をしているのが目に入った。ああ、この人たちが
「朝早く散歩している親子連れがいる」
と島で珍しがられて、噂に上っていた家族なんだ。話し掛けてみようと、洋一は片岡さんの家族の方に足を向けた。
「おはよう。片岡さんじゃったなあ。朝早いんじゃなあ」
「あ、神主さん、おはようございます」
「いやいや、わしは神主代理じゃ。子供さんも早起きで健康にええなあ」
着る物が神主スタイルの白装束だったので、神主と言われたようだ。
「天気の時は、出来るだけ親子で散歩をする習慣にしています」
「ええこと、ええこと。ワシも早朝の神社のお勤めで、体調が良くなったんで」
「ああ、そうですか。この島に来て子供達が活き活きしてきて喜んどります」
少し島の物言いが身に付いてきているようだ。
「ああ、そりゃあ良かった。都会と違うてノンビリしとるが、景色はええし、魚は美味いし、空気は澄んどるけえ健康には申し分無かろう」
浜辺の堤防の上に座って、洋一はすっかり話し込んでしまった。感じのいい若い家族だった。
片岡さんは昨年の九月、二人の娘を連れて神戸から移住してきた。そして今は地元の漁協に勤務している。パソコンが使えるということで、漁協では大変重宝がられている。三人目の男の子は島に移住してきてから生まれたそうだ。住宅会社に勤務していた片岡さんは、まだ三十代の半ば、働き盛りの年齢であったが、上司とのトラブルが原因で自分から辞めた。ちょうどその頃、長女の真理ちゃんが小学校に上がり、学校で色々といじめ問題が起き、夫婦とも都会での教育環境に疑問を抱くようになっていた。
そんな頃、かさおか島づくり海社主催の「自然豊かな島に来て住みませんか」ツアーに参加して、下見に来たのが昨年の八月、島の夏祭りの日だった。島海社はツアーに夏祭りをドッキングする作戦をとっていたのである。ストレスを溜めきっていた片岡さん夫婦は、その夏祭りに参加してこの島のとりこになったそうだ。焼きソバ・金魚すくい・かき氷・たこ焼きなど、日焼けした漁師たちが、声を張り上げて呼び込む屋台の風景に、神戸生まれの神戸育ちの片岡さんにとっては、何とも言えぬ安らぎと、田舎の原風景を見た思いがしたという。
島では多くはいない子供達ではあったが、年齢に関係なく一緒に活き活きと遊んでいる。本当に子供らしい子供の姿を見て、片岡さんの奥さんは救われる思いがしたそうだ。これなら真理もきっとあの仲間入りが出来て、伸び伸びした娘に育ってくれるのではとかすかな希望を抱いた。自分としては是非この島で暮らしたい。主人がどう言うだろうかと気にしながら、祭の打ち上げに誘われて宴会に行った、片岡さんの帰りを待っていたが、とうとう朝まで帰らなかった。
漁師や学校の先生や、公民館長や駐在さんや神主代理など、皆が一緒になって賑やかに飲み交わす。気がついてみたら朝を迎えていた。こんな片岡さんの言い訳を聞いた奥さんは
「今までこんなことはなかったけど、たまにはいいじゃあないん」
とあっさり認めてくれた。これも海社の仕組んだシナリオだったことを後で知ったが、片岡さんは悪い気はしなかった。
こうして片岡さん夫婦はツアーから三ヵ月後に、島に本腰を入れて移住してきた。そして三人目の子供を出産した。神戸の産院で管理指導してもらっていたが、島には産院は無く、七十過ぎの産婆さんに子供を取り上げてもらうことになった。既に二人産んでいたのでそんなに不安はなかったが、上手く出産が終わってホッとした。
四月の中頃、授業参観日で、学校が早く終わった小学二年の真理ちゃんは、家に帰るとカバンを投げ出し、自転車に乗って友達の所に飛び出して行った。
「この島へ来て毎日友達と遊べるのが一番ええ」
と、今では本来の子供らしい子供に返って活き活きとしている。片岡さんも小学校のPTAの副会長を、今年の四月から仰せつかって、自分を取り戻しつつある。
こんな打ち明け話をして、親子五人は浜辺の道をゆったりと、朝日を浴びながら歩いて行った。
洋一はいつもにも増して、爽やかな気分に浸りながら家路を急いだ。島にこのような若い移住者が今後も増えてくれば、島の活性化が少しは進むのではなかろうか。地区を上げて温かく迎え入れなくてはなるまい。島の人口は年毎に減少し、高齢化が進む中で、こうして何人もが、島の環境の良さに惚れ込んで移住して来て、活き活きと生活をエンジョイしている姿に接し、定年後ユーターンして、生まれ育った島に帰って来た洋一にとって、何かしら少し明かりが見えてきたような気持ちになるのだった。
トシ君とよく釣りに行った北の浦のアマモを何とかして再生したい。昨年の秋は試験的に取り組んだが、今年はいよいよ本格的に始めなくてはならない。昨年の主力メンバーで、名称も変えて「アマモ再生実行委員会」を立ち上げて計画を練った。
「今年は去年よりもうちょっと大勢参加してもらわにゃあ、どうにもならんで」
「大勢参加することにも意義があるけえのう」
「そうじゃ、島の住民皆にアマモの大事さを知ってもらわんといけん」
「学校の先生にも頼んで、子供等にも参加してもらおうやぁ」
「そりゃあええことじゃ。最近は環境学習とか言うのがあるそうだし」
「組合からアマモを入れる網袋を提供してくれるらしいで」
「ほんまか、そりゃあよかった。後は人海戦術じゃのう」
「公民館長、地区に向けて呼びかけのチラシを作ってもらえるかな」
「ああ、ええよ。百枚位でよろしいかなあ」
「戸数が八十軒ほどじゃけえ、それで十分じゃ」
わいわい、がやがや、洋一が心配することもなく事は進んだ。北の浦全域の作業となるので、昨年参加してくれた人たちだけでなく、出来るだけ多くの参加を呼びかけることになった。新しく島に移住してきた人たちにもパワーを提供してもらおう。昨年の試験栽培で少し根着きが悪かったので、もう少し確立を高めなくてはなるまい。県の水産試験場で、他地域の取り組みの情報を手にしていたので、洋一は当日までにノウハウのパンフを作っておこう等と、あれこれ考えながら皆の話を聞いていた。アマモ揺れる豊かな海を取り戻すのに、果たして何年かかるか、不安と期待を胸に、洋一は暗い夜道を自転車を踏んでいた。
商事会社の営業マンとして単身赴任が長かった。そして今、自分のわがままのうえに、妻の病気のこともあって、別居住まいをしている。そんな洋一ではあるが、最近つくづく思う。この島は空気はきれいだし、景色もよいし、魚や野菜、果物はほとんど自前で、まるで天国に近い所にいるみたいだ。自分が死んでも家内は大津で通院しながら、実母の面倒を見、自由で気ままな今の生活を、そのまま続けられると思うし、逆に家内が先に死んでも、私は病気などしなければ、アマモの再生、神主代理、魚釣り、畑仕事に精出し、島人や友人達と時々交流したりで、のんびり、ゆっくり、穏やかに生きていけるだろう。ひょっとしてこれは第三の人生なのではないかと思ったりする。
あとがき
厳しい経済戦争を潜り抜け、日本が経済大国へとのし上がって、世界へ進出していった時期、企業戦士として第一線で戦った団塊の世代に対してエールを送りたい。故郷に帰ってのんびりとスローライフを送っては如何ですかと。
東京へ、東京へと地方から流出していくにつれ、地方は少子高齢化が進み、人口の急激な減少と、活力の喪失が常態となってしまった。
自然豊かな思い出のいっぱい詰まった故郷に帰って、幼いころの思い出を懐かしみながら、人間らしい余生を送り地方を元気づけること、自分を育ててくれた故郷と故郷の自然に対する恩返しではなかろうか。
洋一の島での生活は自給自足の質素な生活だが、周りの人たちから信頼され、精神的には心豊かな日々である。金では買えない贅沢な生活である。
了