第3話 革命
数多ある物語の中から、本作に目を留めてくださり感謝します。
3話完結の小さな物語。最終話、お楽しみください。
教会を追い出された聖女がドタバタな旅の果てたどり着く先は......
翌朝から、試行錯誤が始まった。
「チッ。昨日の味が出ねえ」
揚太郎は鍋を睨んだ。
出汁の引き方は変えていない。
味噌の量も、火加減も。
なのに深みが薄い。
輪郭が昨日よりぼやけて、底が浅い。
「お兄さん、今日の味噌が昨日より少し固かったんです。袋の機嫌が悪かったみたいで」
「機嫌?」
「念じれば拗ねる。諦めれば溢れてくる。そういう気まぐれな袋なんです」
「……お前の神器、性格悪いな」
「言わないであげてください、この子が傷つくから」
揚太郎は鍋に少し出汁を足した。
それでもまだ何かが足りない。
「お前、昨日味噌を溶かすとき、どんな速さで混ぜた」
「ゆっくり、円を描くように……でも途中で鍋が吹きこぼれそうになって、少し焦りました」
「そこだ」
揚太郎は振り返った。
「お前の醸す力は、焦ったときに香りが逃げる。昨日の序盤と終盤でスープの深みが違ったのはそのせいだ。落ち着いて溶かした前半が、あの味を作った」
「……そんな性質、自分では気づいてませんでした」
「当たり前だ。自分の中にあるものは、外から見ないと見えない」
リーネはお玉を握り直した。
今度は急がない。
ゆっくり、円を描く。
鍋の底から味噌が溶け出し、出汁の中に広がっていく。
ぐる、ぐると。
湯気がふわりと顔にかかる。
「……あ」
香りが変わった。
だが揚太郎は首を振った。
「まだ薄い。昨日の深みに届いてない」
リーネは止まらずに混ぜ続けた。
落ち着いている。
焦ってもいない。
なのに昨日と何かが違う。
......昨日は無我夢中だった。
今日は、意識しすぎている。
「……お兄さん、私、力のことを考えながら混ぜてます」
「それだ」
揚太郎は短く言った。
「職人は技を忘れたときに本物になる。意識した瞬間に、体が固くなる」
リーネはしばらく黙った。
お玉を持つ手から、少しだけ力を抜いた。
力を使おうとするんじゃなく、ただ味噌のそばにいるだけでいい……そう思った瞬間、指先に何かがじわりと灯った感覚があった。
温かくて、小さくて、確かなもの。
「……あ、これ」
香りが変わった。
昨日と同じ、いや、昨日よりほんの少し深い。
揚太郎が鍋を覗き込んだ。
鼻がひくりと動く。
「それだ。その感覚を忘れるな」
「はい」
今度は小さく、でも迷いのない返事だった。
だが翌日、またズレた。
味噌の固さが前日と微妙に違う。
袋の機嫌で熟成の具合が変わるらしく、同じように混ぜても香りの出方が変わる。
揚太郎は「素材が変われば手も変える」と言い、リーネはその日一日、味噌の状態を指先で確かめながら力の出し方を微調整し続けた。
柔らかい味噌のときは、力を薄く広げる。
固い味噌のときは、中心に静かに集める。
三日目の朝。
リーネはお玉を持つ前に、まず味噌に指を触れた。
今日の味噌の息吹を確かめるみたいに。
揚太郎がそれを横目で見て、何も言わなかった。
その日のスープは、今までで一番深かった。
トントントン、と揚太郎の包丁が走った。
リーネのお玉がゆっくり回る。
バチバチバチッ——
鉄鍋の中で衣が跳ねるたびに白い煙が上がり、炊飯の蒸気がその隙間を真っ直ぐ突き抜けていく。
ばらばらに動いているのに、なぜか同じリズムを刻んでいた。
その日の昼過ぎ。
店の前を通りかかった初老の男が、暖簾の前で立ち止まった。
路地裏の奥まで届く匂いに引き寄せられるように、ふらりと入ってきた。
定食が運ばれてくる。
黄金の衣を纏った肉、ツヤツヤした白い米、湯気の立つ味噌汁。
男は箸を取り、一口食べた。
止まった。
もう一口。
また止まった。
リーネがちらりとカウンターを覗くと、男は俯いて肩を震わせていた。
声は出ていない。
ただ涙が膝にぽたりと落ち、それでも箸だけは動き続けている。
一口、また一口。
皿が空になるまで、ずっと。
リーネがそっと声をかけると、男は白米を最後の一粒まで丁寧にかき集めてから、ようやく顔を上げた。
目が真っ赤だった。
「昔な、母親がよく作ってくれたんだ。こういう、温かいものを」
それだけ言って、男は銀貨を三枚カウンターに置いた。
立ち上がり、頭を深く下げて、出ていった。
厨房の奥で、揚太郎がじっと立っていた。
リーネは気づいていた。
男が泣き始めた頃から、包丁の音が止まっていたことに。
「……お兄さん、見てたんですね」
「見てない」
「暖簾の隙間から、ずっと」
揚太郎は答えなかった。
鍋に出汁を少し足した。
ぐつぐつという音だけがする。
「旨いもん食って、人が泣く」
低い声だった。
「俺はそれが作りたかった。この世界に落ちてきたとき、最初に思ったことだ。旨いものがない。旨いものを食ったことがない顔ばかりだ。それが、ずっと引っかかってた」
リーネは何も言わなかった。
ただ隣に立って、鍋の湯気を一緒に見ていた。
揚太郎が、静かに出汁を一口すすった。
鍋を火から下ろし、布巾で手を拭いた。
それだけだった。
翌日も、その翌日も、客は少しずつ増えた。
路地裏の奥にある、スープが信じられないほど旨い店。
黄金の衣を纏った肉の定食。
銀貨三枚。
「聖女の泥が入ってるらしい」
「なんだそれは」
「知らんが、旨いぞ」
噂が王都の裏通りを走り始めた頃、店の暖簾の横に板が一枚加わった。
『ご飯、みそ汁おかわり自由。豊穣の清酒もあるよ。』
リーネが夜中に書いた。
揚太郎は朝一番に見て「字が汚い」と言ったが、外さなかった。
◇
ある日の昼下がり。
店の前に、豪華な馬車が止まった。
暖簾が揺れる。
降りてきたのは——エリーゼだった。
司教の姪。
リーネを追放し、次期聖女候補となった令嬢。
その後ろには、見るからに疲弊した顔の修道士が三人。
エリーゼは鼻をつまみながら、嫌そうな顔で店を見回した。
「……こんな薄汚い路地裏で、リーネが働いているなんて。哀れね」
リーネは厨房の奥から顔を出した。
「……エリーゼ様。何の御用ですか」
「単刀直入に言うわ。リーネ、「豊穣の革袋」を返還なさい」
「……は?」
「聖域では今、深刻な食糧不足が起きているの。あなたがいなくなってから、穀物が手に入らなくなった。私の「清浄の聖水」では、腹は膨れないのよ」
エリーゼは苛立った様子で髪をかき上げた。
「だから、袋を返しなさい。それが神の意志よ」
リーネは、三秒黙った。
それから、はっきりと言った。
「お断りします」
「……何ですって?」
「私は追放されました。もう聖域の人間じゃありません。この袋は、私のものです」
エリーゼの顔が真っ赤になった。
「貴女ッ! 聖域を見捨てる気!? 神への冒涜よ!」
その時、揚太郎がカウンターから声をかけた。
「客が騒ぐな。注文しないなら帰れ」
エリーゼは揚太郎を睨んだ。
「貴方、何者? この魔女の仲間?」
「店主だ。で、注文は?」
「こんな薄汚い店で食事なんて……」
「なら帰れ」
揚太郎は冷たく言い捨てた。
エリーゼは顔を真っ赤にして、馬車に乗り込んだ。
「覚えてなさい、リーネ! 必ず後悔させてあげるから!」
馬車が走り去る。
リーネは暖簾を撫でながら、小さく呟いた。
「……ざまあみろ、です」
揚太郎は何も言わなかった。
ただ、鍋に出汁を足した。
その夜、店は今まで以上に繁盛した。
ある客が、リーネに尋ねた。
「聖女様、本当に聖域を見捨てていいんですか?」
リーネは少し考えてから、答えた。
「私は、聖域を見捨てたんじゃありません。ここで、新しい場所を作ったんです」
「新しい場所?」
「はい。美味しいものを食べて、幸せになれる場所。銀貨三枚で、誰でも天国に行ける場所」
客は黙って、味噌汁をすすった。
そして、静かに笑った。
「……そうか。ここが、聖域なんだな」
リーネは頷いた。
「はい。ここが、私の聖域です」
◇
閉店後。
リーネが仕込みの麹を確認していると、革袋がまたぐずり始めた。
念じても出てこない。
諦めかけた瞬間——
ズザザザザァァッッ!!
怒濤の勢いで麹が溢れ出し、厨房が一瞬白くなった。
「あーもうッ、このタイミングで!?」
麹まみれになりながらかき集めていると、揚太郎が覗いてきた。
惨状を一秒見て、盛大にため息をついた。
「お前の神器、本当に性格悪いな」
「だから言わないであげてって言いましたよねッ!?」
「片付けたら明日の仕込み表を書け」
「もうっ……あ、でも、この麹、すごくいい香りがします。明日のスープ、もっとよくなりますよ」
揚太郎は黙って麹を一掴みした。
鼻に近づけて、ゆっくり息を吸った。
「……ああ」
それだけ言って、踵を返した。
リーネは麹まみれのまま、その背中を見送った。
口の端が、自然と上がっていた。
とんかつジャンキーと発酵聖女。
どちらも、この路地裏に辿り着くべくして辿り着いた。
銀貨三枚の定食が、王都の裏通りを少しずつ変えていく。
リーネが今日も味噌に指を触れ、揚太郎が今日も鍋を睨む、その小さな厨房から。
(完)
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