第2話 出会い
数多ある物語の中から、本作に目を留めてくださり感謝します。
3話完結の小さな物語。つづきの第2話、お楽しみください。
教会を追い出された聖女がドタバタな旅の果てたどり着く先は......
王都の門をくぐった瞬間、匂いはさらに濃くなっていく。
市場の喧騒を突っ切り、石畳の路地を二回曲がり、細い抜け道を抜けた先。
薄暗い袋小路の突き当たりに、煤けた暖簾が一枚だけ揺れていた。
達筆とはほど遠い、削ったような文字で「揚げもの、やってます」とある。
暖簾の奥から漏れ出す匂いは、十五年間嗅ぎ続けた聖域の食事とは何もかもが違った。
脂の甘み、焦げの苦み、それから底に沈んだ何か複雑なもの——全部が一本の束になって、鼻の奥を直撃してくる。
バチバチバチッ、ジュワアアァァッ!
リーネの足が、最後の三歩で完全に制御を失った。
バンッ!
「お兄さんッ! お金はないけどこれがあるの! 私が作った自慢の泥と、この黒い水と、謎の白い粒と、美味しいお酒! これで何か食べさせてくださぁぁいッ!」
暖簾を撥ね上げ、カウンターに革袋をドンッ!と叩きつけながら一息で捲し立てた。
カウンターの奥で、男が振り向く。
細身で、目が鋭い。
まだ若いのに額に縦じわが刻まれていて、口元は固く結ばれている。
何かを諦めた人間の顔だ——だが目の奥だけは、まだ燃えていた。
まだ、諦めていない目だ。
揚太郎。
どこか遠い異世界から、気づいたらこの路地裏に落ちていた男。
召喚された理由も、帰る方法も、最初から興味がない。
ただ、この世界には「とんかつ」がない。
それだけが問題だった。
揚げる肉はある。油も粉もある。
だがスープが細すぎた。
この国の連中は魚を茹でて、その湯を捨てる。
出汁という概念が、根こそぎ存在しない。
揚太郎はそれを知ったとき、この世界に来て初めて、本気で絶望した。
半年かけて、自力で辿り着くしかなかった。
市場の片隅でイワシに似た小魚を見つけ、塩水で茹でて、店の倉庫の天井から吊るした。
最初の二回は腐った。
腐った魚を捨てながら、揚太郎は一言も言わなかった。
ただ次の魚を買いに市場へ戻る。
三回目。
吊るして十日が経った朝、倉庫に入った瞬間に空気が違う。
干し魚の表面に、白い粉が吹いていた。
揚太郎は一本だけそっと手に取り、鼻に近づけた。
乾いた、凝縮した、深い香りがした。
水から煮出すと、淡い黄金色のスープが取れた。
一口すする。
倉庫の床に座り込んで、しばらく動けなかった。
旨い、という話じゃない。
やっとスタートラインに立てた。
それだけの話だった。
それだけのことに半年。
だがそれでも、まだ足りなかった。
スープの輪郭が鋭すぎる。
魚の出汁は尖っていて、脂の甘みと真っ向からぶつかる。
包んでくれない。
そして何より——白くてツヤツヤした米が、この国には存在しない。
代わりに食う麦飯を噛みしめるたびに、奥歯の奥で何かが軋んだ。
(俺が作りたいのは、これじゃない)
そういう男が、三秒かけてリーネを頭から足先まで見た。
「……金もないのに暖簾破る勢いで入ってくるな」
「ごめんなさいッ、でもほんとにいい素材なんですッ」
革袋をひっくり返すと、漆黒の液体と茶色の塊と、真珠みたいに白い粒がカウンターの上にばさっと広がった。
揚太郎は半歩引いたが、鼻がピクリと動いた。
無言で指を伸ばし、茶色の塊を一掬いして舌に乗せる。
三秒。
「……味噌じゃないか」
低い声が、静かな厨房に落ちる。
眉間のしわが、別の種類のしわに変わった。
眉の上あたりに。
考えているときの顔だ。
「チッ……これだ。魚の出汁の尖りを、この発酵のコクが包み込む。丸くなるんじゃない......底が、深くなる。ピースが最後の一個、揃いやがった」
次に黒い液体を指ですくい、舌で確かめた。
目が細くなった。
「……醤油だ」
「しょうゆ?」
「お前が黒い水と呼んでるそれだ。名前がある」
リーネはきょとんとして、液体をまじまじと見た。
「醤油……。そういう名前だったんですね、あなた」
白い粒を一粒つまみ、歯で割る。
ほんのり甘い。
「この粒は何だ」
「私にもわからないんです。袋から出てくるんですけど、噛むと甘くて、水につけると柔らかくなって......」
「米だ。この世界にはないが、俺の国にあった。炊けば銀シャリになる。とんかつの隣に置くべき、唯一の穀物だ」
「こめ、って言うんですね、これも」
リーネは白い粒を一つ指でつまみ、しみじみと眺めた。
それから顔を上げた。
「あの……お兄さん。美味しいものを作れる人のそばに、この子たちを置いてあげたかったんです」
揚太郎は一秒だけリーネを見て、鍋に向き直った。
「小娘、その泥を全部スープにぶち込め。米は俺が研ぐ。火は俺が見る。お前は味噌だけに集中しろ」
「わ、わかりましたッ.......あっ」
ガシャン。
醤油の瓶が倒れ、黒い液体がカウンターを走った。
「す、すみませんッ.......」
「拾え。こぼれた分は床が飲んだ。次行くぞ」
「はいっ.......あっ、味噌の量どのくらい.......うわっ、鍋が吹きこぼれてますよぉっ!」
「火を弱めろ!」
「どっちが弱い火ですかっ、この竈に目盛りはないんですかっ!?」
「勘でやれッ!」
「勘ッ!? 聖女に勘を要求するんですかっ!?」
「お前が聖女なら指先に感覚があるはずだ。熱が強ければ手が教える。黙って鍋の縁を触れ!」
言われた通りにそっと触れると......じりっとした熱が伝わってくる。
強すぎる。
リーネは竈の薪を一本引き抜いた。
ぐつぐつという音が、少しだけ落ち着いた。
「……これくらい?」
「それだ。覚えとけ」
バチバチバチッ、ジュワアアアァァッ!!
揚太郎が肉を鍋に沈めるたびに白い煙が天井まで上がった。
リーネはお玉を握りながら涙目で味噌を溶いていた。
丁寧に、でも焦りながら。
リズムが乱れて味噌の塊が飛ぶ。
「あっ、米がこぼれますっ!」
揚太郎が振り向きもせずに言った。
「こぼれた米は拾える。逃げた米じゃねえ」
リーネは一瞬だけ手を止めた。
それから「はいッ」と返事をして、床に膝をついた。
一粒ずつ、丁寧に拾い始める。
ぐつぐつ、ぐつぐつ。
鍋の中で、魚の出汁と味噌が溶け合っていく。
最初は別々だった香りが、熱を受けてゆっくりと絡み合い、やがてひとつの太い流れになった。
魚の尖りが発酵のコクに包まれて、丸くなるのではなく、底が深くなっていく.......揚太郎がずっと探し続けていた、あの感覚だ。
揚太郎の鼻がひくりと動いた。
眉間のしわが、すっと消えた。
「……悪くない」
「褒めてますよねッ絶対!?」
サクゥゥゥッッ。
揚太郎が鉄鍋から肉を引き上げた瞬間、黄金色の衣が厨房の灯りを弾いた。
皿の上で湯気をゆらゆらと揺らす肉の隣に、炊きたての白い米が山を作る。
その横で、味噌汁の碗から薄い湯気が真っ直ぐ立ち上がった。
リーネは箸を持つ手が震えた。
かじった瞬間。
「……ッッ」
声が出なかった。
衣のサクサクが歯に触れた次の瞬間、肉汁がどっと溢れ出した。
それが味噌汁の温かさと混ざり合い、白米の甘みと重なって、全部が一緒に喉の奥へ流れ落ちていく。
胃の底に、ぽっと火が灯った。
頭上に、文字が浮かぶ。
【体力:45→92】
【精神力:38→88】
【状態異常:疲労・空腹(解除)】
【バフ:幸福感(3時間)】
「美味しいぃぃ……ッ! 生きててよかったぁぁッ!」
「自分で作ったものに泣くな」
「泣きますッ! これは絶対泣くやつですッ!!」
揚太郎は鼻で笑った。
だが口の端が、わずかに上がっていた。
「娘、名前は」
「リーネですぅ……」
「いい素材だ。だが、この泥と米の管理はテメエにしかできねえ。2階が開いてるから住み込みで今から働け。逃げ出そうったって無駄だぞ」
「えっ!? 採用ッ!? やったぁぁ! 賄い付きですかっ!?」
揚太郎はもう背中を向けていた。
「賄いと屋根がある。それ以上でも以下でもない」
「それ給料じゃないですよねッ!?」
「仕込みの続きをしろ」
リーネは三秒ぷくっと頬を膨らませた後、「はいッ」と元気よく返事をした。
その夜。
店が静かになると、揚太郎は一人で鍋の前に立った。
煮干しを一本、指でつまんで眺めた。
それだけだった。
(第二話終わり)
ご一読ありがとうございます! 聖域の「無味乾燥な水煮」から始まったリーネの受難から無自覚な「発酵チート」が爆発。
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