完璧な貴方の経歴(レガリア)に、私の死を刻ませない――病死する前に婚約を破棄した理由。
羽ペンが紙の上を滑る、乾いた音だけが執務室に響く。
「……以上が、来月の通商条約に関する修正案です。エドワード様、ご確認を」
私が差し出した書類を、婚約者であるエドワード・ラングレイ公爵令息は、感情の読めない瞳で受け取った。
彼は弱冠二十歳にして次期宰相と目される、我が国の至宝だ。その完璧な横顔に、影一つ差してはならない。
それがこの国の、そして私の家の総意だった。
「いつも通り、完璧な仕事だ。君が隣にいてくれれば、私の代のラングレイ家は安泰だな」
エドワード様がわずかに口角を上げる。政略結婚という契約が生んだ、信頼という名の偽物の微笑み。
けれど、私の胸の奥では、どす黒い塊が熱を帯びて暴れていた。
(いいえ。私はもう、貴方の隣にはいられない)
昨晩、主治医から告げられた言葉が脳裏をよぎる。私の肺は、もう冬を越せない。
死は絶対的な終わりであり、そして「記録」だ。
もしこのまま私が彼の妃となり、数ヶ月で病死すればどうなるか。
政敵たちは「死病を隠して縁を結んだ不誠実な家系」とラングレイ家を叩くだろう。
彼の輝かしい経歴に、消えない泥を塗ることになる。
それは、私のプライドが、何より、私が人生のすべてを賭けて愛した男の未来が、許さない。
「エドワード様」
私は、手元に残った最後の一枚の書面を、彼の前に置いた。
それは通商条約の書類ではなく、王家の紋章が入った「婚約解消申請書」だった。
「……リリアーヌ? これは、何の冗談だ」
彼の手が止まる。室内の温度が、一気に数度下がったような錯覚に陥った。
「冗談など。私はいつだって、損得の話しかいたしませんわ」
私は扇で口元を隠し、涙を流さないように鏡の前で何度も練習した「冷徹な女」の笑みを浮かべた。
「死ぬ前の最後にやりたいことが見つかりましたの。……それは、貴方とのこの退屈な契約を、今すぐ破棄することですわ」
エドワード様の手がぴたりと止まる。
高級な事務机の上、書きかけの書類にポツリと落ちたインクの染みが、じわりと広がっていく。
「おい、死ぬってなんだよ。今日は冗談が多いな、リリアーヌ」
彼は顔を上げないまま、乾いた笑いを漏らした。
その声は、完璧な宰相候補として培ってきた余裕という仮面を、辛うじて繋ぎ止めている。
「……君との婚約が私のキャリアにおいて最大の成功であることは、お互い百も承知だろう。それを今さら、そんな悪趣味な仮定で揺さぶってどうする。
明日の夜会のドレスが気に入らなくて、私を困らせたいだけだろう?」
彼はようやく顔を上げた。
「エドワード様。……完璧な貴方が、見苦しい現実逃避をなさるなんて」
「……リリアーヌ?」
「私は、貴方の隣という『聖域』を汚したくないのです。死にゆく女との婚姻を強行した、そんな『情に流された愚か者』という傷を、貴方の経歴に残したくない。
……わかりますでしょう? 貴方なら」
エドワード様の瞳の奥で、余裕が音を立てて崩れていく。
「……リリアーヌ、君は……」
「エドワード様、答えは『イエス』か『承知した』の二択ですわ」
私は、震えそうになる指先を扇の影に隠し、冷徹な仮面をさらに深く被り直した。
「貴方は次期宰相。この国の均衡そのものです。その貴方が、冬を越せぬことが確定している女を妻に娶る」
「……」
「……それは、賞味期限の切れた食材を最高級の晩餐に並べるような、致命的な『計算ミス』ではありませんか?」
エドワードが、ガタ、と椅子を鳴らして立ち上がった。
いつもなら、どんな外交問題でも眉一つ動かさない彼が、今は獣のような鋭い視線で彼女を射抜いている。
「……私を、侮るな」
低く、地を這うような声だった。
「君との婚姻が利害の一致であることは否定しない。だが、私の隣に座る権利があるのは、後にも先にもリリアーヌ、君だけだ。それが私の選ぶレガリアだ!」
「いいえ、それはただの感傷です。……そして、私のプライドがそれを拒絶しますの」
リリアーヌは、わざとらしくため息をついて見せた。
「私は、貴方の隣で『可哀想な妃』として語り継がれる未来など、死んでも御免被りますわ。私が愛したのは、一切の無駄を排除し、常に最適解を選び取る貴方。……今の貴方は、醜い。愛という名の泥を、自らその経歴に塗ろうとなさっている」
彼女は一歩、彼に近づいた。
死の影が差しているとは思えないほど、凛とした足取りで。
「エドワード・ラングレイ。私を、今ここで捨てなさい。私という『不良品』を排除し、明日には新しい婚約者を公表する……。それこそが、私の愛した貴方の、最も完璧な姿ですわ」
私の心には、一切の揺らぎがなかった。
(お願い、エドワード様。私を、美しい思い出のまま終わらせて。貴方の人生という完璧な円の中に、私の死という欠落を作らせないで)
沈黙が、重く、鋭く、二人を切り裂いていく。
彼はゆっくりと椅子に座り直し、広がるインクの染みを無機質な瞳で見つめた。
「……なるほど。それが君の、最後の『仕事』か」
彼の声から、先ほどまでの激昂が消えていた。
次期宰相としての、冷徹で合理的な思考が、激情を塗りつぶしていく。
私はその変化に、胸を引き裂かれるような安堵と、耐え難い絶望を同時に感じた。
「貴方のキャリアに、私の死を刻ませない。それが私のプライドだと申し上げましたわ」
「よかろう。……その契約、受理する」
エドワード様は無造作にペンを執ると、婚約解消申請書に、流麗な署名を書き入れた。一切の迷いもない、完璧な筆致。
「明日には王宮へ提出し、我が家からは『リリアーヌ・ド・ヴァロワは、公爵家の期待に応えられぬ不実な女であった』と声明を出そう。君の望み通り、私は傷一つない英雄として、次に進む」
「……ええ、それが最適解ですわ」
深く頭を下げた。扇で隠した口端から、一筋の血が伝う。
それを、まるで最初から存在しなかったかのように素早く拭い去った。
「では、失礼いたします。……さようなら、エドワード様」
「ああ。二度と会うことはないだろう」
背中合わせのまま、一度も振り返らなかった。
*10年後*
王国の執務室には、かつてよりさらに冷徹で、さらに洗練された空気が流れている。
机に向かうのは、現宰相エドワード・ラングレイ。彼は「国の至宝」から、いまや「王国の心臓」と呼ばれる存在となっていた。
「……閣下、そろそろ休憩を。周辺諸国からは、依然として次期正妃の推薦状が山のように届いております」
補佐官が恐る恐る差し出したのは、各国の王女や公爵令嬢たちの肖像画だ。
エドワードは視線すら向けず、流麗な筆致で書類に判を押していく。
「不要だ。言ったはずだ、私には正妃を選ぶ時間は一分たりとも残されていない、と」
彼は、ふとペンを置き、窓の外に広がる冬の景色を見つめた。
彼女は言った。自分の死を私の経歴に刻ませない、と。
だから、彼女の死を「なかったこと」にした。
もし彼が他の誰かを妻に迎えれば、世間はいつかリリアーヌを「かつての失敗」として思い出すだろう。
だが、彼が誰とも結婚せず、完璧な仕事を完遂し続ければ、リリアーヌの存在は、彼の輝かしい経歴の裏側に、誰にも暴けない「空白」として永遠に保存される。
「正妃を持たない」のではない。
「彼女という欠落」を維持することだけが、彼が彼女に捧げられる唯一の復讐であり、愛だった。
そんな彼の執務室には、10年前に「破棄」したはずの銀色の指輪と、ペンが紙の上を滑る乾いた音が響く。
(end.)
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