第7話 頂(いただき)で見た景色
決勝審査を終え、控室に戻った。
周りの選手が次々に「優勝おめでとうございます!」と声をかけてきて、篠崎君も「ありがとうございます。まだ分かりませんけどね」と返しつつ、握手をしていた。
確かに、このあと午後6時からの表彰式で正式な順位が発表されるので、まだ決まりじゃないけど、これで優勝逃したらちょっとビックリだ。
「表彰式まで少しあるな。水分取ってアンパンかじろうよ」と、篠崎君に声をかける。
通常、決勝審査が終わったら、もう順位は関係ないから、多少カットが緩くなっても問題はない。長期にわたるドーピングと厳しい減量、そして仕上げの水抜き塩抜きで、身体も限界に達しているだろうから、少しでも栄養を補充して休息したい。が、篠崎君は、
「それは我慢しておきます。一度食べ出したら止まらなくなるのが心配ですし。まだ正式に順位が付いたわけじゃないから、最後まで身体を緩めないでいきます」と、穏やかに微笑み、しかしきっぱりと拒絶してきた。
「いやー。だってあと3時間もあるんだぜ。それに表彰式で足つったらカッコ悪いだろ?」と、 僕が食い下がっても、
「カット緩んだ方がよっぽどカッコ悪いですよ。僕なんて今日まで無名だったのに、沢山のお客さんが応援してくれましたし、トロフィー持った姿を月ボ(専門誌。「月間ボディメイク」)の記者さんが撮影するでしょうし、最後の最後で気を抜いて後悔したくないんですよ」って、とりつくしまもない。こうなるともう説得してもダメだな。
「そうかー? まあ、でも、終わったらいくらも飲み食いできるんだもんな。あとひと踏ん張りか。じゃさ、終演後は何食べにいく?」
「ええと、そうだな‥‥‥。町中華ですかね。ギョーザとチャーハンがいいな。あとレバニラも。今日はビールいっちゃいますよ!」
「まったく(呆)、せっかく洋介師匠がご馳走してくれるんだから、もっといいもん食えよ。ステーキとかしゃぶしゃぶとかさ」
「えー(笑)、そうだな、どうしようかな? うーん、でもやっぱり町中華がいいな。もう頭の中、ギョーザで一杯ですよ」
「ははは、まあ、今日の主役なんだから、好きにしたらいいさ。それじゃあと少し、頑張ろう」
それから2時間半、篠崎君は水分も糖質も摂らずに我慢した。さすがに疲労困憊という様子で、横になってぐったりしていた。無理もない。が、30分前に、ムックリと起き上がり、
「昇さん。アップしましょう。補助お願いします」と言ってきた。
「えーっ? だいぶ疲れてるみたいだけど、大丈夫か? 今日3回目だぞ?」と返したけれど、
「やります。お願いします」とのことで、最後のパンプアップを行った。
さすがに水分も糖質も枯渇した状態では、刺激に対する反応も鈍く、なかなか筋肉が張らなかったが、ルーティンを2周繰り返したところ、徐々にパンプし、まずまず見られる身体にはなった。
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午後6時から男子ボディビルの表彰式が始まった。
ステージ上に、撮影用の表彰台が置かれ、その後ろに12人の選手が並び、アナウンサーの呼び出しを待つ。順位は12位まで全員につくが、入賞は5位まで、もちろん表彰台は3人だ。
「みなさま、大変長らくお待たせいたしました! それでは、男子ボディビル、表彰式を行います!」とアナウンスが入り、すぐに「第12位 ゼッケン3番、○○選手。おめでとうございます!」と順位発表が行われる。呼ばれた選手は、丁寧にお辞儀をし、場内に手を振る。呼応して応援団から大きな歓声が上がる。
順位発表は続き、5位の選手からはステージの前に呼ばれる。順次、4位、3位と来て、いよいよ2位。先ほどの決勝審査を見れば明らかとも言えるが、「第2位、ゼッケン17番、○○選手、おめでとうございます!」と、やはり決勝で篠崎君の右隣にいた選手が呼ばれた。彼も予想通りなので、ガックリと力が抜けたりもせず、晴れ晴れとした表情で歓声に応え、2位の立ち位置に並んだ。
「さあ、いよいよ、栄えある男子ボディビルクラス、本年度のオリンピア・ジャパンのチャンピオンは‥‥‥‥‥‥‥‥‥」って、ずいぶんひっぱるなあ。会場も分かってるだろうに固唾を吞んで見守っている様子だ。
「ゼッケン29番、篠崎誠司選手! 本当におめでとう! みなさま篠崎選手に盛大な拍手を!」とアナウンスが大声で篠崎君の名前を呼び、会場からも期せずして「シノザキーっ!」って、篠崎コールが湧き上がる。
篠崎君は、最高の笑顔で三方に頭を下げ、両手を高々とあげてから、大股で一位の立ち位置にまで進み、そこで渾身のマスキュラーを披露した。会場の声援が一層盛り上がり、あちこちでフラッシュが眩しく光る。
ほどなくして、表彰状の授与が始まり、5位の選手から順次手渡されたものの、優勝の篠崎君のところで、一旦流れが止まった。
何かと思ったら、そこでプレゼンターが交代。決勝で篠崎君にサムアップしてたオリンピア本部の役員が出てきて、表彰状と、そして大事なオリンピアプロの認定証を読み上げた。
このために半年間二人で頑張ってきたんだもんな。篠崎君もちょっと瞳を潤ませて、感慨深い表情で大事そうに受け取り、そのあと首に金メダルをかけて貰って両手で握手していた。
最後に、てっぺんに金色のマッチョマンが乗ったトロフィーが用意された。これを持って三人が表彰台に上がり、写真撮影をして全行程が終了だ。あと少し、頑張れ、集中。
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オリンピアのプレゼンターが、舞台袖に置かれた高さ1m位ある大きなトロフィーを持ちあげ、篠崎君を振り返ったが、重くてフラフラしているので、「おっと危ない」って様子で、篠崎君もそれを受け取りに近づいた。
‥‥‥が、しかし
そこで篠崎君が突如膝から崩れ落ちた。
膝をついたあと、顔面からステージに倒れ込んだ。
「ゴッ!」っていう鈍い音が響く。
歓声一色だった場内が、瞬時に「キャー!」という悲鳴に包まれ、そして次第に不安そうな沈黙が会場を覆っていく。(何か悪いことが起きた)、そう皆が確信している。
僕は、「トレーナーです!」と大声で言いながら、舞台袖から飛び出し、篠崎君を助け起こし、仰向けにした。顔から落ちたので、鼻が折れて血が噴き出している。前歯も何本か欠けてステージに散乱している。顔面は血だらけの凄惨な状態だ。
だけど、篠崎君はしっかり目を見開いて何かを見ている。減量期の、あの虚ろな、焦点の定まらない視線じゃない。彼には、今確かに、何かがはっきりと見えている。
僕は急いで、左胸に手をあてて心臓の鼓動を確認する。‥‥‥ん? よかった、動いてる。けど、不定期で細かい。細動だ。腹と胸の動きを見ると、息をしてない‥‥‥のか。あ! でも今「ヒック」って吸った。間欠だ。
ああ、間違いない。これは痙攣だ。脱水で全身が痙攣しているんだ。心臓も肺も痙攣をおこして動きが止まりかけている。それに低血糖の電池切れが追い打ちをかけている。水も燃料も何もかも使い果たして、今彼の心身が終末に向かっているんだ。
と、そこに、「医者だ! 通してくれ!」と叫びながら、洋介師匠が上がってきた。
「昇! 心臓と呼吸は!?」
「心臓は細動! 呼吸は間欠です!」
「ヤバいぞ。すぐ事務室行って、救急車呼んで、あとAED(電気ショックで心臓の収縮回復)借りてこい!」
「はいっ!」
僕は全力で走ってホールを抜け、エントランス脇の事務室に入り、
「今、ステージで選手が倒れました! 救急車呼んでください! あとAEDを貸して下さい!」と叫び、窓口の女性に救急の手配を任せ、出してきたAEDを掴んで会場に引き返す。
ステージ上に駆けあがると、洋介師匠が篠崎君に馬乗りになり、胸の中心を両手で圧迫している。心臓マッサージだ。
そして、その脇に、篠崎君の手を取って、「誠ちゃん、誠ちゃん。ダメ‥‥‥帰ってきて‥‥‥」って泣きながらさすってる女の子がいる。
おい、篠崎君! なんだよ、話が違うだろ! 死ぬな、絶対帰って来い!
「師匠、AEDです!」
「来たか! 心臓と呼吸止まった。早く!」 篠崎君はもう眼を閉じている。
師匠は、AEDの蓋を開け(自動で電源が入る)、素早く粘着パッドを胸に2枚張る。しばらくして、ピーと音がして、OKランプが灯る。
「やるぞ! 離れろ!」 AEDは1200V以上。傍にいると一緒に感電してしまう。が、女の子が手を握って離れない。耳に入っていない。
「昇! その子、引っぺがせ!」 事は緊急を要する。申し訳ないけれど、僕は「離れるぞ」と声をかけて、女の子を後ろから羽交い絞めにして篠崎君から引きはがした。女の子が、「あ、あ‥‥‥誠ちゃん!」って両手を伸ばす。
それを確かめて、師匠が素早くショックボタンを押す。
その瞬間、篠崎君の身体が、一瞬ビクンと反り返る。効いてくれ、頼む! ‥‥‥10秒、20秒‥‥‥だめだ、ピクリともしない。
「昇! 心臓マッサージ継続! お前やれ! 素早く30回!」
「はい!」 僕が篠崎君の胸を何度も5㎝の深さに押し込む。
「師匠、30回です!」
「よし!」 そう言って師匠は、篠崎君の鼻をつまんで、口を開かせ、深く2回息を吹き込む。
「もう30回! もっと強く!」
「これ以上やったらアバラ折れますよ!」
「構わん! やれ!」
僕はさっき以上に強く、深く胸を押し込む。両手に肋骨がボキボキ折れる嫌な感触が伝わってくる。二人で半年頑張って作り上げた完璧な肉体が、あっけなく崩れていく。
そこに、救急隊員が担架を持って駆け上がってきた。要請から10分。ここを過ぎると救命率が急激に低下する。
「救急です。あとは車内でやります!」
「お願いします!」 僕と師匠は、篠崎君の巨大な肉体を担架に乗せるのを手伝った。
すると、救急隊が去り際に、「どなたか付き添いをされますか!」と聞いてきたので、後ろで両手合わせて泣いてた女の子が、「わ、私、‥‥‥行きますっ!」って声をあげた。
「あ、僕も!」って声をあげたら、師匠に後ろからガシっと手をつかまれ、「やめとけ」という、小さいが鋭い制止の声が聞こえた。
僕と洋介師匠は、救急隊が担架を担いで走り、女の子が後ろからハンカチを手についていくのを、ステージの上から茫然と見送り、救急が会場から出ていったところで、ようやく多少落ち着きを取り戻した。‥‥‥一体、彼はどうなってしまうんだろう?
「師匠。篠崎君、大丈夫でしょうか?」 僕が師匠を見て尋ねると、師匠はそれには答えず、少し迷ったあと、眼を閉じ、静かに首を振って返してきた。
そして、両目を開けてホール出口を見つめながら、誰に聞かせるふうでもなく、
「まあ、せめて、プロカード獲ったあとでよかった」って、小さく呟いた。
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篠崎君の葬儀は、それから5日後に行われた。
隣の市との境にあるメモリアルホールでお通夜が営まれ、僕と洋介師匠は揃って参列した。
喪主は、篠崎という苗字の男性で、おそらく叔父さんに当たる人なのだろう。
遺影は、オリンピアの決勝の最後、マスキュラーで左右を睥睨する篠崎君の雄姿だった。
僧侶の読経が流れる中、焼香台に進むと、喪主らしき中年夫婦の家族に混じり、末席にあの女の子が喪服姿で座っていた。両目を真っ赤に泣き腫らして、ハンカチを鼻にあて、もう参列者に頭を下げるだけで精一杯、という感じだった。あんまり気の毒で、とても声なんかかけられない。
焼香を終えたが、最後に仏様の顔を見ておきたかったので、師匠と別室に移動し、通夜振る舞いのお酒とお寿司を頂く。
「あの子、親族席の端っこに入れて貰えたんですね」 僕は師匠にビールを注ぎながら言う。
「うん、そうだな。叔父さんも出来た人だ」 師匠はイカとマグロの寿司を取り分けてくれる。
「師匠、あのあと考えたんですけどね」
「なんだ?」
「篠崎君、体内の糖質が全部枯渇してああなっちゃったわけですけど、ならどうして筋肉分解してエネルギーにしなかったんでしょう? 普通、人間の本能でそうなりますよね。死んじゃうんだから」
「俺もそれ考えたんだけどな、まず、ステロイドで内臓がヘタってたうえに、水も糖質もゼロで、新たにエネルギー産生する力すら残ってなかったというのが一つ。それから、むしろこっちが大きいと思うんだが、篠崎の『絶対に1gも筋肉を落とさない』っていう強固な意志が、最後まで身体を支配していたからじゃないかな」
「だから、筋肉を落とすことを選ばず、身体が死を選んだ、と」
「たぶんな。あいつの精神も身体も、辿り着いた究極の肉体を絶対に削りたくなかったんだろう。あんな立派な筋肉残したままでな、言い方は悪いが、いわば『餓死』してしまったわけだ」
「なるほど。きっとそうなんでしょうね。彼は、端から見るとまるで『狂気の男』でしたけど、本当は、欲も得もなくて、純粋な気持ちで努力してただけなんですけどね」
「うん、そうだけどな‥‥‥、まあ、でも、死んじまった奴は、やっぱり無責任だよ。夢を追って、最後綺麗に力尽きるって、一見華やかでカッコいいけど、残された者の人生は続くんだからさ。‥‥‥だから、昇、お前はドーピングなんてするんじゃないぞ」
「はい、絶対にしません。ナチュラルを通します」
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読経が終わり、僧侶と親族が別室に移動してきたので、僕と師匠は入れ替わりにホールに出て、お棺の中の篠崎君に挨拶に行った。小さな式だったので、もう誰もいない。
お棺の顔の窓を開けると、葬儀社の人が丁寧に整えてくれたのだろうか、折れた鼻も口も綺麗に修復されており、減量前のふっくらとした顔つきになっていた。首には、赤黒い血がこびりついた金メダルがかけられている。
「篠崎君、案外、穏やかな顔してますね」
「そうだな。ようやく、筋肉の呪縛から解放されたんだろう」
僕は、数珠を巻いた手を合わせ、目を閉じ、心の中で篠崎君に話しかける。
篠崎君、最後に眼を見開いて見ていた景色は、何だったんだ?
命に換えてまで辿り着いた頂で、一体何が見えた?
白い光に満ちた、眩しい夜明けか?
それとも、遥か遠くに聳える、次の頂か?
それとも‥‥‥
落日か?
僕は、そんなことを考えながら、今、篠崎君が安らかな気持ちでいることを、心から願った。
狂気の男 ~薬物ビルダー篠崎誠司の決意~ (了)




