第6話 人生最良の日
江戸川区総合文化センターに到着し、選手受付を済ませた。篠崎君のゼッケンは29番。
今日は洋介師匠も応援に来てくれることになっているが、まだ時間が早く、連絡がつかない。
受付後、二人並んで選手控室に移動する途中、 選手たちが僕を見つけて、
「うおっ! あれ、小田島だろ。なんでオリンピアに出てんの?」
「ほんとだ。『ライジング・サン』だ。さすがにでけーなー。かっけー」
「JBF(団体名。最も権威がある)やめて、お薬部門に転向したのかな?」
「いや、違うな。日焼けもしてないし、誰か選手のトレーナーで着いてきたんだろ」
「ええっ、小田島がトレーナー? って、どんな金持ちなんだよ」って囁く声が聞こえてくる。
篠崎君も、東京周辺では多少話題になってはいるが、昨年のオリンピアで9位に終わっているので、まだまだ全日本では知名度も注目度も高くない。
男子ボディビルの控室についた。テニスコート半分位の会議室風の部屋だった。
そこに筋骨隆々の参加選手30人がすし詰めになるので、落ち着ける居場所の確保は急務だ。
幸い、壁際に、二人分のスペースが空いていたので(寄りかかれるから貴重なんだ)、レジャーシートとヨガマットを敷いて縄張りを確保し、ほっとした後に周りを見渡してみる。皆、身体を冷やさないように、濃色のウィンドアップ上下を着こみ、日焼けとスプレーで肌はほぼ漆黒、しかし両目と歯はあくまでも白い。全員がそうなので、ちょっと不気味だ。
今、午前8時30分。プレジャッジ(予選審査)は午前10時から。その後は、他の種目の進行にもよるが、午後1時頃から決勝進出者12名のフリーポーズが、その後午後3時頃から、12名を順位付けするための比較審査が行われることになる。
出番20分前に呼び出しが来るとして、パンプアップの時間は9時10分から30分間。今はまだ体を休めておこう。ただでさえ、篠崎君の身体はエネルギーが枯渇している。本番以外で消耗したくない。
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9時ジャストからストレッチを始め、その後、パンプアップを開始。周りの選手も同じタイミングでアップを始める。
僕と篠崎君は、両手を組んで、力を込めて押したり引いたりして、全身の筋肉を温め、血液を循環させる。トレーナーがいるとこれができるからいいんだ。そして、僕が持参したダンベル(片方30㎏。重量可変)で、腕と肩、次いで脚に刺激を入れ、その後、僕が上から負荷をかけながら腕立て伏せ。最後に、同じく負荷をかけつつ腹筋を行い、1周目が終了。
「ふう。暑くなりました。ウィンドアップ脱ぎます」 額に汗をかいた篠崎君が、ウィンドアップを脱ぎ捨てて、ビルパン一枚になった。が、その瞬間、
「!!」って、控室の選手全員が、真っ白な眼を見開いて彼を凝視した。
(こ、これはデカい! デカ過ぎる!)
(一体誰なんだこいつ。こんなのいたっけ?)
(ああ‥‥‥こんなの出てきちゃ、今日はもう無理だ。優勝はこいつできまりじゃないのか?) というような反応なのだろう。
篠崎君は、彼らには目を合わさず、巨大な肉体をフルフルと揺らして、余裕の表情を見せる。
ああ、コンテストは残酷だ。比較審査を経るまでもなく、控室で裸になった時点で、その日の勝者は誰なのか明らかになってしまう。そして、その意識は本番での演技にも色濃く反映されることになる。負けそうだと思っている選手はしぼんで見えるし、勝てる肉体を作り上げたものは、その自信に満ちた演技で周りの選手を圧倒する。それがまた観客の声援を呼び込み、さらに肉体はパンプして、艶も張りも増すことになる。きっとなんかのホルモンが大量に出ているんだろう。
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「男子ボディビルの選手。廊下に並んでください!」 呼び出しが入った。
30人の選手が一斉に部屋を出、廊下に整列して、係員がゼッケンをチェックする。
選手たちが、「よしっ!」「さ、いくぞ!」と気合を入れ、頬や腿をバシバシと叩く。
非常階段を降り、複雑な経路を辿ってバックヤードに到着。ステージでは、まだ男子フィジーク(かっこいいマッチョ競技。サーフパンツ)の予選を行っているので、しばらく待機。
こうしている間も、選手の身体はパンプが冷めて少しずつフラットになっていくが、篠崎君は待機中でも僕が持ってきたダンベルでアップできるため、最大化した肉体をそのままキープできる。
10分ほど待たされて、さあ出番到来。ステージ上で、「それでは、男子ボディビル、プレジャッジの開始です!」とアナウンスが入り、賑やかなミュージックが会場を盛り上げる。
歓声の中、一番の選手から順次ステージに入っていく。各選手が登場するたび、応援に来た観客から、「〇ばーん、いいぞー!」というような声援が送られる。
篠崎君は最後から2番目。前の選手に続いて、ゆっくりとステージ上に歩を進める。
彼が幕間から姿を現したその時、会場から聞こえてきたのは、‥‥‥歓声ではなかった。
(おお‥‥‥こ、これは‥‥‥)というような、どよめきだった。今までおよそ見たことがない巨大なバルクを目の当たりにして、驚きの余り観客が声を失っている。
しかし、彼が、所定の位置に付き、正面を向いて爽やかな笑顔でリラックスポーズ(待機の基本ポーズ。全身に力を込めて、全然リラックスじゃない)をとると、静かだった会場が徐々に沸き立ち、贔屓の選手でもないのに、
「うおー、すげー。すげーぞ。29ばーん!」
「ナイスバルク! ナイスカット!」
「その大きな肩をもっと見せてくれー!」という歓声に変わっていった。
もう、観客は今日誰が勝つか、この時点で確信している。それはおそらく、ステージ下から見ている4人のジャッジも一緒だろう。
僕は、舞台袖から見ているので、横の比較はできないけれど、入場時に見た感じでは、篠崎君を上回るバルクとキレの持ち主は一人もいなかった。今は、ステージ上でバックポーズを取っているところだ。厳しい減量で手に入れた大殿筋のカットをアピールして、横に並んだ選手の中で一人だけ光って見えることだろう。
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予想はしていたが、篠崎君は予選を無事通過した。会場に到着した洋介師匠からも、「予選よかったぞ。抜群だ。決勝も頑張れ」というラインが入った。
しばらく昼寝などし、12時過ぎからパンプアップ。午後1時からのフリーポーズに臨んだ。
篠崎君は、昨日の練習通り、ヴェルディの「凱旋行進曲」に乗って、格調高い優美な演技を披露した。圧倒的なバルクから想像もつかない、繊細でエレガントな手足の舞いに、会場の観客は声も出せずに魅了されている。そして最後は一転して、曲の盛り上がりに合わせて正面を向き、渾身のマスキュラーで締めた。太い血管が覆った肉体は限界まで怒張し、観客席から割れんばかりの声援が送られる。演技が終わってポーズを解いた篠崎君は、充実した笑顔で何度も頭を下げ、両手を大きく振りながら引き上げてきた。
「昇さん、どうでしたか?」
「完璧だ。全くミスがなかったし、お客さんも盛り上がってた。これはいいんじゃないか」
「決勝審査もファーストコール呼ばれますかね。去年はダメだったんですけど」
「呼ばれる。間違いない。問題は真ん中に立てるかだな。ほかの選手見た限り、ライバルはいなそうな気がするが、油断大敵だからな」
「そうですね。身体緩めず、しっかり準備します」
決勝審査のファーストコールは、コンテストの大きな山場だ。決勝に残った12人の選手のうち、最初に6人がコールされるが、これがトップ6。真ん中の二人が優勝と2位という建付けになっている。だから、アナウンスも、「さあ、何番を呼んで欲しいのかなーっ!」って、会場を盛り上げるし、観客もそれぞれ推しの選手の番号を大声で連呼し、会場は興奮のるつぼと化す。
その反面、呼ばれなかった選手は、後ろでうなだれ、眼前の選手が全力でポーズをとるのを見守るしかない。一年間、血のにじむような努力を続けてきた選手たちの、明暗が分かれる瞬間。残酷な構図だ。
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午後3時から、決勝の比較審査。
今、篠崎君を含めた12人がステージ上でリラックスポーズをとっている。
そして、いよいよファーストコール。アナウンスが場内を煽り、大歓声がこだまし、もうミュージックも聞こえないくらいだ。選手の番号が呼ばれるたびに、歓声はヒートアップし、選手も力強く手を挙げて、大股で所定の位置に移動する。
‥‥‥が、5番目まで篠崎君の29番が呼ばれない。おいおい、あと一人だぞ。
そして最後は、「26番の選手! 前に出て下さい!」とアナウンスされ、驚いたことに、篠崎君は6人に入れなかった。これはおかしいぞ。どうなってるんだ。どう見たって断トツじゃないか?
観客席も、(なんで29番が呼ばれないんだ?)という不可解な雰囲気が漂い、会場全体が沈黙している。
‥‥‥あ、ちがう! そうじゃない。もはや比較する必要がないんだ!
これは比較審査だから、普通は、っていうか殆どは1位から6位まで呼んで、そこで順位の入れ替えがないか横の比較をするんだけど、ジャッジ全員がもう篠崎君の優勝を確信していて、比較するまでもないっていうことなんだ。
いや、これは、初めて見たな‥‥‥。確かに、理屈ではあり得るけど、こんなことあるんだ。あまりに実力差があると、ファーストコールは2位から7位決めの審査になるのか。
ステージでは、セカンドコールで両端の選手が後ろに返され、さらにサードコールでまた両端が脱落し、真ん中の二人が残った。普通は、この二人が上位2名で、優勝をかけて最後のポーズ合戦を行い、コンテストのクライマックスを迎えることになる。が、いくら優勝決まってるからって、そこに篠崎君が入らないのはどうなんだ? ファンサービスに欠けるんじゃないのか?
と思っていたら、ジャッジからアナウンサーにペーパーが渡され、意外な一言が発せられた。
「29番の選手! 前に出て下さい!」 それに合わせて進行係が篠崎君に立つ場所を指示する。
ああ、そうか! 最後に真ん中に入れるのか。これは粋な演出だ。王者は最後の最後に、顔見世で真ん中に呼ばれるんだ。見ると、アメリカのオリンピア本部から派遣された外人のジャッジが、ニヤっとしながら篠崎君にサムアップしてる。いやー、これはカッコいいなー!
篠崎君は満面の笑顔で会場に両手を振って真ん中に立ち、両隣の選手に軽く会釈した後、目くばせしてちょっと一言かけている。なんか企んでるな。
ああ、やっぱりな。3人の選手が、一斉に同じポーズを取って、観客に最後のアピールだ。最初にサイドチェスト(胸、肩強調)、次いでダブルバイセプス(両腕)、そして最後は、三人が正面を向いて、渾身のマスキュラー(全身の筋肉怒張)。篠崎君は両脇の二人を押しのけて、どんどんステージの前に出ながら、『どうだ! 俺の身体が一番すごいだろう?』と言わんばかりに左右に身体を振って観客に見せつける。
とても同じ人間とは思われない巨大なバルクを目にして、観客の興奮はピークに達し、「おー、すげー、すげーぞ! 29ばーん」、「篠崎ー! カッコいいぞー。こっち向いてくれー!」というような大声援が場内を埋め尽くした。
若干22歳のニュースター誕生の瞬間だ。




