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第5話 前人未踏の領域

 11月15日(土) 


 オリンピア・ジャパンの前日、僕と篠崎君はジムのフィットネススタジオに集合した。最後のポーズ練習をするためで、二人ともビルダーパンツ一枚だ。


 篠崎君は壮絶な減量をやり切った。

 最後まで抵抗して脂肪が残っていた脇腹の腹斜筋には4本の深いカットが刻まれ、パンツの両側に広がる大殿筋も斜めにストリエーション(筋繊維のキレ)が走っている。

 もはやひとつまみの贅肉もない。筋肉標本の上に、手の甲のようなピッタリした皮が一枚乗っているだけ、という印象だ。


 仕上がり体重は88.5㎏だった。

 彼は172㎝だから、日本人の生物学的な限界は、おそらく85㎏程度。つまり3.5㎏、牛乳パック3本分の筋肉がそこに加わったことになる。ついに彼は限界を突破したんだ。今僕が目にしているのは、何万年という長い日本の歴史の中で、おそらく最も筋肉を発達させた男の姿だろう。


 サイズは上から、127、71、112。


 彼の今の肉体を言葉で表現するのは難しいが、こう想像して欲しい。

 四角錐、すなわちピラミッドの厚みを少し薄くする。そして、頂点から4分の1を横に切り取って、それを逆さにする。それが今の彼の上半身だ。

 そこに小さな頭が載り、両端から上腕51㎝(とんでもない太さだ)の腕が生えている。細い腰の下部にはスイカ大の大殿筋が二つ突き出し、さらに、そこから65㎝という女性のウェスト並みの太腿が2本伸びている。まさに人間砂時計だ。


 全身の筋肉は細部にわたるまでセパレーション(境目がくっきりして独立して見える事)を備え、各パーツはそれぞれ球状の筋肉で構成されている。胸にはドッジボール大の、肩にはソフトボール大の、首の根本の僧帽筋には半円の分度器状の肉塊がそれぞれ配置され、腹にはテニスボール大のパックが綺麗に6つ並んでいる。


 二人でミラーの前に立ち、ラッドスプレッド(フロントポーズ。両手を腰にあて、胸と肩を強調)をとる。 僕は上腕49㎝で、数字の上では彼とそれほど違いはないが、身長が180㎝あるので、各パーツが長い分細く見える。つまり、全体のフォルムは彼の方が一回り大きい。


******


「篠崎君。すごい身体に仕上がったな。上手くバルク残したまま、脂肪だけ落とせた。もう完全に俺を超えてるぞ」と、僕がミラーの中の篠崎君に声を掛けると、


「ははは、ありがとうございます。昇さんのおかげですよ。まだまだ大きく出来そうですけど、とりあえず明日の大会はここまでで精一杯ですね」と、嬉しそうに返してきた。


 が、しかし‥‥‥

 これは果たして美しい身体なのか? 社会通念から見てカッコいいと言えるのか?


 特に、肩や僧帽筋と言った、ステイロイドが効果を発揮しやすい男性的な部分が異常発達し、胸から上だけが極端に大きく見えている。率直に言うと、ポパイの前腕のように、どこかバランスを欠いたいびつな印象を受けてしまう。「醜悪」とまで言うつもりはないが、「これは異形だ」と思わざるを得ない。

 それはつまり、自然の摂理に従ってナチュラルに鍛え上げた筋肉ではないため、我々が想像できるカッコよさから逸脱してしまったということだろう。あたかもアイコラで作った画像を見ているような、そんな錯覚に陥る。


 しかし、それはあくまで僕から見ての話で、彼がこれから戦っていくのは、薬物を常用して肉体を作り上げている男たちの世界だ。奇抜な未来デザインの車も、次第に目が慣れてよく見えてくるように、このデザインの肉体ばかり並ぶのであれば、また違った見え方がしてくるのかも知れない。


 と、そこで、スタジオの入り口から、何人かの会員さんが覗いているのに気付いた。


「どうしましたか?」

「見学したいんだけど見てていい?」

「いいですよ、どうぞ。明日の予行練習にもなりますしね。座って見て行って下さい」って答えたら、「お、やった! 昇君と篠崎君のポーズ見られるチャンスなんて滅多にないもんな。夢みたいだ」「いやー、ほんとほんと」って嬉しそうに言いながら、会員さんがぞろぞろ入ってきた。その後も続々合流したので、最後はお客さん15人くらいになった。


 観客の前で、僕と篠崎君は、サイドチェスト(サイドポーズ。大胸筋強調)、ダブルバイセプス(バックポーズ。腕肩強調)といった、比較審査のための規定ポーズの練習をし、その後、僕も見学に加わって、篠崎君のフリーポーズを見せて貰った。


 コンテストでのフリーポーズは一人一分間。自分で選んだ音楽に乗って、次々にポーズを取っていく。


 最近はロックやポップ調の曲を使う選手が多いが、篠崎君はヴェルディのオペラ「凱旋行進曲」に乗って演技を披露した。巨大な肉体からは想像もできない、気品のあるしなやかな動きで手足が優雅に舞う。力強いパートと、指先まで意識した繊細なパ―トのメリハリをつけ、見る者の眼を釘付けにしていく。僕を含めた観客から、「おお‥‥‥、いい」って声が漏れる。


 そして最後はオペラ歌手が山場で声を張り上げるのに合わせ、正面を向いて渾身のモストマスキュラー(全身の力を込めてバルクをアピール)でしめた。体じゅうの筋肉が怒張し、肩なんて皮膚が裂けて血が噴き出しそうな雰囲気だ。腿から胸から、全身に太い血管が這いまわり、顔面も真っ赤に膨れ上がる。


 そうして、篠崎君がポーズを解き、荒い息を吐きながら、充実した笑顔で右手を胸に当ててお辞儀をすると、観客から口々に、


「おーっ! 篠崎、すげーカッコいいぞー!」

「よくここまで仕上げたなー。明日、勝つだろこれー!」

「ほんとに頑張った! 絶対プロカード取って来いよ!」 って、声援が飛び交った。


 篠崎君は、それを聞いて、ちょっと眼を潤ませ、「ありがとうございます! 頑張ってきます!」と応え、皆と握手を交わしていた。


 みんなも、篠崎君がドーピングに手を染めているのは分かっている。しかし、彼の身体は、ドーピングさえすれば誰でも到達できるレベルのものではない。これは、彼が長期にわたり尋常ならざるハードトレーニングを続け、30㎏という絶望的な減量も乗り越え、まさに血を吐くような努力の末に手に入れた肉体なんだ。みんなそれを周りで見てきたから、心から称え、応援する気持ちになれるのだろう。


******


 その日の午後、篠崎君はヘアサロンに行って、短髪横分けのちょっとジゴロチックなカッコいい髪型にして貰った。そして夕方、「これ寝たらくずれるかなー。嫌だなー」と言いながら、待ち合わせの府中駅に現れ、そのまま僕たちはJR新小岩駅南口のホテルに移動した。


 明日のオリンピア・ジャパンは、ボディビルの殿堂、江戸川区総合文化センターで行われるが、選手は朝9時集合なので、前泊が望ましい。僕も、専属のトレーナーとして、控室からバックヤードまで付き添い、 篠崎君のサポートに入ることになる。


 体表のカットを維持するため、篠崎君は二日前から水を一切飲んでいない。喉が渇いたら、ミニトマトかナシをかじって我慢する。これらはカリウムを多く含むため利尿作用があり、摂った以上の水分を排出してくれる。また、塩分は体内に水分を溜めこむので、こちらも二日間絶ってきた。いわゆる「水抜き、塩抜き」というテクニックで、こうしてる今も多くのビルダーがやっていることだろう。


 ホテルにチェックインした後、僕はシャワーを浴びて全裸になった篠崎君の全身に、ブラジリアンカラーのプロタン(ボディカラー) をスプレーする。もちろん、これまで日焼けマシンで焼きこんでは来たけれど、仕上げにカラーリングを施すと、肌の艶、色の深みが何段階も増し、ステージでの見栄えが全然違ってくる。


「いや、しかしこれ、ほんとにすげー身体だな。とても人間とは思えん」 僕は腹筋の溝に沿ってスプレーしながら話しかける。

「ありがとうございます(笑)。昇さんのおかげですよ」

「体調悪くないか? 水も塩も抜いて、ゲソゲソのカラカラだろ?」

「いやー、まあそうですけど、明日までの辛抱ですからね」

「内臓もヘタってるから気を付けないとな。最後は、アナドールもスピロテも通常の3倍量だったし、だいぶやられたんじゃないか。今、肝臓のASTいくつ?」

「こないだ151になりました」

「いやー、そんなになったのか。もう入院一歩手前って感じだぞ。ほっとくと急性肝炎だ」

「ええ、洋介先生からも、『大会終わったら半年はステ抜け。もうボディビルできなくなるぞ』って脅されてます」

「そうだな。まあとにかく明日まで頑張って、そのあとはいっぺんオーバーホールだな。バルクはまたすぐ元に戻るからさ、まずは体内を浄化しよう」

「そうですね。身体壊すことが目的じゃないですからね」


 カラーリング後は、翌朝まで放置して皮膚に色素を沈着させる必要があるため、上下にウィンドアップを着込み、ベッドを汚さないようにレジャーシートを敷いて寝ることになる。


「こんな、沢山着込んで暑いし、喉カラカラで、口ん中ニチャニチャだし、眠れませんよー(泣)」

「しょうがないだろ(笑)。自分でさっき言ったじゃないか。明日までの辛抱だよ。じゃな」


 僕は彼がベッドに潜ったのを見届けて、お休みを言って、自室に移動した。


******


 翌朝、シャワーで余分なカラーの粒子を洗い流してみると、おお、ブラジリアンカラーに染まった、黒褐色の巨大な筋肉彫刻が現れたぞ。

 バルク、カット、ともにパーフェクト。腹筋の溝なんて、指が2㎝くらい入る。


 そう思っていたら、篠崎君は鏡に映った姿を見て、「うーん‥‥‥」って、ちょっと首を傾げ、「最後にフロセミド飲みます」と言ってきた。


「フロセミドって、利尿剤か? もうカットは完璧だし、必要ないんじゃないか?」

「いや、もうちょっといけそうな気がするんです」

「試合中に脱水で痙攣すると困るから、やめといた方がいいと思うぞ」

「いえ、できる事は全部やります。今日のために頑張ってきたんですから」


 そう言って、篠崎君は、フロセミド2錠(40mg 通常の用量)を、プチトマトと一緒にボリボリかじって飲み込んだ。


 すると、昨日までは殆どおしっこなんて出なかったのに、服薬後1時間で3回も大量の排尿があった。全部で1ℓくらいは出たのか? さっきまで完璧だと思っていたカットもさらに鋭くなり、もはや「気味が悪い」というべきレベルに到達した。


 驚いたな。フロセミド、こんなに効くのか。‥‥‥これは禁止薬物に指定されるはずだ。こんなのを飲んでカット出してる選手と同じ土俵では到底戦えない。そう思った。


 ******


 しかし、これで準備万端整った。

 二人でカートを引きつつ、総合文化センターに向かう。


 プロカードを獲得できるのは優勝の一人だけ。


 篠崎君、いくぞ大一番。





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