第4話 壮絶を極める減量(2)
8月半ばになった。11月のオリンピア・ジャパンまで、あと3カ月。
篠崎君はこの1カ月半で5㎏減量し、95㎏になった。
もうかなり、肩、腕、胸のセパレーション(各筋肉が独立して見えること)も出てきていて、血管も少しだが浮き出ている。サイズは上から130、80、120の見事なプロポーションだ。仕上がってみないと分からないけれど、いまのところ僕よりバルクは大きい。
摂取カロリーは、現在2400㎉。うち、プロテインが800㎉(50g×4)だから、残りは1600。細い成人女性くらいの食事量だ。一日2時間もハードトレする大男がこれで足りるはずがないが、カロリー収支をマイナスにしないと、決して痩せることはないのだから仕方ない。
だが、体脂肪は身体にとって大事な燃料だ。落とす脂肪が少なくなってくると、身体が「これ以上減らすと死んじゃう!」と考え、抵抗してくる。
実際、体重の減りは徐々に鈍化し、頼みのスピロテロールの効きも悪くなってきた。今は、スピロテの用量を2倍にしてなんとか効果を維持している。いくら副作用が少ないとはいえ、ドーピングには違いなく、内臓の負担も懸念される。
また、スピロテの休薬期間中の空腹感も尋常ではないはずだが、こないだのアンパンの一件以来、篠崎君はなんとか自制して耐えているようだ。毎日トレ後に体重を測っているが、グラフが鋭いスパイクを描いて急激に増加することは、今のところは、ない。
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お盆も過ぎて、朝夕はいくぶん凌ぎやすくなってきたある日、僕はジムの休憩時間におやつを買いに外に出た。
コンビニに向かう途中、牛丼の「すき家」の前を通りかかったとき、視界の隅に何か気になるものが見えた気がして、僕の脳内でアラートが鳴り響いた。店内に目を向けると‥‥‥やはりいた、あの巨大な肉体、見間違うはずがない。
篠崎くんは、例の虚ろな眼をして、前のテーブルで食事をする男性の背中に視線を合わせている。テーブルには、ああ、あれは特盛(ご飯大盛、肉2倍)だな、特盛の丼がしかも2つ重なっている。何やってんだ? またキレ食いか? せっかく減量頑張ってるのに‥‥‥。
と、そこに、クルーの女性が、牛丼大盛と卵3個、そしてプリンを2つ運んできた。おいおい、まだ食うのかよ。
篠崎君は、虚ろな目のまま、卵を3個を溶いて丼にかけ(あふれてこぼれた。そりゃそうだ)、お醤油を回しかけて黙々と食べ続け、食べ終わった後は、スプーンを手にして、クリームの乗ったプリンをかきこんだ。
ああ、ようやく満足したみたいだ。手を合わせてお行儀よく「ご馳走様」と言って、店員さんに声をかけて会計をしてる。千円札3枚をディスペンサーに入れて、出てきたクーポン券を大事そうに財布に入れてる。また来る気なんだな。
おーいー、篠崎君、何やってんだよ? これじゃ普段の節制が台無しじゃんか。もう、出てきたらなんて言ってやろう。と思ったら、彼はすぐには出てこず、奥のトイレに入っていった。
ん、あれ、なかなか出てこないな。何やってんだろう。‥‥‥ああ、出てきた。が、
! ハンドタオルで口を拭いてる!
‥‥‥まさか、吐いてた、のか? そうなのか? ‥‥‥そうだ。青い顔をしてる。間違いない。
僕は、篠崎君がお店から出てくる前に、慌てて横の自転車置き場に隠れた。
今は声をかけるべきじゃない。そう直感したからだ。
もちろん、こんなのダメに決まってる。こんなお腹パンパンになるまで食べ込んで、それを喉に指入れて無理やり吐き出すなんて、すごく辛いに決まってる。きっと時間もかかるし、息もできないだろうし、本当に苦しいだろう。
だけど自ら嘔吐するのが苦しい以上に、減量はもっと苦しいんだろう。
こんなこと続けてたら、またメンタルが破壊されるんじゃないかって思うけれど、その反面、彼は今、毎日のように食べたいものを食べて食欲を満たし、それを体外に無理やり排出することで、ギリギリ精神の平衡を保っている面もあるんじゃないのか。
そうか、こないだのアンパンの一件が、彼をここまで追い詰めてしまったのか‥‥‥。
どうする? 今じゃないにせよ、彼を止める言葉をかけるのは簡単だ。
「胃からも直接栄養は吸収されるんだぜ」とか、「食べ終わるまでに腸に回った分はもうリカバー不能だな」とか、彼の心の抑止力になる言葉はあるだろう。
だけど、そのために彼が損なわれるのと、どちらがいいのか。
篠崎君がお店を出て、くたびれ果てたように背を丸め、フラフラと去って行くのを自転車置き場で覗き見ながら、僕は心を決めた。
彼が今「食べなかった」ことにしたのと同様、僕も「見なかった」ことにしよう。
トータルで見たら、この悪い癖を止めさせて飢餓地獄に苦しむより、わずかだけどプラスなんじゃないのか? って思ったからだ。それが正解なのか分からないけど。
そう、分からない。もう僕には彼がどうなるか分からない。
早くプロカードを獲って、彼がこの呪縛から解放されるのを祈るばかりだ。
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9月終わりになった。オリンピア・ジャパンまであと2カ月弱。
篠崎君は、90㎏まで身体を絞り、概ね仕上がってきた。今すぐ、国内のどの大会に出しても、全然恥ずかしくない肉体だ。春には丸かった顔も、今は頬が削げ落ち、精悍な面構えに変貌している。いいぞ、男前じゃないか。
近頃では、東京を中心に、「アイアンジム府中東京に、凄まじい肉体の男がいる」という噂が徐々に広まってきていて、時折、ビジターでトレに来て、遠巻きに見学していく選手もポツポツ出てきた。帰り際には、レストスペースの僕たちに「今日は見学させて頂いてありがとうございました。話には聞いていましたが、篠崎さんがここまで大きいとは驚きました。本当にすごい身体です。オリンピア頑張ってください!」と声をかけて帰って行った。彼も選手だろうに、マッチョマンは優しいな。
だけど、篠崎君には、まだほんのわずかだが、脇腹と尻に脂肪が残っている。
脂肪は全身から均等な割合で減っていくから、肩とか胸とか、もともと脂肪の薄い部位は、9割がた脂肪が除去されれば、くっきりとセパレーションとストリエーション(筋繊維の切れ。「カット」「バキバキ」)が現れてくる。しかし、脇腹、臀部と言った、もともと脂肪が厚く積もっているところは、9割減になっても、まだ少し余裕残しに見えてしまう。
特に、ボディビルはビルダーパンツ(極めて小さいビキニパンツ)を穿くので、大殿筋のキレが、バックポーズではっきりと見えてしまう。普通の選手は、尻をバキバキになるまで追い込めないので、逆にくっきりとカットを出せたなら、他の選手から頭一つ抜け出すことができる。だって、横にズラっと並んだ中で、一人だけ尻が違うんだから。
だから、ここからの2㎏が勝負だが、減量初期の2㎏とはもう負担感が10倍くらい違う。大げさではなく、乾いたタオルを無理やり絞って水を出すような苦行になる。
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「減量、いい感じで来てるな。あと2カ月弱あるし、上手く仕上がりそうだ」
「はい、じゃ、まずは脇腹を引き締めて、最後は尻にカットが入るところまでやりましょう」
「だな。あと2㎏くらいか。スピロテの効きが悪くなって心配してたけど、ここんとこまた脂肪が落ちてるな。いい感じだ」
スピロテロールは、先日、ついに一日三錠、服用の上限ギリギリまで増やした。通常の用量の3倍だ。当然、肝臓の数値もかなり悪化してきて、今では「要治療」レベルに入りつつある。そこまでやっても脂肪が落ちなかったのが、この1週間くらいで、再び落ち始めた。
そしたら、篠崎君が、まるで何ごとでもないように、 「はい、近頃はマメに血を抜いてるのが効いてるみたいですね」って言ってきた。
「‥‥‥? 今何て言った? 血を抜くって」
「だから、献血してるんですよ。成分献血なら間隔1週間で出来るし、献血の場所変えたら、週2回も余裕ですよ。あっちは血が不足して困ってるんだから、チェックなんて甘々です」
「いや、だからなんでそんなことやってんだ?」
「だって、血液400㏄で300㎉ですよ。大きなアンパン一個分です。身体が減量に抵抗してカロリー消費を抑えるようになったなら、体内から直接カロリー抜いたらいいじゃないですか。それで足りない分は脂肪を分解して補うんだし。ははは、いい考えでしょ?」
「いやいや、そんな極端なことやって身体に負担かけたら、先に余分な筋肉分解してカロリー産出するんじゃないのか? そうなったら本末転倒だぞ」
「なに言ってんですか。そのためのステロイドでしょう? ステ摂ってる限り、身体にとっての一番のプライオリティは筋肉ですよ。どんなに残り少なくても、先に脂肪を分解するはずです。そう固く信じています。実際、そうなってますしね」
「うーん、それは‥‥‥」
「大丈夫ですって。現に今日だってトレできたし、こうしてシャキっとしてるでしょう? 元気に動けてるうちは大丈夫ですよ。それじゃ昇さん、また明日。宜しくお願い致します」って、明るく言って、篠崎君はチェアを立った。
が、そこで、篠崎君の視線が宙を泳ぎ、その直後、上から吊っている糸が切れたかのように、膝から床に崩れ落ちてしまった。
‥‥‥ああ、ヤバい。これは極端な低血糖による貧血だ。電池が切れたんだ。身体がギリギリなのに献血なんてやってるからだよ。
「おい、篠崎君、しっかりしろ!」 僕は声をかけながら彼の頬を叩き、心臓に手を当てる。うん、大丈夫。動いてる。
しばらくすると、「うーん」って言いながら篠崎君の意識が戻ってきたので、チェアに座らせて、「電池補充しないと死ぬぞ。ちょっと待ってろ」と声をかけて、スタッフルームに行き、トレ後に食べようと思っていたセブンのミニアンパン(4個入り)を持って駆け付け、自販機で甘々のコーヒー牛乳を買って、「ほら、食えっ! 充電しろ!」って言いながら、アンパン一個を篠崎君の口に押し込んだ。
篠崎君は、「いや、本当に大丈夫ですから。もう‥‥‥」と迷惑そうに言いつつ、そのうちモグモグと口を動かし、コーヒー牛乳と一緒に飲みこんだら、目がパチっと開き、「‥‥‥美味しい! もう一個下さい!」って言ってきた。
僕が苦笑いしながら、意地悪で「嫌だよ。俺んだ」って返したら、
「えーっ? 何それ、ケチーっ! お金払うからーっ!」って、眉を釣りあげて怒ってきたので、
「うそうそ、ちゃんとあげるよ(笑)。だけどもっとゆっくり食べような。満腹中枢に届くように、少しずつ、時間かけて」って言いながら、半分に割ったアンパンを渡してあげた。
篠崎君は、ちょっと目尻に涙を溜めながら、「美味しい、美味しいです‥‥‥」って、10分かけて残り3個のアンパンを食べきった。
「篠崎君な」 彼が落ち着いたタイミングで僕は提案する。
「なんでしょう?」
「もう、カロリーを減らす方向でのダイエットは限界だと思うぞ。献血なんてやめて、これからは食べるものをちゃんと食べて、でも消費カロリーをそれ以上にしていかないか?」
「カーディオ(有酸素性運動)ですか」
「そうだ」
「カーディオは『バルク落ちるからやめろ』って言いますけど?」
「そりゃ、駅伝ランナーみたいなペースでランニングしたらそうかも知れないけど、ウォーキングなら筋肉落ちないよ。ちょっと大変だけど、トレ後に1時間トレッドミル(ルームランナー)で歩いてみたらいいんだ。1時間頑張ったら、ご褒美にミニアンパン一袋食べていいってのはどうだ?」
「それだと、プラマイゼロじゃ‥‥‥」
「違う! トレ後に糖質が枯渇した状態でウォーキングするんだから、脂肪だけが燃える‥‥‥はずだ。その後アンパン食べたって、ゼロだった糖質が補充されるだけだから、燃えた脂肪分が丸々お得になるって寸法だ」
「‥‥‥ううん、そういうもんですかねえ」と彼は訝しそうに答えてきた。
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翌日から、篠崎君は、トレ後に頑張って1時間ウォーキングして、レストスペースで、「美味しー、美味しー。幸せー」ってニコニコしながらアンパンを食べるようになった。すごい筋肉の大男が、チョコンと座ってアンパンをかじる姿は、動物みたいでなんとも可愛らしかった。
脂肪も少しずつ減り始め、身体は究極のレベルに向けて、さらに仕上がっていった。