第3話 壮絶を極める減量(1)
5月の連休明けから減量に入った。
幸い、トレンボロンをやめてアナドール(筋肥大効果は少ないが、副作用も少ないステロイド。初心者や女性が好んで使う)にスイッチして、胸の乳房化と脱毛は小康状態で落ち着いた。この先少しずつ元に戻ることだろう。
しかし、減量は容易ではない。現在115㎏。彼は172㎝だから、ナチュラルであれば日本人の素質的な限界は、おそらく仕上がり85㎏くらい。それ以上は、民族的に困難な筋量だが、彼にはこれまでドーピングして積み上げた多量の筋肉が脂肪下に眠っている。
11月終わりのオリンピア・ジャパンまで半年弱。筋肉標本にも似た内部の筋肉をできるだけ残したまま、表層の脂肪だけ彫刻刀で削っていくような作業を続けることになる。
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「仕上がり何㎏くらいですかね」 篠崎君が、トレ後、鶏胸肉300g、ブロッコリー、150gのおにぎり(コンビニサイズ)を頬張りながら聞いてくる。パッサパサで旨くないだろ、それ。
「ナチュラルなら85㎏が限界だけどな。篠崎君はもっと筋量あるだろうから、とりあえず90㎏を目指そう」
「『とりあえず』って、25㎏じゃないですかw きつそうだなあ‥‥‥」
「うーん、まあ、最後はきついかも知れないけど、最初の2カ月で15㎏はいけると思うぜ。いままで死ぬほど食って115㎏にしてたんだから、食生活をちょっと気を付けるだけでストンと落ちるさ」
それはそのとおりで、篠崎君は、一日6000㎉、必死に食べ続けることで、115㎏の巨体を維持してきた。それこそ「食後のデザート」として、丼飯に卵3個かけて食べるようなことを続けてきたわけだから、それを普通の食生活に戻すだけで、あっという間に体重は落ちていく。
なので、最初は緩やかなカロリー制限から入っていけば十分だ。減量のカードは様々あるが(油ものを決して摂らない、晩飯から白米抜く、有酸素性運動、カロリー1割減、ゼロカロリー食品で腹を満たす、等)、いっぺんにやると、いざ行き詰ったときに、切るカードがなくなってしまうので、減量が停滞したタイミングで、次のカードを一枚切ることになる。
篠崎君は5月中は、一般人が摂取する普通の食事(トレもするので3000㎉くらい)にしたところ、月末までに9㎏の減量に成功した。余分な水分が抜けたのも大きい。
6月に入ってからは、晩御飯から白米を抜いたところ、月間6㎏も減量でき、体重は100㎏になった。このくらいならば、本人もそれほど負担感もないから、トレの挙上重量もあまり変わらなかった。中身は変わらず、脂肪だけ落とせているということで、うっすらと腹筋のパックが見えるようになった。いい感じだ。この調子。
しかし、100㎏で最初の停滞期がきた。同じことを続けても脂肪が落ちて行かない。身体には恒常性が備わっているので、急激な体重の増減を抑える力が働く。要するに、入ってくるカロリーが少ないことを身体が受容して、その分代謝を落とし、少ないカロリーでも活動できる省エネモードに移行したということだ。
普通は、ここで、「カロリー1割減」とか「有酸素性運動導入」っていうカードを切るのだけれど、篠崎君はどちらも採用せず、「新たなドーピングを導入する」というカードを切った。スピロテロール(商品名。正式名称は「グレンブテロール」)だ。
スピロテロールは、もともとは喘息の薬だが、極めて高い代謝促進効果を有している。また、ごくわずかだがアナボリック(筋肥大)効果も持っている。つまり、服用すると、何もしなくても基礎代謝が跳ね上がり、どんどん脂肪燃焼を進めてくれる上、アナボリック効果で筋肉の減少を防いでくれることになる。「脂肪を削るけれども、筋肉は落とさない」という、本来は両立しない効果をもたらしてくれる。しかも、どんどん体表の脂肪を燃やしてエネルギーにするため、「栄養が足りない」という感覚が身体から失われる。要するに、お腹が空かなくなる。本当に夢のような薬だ。冬季五輪のフィギュアで、若い女子選手が金メダルをはく奪されたのも、同系列の薬剤だ。
このスピロテロールは、喘息の薬で使うくらいだから、それほどの副作用はないが、その代わり、すぐに体内に耐性ができてしまうため、2週間服用したら、もう2週間は休薬する必要がある。そうしないと、脂肪燃焼効果も望めない。
すると、容易に想像がつくと思うが、休薬している2週間は、本当の飢餓地獄に陥ることになる。特に篠崎君は、筋肉が減少することを防ぐため、スピロテの休薬中は、アナドールを服用しているが、ステロイドは「どんどん栄養を摂って筋肉と同化させる」ように身体に仕向けるので、減量目的などお構いなく「もっと、もっと栄養を!」と身体に要求することになる。これはもう、本人の意志では制御困難な、根源的な生命の叫びだ。
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「昇さん、ちょっと来てくれませんか?」 フロントの女の子からインカムに連絡が入った。
「何かあった?」
「篠崎さんが、なにか、ちょっと変なんです」
篠崎君は、さっきトレを終わって、フロント前でプロテイン飲んでたんじゃなかったっけ?
僕が階段を下りてフロントまでいくと、チェアに座った篠崎君がボーっと前を見つめている。ああ、またあの視線だ。焦点が定まっていない。
テーブルの上には、ベースブレッド(筋トレ用の栄養補助食品)のアンパンの空袋が散乱している。
「何があった?」 フロントの女の子に声をかける。
「何があったわけじゃないんですけど、篠崎さん、プロテイン飲んでアンパン一つ食べたら、食べるたびにアンパン買って、止まらなくなって、『もうそのくらいにしたら?』って言ったんですけど、やっぱり止まらなくて、今10個目を食べ終わったところです」
ああ、これはビルダーの言う、いわゆる「キレ食い」だ。身体が糖質を求めて、もう止まらなくなっている。制御不能に陥っている。
すると、篠崎君が、立ち上がって、アンパンをもう一つ手にして、「これお願いします」って女の子に声をかけた。僕はそれを横で静かに見守る。
そしたら、篠崎君が突然僕の方を向いて、
「昇さん! 止めてくれないんですか! こんなことやってたら、僕はもうダメになってしまうんですよ!」と、カっと目を見開いて非難がましく言ってきた。
「何言ってんだ。止めないよ。好きにしたらいいじゃないか。食いたきゃ食えよ。やめるなら自分でやめろ」
「‥‥‥」
「俺が止めなきゃ止まんないなら、俺のいないとこで止めることなんてできないだろ? その辺にいくらもお店あるんだし、それこそ自宅でどうしてるかなんて、俺にはどうにもできないだろ? 自分でなんとかしろよ」
「‥‥‥」
「それにな、正直に言うと、篠崎君がこんなこと諦めて、プロなんて言わなくなったら、それに越したことはないと思ってんだ。‥‥‥なあ、やめるなら俺は全然反対しないぜ」
「‥‥‥うう‥‥‥」
「アンパン10個。2500㎉。まだまだ大丈夫だ。3日で取り返せる。だけどここから先に進んだら、たぶんもう引き返せない。心が負けたってことだからな。別に俺はどっちでもいいぜ。篠崎君が決めろよ」と、冷たく突き離す。さあ、彼はどうするかな?
そしたら、篠崎君は、「うう」って言いながら、ヨロヨロとアンパンを棚に戻したあと、床にへたり込んで、両手で顔を覆って、「うう‥‥‥昇さん。うう、ああーッ!」って肩を震わせて慟哭した。ああ、なんとか踏みとどまったな。
僕は、篠崎君の肩に手をかけ、「えらいぞ。耐えたな。俺も気持ちはすごく分かるけどな、みんなこれをやってんだ。苦しくなったら、いま頑張って減量してるライバルを思い浮かべような」って声をかけて抱きしめてあげる。
「あー、昇さーん。あーッ!」 篠崎君は僕に抱き着いて泣き続ける。
いつの間にか、トレしてた会員さんが周りを取り囲んで見守っている。普段から篠崎君の鬼気せまるトレーニングを見て、みんな心配してくれてたんだろう。
見たか。篠崎君、君は一人じゃないぞ。君がやり続ける限り、応援する人は沢山いるんだぞ。
‥‥‥だけど、この一件で、篠崎君に、とても悪い、ある癖がついてしまうことになった。




