第2話 深刻化する副作用
4月終わりになった。
僕が補助に入った週5回のハードトレーニングが奏功して、篠崎君はこのひと月で5㎏増え、115㎏になった。ベンチプレスは215㎏が挙がるようになり、それはすなわち内側の筋肉が育っていることを意味するから、本人も満足そうだ。充実感があるだろう。
今、篠崎君は、「ああ、美味しい。トレ後のカーボ(糖質)って、最高ですよね!」と、目を細めながら大きなアンパンを二つかじり、60gのプロテイン(通常の2倍)を飲んでいる。最初に比べてずいぶん笑顔が増えて来た。篠崎君、笑うと案外可愛らしいんだな。
‥‥‥だけど、これは‥‥‥。
「篠崎君」
「なんです?」
「ちょっとTシャツ脱いでくれないか。気になるんだ」
篠崎君がTシャツを脱ぐと、分厚い脂肪に覆われてはいるものの、まるでヘビー級のプロレスラーのような、筋肉が内包された巨大な肉塊が姿を現した。が、
「気づいてたか? 胸が出てきている。乳房化しつつある」
「え、そうですか?」
「してる。間違いない。あと、髪も薄くなってきてるぞ。このままで大丈夫か?」
篠崎君が使っているトレンボロンを含むアナボリックステロイドは、大量の男性ホルモンを分泌させることで筋肥大を促進する薬物だ。したがって、体内では男性化が急速に進み、特に肩や僧帽筋(首の付け根)といった男性的な部位の筋肉が異常発達するが、それと引き換えに脱毛も急速に進行することになる。
しかも、それだけでは終わらない。もともと身体には本能として「恒常性」(過度な変化を抑制する性質)が備わっている。要するに、行き過ぎた男性化を引き戻すために、胸のような女性特有の部位に関しては女性化を促進する力が強く作用する。彼がこのまま薬物を摂取し続けると、さらに胸の乳房化が進み、美観の観点からコンテストどころではなくなるし、最悪、乳首から母乳状の粘液までにじむようになる。
もちろん、ホルモンバランスが崩れた状態が長期間続くため、躁鬱症状、易怒性、情緒不安定、自殺企図、と言った、精神面への副作用も著しい。トレンボロンのような強力な薬剤を摂取していればなおさらだ。
だけど、篠崎君は、「そうですか‥‥‥。ついに来るものが来たんですね」と、特段ショックを受けるでもなく、しれっと返してきた。って、おい、ほんとに事の重大さを分かってるのか?
「今、トレンボロン、一日何mg摂ってるんだ?」
「3錠ですから、60mgですね」
「それ、一般のユーザーの3倍じゃないか! 何やってんだ? トレンボロンをオーバードーズ(過剰摂取)したら副作用出て当然だぞ」
「はい、分かっています。胸の女性化については、反作用のケア剤を買ってありますから、それを併用します。髪は、今度メンズクリニックに行ってプロペシア(発毛促進剤)を出して貰います」 彼は、そう言って、変わらずオーバードーズを続けることを、きっぱり宣言してきた。
「いや、そういう問題じゃないだろ? トレンボロンを減らせばいいだろ?」 僕も食い下がる。
「いえ、ケア剤で落ち着いてる間はこのままいきます。もちろん、見た目が悪くなったら元も子もないので、本当にヤバくなったら考えます」 ああ、一歩も引かないんだ。
「そりゃ見えるところはいいかも知れないけどさ、内臓は大丈夫なのか。肝臓、AST(肝臓のダメージを計る指標。正常値上限35)はいくつなんだ?」
「こないだ洋介先生に検査してもらったら81でしたね」
「‥‥‥そのくらいなのか。正常値からはかなり外れているけど、確かに、いますぐ肝硬変とか、そういう数字ではないな」
「そうですよ。僕もそこはちゃんと気にしてます。大丈夫、秋のオリンピア・ジャパンが終わったら、一度ステロイドを抜いてオーバーホールしますよ。とにかくプロカード獲るまでは全力疾走です。昇さん、引き続きよろしくお願いします」 篠崎君は穏やかな声でそう言って、僕に微笑みかけた。
そこまで確信を持って言われると、僕も無理強いまではできない。
だけど、ステロイドの摂取量は変えず、顕在化した副作用はケア剤で抑えるって、それ、全力でアクセル踏みながらフルブレーキを踏み込むようなもんじゃないのか? そんなことやって、人間の身体は耐えられるのか?
それと精神も。いまのところ精神は大丈夫みたいだけど。
******
それから3日たち、そろそろ月が変わるというある日、篠崎君はトレ後、レストスペースのチェアに座り込んでいた。手元のプロテインもアンパンも手を付けていない。確かに、今日のパフォーマンスはよくなかった。ベンチで190㎏が8回挙がっただけだった。少しオーバートレーニング気味なのか?
彼は、ボーっとした定まらない視線を、外のけやき並木の新緑に向けている。僕が近づいても気付くことはない。
僕が篠崎君の横に立ち、「今日はお疲れさん。少し疲れが溜まっているようだから、しばらくは重量落として回数重視にしてみようか」と声をかけ、肩に手を置いた。
その瞬間、篠崎君は、「さわんな!」と僕の手を乱暴に払いのけ、目を見開いて僕を見上げ、
「ゴチャゴチャうっせーんだよ! お前は俺に雇われてんだから、言われた通り補助だけやってりゃいいんだ!」と、激しい言葉のパンチを浴びせてきた。
? 何があった? ああ、おかしい。篠崎君の視点が定まってない。僕の1m後ろを見てる。‥‥‥これが易怒性か。刺激に対して攻撃的に反応してしまうんだな。ついにステロイドが彼の精神も蝕み始めたのか。
だが、僕が務めて穏やかな笑顔を向けていると、そのうち、彼の眼に光が戻ってきた。ようやく視点が僕の眼と合わさったと思ったら、今度は大粒の涙が眦から溢れ出し、
「あ、あ‥‥‥。昇さん、ごめんなさい。本気じゃないんです。言ったのは僕なんですけど、それは僕の中の違う僕なんです‥‥‥」と、膝に手を置き、首をうなだれて苦し気に声を絞り出してきた。
「分かるよ。疲れてるときはパフォ上がんないしな。ストレスも溜まるさ」 僕は再び彼の肩に手を置き、諭すように声をかける。
「僕、すごく怖いんです‥‥‥。こんなインチキして、身体も心も壊して筋肉を大きくしてるのに、もうすぐ減量に入って絞ったら、ろくろく残んないんじゃないかって。こんな犠牲を払ったのに、結局ステなんか使ってない昇さんの方がよっぽど大きいんじゃないかって不安なんです。それで昇さんが羨ましくて、でもすごく憎んでる自分もいるんです。そんなことばっかり考えてるんです。頭を支配して離れないんです。僕、ほんとにどうしようもないクズなんです‥‥‥」
「大丈夫だよ。今日だって調子悪かったけど190を8回挙げただろ? 俺なんか160でやってるんだぜ。今は見えないけど、俺なんかよりずっと大きな筋肉が育ってるって」
「そうでしょうか‥‥‥?」
「そうだよ。当然じゃないか。挙上重量が全然違うんだから、考えるまでもない」
そしたら、篠崎君は「う、ああっ‥‥‥」って嗚咽を漏らしながら、立ち上がって僕に掻き付き、「うう、昇さん。さっきはひどいこと言って、ごめんなさい、ごめんなさい! だけど、お願いです、僕を見捨てないで下さい! 僕はもう後戻りできないんです! お願いです、これからも僕を支えて下さい!」って、すがるような眼で僕を見つめてきた。すごくメンタルの振幅が大きい。ステロイドの副作用、情緒不安定。
「ははは、大丈夫だよ。バカだな。俺は決して見捨てたりしない。可愛い愛弟子じゃないか。これからも一緒に頑張ろうな」 僕はそう言い聞かせながら、篠崎君の背中をさすってあげる。
「わーん、昇さん、ごめんなさい、ごめんなさい。わーん!」 篠崎君は、小学生みたいに声をあげ、巨体を震わせて泣き続ける。僕は彼の頭を優しく撫でてあげる。
今だ。僕はここで彼の確信に踏み込んだ。
「だけど篠崎君、トレンボロンはもうやめような。連休明けから減量に入るし、どのみちもうバルクアップは望めないんだ。バルクが維持できる程度の弱いステに変えていこう。秋口までに心身が壊れたらそれこそお終いだからな」 彼はまた激昂するかな。反応がまるで予測できない。
だが、ここでようやく言葉が通じた。
篠崎君は、泣きじゃくりながら、僕の胸でコクコクと何度も頷いていた。
よかった。だけど、こんな状態で彼はあと半年もつのか? 30㎏近い過酷な減量が待ってるんだぞ。




