第1話 決意を持って一線を越えた男
今、僕の前に、小山のような身体の男が行儀よく座っている。堀の深い顔立ちで相当なハンサムだが、太い眉毛と強い眼光が、意志の強さを伺わせる。場所はジムのレストスペースだ。
男は、僕を見ながら、「小田島昇さんの身体は素晴らしいです。フレームとバルクのバランスがいい。日本ボディビル界の『ライジング・サン』と呼ばれるのがよくわかります。世間一般の人が想像する理想のビルダーだと思います」と、体躯と裏腹に物静かな声で言った。
が、男はチェアに座り直して、両手の指を組み、目を伏せて少し逡巡した後、「だけど僕はその身体では満足できないんです。僕も頑張れば昇さんくらいになれたかも知れない。でもそれじゃ嫌なんです。手段はなんでも、人類にとっておよそ到達不可能な限界値の筋量を手に入れたいんです。お金でも名誉でもない、それが僕の願望なんです」と続けてきた。口調はあくまでも穏やかだ。
男は、篠崎誠司という。
僕より1つ年下の21歳。3年前から本格的にボディビルを始め、年あたり5㎏という、常識外れのとてつもないスピードで筋量を増やしてきた。春先の今は、一年で最も身体が大きな時期で、172㎝だが110㎏もある。アンダーアーマーのジャージは3ⅩL。それでもはちきれそうだ。分厚い脂肪の下に大量のバルク(筋量)が潜んでいるのが一目でわかる。
僕は、篠崎君を洋介師匠から紹介された。
「ウチのクリニックに通ってる子なんだけどさ、秋のオリンピア・ジャパンでプロカード取って、アメリカでやりたいんだって。身体はもう大概出来上がってるんだけど、メンタルがすごく繊細でさ、ちょっと筋肉に傾注し過ぎて危うい感じがするので、面倒みてやってくれない? ああ、うん、そうだよ、プロを目指してるわけだからな。《《ユーザー》》だろう」ということだった。
実際上、たった3年でこの肉体を作り上げるのは、ナチュラルでは不可能で、継続的にアナボリック・ステロイドを中心としたドーピングを続けてきたはずだ。ドラッグユーザー、いわゆる「ユーザー」だ。
ボディビルダーは、自らユーザーであることを公言したりしないが、「オリンピアのプロになりたい」と宣言した時点で、カミングアウトしたことになる。僕の所属する団体と違って、オリンピアはドーピング検査を実施しないので、表向きは薬物禁止をうたっていても、参加選手はユーザーであることが公然の秘密とされている。ユーザーは、人間の生まれ持った素質の上限を軽々と乗り越え、薬効と比例した巨大な筋肉を手に入れることができるので、逆にユーザーでなければ、上位入賞はおろか、プロカード獲得など夢のまた夢だ。
「オリンピアのプロを目指すということは、篠崎君、ユーザーなんだよね」
「そうです。ボディビル始めて半年目から使ってます。だからもう2年半ですね」
「何を使ってるの。メタナボル(入手容易な薬剤のうちスタンダードなもの)?」
「いえ、トレンボロンです。もう3サイクル目ですね。あれ、すごく効きますよ」
トレンボロンは、「最強のステロイド」として広く知られている。男性ホルモンのテストステロンの実に5倍の筋肥大効果がある。が、効果があるということは、その分副作用も大きいわけで、肝臓や腎臓に与えるダメージも強烈だ。巨大な肉体の完成後に健康体を維持できないリスクを覚悟して使う、まさに悪魔の秘薬だ。
しかし、現在の日本では、トレンボロンを含めたステロイド系の薬剤は、個人的に趣味で使う分には違法ではない。どれも海外から輸入を代行する業者からネットで簡単に入手することができる。
「トレンボロンを使ってるのか。‥‥‥それ、洋介師匠のとこで出して貰ってるの?」
「まさか。洋介先生は絶対にそんなことしませんよ。『覚悟決めてやるのなら、止めはしないが、手助けもしない』って言ってました。定期的に血液検査してもらって、身体に著しい異常がないかだけ診て貰っています」
「まあ、師匠ならそう言うだろうな。だけど、副作用で健康被害が出る可能性がおおいにあるけど、ご両親とか彼女とか、知ってるの?」
「両親はもう亡くなりました。彼女はいません。天涯孤独です。両親が残してくれた財産で、生活の不安はありません。僕はお酒もタバコもやりませんし、車にも時計にも興味はありません。ただただ、大きな肉体が欲しいんです。健康を損ねるリスクは覚悟のうえです。その結果、僕がどうなろうとも、後悔することはありません。もちろん昇さんを恨んだりもしません」
「うーん‥‥‥」
「昇さん、お願いします。僕はこの秋に命を賭けているんです。だからお金をちゃんと使って、最高のトレーナーを付けて、密度の高いトレーニングをしたいんです。昇さん、僕をオリンピアのプロに導いて下さい!」
そうか、分かった。決意を持って一線を越えてきたのか。ならば何も言うことはない。
僕は、ドーピングは好まないし、もちろんやらないけれど、ユーザーの気持ちも、賛同しないまでも、理解はできる。尊敬というとちょっと語弊があるが、一種の畏敬の念も禁じ得ない。いや、畏敬ではなく、畏怖か。何が彼らをそこまで筋肉に駆り立てるのだろう。
最終的に、僕は篠崎君の要望を容れ、秋のジャパン大会でのプロカード獲得に向け、週5回、2時間ずつ、パーソナルトレーナーを務めることになった。僕はアイアンジムの最高ランクなので、2時間4万円。その3割がインセンティブになるので、かなりの収入だ。
だけど、お金は問題じゃない。実を言うと、僕も、目の前の最高クラスの素材が、僕の手でどう進化し、どこまで肉体を完成させることができるのか、ビルダーとしての本能を刺激されたから引き受けたんだ。そして、生命を削ってまでも筋肉に向き合う、ユーザーの心の深淵を垣間見てみたいという、少し後ろめたい興味があったことも否定できない。
早速その日から、僕と篠崎君のハードなトレーニングが始まった。
彼は、ベンチプレスで、200㎏のバーベルを、こともなげに10回挙げた。
周りを囲んだ会員さんから、「おおーっ」って、感嘆のため息が漏れた。




