第三十八話: 胡蝶の夢 ⑤
◆まえがき◆
今回は氏家に続き、池矢の告白が展開します。
では、胡蝶の夢「第5話」
お楽しみください!(^v^)
「え!?……一回落選した絵ですよね?……それをまた出品したって事ですか???」
池矢の言葉に驚いて、氏家はおでんに伸ばした手を引っ込める。
「はい。ある展覧会の存在を知りまして……それで、何というか……急に気が変わりましてね。その展覧会にあの絵を再出品したんです」
 
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――1987年 11月×日――
その展覧会の存在を知ったのは、コインランドリーの待ち時間、駅前の本屋で美術系の雑誌をぱらぱらと立ち読みしていた時の事だった。
たまたま〝安井曾太郎〟の特集記事があり、記事の終わりの隅っこの方に〝『第5回富士展』:安井賞展の作家らを中心に結成された美術団体~〟といった見出しの公募展の宣伝広告を発見したのがきっかけだった。
俺は小銭だけしか入っていない財布の硬貨を数え、雑誌を手に入れると公園のベンチでそれを食い入るように何度も読み返す。
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☆富士展(公募展)
主催:富士美術協会
安井賞、昭和会賞入選者らを筆頭に1983年に設立された展覧会。
(前身は1982年、アメリカ・ロサンゼルス、カリフォルニア・マートにおいて開かれた国際展)
〝現今のわが国の美術界に一石を投ずべく行動する〟という理念の元に活動する美術団体。『第5回富士展』は本年12月に開催。出展者募集締切は11月末。
詳しくは下記事務所まで
電話: 973-○○○○
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「安井賞展の作家側が筆頭で設立……こんな展覧会があったんだ…」
遠くの方で商店街のスピーカーからお昼を知らす音楽が流れだす。俺はハッと我に帰り、乾燥機に入れた洗濯物を回収すべく愛用のママさん自転車にまたがった。
半渇きの厚手の洗濯物を窓の外に干し終えた俺は、冷蔵庫から取り出した菓子パンをかじりかじり、買ってきた雑誌の同じ部分を何度も眺める。
「公募展って書いてあるし……これなら誰でも出せるんだろうな…」
時計を見ると夕方からのバイトまで十分時間はある。
「今更だよな」
無意識にこぼれる言葉とは裏腹に、俺の手は新聞紙でくるんで壁に立てかけたまま放置していた100号のキャンバスに伸びていた。その手は無造作に新聞の縁に切れ目を入れたかと思うと、ゆっくりとそれをはぎ取り始める。中身が露わになるにつれ、手は何かに憑りつかれたかのように激しく新聞紙を引きちぎっていく…
あっという間に被せられた新聞は全てはぎ取られ、懐かしい大木が久しぶりにその姿を現す。
「………………やってみるか」
俺は雑誌を片手に弾けるように電話口い向かい、ダイヤルを回す。
「もしもし……あの、富士展の窓口はこちらでよろしかったでしょうか?……はい、……はいそうです。是非出品したいと思いまして、……はい、……再来週までに東京都美術館で………地下の搬入場所にですか…はい。応募費用を持参して……はい、わかりました……」
広告を目にしてから、ものの数十分の間の出来事であった。
俺の心臓の鼓動は、電話を切った後になってはじめて高鳴り出した。強く握った拳の甲側の傷が心地よい痛みを発していた。
「これでいい。……あとは年明けの試験で全て出し切るだけだ」
―― 一月後 12月×日 朝9時 ――
前日の夕方バイトから深夜喫茶バイトを経て早朝のビル清掃、というトリプルワークをこなし、へとへとになりながらアパートに辿り着いた俺は、解凍したご飯の上に煮干しを載せ、へとへとになりつつも何とか体にエネルギーを補給していた。
『リーーン!リーーン!リーーン!リーーン!…』
半分眠りだした脳に突き刺さるように受話器音が鳴り響く。
「なんだなんだ……こんな朝っぱらから」
口の中で米粒と小魚をもぐもぐと混ぜ合わせながら、俺はのろのろと電話機に向かった。
「ふぁい…いけやです……本人です。……ふあっ!富士美術協会!?……す、すいません丁度食事をとっていたもので…」
電話の向こう側の声も若干早口になっており、先方も何か急事で慌てているのがその口調から伝わってくる。
「これは失礼しました。いや、良かったです。連絡がついて……実は先週からずっとお電話を差し上げていたんですが、お留守だったようで……」
「これはすいませんでした。平日は午後から居ない事がほとんどでして…」
「いえいえ、こちらもすぐに早い時間に連絡をすれば良かったですね。……ところで池谷さん、こちらからの輸送物は確認されましたか?」
「!……すいません、ごたごたしていて先週のはまだ確認できてませんが……わざわざお電話いただけたって事は…………入選できたって事でしょうか?」
「いえ、入選どころか大賞ですよ大賞」
「へ?……」
「大賞の『富士美術賞』を受賞されたんですよ。あなた!」
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「ええっ!…そんなイイ展開になったんですか!?……その話、なんでさっきのバーで話してくれなかったんですか!?」
「それはですね……う~~ん………なんと言ったらいいのかな」
納得いかない、といった神妙な顔で声を高める氏家に対し、今度は池矢の方が複雑な笑みを見せながら頭をかきかき言葉を詰まらせる。
「まぁ、実際はそんなに良い展開じゃなかったんですよ。……結果的に数万円の賞金が出ましたし、協会の正会員として推薦もされたんですけど、毎月の会員費もろくに払えないような貧乏浪人生でしたから……結局、いろいろあった申し出も断らざるをえなかったんです……でも、良い思い出にはなりました。………本当に…」
池矢はそう言って遠い目をしてみせた。
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―― 1987年 12月20日 18時すぎ ――
その日は展覧会の授賞式がある日だった。夕方の作業を早上がりで切り上げた俺はバイト先から駅に向かって全速力で疾走し、息も絶え絶え上野行きの山手線に駆け込む。このペースなら18時半からの授賞式になんとか間に合う、というギリギリの時間配分での移動であった。
「5分前には会場入りできそうだな…」
上野駅から再び猛ダッシュをかけ、開始直前に会場受付を済まして場内に入ろうとすると、係の者から〝受賞者の方は式場の最前列に専用席が用意してありますので〟との説明を受け、そちらに通された。
そんな大きな場所での授賞式など初めてだった俺は、用意された椅子に腰かけてみて、初めて色々な違和感に気付きだす。
まず感じたのは、同じ最前列に座る面々の服装であった。皆、キチンとしたフォーマルな出で立ちで、スッと背筋を伸ばして静かに着座しているその姿は、いかにも〝我々は受賞者です〟という感じを漂よわせている。俺はハッとして自分の服装をまじまじと見返してみた。薄汚れたスニーカーに煤けた黒いジーンズ、上はと言えば灰色のトレーナーにヨレヨレの茶色のパーカー姿。手に持っているのはズタ袋のようなトートバック一つ…
周囲の人間の装いと比べたら、まるで自分がどこからか間違えて紛れ込んでしまった〝ドブネズミ〟か何かのように思え、急に恥ずかしくなる。「平服」と言われたのをすっかり間違って捉えてしまったミスであった。だが、よくよく考えれば『そもそもそんな服自体持っていない』事に気が付き、何だか馬鹿馬鹿しく思えて急に笑いが込み上げる。
その次に気付いたのは、会場入りしている人たちの年齢層であった。殆どが30代後半~50代の中高年とおぼしき人達で、若い人間を探すなら、もうその人達が連れている小さな子供くらいしか見当たらない。そして、残りの三分の一位はシニア世代といった具合の非常に年齢層の高い方々の集いである事だった。
―これはとんだ間違いをやらかしたかもしれない…―
湧き上がってくる焦燥感に身悶えながら、吹き出す嫌な汗を必死に拭う不憫な俺をよそに、式典は予定通り淡々と進行していく。
「できれば早く終わって欲しい…」
主催者がとうとうと話す協会の沿革を聞きながら、自分の中の羞恥心と懸命に戦っていた俺の傍らに、運営の者らしき人物が不意に近寄ってきてこう告げた。
「この後の授賞式で全員の表彰が終わった後に、池谷さんには〝大賞受賞者〟として謝辞を述べていただきますから……ご準備よろしくお願いしますね」
「しゃじ?……」
「あっ、えーと…受賞者の感謝の言葉ってやつです。ほら、よくアカデミー賞とかで俳優さんが喋ってるようなやつですよ……5分位の簡単な言葉で結構なので、よろしくお願いしますね」
突然振られた予想だにしなかった話に、俺は完全に冷静さを失う。
―どうすんだ?何を喋れってんだ?……しかもこの恰好じゃ…―
『あ。』
「服装がダメならせめて」という気持ちでか、無意識に髪の毛を撫でたりして暫くは無駄な足掻きをしていた俺の中で、突然、何かがグルンと反転する。
―これ……ひょっとして、大チャンスなんじゃないか?―
今の日本の美術界へのジレンマ、美術を学ぶという事に対する不安や葛藤、これからの自分の夢……話そうと思えばいくらでも話はあるじゃないか。という思いが突如として洪水のように胸の奥の方から沸き上がり、鼓動が加速しだす。だが、その素晴らしい閃きは、あたかも対の思いの様に一つの〝邪念〟を生み出してしまう。
『この会場に来ている面々は皆、しっかりしていて十分お金も持っていそうだし、今、ここでうまく立ち回れれば、自分は大きな後ろ盾を手に入れられるかもしれない…』
小賢しい気持ちが、癌細胞の様にじわじわと膨れ上がる…
とんとん拍子に会は進み、受賞者に対する各々の賞の授与が終わりに差し掛かかる頃、完全に気持ちの切り替えが終了した俺の鼓動は少し前とは打って変わり、何事もなかったかの様に平静時のリズムを取り戻していた。
―話すべきことはもう決めた。あとはぶつけるだけだ―
俺の中にもはや迷いは無かった。むしろ〝全てを掴みとる〟という、どす黒い気持ちが渦巻き、その奥の方に灯った炎たちをざわつかせていた。
『では最後に、受賞者の皆さんを代表して大賞受賞者の池矢さんからのお言葉となります。池矢さん、どうぞ』
盛大な拍手に包まれ、俺は壇上中央のマイクの前に立った。
「僕は…」
言葉を放った瞬間、突然、目の前が真っ白になる。
なぜだかわからないが、子供の頃の自分の姿や、群馬のセッちゃん、親父やおふくろの姿がフラッシュバックし、用意していたはずの言葉がみるみる消滅していく。
「僕は、今さっきまで新橋でビル掃除をしていました…」
―ばかか俺は!?何を言ってるんだ!?やめろっ!―
頭の中の俺が必死に叫ぶが、当の俺自身の言葉は止まらなかった。
「実は筆をもっている時間より、モップを持ってる時間の方が全然長いんです……」
そこまで言ったところで俺はこみ上げるものに支配され、もうそれ以上一言も喋る事ができなくなってしまった。みっともない事に俺は壇上でボロボロと泣き出してしまったのだった。
会場はしんと静まり返り、マイクはしばらく俺がむせび泣くその音だけを拾った。
「がんばれー!」
誰かがこちらに向かって大きな声をかけた。
「頑張って絵を描けー」
また違う誰かが叫んだ。
俺は、よくわからない拍手と声援を浴びながら、司会者に励まされるように肩を叩かれつつ壇上を後にした。
※※※※※※※※※※※※※※※※
「いやいや、誰が聞いたって良い話だと思いますけどね……霧島さんはこの話知ってたんですか?」
一通り話し終えた池矢に対し、氏家はなおも合点がいかないといった反応を続ける。
「いんや。俺もはじめて聞いた話……でも、池矢が話したくないってのもなんとなく分かるような気がするかなぁ~」
霧島はすっとぼけた調子でニヤニヤするばかりだ。
「う~ん……私にはさっぱりですよ。周りの人に自慢できるような素敵な話だと思うんですけどねぇ、それに…」
「その一個しかないんです。心底嬉しかったって記憶っていうのが」
氏家の言葉を遮るように池矢が言葉を発した。氏家と霧島は少し驚いた感じで池矢の方を振り返る。
「……表現が難しいんですがね……他人に話したら別物になってしまうような…それが無くなってしまうような、そんな気がしてましてね」
「ほうほう」
「???…そんな簡単に記憶は無くなりませんよね。それに、物じゃないんだし他人に盗られる訳もないですし」
池矢の説明を感心して聞く霧島に対し、氏家は露骨に顏を歪め反論する。
「いえいえ~。盗られる物かもしれませんよ~。……しかも案外簡単にねぇ~」
氏家の台詞にチャチャを入れながら、霧島は気味悪い微笑みを見せる。
「ふふっ。確かに、ただの記憶なんですけどね…」
池矢は小さく笑って、コップに残った日本酒を一気に喉に流し込むと、横のテーブルに突っ伏していた店主に向かって声をかける。
「お父ちゃん、お代わり!」
「その横の一升瓶…その残ってんので勝手にやっちくれい!……そんで、話すんだら起こしとくれっ!……もう、店はおしまいだからよぅ……むにゃむにゃ…」
「もーすぐ終いにすっからね。ありがとねお父ちゃん!」
二人の会話をまるで本当の親子の様に感じた氏家は、状況を見返して苦笑いする。
「豪快なお父さんですね」
「いつもほんな感じだよ、こほの父っつぁんは」
霧島はおでんを頬張ったまま、あきれた様子で言い放った。
「霧島~、お前呑気におでん食ってる場合じゃないぞ。次はお前の番だからな」
池矢は霧島の鼻先を指さして意地悪そうに告げる。
「指さすな!わかってるから……しかしなんだな。君ら二人の話が普通じゃなさすぎてな~どうしたもんかな~……。最初に話そうと思ってた話はつまんなすぎるし…」
「あれれ?霧島さんともあろうお方が迷っている?……お前の事だから実は色々あるだろ?……変態なんだから」
「変態いうな!」
再び始まった二人の漫才に耳を傾けながら、氏家は奥の一升瓶に手を伸ばす。
「そうだ!……僕はアレ、話しちゃおう!……とっておきのヤツ」
「おっ、来た来た……どんな変態話やら…」
「ふざけてる場合じゃないぞ池矢、とっておきの話だだからな。……二人とも、ちょっと近寄ってくれ。大きい声じゃ言えない話だから……」
そういって霧島は中央に構える自分の方に二人の顔を近付けさせる。
「ピストル、撃ってみたくない?」
(つづく)
◆あとがき◆
次回は注目の霧島の告白となります。
「ピストル」とは本物の銃の事なのか?
お楽しみに!(^v^)
 




