第二十六話: 池矢 創 ⑩
◆まえがき◆
物語は1986年の12月下旬、
池矢が江古田の居酒屋で学生グループと一悶着あってから2週間ほど経過したところから再開します。
では「池矢の章、第十話」
お楽しみください!
********
1986年 12月21日。
街はクリスマス用のイルミネーションで溢れ、毎年恒例の煌びやかな賑わいをこれ見よがしにひけらかしている。地下の人ごみを掻き分け、池袋での定番の待ち合わせ場所「36面テレビ」の前に到着した俺は、テレビ画面が消えるタイミングを見計らい、ガラスに写りこんだ自分の額に張り付いた絆創膏をチェックする。
「やけに遅いな…何かあったか?」
俺は待ち合わせ時間になかなか現れない近田の事が少し気になり出していた。
「ごめーん!ちょっと打ち合わせが長引いちゃってさ~」
小走りで現れた近田は、時間に遅れた申し訳なさより酒が飲める喜びの方が完全に上回っている様子で、息をきらしながら満面の笑顔を見せる。
「大丈夫、大丈夫……またその辺の居酒屋でイイよね」
「いいんじゃない。空いてればどこでも……忘年会シーズンだしさ」
二人は近場の大衆居酒屋に入り、テーブル席に着くなり生ビールを2つ注文する。
「あれ、その絆創膏……どうしたの?」
荷物を傍らに置き椅子に腰かけ直した近田は、俺の額についた絆創膏に気が付くときょとんとした顔で問いかけてくる。
「あー、これね。…昨日日雇いで行った現場が結構酷くてさ~…あ、昨日は新築ビルの資材運びの仕事だったんだけどさ、大物…大きくて重い物が多くて…」
「え?……ビル建てるとか、そんな日雇い作業あるの?」
「いやいや、組み立てるのとは無関係。そっちはプロがやる仕事だから……我々がやるのは必要な部品を決められた場所に運ぶ作業。よくわからない合板とかパイプとかセメント袋とか、そういうのを言われた場所にひたすら運ぶだけなんだけどさ。……その作業中に上のフロアからバットくらいの長さの資材が落ちてきて頭をかすって行ったんだよね~…はは」
「えっ!?……『はは』って、それ全然笑えないって!……無茶苦茶危ないじゃん!どーすんの頭直撃してたら?…日雇いじゃ保険とか下りないでしょ、怪我したって…」
「そーなんだよね~。そういう現場に当たった時はもう『ハズレ』を引いたって諦めるしかないから、そこは正直ちょっと怖いよね~」
――生ビールお待たせしました~――
「ただ、日雇いも良い時は良くてさ。学校とか大型設備の解体とか。…そういう場所だと運が良い時はテーブルとか椅子をあっちからこっちに運ぶみたいな単純作業だけを5~6時間やって〝はい終了〟って日もあるんだよ。で、もらえる額は同じ7~8千円」
「なるほどね~……でもさっきの話聞いちゃうとな~……結構リスク高そーだしさ、日雇いは辞めた方が良いんじゃないの?」
「ま~あんまり長く続けたくはないよね。実際、危ない現場がたまにある訳からさ…けど、普通のバイトの倍だから。もらえる金が」
「……う~ん……倍か~……そりゃ美味しい話だけど、怪我はなぁ~」
近田はそう言って俺の額の絆創膏にちらっと眼をやる。
「とりあえず、こんな無茶な働き方するのは再来月までだしさ。〝手〟さえ無事なら問題なしって事で…」
「問題なしってあなた……」
――ご注文よろしいですか~――
注文を取りに来た店員が話に割って入って来る。
近田は一瞬苦虫をすり潰したように眉をひそめ、テーブル横にあったメニューを素早く取り上げると、苦笑いしながらその一部を俺によこした。
「まぁ、本人が問題ないって言うんならそれ以上他人がとやかく言う事じゃないけど……金も絡んでる話だし」
近田と俺はこ慣れた感じに手早く数品のつまみを注文して、店員を退場させる。その後は近田の取引先での失敗談や、会社の女の子がどうのこうのという他愛のない話が続いたが、結局は他の連中には話せないお互いの子供時代の懐かしい昔話にすべてが集約されていった…。
気付けば酒宴が始まってからあっという間に2時間以上が過ぎていた。次の日は互いに休みという事もあり、終盤は日本酒で返杯を繰り返していた二人はそれなりに酒が回り、ちょっとした話でも意味なく吹き出すような出来上がりっぷりを見せていた。
近田の無防備な笑顔に子供時代の「あざだらけで鼻をすすっていた頃」の面影が重なり、何とも形容しがたい感覚が込みあがる。
「あ、いけね」
「?」
不意に俺は、今回起きた〝絵の売却劇〟を先導してくれた立役者であるこの近田に、ちゃんとした礼を言っていなかった事を思い出し、改まって切り出した。
「いやさ…ありがとう。ホントに。……助かったよ今回の一件は」
「ああ、……絵が売れた話ね」
近田はこちらに眼を合わせず、静かな笑顔で塩辛をつついている。
「普通にやってたら二月分の貯金額なんだって、あの額は……でね、あの金の一部を使わせてもらって先月から100号の大作を描きだしたんだよ。……今、ちょうど下描きが完成したところでさ」
「あー!キャンバスだけ買ったって言ってた例のでっかい絵ね。…タタミ2畳分って言ってたよね、確か。……そのサイズだと完成までどの位かかるの?」
「今のペースなら試験前には余裕で出来上がるカンジだね。1月末とか……その時はまた写真でも撮って社長に見せに行くよ」
「社長……社長ねぇ~…………社長もさぁ~、なんと言うか……」
社長という言葉を聞いてなぜか近田は突然表情を曇らせた。
「?………社長さん、何かあったの?」
「いや、特に何かあったって訳じゃないんだけどさ。……社長って色々付き合いが広いじゃない。……その中に絵描きの知り合いも居たみたいでさぁ…」
近田の歯切れの悪い物言いが疎ましくて、俺は直球で質問を投げ込む。
「で?……その人たちが何かしたワケ?」
近田は気まずい様子で、渋々説明を続ける。
「別に何かしたって訳じゃないんだけど……まぁ簡単に言っちゃうと、そういう連中の悪い所ばかり見てて、ウチの社長、『絵描き』って商売自体にあんまりイイ印象持ってないみたいでさ……〝そもそも日本じゃ絵描きで食ってくのは無理でしょ〟とか言ってて……」
「え?……だって、絵、買ってくれたじゃん!……あんな高値で」
動揺した俺は、見当違いだと分かりつつも近田に激しく食い下がる。
「いや、だから俺も聞いたよ。同じ事をさ。〝じゃあ、なんであの絵買ったんですか?〟って」
なぜか突然、お袋の顔が思い出された。と同時に、俺が「芸大を受ける」と宣言した時の周囲の反応が山彦のように頭を駆け巡った。
――池谷君は確かに絵は上手だけどねぇ…――
――そもそも絵なんかで生活できるの?――
「社長は何て?……なんで俺の絵買ったのよ?……おかしいでしょ話が?」
近田はしどろもどろながら、懸命に返答する。
「……頑張っている若者に協力したくて……勢いで買ったんだって……いや、でもさ、理由なんかどうでもイイじゃん。今は試験受けて、合格できるかどうかが一番大事なんだから。………後で見返してやりゃあいいんだし、そう気にしなさんなって」
確かに近田の言う通りだった。だが、色々な疑心暗鬼に取り憑かれていた当時の俺は、とてもではないがそんな近田のまっとうなアドバイスを冷静に聞けるような状態ではなかった。
――あの~…――
突然、二人の会話に店員が横から割って入って来る。
「あの~、大変申し訳ありませんがただ今忘年会シーズンで、一応2時間で席を入れ替える事になっておりまして……」
「え、ちょっと!……先に言ってくれよ~そんな大事なこと~」
近田は露骨に嫌な顔をしながら、自分の腕時計を確認する。
「あらら、もう3時間近く経ってるじゃん……結構待ってくれた訳ね……」
――ありがとうございましたーー!――
陰鬱な気分をぬぐえぬままに、宴は店員の声掛けによって強制終了となった。
店の外に出て周囲を見回す。楽しげな七色の電飾で彩られたその景色にイラつく胸がえぐられ、俺は酔いとは別の吐き気をもよおす。
そのままお開きという気分には到底なれなかった二人は、気分を切り替えるべく近くの立ち飲み屋で二次会を開始した。人の好い近田は、気を使って「絵の話」を避け、極力バカ話で場を盛り上げようと努めてくれていた。俺も、近田の気遣いを無下にはできず、それに応えるべく普段は言わないようなくだらない冗談を言って近田を笑わせる。あっという間に場の空気は楽しく、穏やかなものへと戻っていった。そう、表面上は――
「そろそろ終電近いし、お開きにする?」
俺は近田の言葉でハッと意識を取り戻した。どうやら壁に寄り掛かった姿勢のまま少しの間、意識を失っていたらしい。最後に時計を見たのは12時近かったから優に5時間以上は飲んでいた事になる。明らかに飲みすぎ状態だ。
自分の状態を確認し、俺は近田の提案に従い店を出た。
「そー言えば、先月地元の居酒屋で理知大の学生グループと遭遇したんだけどさぁ~」
俺は少しばかり呂律の回りが悪くなった自分の言葉に細心の注意を払いながら、若干ヨタ付き気味で横を並んで歩く近田に話しかけた。
「……理知大って……ああ、江古田の大学ね」
「実は、そん時もおんなじ様なこと言われたんだよね~……〝今どき普通の絵を買う奴なんて居ない〟ってさ」
「…………」
近田は難しい顔で俺の話を黙って聞いている。
「しかもその連中、俺のやり方じゃ絶対芸大は受かんないって言い切りやがって」
「…………」
「そもそも、今の日本の普通の家には絵を飾るような風習なんか無いとか……」
「ソウくん、もうイイじゃん……絵の話は」
それまで穏やかだった近田が突然強い口調で俺の話を遮った。
「良くはないだろ~……下手したら俺が今やってることが無駄かもしれないって話なんだから!」
「無駄とは言わないけどさ………そういう話も一理あるんじゃないの?」
予想外の近田の反応だった。俺は不快感を顕にする。
「なんだよソレ?……じゃぁ何?しょーちゃんも俺が芸大入るのは無理じゃねーかって、……そんな風に思ってるワケ?」
「芸大受かる受かんないじゃなくてさ………絵で食べていくのは難しいって話だよ!……今の普通の人たちは〝絵〟に興味なんてない人ばっかなんだって。実際ソウくんの絵だってウチのトイレの棚に入れたまんまで…」
「え?」
近田の顔が引きつってみるみる青ざめていく。その表情は、明らかに〝しまった〟という失態を表すそれであった。
「トイレ?…………今、トイレって言った?……………トイレの棚?……トイレットペーパーとか置いてる…」
自分の体が、自分の意識とは全く関係なしにがくがくしだすのがはっきり分かる。
「いや、社長がさ、最初〝トイレに飾ろうか?〟ってトイレに持ってったんだけど、場所的に合わないねって言って……そのまま棚にしまわれちゃって………俺、今日もそれで社長に抗議して……」
俺の耳に近田の声はすでに入ってはこなかった。
江古田の居酒屋でカメラ男に言われたセリフが頭に響きわたる。
『今時、普通の絵描いたって売れやしね~ぞ~!』
――俺の絵はトイレットペーパーと同じ……いや、使われもしないならそれ以下だ。クソを拭く紙にも劣るって………これが現実!?……――
「ソウくん!……ごめん!変なこと言っちゃって、社長のことはさ……」
「金払えば…」
「?……え?何……今なんて?…」
「金……7万返せば……絵、返してもらえるかな」
「バカな事言うなって!……芸大……入学するのに必要でしょ金は!……夢でしょ!君のっ!?」
『ブツン』と俺の心の中で何かが弾け飛んだ。
同時に全ての音が聞こえなくなり、時間が止まったような感覚に襲われる。
『もうあきらめな』
誰かの声が聞こえたような気がし、あちこちに抜け道のようにぽっかり穴をあけている薄汚い路地の一つに目をやる。
「?」
路地裏の奥の方で一瞬何かが光ったように感じ、俺は吸い込まれるようにその方向へと歩みを進める。
「ちょっと!ソウくん!……どこ行くの!」
目の前に現れたのは、路地のどん詰まりに積まれた廃材の山であった。その中に立てかけてあった壊れたガラス戸のガラスに、クリスマスのイルミネーションが反射し、まるで死にかけた蛍のようにリズミカルに淡い光を発していた。
俺は自分の右手開き、それをじっと見つめた。
――ぜんぶ無駄に小器用なこの手のせいだ――
不意に、邪悪などす黒い破壊衝動がに俺の身体を貫いた。そして、次の瞬間―
俺は振り上げた右こぶしを力いっぱい目の前のガラス戸に打ち付けていた。
後ろの方から近田の叫ぶ声が聞こえる気がしたが、何を言われているのかさっぱり分からなかった。俺は只ひたすら自分のこぶしを何度も何度も目の前の廃材の山に向かって叩きつける。
――全て壊れてしまえばいい!何もかも壊れてしまえ!――
激痛は最初の一振りだけだった。
真っ赤なしぶきが飛び散って、生暖かい液体が冷たい頬に跳ね返る。
遠くから悲鳴と怒号のような声の固まりが近付いてくる音が聞こえる。
無数のイルミネーションと
楽しげなクリスマスソングと
けたたましいサイレンの音に包まれながら
俺の1986年は幕を閉じた。
(つづく)
◆あとがき◆
実技試験直前という大事な時期に、予想もしなかった最悪の状況に陥ってしまった池矢…
使い物にならなくなった右手を前に、これからどんな動きを見せるのでしょうか?
今回、2回分をまとめて執筆した為UPが遅れてしまいましたが、次回は週末前に何とか上げたいと思っています。
でわまた!(^v^)




