第二十五話: 池矢 創 ⑨
◆まえがき◆
居酒屋で遭遇した絵画を志す同世代の学生達に根本から否定されてしまった池矢。
今回は、そもそも池矢がどういう経緯で「絵」を描きだしたのか?
彼にとって「絵」とは何なのか?
そのルーツが語られます。
では池矢の章「第九話」
お楽しみください!
※ご報告※
前回の話の一番最後に池矢が放った重要な台詞が、度重なる微調整で抜けてしまっており、慌てて調整しました。今回は冒頭にそのセリフを追加しております。
また、第19話の時系列が解りづらいとのご指摘があり、大幅な調整を入れました。
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「俺……何で絵、描き始めたんだっけ……」
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小さい頃は本当によく絵を描いていた。
特段、絵が好きだったという訳ではなかったが、遊び相手の居ない部屋の中でやる事が無くなっていき、最終的に辿り着いたのが〝絵を描く〟という遊びだった。
ウチは稼業が稼業であったから、その関係で〝子供に何かあったら大変だ〟という意識が異常に強かったのかもしれない。とにかく、大人達は基本的に俺を外で遊ばせるという事を極端に嫌っていたし、三輪車のような「車輪の付いた乗り物」に乗る際にも『怪我したら困る』と、あまり良い顏はされなかった。
たまに手が空いている家の誰かに連れられて近くの公園に連れて行ってもらう事もあったが、近所に住んでいてウチの事を良く知っている連中達は皆、自分の家の子供と俺を遊ばせるような奇特なマネはしなかった。
だから俺はひきこもりの子供みたいに家の中で自分で遊びを見つけて独りで遊ぶしかなかった。棒切れの様な長さのある玩具を振り回して物を壊して怒られたり、ミニカーで畳をゴロゴロ走らせて「畳が擦り切れる」といって怒られたり、狭い和室での遊びは案外制約が多く、怒られずに安全に遊べたのは「積み木」か「お絵かき」位であった。
積み木の方は、色々なパタンのセットを何種類か与えられていたが、正直言って子供の俺は全く面白さがわからなかった。ただ、それを大人の前で上手に高く積んだり、建物や乗り物みたいな形をつくると喜ばれたので、何の感情も無いまま適当にいじくったりしていただけだった。
絵の方はちょっと違っていて、何かを一生懸命描いて、それが何かにちゃんと似ると『積み木を並べた時』とは比べ物にならないほど褒められた。
だから俺はひたすら絵を描いて近くの大人に見せに行くという事を繰り返していた。
あまりに絵ばかり集中して描いていたせいか、気付けば『白い紙を見つけると、どこにでも絵を描いてしまう』という変な癖がついていた。襖の白い所、カレンダーの裏、チラシの裏、新聞や雑誌の空きスペース…大人達から注意されても、それはなかなか直らず、大人達は仕方なく、チラシや古新聞の束など色々な紙類を俺に与えてくれていた。
「絵の話」とはズレる部分もあるが、当時の事を想い返す度に必ず同時に浮かんでくる不思議な記憶がある。それは幼稚園時代の『三つの記憶』だ。
ある時、いつものように紙をねだりにお袋の所へ行くと、お袋が突然居なくなってしまっていた。他の大人達に聞くと、何か大事な用事ができてしばらく家を留守にするのだという。それが原因だかどうかは知らないがその直後、俺は「ゆきネェ」といっしょに親戚のおばさん達に連れられ埼玉の方に引っ越し、しばらくそこで暮らす事になった。記憶はその埼玉生活時代のものだ。
引越したのはおそらく3~4歳の頃で、俺は引越し先で幼稚園に入園し、2年ほどそこに通ったはずなので、幼稚園時代の記憶がそれなりに残っていてもおかしくないのだが、どういう訳かその時分の記憶はたったの「三つ」だけなのだ。
一つは幼稚園の若い女の先生の記憶。
彼女は、俺がいくら頑張って上手に絵を描いても冷ややかな視線を投げるだけでちっとも俺を褒めない唯一の大人だった。それどころか家の事情で休みがちな俺が周囲にうまく馴染めず、よってたかって叩かれていた時も何故か小さくほくそ笑んでいる人だった。表情こそ記憶は薄れたが、その時に始めて感じた「人間に対する気味悪さ」は、今でも心のヒダに引っかかっている。
もう一つは「おゆうぎ会」の記憶。
同じクラスにちょっと他の子より発達が遅れていて読み書きがうまくできない子が1人いた。その子が演劇の簡単な台詞を何回やっても間違えてしまい、その度に練習が止まる事に業を煮やした俺が、大声で彼女のセリフを代わりに叫んでしまった事件の記憶だ。その時は彼女の一言だけでは気持ちが収まらず、注意する大人達に反抗して、その後の他の子達のセリフまでも早口で捲し立て、舞台からつまみ出された。
最後の一つは「綺麗なお弁当」の記憶。
居なくなったお袋の代わりに幼稚園に持っていく毎日の弁当を作ってくれていたのは「ゆきネェ」だった。ゆきネェは当時まだ中学生くらいだと思うから、この作業はえらく面倒だったはずだ。苛立ちながらも毎日毎日弁当を詰めるゆきネェの姿に子供ながらに何かを感じ、俺は弁当についてはゆきネェに一度も文句を言った事はなかった。
とはいえ、おかずはいつも〝お湯で温めてご飯に乗せるだけのイシイのハンバーグ〟たった一品。アルミの弁当箱を開けて卸対面するのはいつも決まって「白いご飯に乗った茶色くて薄っぺらいインスタント肉」…。ゆきネェにはとても言えなかったが、俺はそれを片手で覆うようにしていつも隠しながら食べていた。
周囲の子供たちの弁当は「厚焼き玉子」や「青々とした野菜」や「タコさんウィンナー」等で飾られていて、なんだか自分の弁当が実にみすぼらしく思え、それを見られるのがとても嫌だったのだ。
そんなある日、料理が得意だという親戚のおばさんが家に泊まりに来た事があった。おばさんは、「ゆきネェの代わりに明日お弁当を作ってあげる」と言うのだ。期待値が上りすぎて正常でなくなってしまった俺は夜もロクに眠れず、次の日は誰よりも早く起きて台所でスタンバッている。という有様だった。
起きてきたおばさんが弁当をつくる様子を食い入る様に観察し、チラシの裏にその弁当の絵を描いたりして完成を待つこと数十分…。夢にまで見た皆と同じような「色が沢山入っている弁当」を目にし、俺は小躍りした。
俺はその弁当を幼稚園に持って行った後も全く落ち着く事ができず、前の席の子供の背をつついて、
「今日の僕の弁当スゴイんだよ~。見たい~?」
と、周りの連中からしたらどうでも良い事で一人盛り上がっていた。そして、相手に見せるだけのつもりで開いた弁当をお昼にもなっていないのに、そのままパクパク食べ始めてしまったのだった。
無意識の内に弁当を貪ってしまった俺のそばに、例の鉄仮面女が大笑いしながら駆け寄ってきて嬉しそうにまくしたてる。
「ちょっと!あなたっ!………なによ~それ~~?何で今お弁当食べちゃってるの~、まだお弁当の時間じゃないでしょっ!」
それは忘れようにも忘れる事のできない、俺が生まれて初めて心の底から〝恥ずかしい〟と思った貴重な経験でもあった。
三つの記憶は、幼少期の『俺の周囲の荒んだ環境』と『俺の心の壊れっぷり』を象徴するような〝大変ふびんな記憶〟ではあるものの、思い出す度に笑ってしまう滑稽さも孕んでいる。おそらく、幼稚園時代に封印した大量の記憶の中からこの三つだけが残ったのは、自分にとって何かしら「プラス面」を感じたからなのだろうと思うと、それはそれで少し複雑な気持ちにもなる…
そんな訳で、つまり何が言いたかったのかというと「絵」は子供時代の俺にとって唯一の拠り所だったという事。
当時の俺にとって「絵を描く」事は、たった一つの自己表現の手段であり、現実逃避の手段でもあり、小さい頭でやっとこ絞り出した自己防衛の方法でもあったのだ。
幼稚園を卒園する頃――
ゴジラの子供の〝ミニラ〟が好きになり、いつもミニラを小脇に抱え、それを傍らに置いては絵に描き移し、いつものように大人に見せていた時期があった。
周りの大人たちは
『あなたは本当に絵を描くのが好きなんだねぇ』
と、俺の事をもてはやし、俺もしたり顔で喜んではいた。
だが実際のところ、それは全く見当外れな見立てだ。
俺がミニラを描いていたのは「絵を描くのが好き」だったからではなく、単にミニラが好きで、ミニラで世界を一杯にしたかっただけなのだ。
(つづく)
◆あとがき◆
先日の夜UPは間に合わず、予定より一日遅れのUPとなります。
次回は週末、土・日曜のどちらかにUP予定です。
でわでわ!(^v^)




