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発狂  作者: 羽夢屋敷
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第二十二話: 池矢 創  ⑥

◆まえがき◆


近田の取り計らいが功を奏し、思わぬ臨時収入を得た池矢。

〝予想外の恵み〟を池矢はどう生かすのか?



  挿絵(By みてみん)




      ********



 同日の夕方。


 久しぶりに画材でパンパンになった重たい肩掛けカバンを椅子の上に慎重に放ると、俺は帰り道がてら世界堂で購入したそれらをテーブルの上に並べる。


 ヴァンダイキブラウンの大チューブ10本

 シルバーホワイト特大

 ピーチブラック

 リンシードオイル

 透明メディウム

 沈降性炭酸カルシウム

 大ぶりのペインティングナイフ

 豚毛筆3本

 その他必要な絵の具数種…


 ――これだけ揃ってればいけるな――


 このタイミングでの7万の臨時収入は、俺にとってはまさしく天の恵みとも言える授かり物だった。「追加で二ヶ月ほど貯蓄期間が欲しい」と、悩んでいた金の問題が一気に解決したどころか、大作の制作に足りなかった材料までが揃ったのである。

 俺は試験に落ちた翌週に衝動的に購入し、裏向き状態のまま壁に立てかけてあった巨大なカンヴァスを台所の床に寝かせてみる。

「ちょっと窮屈だけど、まぁ大丈夫か…」

 当時住んでいた部屋は『住空間六畳一間で台所広め』という名目の物件であったが、実際の台所の広さは六畳近くあり、作業の事を考え「広さ重視の部屋チョイス」をしていたのが、ここにきて功を奏した形になった。

 次の日の仕事までに時間は十分ある。俺は当然の流れのようにすぐさま作業に取り掛かった…


 油絵の画面作りをしていくにあたり、当時の俺は一つのこだわりを持っていた。

 そのこだわりとは〝描画前の第一工程で画面を真っ黒に塗りつぶす〟という、一種の儀式にも似た工程から作業を開始する。という事。


 『全ては闇から始まる』


 それは、自分が小さい頃から持っていた〝自分を取り巻く世界に対する感情〟をシンプルに言語化したもので、自分が持っている〝はじまりのイメージ〟でもあった。

 ある時、その感覚に従い「黒」で塗りつぶした画面から描画を開始してみたのがきっかけで、俺の「黒の世界」の探求は始まった。

 初めは単純に、持っていたアイボリーブラックに速乾性のメディゥムを混ぜた薄めの黒画面からのスタートだった。ここから試行錯誤を続け、最終的に落ち着いたのがヴァンダイキブラウン+微量のピーチブラック、これに速乾性メディゥムを加えて最後に炭酸カルシウムで練り上げる、という「かなりハード」なペースト状の下地素材作りであった。

 練り上げた化合物が硬化しない内に、ペインティングナイフでカンヴァス眼がギリギリ隠れる厚さで均一に塗りつける、という一連の工程は、スピードと正確性が要求される意外にデリケートな作業でもあった。


「いくぞ」


 今回の制作では、この面倒な工程を「畳2つ分の巨大なカンヴァス」で一気に行わなければならず、さすがに緊張感が走る…

 そして3時間を超える格闘の末に俺は巨大な漆黒のステージを完成させた。




 ※※※※※※※※


 俺がその安アパートを借りたのは高3の秋の事だった。

 芸大を受験するにあたり「静かに集中して描画の訓練をする必要がある」という大義名分を掲げてお袋を説得し、やっとの思いで成立させた契約だったが、部屋を借りるにあたってお袋か出した条件が2つあった。一つは「契約金や家賃等、金銭に関わる事は全て自分でやる事」。そしてもう一つは「高校在学中の生活は基本的に池袋の実家で行い、アパートは絵を描くスペースとして使う事」だ。

 金に関しては、色々想定して貯めてきた〝虎の子〟があったから、そちらで十分対応できたし、二つ目の条件にしても高2の時から〝実家から自転車移動圏内の激安物件〟を探しまわってある程度目ぼしを付けていたので「お袋の承諾を得る」というハードルを越えた後は、意外にあっさりと事が進んだ。


 アパートは「東長崎」駅から歩いて5分の場所にあった。

 東長崎は、池袋から西武線で3つ目の駅ではあったが、実家は隣り椎名町駅と池袋駅のまん中あたりだったので、双方の実際の距離は自転車で10分もかからない位置関係にあった。この立地的条件もさることながら、俺が東長崎を独立の足掛かりに選んだのにはもう一つ理由があった。

 当時の椎名町~東長崎周辺エリアは〝古い下町的な雰囲気〟を色濃く残しており、どういう訳かその辺りだけ衣食住にかかる物価が異様に安かったのである。

 後から知る事だが、昔の漫画家達がこぞって住み着いた事で有名な『トキワ荘』もご近所だったらしく、そもそもこの一帯が昔から〝貧乏な作家に優しい〟区域だったのかもしれない。


 部屋を借りてから翌年の受験シーズンまでは本当に早かった。

 学校に通いながらやっていた早朝のビル清掃はそのまま継続させたが、スナックのボーイのバイトは勤務日を半減させ、その時間を絵の勉強に充てた。通っていた高校の美術教師から破格で通えるデッサン教室を教えてもらい、実技で必ず描かねばならない石膏デッサンは、そこで集中して学んだ。とにかく実技試験が実施される2月まで、やれる事は全てやった。


 そして俺は見事に試験に落ちた。




「もし現役合格できたら、お祝いに入学金くらいは工面しないとね」

 と、なぜかいつも苛立っていたお袋も、さすがに俺の不合格の報告を聞いた時は優しかった。だが、当然の結末を〝憐む〟様なその振舞の一つ一つが逆に俺の気持ちを逆なでし、俺にとってそれはもはや苦痛でしかなかった。

「落ちちゃったんならがんばって働かないとねぇ…」

 まるで哀れな小動物を見る様な眼でそう呟くお袋。とてつもない敗北感がのしかかり、心は打ちのめされていく。


 ――諦めてもう働くしかないよ――


 慰めるように発せられる言葉の裏に隠れる真意は冷徹なものだった…

 それでも「芸大への再挑戦」の道を選べたのには理由があった。


 中学時代からコツコツ金を貯め、やっとの思いで今の環境を手に入れ、自力で芸大受験まで漕ぎ着けた。それはまぎれもない事実だ。

「今回の結果は只の一つの結果。またやり直せばいい」

 俺の中で最終的に勝ち残ったのは、そういう思いだった。

 当初はただ単に「家を出たい」という単純な欲求から始まったことだった。それが気付けば「自分との戦い」に変わり、最終的には「自分の芯」のようなものに変容していた。俺の気持ちが継続できた理由はまさにそこにあったのだ。



 そう考えると、俺の戦いは「中2の夏」から既に始まっていたのだろう。



 ※※※※※※※※


 1986年12月〇日。

 大作の下地の乾き具合を確認して問題がなさそうだったので、先週の段階で習作から描き起こした構図のガイドラインを本体に転写する、という作業を完遂した。土日の日雇い作業の合間での対応となったので工程には3~4日を費やしたが、今日からやっと下描きに入れる。という状態になった。


「なんとか受験前にコレを仕上げちやわないとな」

 今回の受験で一番問題だったのは「金の工面」だった。池矢の計らいのおかげで今でこそ少しは余裕ができたが、7月に群馬から戻ってからというもの11月までは働き詰めだった訳で、その間は絵画関係の事が全くできないという状況だった。

 やれた事といえば「山籠もり中に油絵のテクニカルな訓練を集中して3ヶ月間行った」というだけで、あとは何ひとつやれていないというのが厳しい現状だ。

 芸大の実技一次試験は来年2月。ここからやれる事は本当に限られていた。

「半年間群馬に籠ってたら、違う意味で終わってたな…」

 金に関しての自分の見積もりの甘さに身ぶるいしながら、俺は壁に立掛けて既に臨戦態勢に入っている巨大なカンヴァスと対峙する。当時の描き出しは常に茶系の「バーントシェンナ」を揮発性溶き油で薄めて、第一段階の量感を出す事からスタートしていた。今回もいつもの方法に習って、テレピン油に手を伸ばした。

「!………まずい。テレピンが切れてる」

 常々使うものだったので逆に見落としてしまっていたのかもしれないが、作業中、最初から最後まで様々な用途で使用する溶剤「テレピン」が、瓶底数ミリ状態でである事に気付く。時間はまだ夕方の早い時間だったので俺は隣駅の江古田の画材屋まで足を運ぶ事にする。

「そうだ。……ついでにゴールドの絵の具があったら買ってしまおう」

 その作品の右上には、最終段階では「月」を象徴する〝円形の幾何学模様〟を入れる画面構想だった。だが当時、ゴールドの絵の具は入荷してもすぐに売れてしまう人気商品で、メジャーな大型画材店での購入は難しかった。その点、江古田の画材屋はメイン客が近くの大学の学生だけだったので、ひょっとしたらそこで絵の具も手に入るんじゃないかと、安直に考えたのだった。

 

 俺は玄関口で半纏を羽織ると、嬉々として家を飛び出した…



 ※※※※※※※※


 家を出てから既に小一時間は経っていようか。

 店でテレピンを無事購入した俺は、思いのほか安く手に入ったゴールドの絵の具と数本の鉛筆が一緒に詰まったその紙袋を肩掛けカバンに突っ込んだ。


「腹が減ったなぁ……今日は少し余裕もあるし久しぶりに、やぶらにでも行くか」

 

 

  (つづく)


◆あとがき◆


前回の投稿時は「明日UPを目指す」と書きましたが、過去の投稿分の微修正に時間を食ってしまい結局このタイミングでのUPになってしまいました。


だがしかし!

懲りずにもう一度宣言します。

『明日もUPできるといいな~!』(^v^)笑


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