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発狂  作者: 羽夢屋敷
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第二話: 悪夢

先日、中野区の某病院から杉並区のリハビリ専門病院に転院し、本格的なリハビリが始まりました。術後の1週間は、どんなに力を入れてもピクピクと痙攣するだけだった左足を前に、

「普通歩行はもう無理なのでは…」

と絶望的な気分も味わいましたが、

必死のリハビリの甲斐あって、今ではスムーズに杖歩行ができるほど回復しました。

(生き物の回復パワーってすごい…)


では第二話、お楽しみください!




  挿絵(By みてみん)






   二・  悪夢





 「開缶ーーーッ!ホウチキーーーーーーッ!」


 廊下から響いてきた号令で、眠気でまどろみの中に居た意識が呼び戻され、ハッと我に返る。

 目の前の壁には〝ストレッチの方法〟と〝配置図〟と書かれた2枚の薄汚れた紙切れが張られている。

 「ストレッチ」の紙の方は言葉通り、柔軟運動のやり方が昔風のイラスト付きで記されており、「配置図」の紙の方にはこの3畳ほどの奇妙な縦長設計の空間の上面図が描かれている。

 図には「ちゃぶ台」や「布団」、便器の横に置く「〝流し水〟用のバケツ」の位置までが整然と描かれている。


 私は、体を90度回転させて、折りたたまれて萎縮していた両足を慎重に伸ばしていく。それまで滞っていた血流が一気に足先に向かい、後を追うように強烈な痺れが脚全体を駆け巡る。這いつくばった姿勢のまま奥の便器の方まで這っていき、壁に付いた小さな洗面台に手をかけながらゆっくりと立ち上がる。


 「……4、5、6、7………………もう7日か。」


 蛇口の上方の壁にちょこんと備え付けられた鏡の縁に付いた〝歯磨き粉の固まり〟の数はきっかり7つ。警察署の方で拘留期限目一杯の23日間拘束され、この独房で7日が過ぎた訳だから既に30日が経っている。


 『18番!…何ボーッと突っ立っとるかっ!正座しとれっ、正座をっ!』


 出入り口横の格子窓から〝先生〟が、まるで何か汚い物でも見るかのように眉をひそめ、威圧的な表情でこちらを覗いている。先生というと聞こえは良いが何のことはない、この拘置所のルールで「〝刑務官〟の事をそのように呼びなさい」となっているだけの話だ。


 ――何でコイツが〝先生〟なんだよ……――


 格子窓から視線を外し、納得いかない気持ちを溜息に混ぜて強引に宙に溶かす。と、そんなこちらの心情を見透かしたかのように、再び男の高圧的な怒声が間髪入れずに右の耳に噛みついてきた。


 『18番!聞いてんのかお前!……テーブルの前に正座だ、正座!』


 私はなるたけ事態が悪化しないよう小走りで定位置に正座する。

 小窓から一部始終を観察していた先生は、ニヤリと下衆な笑い顔を浮かべて満足気に立ち去った。


 先生が立ち去って5分もしないうちに「配当」が始まる。辺りからカチャカチャと自分の皿を部屋の食器口に用意する急からしい音が聞こえだす。私も、水道横に立てかけて保管していた自分の皿を取り、鉄柵の下の隙間にそれを設置する。


 皿は、小学校の給食の皿のような「粗末な質感」のプラスチック製で、サイズこそ20センチほどはあったが、入所時に配布された食器はこの「プラ皿一枚」と「スプーン1本」のみだ。食器には装飾などは一切されておらず、まるでペット用の食事皿のようで如何にもみすぼらしい。もっと言えば、今の時代では滅多にお目見えしない「古臭いくすんだクリームイエロー」の地色と、落ち切っていない歯磨き粉のコントラストが、そのたたずまいを一層みじめにさせていた。


 「歯磨き粉で食器を洗わせるかよ…普通」


 その部屋にあるものと言えば、本当に生活をする上での必要最低限のものしか存在しなかった。「ちゃぶ台」「布団」「便器」「ちり紙」「水道」「バケツ」「食器」「歯ブラシ」「歯磨き粉」「ちょん切られて短くなったタオル」…それだけだ。

 もちろん、石鹸や洗剤、スポンジといった気の利いた物は一切なく、何かを洗いたければ歯磨き粉を使って「手で洗う」というスタイルだったから、しつこい油ものなどが出された日には後始末が一苦労だった。汚れを落とすどころか、手と皿にベト付きがいつまでも残り続けるのだ。それはそれで一つの刑罰の様でもあったが、そういう時は「チリ紙で拭いて乾かす」という対処法に落ち着いていた。

 私は、配当係から荒っぽくつっ返された中身の入った皿を受け取り、養豚場の豚のように何も考えずにただ黙ってそれを自分の口にかき込んでいく。


 『18番!…それ食ったら後で風呂だからな!』


 いつからそこに居たのか、先ほどの先生が鉄格子越しにこちらの様子を伺っている。


 「わかりました。すぐ済ませます」

 別にすぐに食べ終わらねばならない決まりもないのだが、先生を少しでも待たせない方が、色々な意味で後々面倒な事にならずに済むと感じ取っていた私は、魂の抜けた家畜の如き〝へつら笑い〟で即答した。


 ――こいつらに歯向かったところで無意味だ――


 ここ、東京拘置所に移送された直後、囚人服のようなぼろ布を配られ、真っ裸になり、異物を体内に隠していないかどうかを調べる〝肛門検査〟を強制的にさせられた。それまでに教わってきた『人間の尊厳』のようなものを守る為に少しの抵抗を試みたが、嘲笑と罵倒の中で既に心はへし折られていた。先進国では、まず行われていない〝代用監獄制度〟と〝留置制度〟の洗礼は、そんなに生っちょろいものではなかったのだ。


 「食事、すみました」

 「よし、開けるから扉から離れてろ」


 拘置所では室内での厳守すべき生活ルールの他、室外へ出た際もまた独特の細かなルールがある。

 廊下を歩く時は先生の前に立ち、言われる方向へと素早く進む。廊下で待つ際は先生の許可があるまで壁の方を向いて立っている等々、それらはまるで刑の確定した罪人に対するルーティーンのように「美しく、そつなく」施行されていた。

 一ヶ月ぶりの風呂という事もあってか、よくわからない高揚感でおのずと歩みが速まる。誰とでも、どんな風呂でも良いから、とにかくこの臭い体を洗い、暖かい湯船でゆっくり全身を伸ばしたい…原始的な欲求に完全に支配され、この極限下においてもなお自然に笑みがこぼれる。いや、極限下だからこそ笑ってしまうものなのかもしれない。


「そこ、曲がって」


 先生に言われるがままに進み、ようやく浴場に辿り着く。


「手前が脱衣場!次の号令までに体を洗う!号令で浴槽に入る!号令で出る!いいな」

 先生は、矢継ぎ早にそう告げると脱衣場の隅にカカシの様にすっと陣取った。


「脱いだらさっさと入れ!もう時間カウントしとるからなっ!」

 その口調から、自分に与えられた時間が相当短いものであろう事を敏感に感じ取った私は、慌てて先生に問いただす。


「これ、何分くらい入ってられますか?」

「着替え時間でもう2分使ってるからな。体洗うのに5分、浴槽に3分だ!」


 露わになった持ち時間の短さに、一気に気持ちが萎えかかる。カップラーメンでもあるまいし〝3分〟で事を済ませろとは一体どういうことだ?先生が言うには「15分以内に全ての工程を終えて退出する」というのが入浴のルールだそうだが、そう言われても、状況的に納得できるはずもなかった。「これが人間の入浴なのか?」吐きそうな懸念を必死で抑えこみ、私は少しでもこの時間を大切にしようと、嵐のような勢いで着ているものを脱ぎ捨て風呂場へとなだれ込んだ。


「!」


 駆け込んだ勢いが瞬時に消え失せ、根が生えたように両足が動かなくなる。

 なんと、そこにあったのは想像とは全く違う、目を疑うような極小空間だった。


「独居者用の風呂だからな。……小さいんだよ」

 ニヤニヤしながらぼそっと呟くカカシの意地の悪い台詞がここまで聞こえた。


 私はカカシを無視し、その空間を更に観察する。

 細長い空間の片側壁面の下方に水道の蛇口が2つ。その手前に古めかしい形の椅子がちょこんと置いてある。そこが洗い場である事はすぐ理解できた。しかし、肝心の浴槽がどこにも見当たらない。


「あの…風呂は?……浴槽はないんですか!?」


 凝縮された訳のわからない怒りに背中をおされ、私は思わず入口脇の監視員に向かって声を荒げていた。


「あるだろちゃんと!奥のソレ。よく見てみろ、風呂だから!」

 言葉に促され、奥の壁面に〝ジグモの巣〟のようにへばりついた筒状の一角をのぞき込む。


「???」


 筒の上面には「90センチほどの幅の穴」がぽっかりと開いており、中には確かに7分目ほど湯が張られている。驚くべき事にそれは立って入るタイプの風呂であった。

〝収容者が溺れないように〟という目的で、そのような奇妙な形に作られたそうだが、大の大人がこんな所で溺れるはずはない。聞こえは良いがそれは単なる〝自殺予防〟の為に産み出された必然的な形に他ならなかった。

 そう言えばこの独居舎に送られてきてから連日、深夜になるとどこからともなく誰かが絶叫している声が聞こえていた。先日の夜も、狂ったように暴れている男が2人の屈強な体つきの〝先生ら〟に廊下をズルズルと引きずられ、どこかに連れていかれる姿を見た。


 そう、ここ独居舎は人の心を砕く施設なのだ。


「あと6分しかないぞ~」


 残り時間を告げる声にハッと我に返る。私は急いで備え付けの石鹸を体中に塗りたくると、一ヶ月分の汚れが少しでも消えるよう祈りながら、両掌でこれでもかと体をかきむしった。


「ちゃんと流して入れよ~。汚れるから」


 ――そんな事はわかってる。急かしやがって…――


 そそくさと身を清めた私は、そのまま奥の浴槽に小走りで進み、段になった踏み台部分に片足をかけて慎重に湯の中へと身体を沈めた。


「まったく、これが浴槽とはな…」


 入口の先生の方に目をやると、顔をしかめて腕時計を凝視している。そこまで正確に時間を気にする必要が本当にあるんだろうか?いや、そもそもこの仕打ちは何だ?自分はまだ囚人でもないというのに…

 無意味な自問自答が頭の中を駆け巡る。




『いっそ狂っちまえよ』




 突然、気味の悪い小さな甲高い声がどこからともなく聞こえた。


『狂っちまえって』


 一体どこから聞こえるのか?その声は、頭上とも耳元とも言えぬ不思議な場所から発せられていた。非常に近くに発信元があるのに、それがどこだかさっぱりわからない。


『狂っちまえ!狂っちまえ!狂っちまえ!狂っちまえ!…』


 ――なんだ!?一体、何がどうなっている!?――


 何の前触れもなく突如始まったその異様な現象に、私はパニックを起こす。

「先生!何か……何かがいます!!…せんせ……!?」

 慌てて入口の方に向けた視線の先に見えたのは、警察官の制服を身にまとった一体のカカシだった。カカシはゲタゲタと笑いながら前後左右に激しく揺れる。




『くぅるぅっちぃまえ~って~~』




 その声は今までとは明らかに違う異質な声だった。回転数がいきなり遅くなったテープレコーダーのような気味の悪い低音…それは完全に自分の下方から聞こえた。私はぎょっとして自分の腹部の方に目を移す。



『!』 



 心臓が止まるほどの衝撃を受ける。なんと湯の中に得体の知れない黒い何かが居て、こちらをじっと見つめ、薄ら笑いを浮かべていたのである。




『うわぁーーーーーーーーっ!』




 突然、電灯がプツンと切れたように目の前が真っ暗になる。鼻や口や耳、それこそ、穴という穴からドロドロの汚れた液体が自分の体内に一気に流れ込んでくる。

何が何だかわからぬまま、私は底なしの泥沼の中へ沈んで行った…




  深く。



  深く。





         (つづく)


話が物騒な内容となってきましたが、当小説のジャンルはとりあえず「ミステリー」としています。(笑)

今回はホラー作品ではありませんのでご了承ください…


(※第三話は1/29(月曜)夜に発表予定!でわでわ~(^^)/)

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