亡き人の幻は訴える
シェイクスピアの『ハムレット』の翻案でございます。楽しんでいただけたら、嬉しいです。
夜道には街灯がひとつもなかった。真の暗闇とはこのことか。黒川哲夫はすこし肌寒いと思い、ジャケットのボタンを締め直す。まわりに人っ子一人いない感じが怖くなり、帰宅を急ごうとして早足になった。
その時、黒川の目の前、道の真ん中にぼやっとした光が現れた。輪郭がはっきりしなかった。黒川は眩しくなり、手で目を覆う。しばらくそうしていて、目が慣れてきた。黒川はさっきまで光り輝いていたものがヒトの姿に変わっているのを見た。それは、黒川がよく知っている人物だった。
「お、お前は!」
その男は、半月前に病院であったときと同じパジャマを着て、目の前に立っていた。右手を黒川に差し出して、何か言いたいのか、口をパクパクさせている。黒川は後ずさった。そんなはずはない。今さっき、棺の中で眠ってたお前がなぜここに……
青ざめているが、たしかに弟の顔そのものだった。口を大きく開けて、喋り始めた。
「兄さん! なぜなんだ……兄さんに恨まれるようなことをオレがなにかしたか? 答えてくれ……なんでオレは殺されたんだ? それを知るまでは……去るわけにはいかない」
弟の姿をした亡霊はずっと立っている。黒川は道を塞いでいるそれをじっと見ているだけだった。言ってることが胸にずしんとする内容なので、無視できない。
「もうお前は死んだんだ! さっきまでお前の葬式だった。たくさんのひとが来てたよ。お前はひとに好かれるたちだったからな。さすが、我那覇製菓の社長だ。人徳というやつかな? そんなものを持ち合わせていないオレにはわからんが。まあ、欲しいとも思わんがな!」
黒川の声には怒りが混じっていた。強く、しつこい怒りだ。すでに相手は死んでいるのに、収まらない感情。
黒川と弟・我那覇晶の間柄は、世の兄弟のそれとは一風変わっていた。兄弟なのに、一緒に育った時間は数ヶ月だけだった。黒川が2歳のときに晶が生まれた。なぜかはわからないが、両親とも哲夫を嫌い、晶を溺愛した。生後半年にして、晶は我那覇家の跡取りに決まった。哲夫は立場がなかった。何かにつけて比較されて、ダメ認定される毎日。哲夫はふさぎ込むようになった。見るに見かねて、我那覇家の登園に家に預けられることになった。黒川の姓になったのは、それからである。
気づいたときには、幻は消えかかっていた。輪郭が薄くなった。顔だけ残し、暗闇にもどっていく。最後にらんらんと光る眼が空中に静止しているだけになった。黒川を咎めるような目つきで。
「報いを受けることになる。生きているかぎりずっとね」
何もなくなった。黒川は呆然とその場に立ち尽くしていた。動かずにいたが、頭の中では高速で思考を巡らせていた。幻は、幻だ。晶は死んで、もういない。話をできるわけがない。さっき見たのは、俺が作り出したものだ。だが、なぜ? 俺が晶のことをどう思っていたか。あのことを後悔しているというのか。
ゆっくりと足を踏み出しながら、黒川は呟いた。絶対にばれるはずはない。誰にも相談せずに一人でぜんぶやったのだから。夜の空気が身にしみて身震いがした。早く家に帰ろう。ぐっすり眠ったら、忘れるさ。明日は昼から取締役会がある。それに備えて、体を休ませておかないといけない。