約束の丘
『丘の上食堂の看板娘』の番外編ですが、本編を読んでいなくても大丈夫だと思います。
門をくぐり、少年は立ち止まった。
目の前に広がる景色に、思い出すようにその漆黒の瞳を細める。
両側に店の並ぶ道はまっすぐに続き、緩やかな傾斜となり続いていく。少し視線を上げた丘の上、二軒の建物が見えた。
「エスト?」
動かぬ少年に、栗色の髪の女が怪訝そうに声をかける。
「ごめん、マリエラ姉。行こっか」
黒髪を揺らし、少年が駆け出した。
町を抜けて丘を登った少年は、もう一度足を止め振り返る。
まだ夕方よりもかなり前、明かりが灯るような時間ではないが、それでも脳裏に残るの景色と重なり。
「……変わらないなぁ」
町を見下ろし、瞳を細めて呟く。
六年前の約束を、ようやく果たせる日が来たのだ。
右側の建物の扉を開けると、カラン、とドアベルが鳴った。
中は四つテーブルが置かれていた。カウンターで仕切られた向こう、壁面の棚には『丘の上食堂』と書かれた紫色のガラスが飾られてある。
正面のカウンターの中にいる金茶の髪の女が視線を上げ、ふたりを見て一瞬驚いてから微笑みかける。
「マリエラ、エスト、よく来てくれたわね」
「お久し振りです、ククルさん!」
駆け寄ったマリエラがカウンター越しにククルの手を取った。
「疲れてない?」
「休みながら来ましたから」
そう笑うマリエラのうしろで、さり気なく店内を見回すエスト。
「もうすぐ帰ってくると思うわ」
気付いたククルにそう言われ、びくりとしてから少し笑う。
「…お久し振りです」
「来てくれて嬉しいわ」
ふたりにカウンター席を勧め、ククルはお茶を出した。
「いつも手紙をありがとう。村の皆も変わりない?」
「会いたがっていましたよ」
マリエラの言葉に、私も会いたい、とククルが笑う。
「エストも。ありがとう」
「いえ、俺は―――」
カラン、と再びドアベルが鳴った。
「ただいまぁ!」
「ただい……」
駆け込んできた茶髪の少年のうしろで、扉を開ける金茶の髪の少女の言葉が途切れた。
振り返ったエストがにっこり笑う。
「リゼル。久し振り!」
「エスト!」
リゼルと呼ばれた少女が嬉しそうに声を上げた。
店内に入るリゼルを、エストも数歩迎えに行く。
「本当に久し振り! すっかり大きくなったね」
「大きくって、同い年だろ?」
「だって。私のほうが背が高かったのに」
抜かれちゃった、と笑うリゼル。
「今日来るっていうから。楽しみにしてたの」
「俺も」
互いに笑い合ってから、エストはふと視線に気付いた。
「クランは…覚えてないか」
自分たちに挟まれて不思議そうに見比べる茶髪の少年に声をかけると、少年は少し考えてからククルを見る。
「エストって…手紙の人?」
「そうよ。クランも会ったことがあるけど、小さかったから覚えてないかしらね」
「覚えてない…けど…」
そう呟いてまた自分を見上げるクランに、エストは笑って手を差し出した。
「俺はエスト・レザン。改めてよろしくな」
「…クラン・エルフィンです」
リゼルと同じ紫の瞳を向けて、クランがその手を握り返した。
リゼルの父テオも店に戻り、話すことしばらく。
店の扉が大きく開けられた。
「リゼル!!」
黒髪に銀灰の瞳の少年が、入ってくるなりリゼルに抱きついた。
「ジェフ?」
「会いたかった!」
慌てるリゼルに構わずくっつく少年に、クランは溜息をつき、少し身を乗り出すテオをククルが止める。
見覚えある少年の暴挙に、エストが止めるべきかと立ち上がりかけた、そのとき。
「ジェファード!!」
ドアベルを派手に鳴らして扉を開けた赤茶の髪の女が、つかつかと少年に近付きべしっとはたいた。
「ってぇ」
「女の子にはするなって、いっつも言ってるでしょ!」
女のあとからは、彼女と同じ赤茶の髪と翡翠の瞳の、そっくりな双子の少年と少女が静かに入ってきていた。
「お兄、また」
「ホント懲りない」
ぽそぽそ言い合うふたりをじろりと睨んでから、ジェファードはフンと鼻を鳴らす。
「リゼルはいいんだ!」
「よくない!」
母の鉄拳がジェファードに落ちた。
「ホントにごめんなさいね、ククル、テオ」
ジェファードの母アリヴェーラが溜息をついて謝る。カウンター席の右端に座らされ、動くなと言い含められているジェファードが不服そうな眼差しを向けるのを、冷えた笑みを見せて黙らせた。
この場で一番腕の立つのが母であることを、ジェファードも十分承知している。
「リゼルも。ごめんね」
「大丈夫です」
笑うリゼルに気にした様子は見受けられなかった。
「ジェフも悪気があってやってるんじゃないってわかってるから」
「リゼル……」
「あんたは反省なさい」
ホントに誰に似たんだかとぼやくアリヴェーラに、ククルとテオが顔を見合わせる。
「お兄がごめんね、リゼル」
「怒っていいんだよ」
ジェファードのうしろのテーブル席に着いていた双子たちが口々に言うと、リゼルはそちらに近付きふたりの頭を撫でた。
「ありがとう、レーチェ、イル。怒ってないわ」
リゼルに撫でられて、くすくすと嬉しそうに笑うレフィーチェとイルフェート。
「今日は来てくれてありがとう。また会えて嬉しい」
「私も嬉しい」
「僕も」
「クランは?」
「クランも嬉しい?」
カウンターの中から様子を見ていたクランに双子が声をかけると、クランは無言でこくりと頷く。
それを見た双子が、嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇクラン」
「おいでよ」
イルフェートが空いている隣の席を示すと、クランは黙ったままカウンターを出て、すとんと座る。
「クランは元気だった?」
「私たちは元気だったわ」
「元気だよ」
引っ込み思案の弟が、同い年のこの双子には気を許していることをリゼルは知っていた。
微笑ましく見ていると、うしろから視線が刺さる。
「ジェフ。怒ってないけど、びっくりするからもうやめてね?」
視線の主にそう告げると、ジェファードは悪かったけど、と歯切れ悪く呟いた。
「やめなきゃ駄目?」
まっすぐに、ジェファードがリゼルを見つめる。
「だって。俺リゼルのこと好きだから」
「またそんなこと言って」
くすくすと笑って、リゼルはエストを見た。
「エストはジェフのこと覚えてる?」
カウンター席の反対側の端に座るエストは、リゼルの言葉に立ち上がった。
「覚えてるし、あのあとセレスティアでも会ったよな」
「まぁな」
リゼルの隣に来たエストを見ながら、ジェファードが頷く。
「お前、来年ギルドに入るんだよな?」
「そうだけど」
「いいよなぁ、叔父さん絶対お前を取るだろうから。俺どうなるんだろ」
エストよりひとつ年下のジェファードが働き出すまでには、まだもう一年ある。
「ジェフのところは父さんも…」
「うちの父さん、教えるの向いてないんだって」
父ダリューンはギルド最強の男、叔父ロイヴェインは英雄の再来と呼ばれ、母もそれに匹敵する実力の持ち主。
ギルド員になるには恵まれすぎた環境のジェファードだが、思うところはあるらしい。
「叔父さんが無理なら、父さん以外で頼みたいけど」
どこか諦めたように、そう呟いた。
再びドアベルが鳴った。
小さな金髪の女の子の手を引いた同じ髪色の少年と、彼よりもう少し年下の茶髪の少女が入ってくる。
「ユース。お疲れ様」
「ありがとう。皆揃ってるって聞いて」
リゼルの声にユースが金の瞳を細めて応え、隣のエストと奥の席のジェファードに手を上げた。
「久し振り」
「ユースお兄様!」
ぴょんと椅子から降りたレフィーチェがユースのもとへと駆け寄ると、その前に茶髪の少女が立ち塞がる。
「お兄ちゃんは私のお兄ちゃんなんだからね」
「エレノア」
優しい声音ではあるが咎めるその口調に、エレノアはむくれてそっぽを向いた。その頭を撫でてから、ユースはレフィーチェに微笑みかける。
「レーチェもイルも、久し振り。元気だった?」
「ユースお兄様こそお仕事お疲れ様でした」
イルフェートとは言葉をわけるレフィーチェだが、ひとりのときは至って普通で。
ユースに頭を撫でられて、満面の笑みを見せた。
「いいかげんその『お兄様』っていうのやめない?」
「ユースお兄様はユースお兄様だもの」
「呼び捨てでいいのに…」
困ったように、それでも柔和に微笑むユースの手を放し、小さな女の子はパタパタとクランの下へ駆け寄った。
クランが抱き上げ膝に乗せると、顔を伏せるようにしがみつく。
「ミレイユだって何度も会ったことあるよね」
「イルフェート・セルヴァ。覚えてる?」
イルフェートの声にびくりとして、ますます強くクランにしがみつくミレイユ。
「覚えてない?」
イルフェートを見ないまま、ミレイユはふるふると頭を振る。
「僕のこと怖い?」
もう一度振られた頭に、イルフェートは僅かに表情を和らげた。
「ミレイユが会ったことないのはエストだけだよね」
「はじめまして」
ユースの言葉にエストが挨拶をするが、ミレイユはクランに抱きついたままだった。
「エレノアは? 覚えてる?」
「知らない」
まだむくれるエレノアに苦笑するユースに目配せされて、リゼルがエレノアの前に来てしゃがみ込む。
「エストはね、私の大事なお友達なの。紹介させてくれる?」
優しい声音に、エレノアはそろりとリゼルを見た。
「……いいよ」
「よかった。ジェフたちと同じくらい遠いところから来てくれたのよ」
エレノアの手を取り、エストの前に立つ。
「エスト・レザンです。俺は君のこと覚えてるよ」
「…エレノア・カスケード、です」
小さく頭を下げてから、エレノアはリゼルのうしろに隠れてしまった。
人数が多いので、こどもたちは隣の宿の食堂で夕食を食べることになっていた。ある程度は宿の厨房に運んであるので、あとはこちらから数品持っていけばいいだけだ。
大きめの銀色のトレイに料理を載せて、慣れた手付きでリゼルが持ち上げる。
「俺が…」
「これは私の仕事だから」
ジェファードにそう返し、扉は開けてほしいけど、とリゼルが笑った。
そうしてこどもたちが宿へと向かってしばらく、入れ替わるようにユースたちの両親、ナリスとレムが店に来た。
「やっぱりあれだけ揃うと賑やかね」
「皆しっかりしてるから、そんなに手はかからないけどね」
店に集う面々はお互い顔を見合わせ笑い合い、それから息をつく。
「…十三年、か…」
呟くナリスに、皆それぞれにひとりの男を思い出していた。
ここライナスの町出身のギルド員に、英雄と呼ばれる男がいた。
ジェット・エルフィン。リゼルの母、ククルの叔父だった。
「……あの子は受け入れてもらえるでしょうか」
心配そうに呟くマリエラに、大丈夫よとアリヴェーラが返す。
「その為にロイもダンも動いてきた。…それにウィルだって」
「ギルドの事務長が味方なんだから」
「…ウィル兄からも、心配するなとは言われています…」
続くナリスの言葉にマリエラは頷くものの、その瞳から不安は消えない。
元英雄付きで現ギルド事務長のウィルバート、英雄の右腕と呼ばれたダリューン、英雄の再来といわれるロイヴェイン。
英雄ジェット・エルフィンに関わる面々が、来るべき日に向けて準備を進めていた。
「…エスト自身もある程度の覚悟はしているようですが…」
「…ジェットを直接知ってる人なら、間違いなく大丈夫」
懐かしそうに瞳を細め、ナリスが呟く。
「ジェットがそれを望まないって、考えなくてもわかるから」
「問題はジェットを知らない若い世代だけど、そっちはロイに任せればいいわ」
アリヴェーラが悠然と微笑む。
「何なら拳で黙らせればいいのよ」
「アリーったら…」
相変わらずなアリヴェーラに少し笑みを見せてから、ククルが息をついた。
「……エト兄さんは幸せね…」
変わらぬ呼び名でジェットのことを呼び、ククルは視線を落とす。
この先起こり得る騒動も、ジェットが大切に思われているからこそ、だ。もちろんジェット本人が望む形ではないだろうが、それだけは疑いようもなく。
そんなククルを励ますように肩を叩き、テオが頷く。
「今のリーダーの大半はここで訓練してきた奴らだから。わかってくれてる」
ライナスの町は、十数年に渡って食堂と宿の裏手の山でのギルド員の訓練を受け入れてきた。今は以前程の頻度ではないとはいえ、ここに縁のあるギルド員は多い。
「そうね。きっとわかってくれる」
兄の言葉を受け、レムも頷く。
「誰も何も悪くないんだって」
宿の食堂で食事を終えてお茶を飲んでいると、マリエラとアリヴェーラが迎えに来た。
部屋に戻るエストとジェフたちを見送り、ユースと片付けを済ませたリゼル。店から持ち込んだ食器と共に戻ろうとしたリゼルは、宿のロビーの長椅子に座るエストに気付いた。
「よかった。会えた」
「どうしたの?」
「話したくって」
持つよ、と食器を受け取り、エストは歩き出す。
「手紙もらってるせいかもしれないけど、六年振りって思えなくて。でも…」
「私もすぐわかった。エスト、あのときのまんまだもん」
「まんまは…ちょっと………」
苦笑するエスト。
ごめんと笑うリゼルに一度視線を逸らして息をつく。
「……いいけどさ…」
気を取り直すように呟いてからエストは立ち止まり、改めてリゼルを見つめた。
「あの日話したこと。俺なりに考えてきた」
急に真剣味を帯びたエストの眼差しを、リゼルも足を止めて逸らさず受け止める。
「うん」
「…明日、話しに行くけど。その前に聞いてもらっていい?」
「もちろん! でも、置いてくるから待ってて」
礼を言って食器を受け取り、一度リゼルは店に戻った。
「ありがとう、リゼル」
「お母さん、ちょっと外でエストと話してくるね」
食器を渡しながらそう言うと、片付けをしていたテオの動きが止まる。
「中でも……」
「落ち着かないから嫌」
父の提案を即答で断り、踵を返そうとして足を止めるリゼル。渡すものがあることを忘れていたと気付き、慌てて二階の自室へと向かう。
今日の為準備してあった袋を手に、少し視線を落として。
エストと初めて会った六年前のことを思い出し、微笑んだ。
ひとり残ったエストは、明かりの並ぶ町を見下ろしていた。
「…ホント、変わらないな」
一本続く道の両側、店の明かりと家の明かり。六年前の記憶のままに眼下に広がるその光景に、自然と洩れる溜息。
「…あのときのまんま、か……」
そんなに成長できていないかと苦笑する。自分は店に入ってきた彼女を見たときに息を呑んだというのに、だ。
ガシガシと頭をかいてからもう一度息をついて、そうじゃなくてと独りごちる。
自分はここに約束を果たしに来た。
六年前、自分が一方的に彼女にした約束を―――。
その日、マリエラに手を引かれ、エストは丘を登っていた。
「この上だからぁ、もうちょっとがんばって」
先頭を行く兄のザジェスが振り返って励ます。
足取りが重いのは坂道だからではない。
自分はここに来ていいのかと。
幼いながらにエストは考えていた。
丘の上に並ぶ二つの建物。
先に挨拶をしようかと言って、ザジェスは右側の建物の扉を開ける。カランと軽やかな音が鳴り、開かれた扉の奥には茶髪の男と金茶の髪の女の姿があった。
「ザジ! マリエラ!」
ふたりを見るなり女が嬉しそうに声を上げた。
ザジェスとマリエラと顔見知りの女の名は、エストもよく知っていた。
ククル・エルフィン。
頻繁に村に届く手紙の差出人の名だ。
四人で挨拶を交わし合ってから、マリエラがエストの背に手を添えて、一歩分前に出させる。
「会うのは初めてね」
しゃがみ込んで微笑むククルが手を差し出す。
「はじめまして、エスト。やっと会えて嬉しいわ」
差し出された手を取っていいのかと不安になってマリエラを見上げると、静かに頷かれる。
「…はじめまして……」
おそるおそるその手を握り、エストはククルを見た。優しく自分を見返す紫色の瞳に、何故だか少し落ち着きを感じる。
「今日はエト兄さんの話を聞きに来たのよね」
頷くエストにククルが席を勧めたところで、突然泣き声が聞こえた。すぐに慌てた足音が近付いてくる。
「お母さん、クランが…」
奥から飛び出してきた少女と目が合った。ククルと同じ髪と瞳の色に、彼女がと思いながら。
目を逸らせずに、エストは少女を見つめていた。
寝てしまったクランを見ているよう言われて、リゼルは二階の部屋で字の練習をしながら時間を潰していた。
本当は店で父と母の働く様子を見ていたかったのだが、お願いね、と言われしまって頷いた。
ベッドの上で眠る弟をかわいいとは思うのだが、それでもやりきれないときがある。
自分にもほかにしたいことがあるのに。
自分だって甘えたいのに。
両親が忙しいことも、弟が小さいこともわかっている。
しかし、わかっていることとそう思うことは、また別の話なのだ。
「……クランばっかり」
声にすると余計に胸を締め付けられ、同時にそんなことを思う自分に落ち込んで。
沈んだところに、目を覚ましたクランに泣かれた。
泣きたいのはこっちなのに。
そんなことを思いながら母を呼びに行くと、店の中に見慣れぬ少年がいた。
黒髪に、黒い瞳。
少し驚いたように。しかしそれでもまっすぐに自分を見ていた。
母を呼ぶ声が途切れ、リゼルもただ少年を見返す。
今日誰が来るのかを、自分も事前に聞いていた。
遠い村から母宛に来る手紙。物心ついた頃には既に、その中にいつも幼い字で書かれた手紙が入っていた。
自分と同い年の子が書いた手紙を、字が読めるようになるまでは母が読んでくれていた。
今日ここに来るのはその手紙の主。
エスト・レザン。
会ったこともない彼が母とどういうつながりを持つのか、まだリゼルは知らなかった。
リゼルと互いに名乗ってから、エストはククルからジェットの話を聞いた。
自分が知るのはこの町での様子だけだとの言葉通り、ククルが話してくれたのは至って普通の男の話だった。
「ギルドでのエト兄さんの話は、宿のナリスと明日来るダンが話してくれるから」
微睡むクランを抱いたまま、ククルは微笑みエストを見やる。
「エト兄さんのことを知りたいと言ってくれてありがとう」
柔らかなその微笑みに、エストは唇を引き結び、うなだれた。
「……だって、俺は…」
「エスト」
ククルが強い声でエストを止める。
「その先は、エト兄さんの望む言葉じゃないわ」
きっぱりと否定され、続けられずに唇を噛む。
望む望まないではない。
事実なのだからと、そう思うのに。
何も言えなくなったエストに、変わらぬ優しい笑みのままでククルは続ける。
「あのときのあなたは守られるべき存在だった。それを忘れないでね」
うなだれたままのエストに手を伸ばし、ククルはその頭を撫でた。
その後宿に戻ったエストは、ナリスとレムにユースとエレノアを紹介され、弟子の立場から見たジェットの話を聞いた。
英雄と呼ばれるに足る人物であったのだと思うと同時に、やはり己の存在を許容し難く思えてきてうつむく。
誰も悪くないのよ。
慰めるレムの言葉に、それでも顔は上げられなかった。
エストが落ち込んでいることは、傍目にも明らかだった。
昨日の夕食時も、今朝の朝食時も、少し笑みを見せる程度で。考え込んでいる様子の彼に声をかけることができず、リゼルはただ遠目に見ているだけだった。
昨日母が叔父の話をしていたことはわかっていたが、何故そんな話をするのかまではわからず。そもそも自分も会ったことのない叔父の話を、どうしてエストにするのだろうかと思っていた。
昼になり、今度はリゼルもよく知る家族がやってきた。
親同士仲がよく、親戚といってもいい程の付き合いのあるセルヴァ一家。
「リゼル!」
駆け寄ってきたジェファードがいつも通りリゼルに突撃してから、店の片隅に座る少年に気付く。
「誰?」
アリヴェーラが呆れ顔でジェファードをつまみ上げる傍ら、抱いていた双子を降ろしたダリューンがエストの前に膝をついた。
「…ダリューン・セルヴァだ。昼食は?」
「………済んでます」
「なら、部屋で話を」
神妙な面持ちのまま頷くエスト。
どこか泣き出しそうなエストの瞳も、それを見つめるダリューンの悔恨の滲む眼差しも、何を意味するのかわからないまま。
静かに出ていくふたりを、リゼルには黙って見送ることしかできなかった。
ダリューンに連れられ、エストは宿の一室へと来た。
目の前の大男が威圧的だというわけではないのに、気を抜くと震えそうなくらいに緊張していた。
それでも、この男と向き合うことだけは避けて通れない。
あの日、あの場所には、この男もいたのだから。
拳を握りしめて何かに耐えるように見上げるエストに、ダリューンは覚悟を決めるように息を吐いた。
「…すまなかった」
言葉と共に深々と下げられる頭に、エストは瞠目して言葉を失う。
「……俺はあのとき、守るべき命を前に躊躇した。…助かった命を喜ぶことができなかった」
頭を下げたままのダリューンの声から伝わる悔悟の情に、エストはただ呆然と立ち尽くすしかなく。
「自分が親になって初めて、あのときの自分の浅はかさに気付いた。今更だとは思うが謝らせてほしい」
たかだか七歳の自分にこれほど真摯に謝るダリューンの姿に、どうしていいかわからぬままのエスト。
「本当にすまなかった」
ずっとジェットを支えてきた男なのだと、兄から聞いていた。だからこそ、自分は責められるべきだと思っていたのに。
どうして自分は謝られているのだろうかと、混乱するほかない。
ようやく頭を上げたダリューンが、まっすぐにエストを見つめ、その銀灰の瞳を細めた。
「…生きていてくれてありがとう」
続けられた心からの言葉。
放心状態のエストに手を伸ばし、ダリューンが頭を撫でる。
どこか遠慮がちなその大きな手の温もりに、次第にエストの眼差しが揺れ、雫となって零れ落ちた。
落ち着くまで使っていいと言い、ダリューンは先に部屋を出た。
ひとり部屋に残ったエスト。座り込んだまま床に視線を落としていた。
泣きやんだ自分に、ダリューンはジェットのことを話してくれた。
家族であるククルとも、弟子であるナリスとも違う、ずっと共に生きてきたダリューンだから知るジェットの姿。
若くして重責を背負い、それでも懸命に役目を果たそうともがく男の姿がそこにはあった。
そんな男が最後に願ったのが、あの日自分を助けることだったと。
だから助かってくれてありがとう、と。
ダリューンにはそう言われたが―――。
爪が食い込むほどに拳を握りしめる。
自分が助けられた命なのだということは知っていた。
自分たちも孤児だからと、親子としてではなく兄弟として自分を引き取ってくれた、長兄のランスロット。自分たちは対等だからと、レザンへ引き取ることにした経緯を教えてくれていた。
自分を助けたという、ギルドの英雄ジェット・エルフィン。
誰もはっきり言わなかったが、彼が自分を助ける際に亡くなったことには気付いていた。
自分を助けてくれた英雄への尊敬と憧れもあり、そのうちにギルドへ入りたいと言い出した自分に、次兄のウィルバートが話してくれた。
自分がギルドに入るということがどういうことを招くのか。
英雄に命懸けで助けられた自分。
見方を変えれば、どういう意味に取られるのか。
よく考えろと言われたが思いは変わらなかった。
引かない自分。だがどうしてギルド員になりたいのかもはっきり言えない。
自分を助けてくれた英雄に憧れたから?
彼のようになりたいから?
何を言っても他人事のようでしっくりこない。
それでは認めてやれないと、ウィルバートには言い切られた。
だから、彼のことを教えてほしいと頼んだ。
自分を助けた英雄がどんな人だったのか。それを聞けば、自分は英雄の何に憧れたのかがわかるかもしれない。
ウィルバートにそう告げると、自分より詳しい人がいるから、その人たちに聞いてこいと言われた。
そうしてやってきたここライナス。
英雄の故郷であり、彼が眠る地でもあるここで。自分は彼の話を聞いた。
思っていたよりも普通の男で。
思っていたよりも強くて優しく。
思っていたよりも、必死に生きていた。
人の為に望まぬ英雄を貫いたその男は、だからこそ慕われ、惜しまれた。
その英雄の命と引き換えに、助かった自分。
己が奪った存在の大きさを思い知り、どうしていいかわからなくなった。
エストは夕食を食べに来なかった。
呼びに行ったザジェスとマリエラは、落ち着くまでそっとしておくと言った。
店を手伝いながら、大丈夫かなとリゼルは思う。
間違いなく昨日母と話してから様子がおかしくなったエスト。
自分も少し話してみたかったのにと、そう思う。
―――母への手紙には、いつも前向きな言葉が書かれていた。
小さな目標を立て、次までにがんばると。毎回間に合うわけではなかったが、それでも諦めずに取り組むエストをいつも応援していた。
自分に来た手紙でもなく、自分も手紙を書くことはなかったが。それでも毎回楽しみにしていた。
だから今回会えると聞いて嬉しかったのに。
明日にはもう帰ってしまうエスト。
その前に少しだけでも話したかった。
裏口からそっと店を抜け、宿へと向かう途中。店と宿との間、建物の影に隠れるように座り込むエストの姿を見つけた。
立てた膝を抱え込んで顔をうずめるその様子は、どこか拗ねた幼子のようで。
「ねぇ」
近付いて声をかけるびくりとされる。
「どうしてこんなところにいるの?」
しゃがみ込んで問うが、エストからの返事はなかった。
しばらく待ってみても話す様子がないので、黙ったまま隣に座る。
何か話そうかと思ったがやめておいた。
かけられた声の主が誰なのか、見なくてもわかった。
すぐ前で心配そうにどうしたのかと尋ねる声がしたが、顔を上げなかった。
自分を助けた為に彼女の家族は亡くなった。
自分が望んだわけでなくても彼女が知らなくても関係ない。それだけは間違いない事実なのだから。
しばらく彼女はそのままだったが、そのうち自分の隣へ座ったようだった。
触れてはいないが、何となく感じる温かさ。彼女は何を言うわけでもなく、ただそこにいた。
あまりに彼女も動かないので、何だか次第に申し訳なくなり、何か話したほうがいいかと思い始める。
僅かに顔を上げて横目で隣を見ると、前を見たまま同じように膝を抱えて座り込んでいるリゼルがいた。
「………何で座ってるの?」
思わずそう尋ねる。
「わかんない」
こちらを見ずに答えるリゼルから、エストはまた視線を逸らした。
再びの沈黙は、しかし長くは続かず。
「…俺…は、ダリューンさんの部屋にいたから、出ないとと思ったんだけど…。部屋の鍵、ザジ兄が持ってるから…」
自分も返さないといけないような気になって答えたが、言い訳にしか聞こえなかった。
「もらってこようか?」
今度は無言で首を振る。
エストの返事を確かめたリゼルが、また正面を向いた。
また黙り込んだエスト。
何かに落ち込んでいることはわかるのだが、何かはわからず。しかしひとり残していくのは忍びなくて、リゼルはそのまま隣にいた。
建物と建物の間のこの場所。それなりに幅はあるが、それでも射し込む夕方の日は僅かで。余計に気持ちが滅入る暗がりに、リゼル自身も引っ張り込まれそうになる。
私だって。
浮かんだ言葉に息をついた。
「……エスト、って呼んでもいい?」
うずくまるエストにそう尋ねると、身じろぎしてからそろりと顔を上げる。
「……いいけど」
「じゃあ私はリゼルで。エスト、手、出して」
目の前に手を突き出すと、エストは驚いて顔と手を見比べて。
「…何……」
「いいから、ほら」
ためらいがちに出された手を、リゼルは掴みにいく。
「行くよ」
「えっ、ぅわっっ」
掴んだ手を引っ張って立ち上がり、よろけながらついてくるエストを先導し暗がりを出た。眩しさに腕を上げ目を眇めつつ、丘の端まで連れてくる。
見下ろす町にはまだ明かりはまばらで、夕日の中に浮かび上がる程の光量もなかった。
「もうちょっと暗くなるともっときれいだよ」
脳裏に浮かぶ夜の光景に、リゼルは自然と笑みを浮かべる。
「お母さんから教えてもらったの」
手をつながれたままのエストは、何も言わずにただ町を見下ろしていた。
暗がりから引っ張り出され、目を細めながらついていった先。もう明るさに慣れた目に映る町の風景を、エストは見るともなしに眺めていた。
どうして、と思う。
つながれたままの手を振り払うこともできず、声をかけることも顔を見ることもできず。
ただ、どうして、と思う。
ここへ来て、話を聞いて。
自分と引き換えになった存在はあまりに大きく。
軽々しく憧れて同じ職に就こうとした自分が愚かで恥ずかしいと思えた。
憧れる気持ちは変わらないのに。その思いを、もはや自分にすら納得させることができなくなった。
追い打ちをかけるような自己嫌悪。
ここへ来る前は迷わず言えた言葉が、今は言えない。
自身もまた英雄を知るウィルバート。認められなくて当然だと納得した。
どうしていいかわからなくて。部屋を出ても誰にも会いたくなくて座り込んでいた。その自分を、この場に引っ張ってきてくれた少女。
ようやく少しだけ顔を上げる。
つながれた手の先、町を見下ろすリゼルの姿に。
どうして、と思う。
自分は。彼女にとっての自分は。
こんなことをしてもらえる存在ではないのに―――。
ぐっと手が引かれ、つないでいた手が離れた。
「…どうして」
うつむくエストが小さく呟く。
「俺のこと聞いてないの?」
何のことを言っているのかわからず、リゼルはエストを見返し首を傾げた。
「俺のことって?」
「俺を助ける為に、ジェットさんは死んだのに」
うつむいたままのエストの言葉。その思わぬ重さに、リゼルはエストを凝視する。
「俺は、ククルさんの叔父を……君の家族を死なせたのに……」
エストの声音は苦渋に満ち、とても同い年の少年から発せられたものだとは思えなかった。
エストの言葉が何を示すかよりも、苦しそうなその声が気になって。
うつむくエストが泣いているような気がして、リゼルはもう一度手を伸ばす。
「エスト」
指先が触れるなり逃げられる。後ずさるエストをさらに追いかけ、リゼルは再びその手を掴んだ。
「『エト兄さん』は私が生まれてすぐに亡くなったって聞いてるよ?」
振り払おうとするエストの手をしっかりと握り込む。
「だからそれが俺を助けたからで―――」
「だったら。死なせたんじゃない。エストは助けてもらっただけだよね」
被せるように告げると、エストが驚いたように顔を上げた。
その瞳に涙は見えない。ただリゼルを凝視し、顔を歪め、うなだれる。
エストから抗う力が抜けた。
うつむいたままのエストの手を引き上げ、リゼルは両手で包み込む。
「エストのことはね、手紙を見せてもらってたから知ってたよ」
だから話してみたかったの。
つけ足された言葉に、エストがゆっくり顔を上げた。
振り払った手を握られ、己の罪を否定され。挙げ句話したかったと目の前の少女に言われて。
ただ呆然と、エストはリゼルを見つめていた。
まっすぐに見つめ返してくる紫の瞳に、何故か沈む心もうろたえる気持ちも凪いでくる。
少しだけ穏やかになった己の中、まだ僅かだが積み重なった今までの記憶を振り返り。
誰も自分を責めてなどいなかったことに、今更気付いた。
確かにジェットは自分の代わりに命を落としたのかもしれない。しかし、誰からも彼の代わりになれとは求められていない。
自分で自分を追い詰めて行き場をなくし、立ち竦んでいただけだったのだと。
ようやく、気付いた。
「エスト?」
覗き込むように自分を見る瞳に、泣き出しそうになるのを必死に堪える。
彼女の前で泣きたくなかった。
「……手紙、君も見てたんだ…」
ごまかす為に話を振ると、どこか困ったようにリゼルが眉尻を下げる。
「ごめんね、お母さん宛なのに」
「う、ううん、それはいいんだけど…」
慌てて返すと、よかったと微笑まれた。
「…お母さんね、『エト兄さん』のことを話すとき、ホントに嬉しそうな顔するんだけどね。エストの手紙を読んでるときも、同じ顔してるよ」
「え…?」
洩れた呟きに、ホントだよ、とリゼルが頷く。
「私も最初はね、同い年って聞いたから気になって。お母さんが嬉しそうだから拗ねたりもしたけど」
少し恥ずかしそうな色を混ぜながら、それでもまっすぐにエストを見返して。
「エスト、いつもがんばってるから。私もがんばらないとって思うようになったんだよ」
夕日の中はにかむ少女を前に、惚けて突っ立つエスト。
一度に色々起きすぎてついていかない頭の中。
ただ、今が夕方でよかったと、ぼんやり思った。
それからふたりで薄暗くなるまで他愛もない話をした。
リゼルの言う通り、薄闇に灯る町の明かりはとても綺麗で。最後はふたり並んで黙ったまま眺めていた。
己の故郷にも僅かながら見下ろせる場所があったなと思いながら、エストは考える。
今はまだ自分の中の感情もバラバラで。色々な話それぞれに対しての思いを抱いただけ。
だからまだわからない。
今までの気持ち。ここで聞いたこと。ここであったこと。ここで思ったこと。この先感じること。
まだ時間はあるのだから、ひとつひとつ、ゆっくり向き合って。まだ矛盾だらけの己の心をつないでいこう。
まだ幼い自分だから、悩みながら、少しずつ成長していこう。
そうして、いつか―――。
横目で隣の少女を見やる。
物思いに耽るように町を眺めるその姿。じわりと滲む気持ちもまた、後に向き合うべきものなのかもしれないが。
それでも、今はまだ。
もう一度景色を見てから、深く息をつく。
「リゼル」
名を呼ぶとこちらを向く少女と、ようやく真正面から向き合えた気がした。
「ありがとう」
礼を言うと、一瞬きょとんと見返される。
「どういたしまして! ね、いい景色だよね」
私も好きなの、と笑うリゼル。訂正はせず、そうだね、と返して。
「変なこと言ってごめん。でも何かすっきりしたや」
泣き言を言ってしまったことも落ち込む様子を見られたことも、今となっては恥ずかしいが。
だからこその結果には感謝しかない。
「ううん。私こそ何にもできなくてごめんね」
そんなことないよとエストは笑う。
「俺、ここに来てよかったよ。…まだジェットさんに何て言えばいいかはわかんないけど、これからちゃんと考えられると思うんだ」
「『エト兄さん』に?」
「うん。ありがとうか、ごめんなさいか、もっと別のことか、わかんないけど。話したいって思うんだ」
怪訝そうに尋ね返すリゼルに、だから、と重ねる。
「何を話したいのか、考えられたらまた来るから。ジェットさんに話す前に聞いてもらってもいい?」
何故だか落ち着く紫の瞳。その前でなら、素直に話せると思うから―――。
自分を見つめる漆黒の瞳に、リゼルも微笑む。
さっきまでの幼子のようにうずくまっていた姿はもう欠片もなく。目の前には、まっすぐ己の足で立つ少年がいる。
同い年のエストの目を瞠る変化に、リゼルは素直に感動した。
「うん」
大きく頷くと、エストは本当に嬉しそうに笑い、ありがとうと手を差し出してくる。
何かを乗り越えた少年は眩しく見えて。自分だって、とうつむいていた己が急に恥ずかしくなった。
差し出された手をきゅっと握り、顔を見合わせて笑い合う。
「…私も。ありがとう」
「何が?」
疑問の声には答えず、リゼルはエストの手を放した。
明日帰ってしまう前に話すことができ、仲良くなれてよかった。
そう考えて、ふと思う。
もう知らない相手ではないのだから。母に来た手紙を覗き見るのではなく、自分自身もやり取りをしたい。
「私も手紙書いていい?」
だからそう尋ねると、エストは今までで一番驚いた顔をして。その直後、ふにゃりと笑み崩れる。
「嬉しい。俺も書くよ」
「うん! 楽しみにしてるね」
心からだとわかるエストの返事に、リゼルも嬉しくなって頷いた。
そのあと、リゼルに連れられ店に行き、心配そうな大人たちに見守られながら食事を食べて。
夜の間に少しだけ考えた。
翌朝ダリューンに頼んでジェットの墓に連れていってもらい、助けてもらった礼と、改めて話しに来ることを告げた。
まだ自分が何を言うべきかはわからない。
一度戻って考えてくるからと、そう伝えた。
そして別れ際、またねと握り合うリゼルの手に、ひとり勝手に約束をする。
今はまだわからない己の気持ちを話しに、必ずここに戻るから。
もう一度ここへ戻る為に、逃げずにちゃんと向き合うから。
忘れられないように、手紙も書くから。
だから、また会えたそのときには。笑って自分を見てほしい。
自分だけの勝手な約束。
それでも多分、彼女は応えてくれるだろうとわかっていた。
カラン、とドアベルの音が聞こえた。
振り返る視界に、走ってくるリゼルの姿。
「お待たせ」
駆け寄るリゼルに瞳を細める。
まだ自分は約束を果たせていないのに、リゼルからはもうお返しをもらっているなと思いながら。
時間を取ってくれたことに礼を言い、明日の朝ジェットに伝えようと思っていることを話す。
口を挟まず最後まで聞いてくれたリゼルは、ただ一言、そうなのね、と呟いた。
「…聞いてくれてありがとう」
まずはと思い礼を述べると、柔和な笑みのまま首を振られる。
「エストは変わらないね」
「……そんなに成長してない?」
「違うの。いつも前向きで、すごいなぁって」
拗ねそうになったところを手放しでほめられて、うっと息を呑んだ。
「……ありがとう」
そういうところはリゼルだって変わらないだろうと、心中ぼやきながら。
「リゼルは来年からもここにいるよね?」
確認していなかったことを思い出し、そう尋ねる。
「うん。店にいるよ」
すぐに返ってきた返事にほっとする。
「次はギルドに入ってからになるかな」
「訓練だってあるよね」
少し慣れてきた頃に、新人を集めて行う集中訓練。少しずつ形は変わったものの、ここライナスで行われるのは昔のままだ。
たとえ訓練という名目でも、ここに来られるとわかっているのは嬉しい。
「大変だろうけどがんばってね」
微笑んで励ましてくれるリゼルに。
「ありがとう。俺はただ、一生懸命やるだけだよ」
もはや迷いなく、エストは返した。
しばらく明かりの灯る町を見ながら話したあと、リゼルはエプロンのポケットから小さな袋を取り出した。
「エストに渡そうと思って」
「俺に?」
「うん」
開けていいかと聞くエストに頷いて、少し緊張しながらその様子を窺う。
袋から取り出したそれをじっと見てから、エストが嬉しそうに頬を緩める。
「もしかして、作ってくれた?」
掌の上には、黒と紫の編み紐。
来年からギルドに入るエスト。旅生活になる彼の無事を願い、何かを作りたかった。
「レムさんから教えてもらって。まだ二本目だから、あんまり上手じゃないけど…」
「…一本目は?」
「ユースにあげたけど」
「……そう…」
妙に歯切れの悪いエストの呟きに、やっぱりまだ下手だからかと申し訳なく思う。
「ごめんね。緩んじゃうかもしれないから、今作ってるのが終わったらまた作るね」
慌てて取り繕うと、エストが編み紐から視線を上げる。
「…今作ってるのって…」
「ジェフの分」
「…そう……」
ジェファードも黒髪だからと同じく黒と紫で編もうとしたらレムに止められ、結局銀と紫で編んでいる。黒のままならエストに渡せたのにと思ったが、もう少し練習したほうがいいかもしれないと思い直した。
「ごめんね、そんなのしか作れなくて」
「ううん。リゼルが作ってくれたんだから嬉しいよ」
そう微笑むエストに先程までの戸惑う様子はなく。本当に嬉しそうなその笑みに、喜んでもらえたのだとほっとする。
お互い顔を合わせ、笑い合ってから。
「次の、何色がいい?」
せっかくだからと思ってそう聞くと。
「同じがいい」
迷いもせずにエストが答えた。
「次来るとき。楽しみにしてるから」
「送ってもいいけど…」
「取りに来たい。預かってて」
にっこり笑ってそう言われる。
次、となると訓練のときになりそうだ。ジェファードの分を仕上げて、練習してからでも間に合うかもしれない。
「わかった! がんばるね!」
「俺もがんばるから。また話聞いて?」
「うん!」
頷くリゼルに、エストが瞳を細めてありがとうと返した。
翌朝早く、エストはジェットの墓の前に立っていた。
「遅くなりました」
そう、頭を下げてから。
やはりジェットには礼を言いたいと思った。
ジェットが助けてくれたからこそ、自分は生き残って。皆に見守られてここまで生きてこられた。
同じひとりの存在としても、自分にできることはまだ少なく、ジェットとは比べようもない。ギルドに入ったところで自分にジェットの代わりなど務まるどころか、兄たちの手を煩わせるだけだということもわかっている。
それでも。
「俺はあなたと、同じ景色が見てみたいんです」
重責を負いながら立ち続けた英雄。
自分にその責はないけれど、同じ職に就き、旅歩くことで見えてくる何かがあるかもしれない。
そして願わくば。ためらわず自分を助けてくれたジェットのように、迷わず己を貫ける、そんな人になれるように。
途方もない目標だが、夜空の動かぬ星のように、明確な目印が自分にはあるのだから。
見守ってくれとは言わない。
ジェットが見守るべき存在は自分ではない。
いつか代わりに守れるように、急いで追いついてみせると誓って。
「次はギルド員として報告に来ます」
この町に残す新たな約束を口にした。
「じゃあ、また」
昼を待たずに町を発つエストとマリエラを皆が見送る。
「次は来年の訓練のときかな」
待ってるからと笑うユースの隣、またねと呟くエレノアに頷いて。
「うちにはまたくるかもしれないよな」
「また」
「またね」
ジェファードと、すっかり慣れたミレイユを真ん中に手をつなぐ双子。
「そのときはよろしくな」
またすぐ会えそうなので、今は軽くそう返す。
そして。
「元気でね」
微笑むリゼルと、少し隠れ気味に見上げるクラン。
「ふたりに手紙書くよ」
「…僕にも?」
ぽそりと尋ねるクランに頷く。
「クランがいいなら」
「…いいよ」
「私も!」
横からの声に少し驚いてから、声の主にわかったと微笑んだ。
「じゃあエレノアにも」
「ありがとう! お返事書くね!」
嬉しそうなエレノアに頷いてから、エストは改めてリゼルを見る。
六年前同様、今回も一方的に約束をした。
また話しに来るからと、心中呟く。
「リゼルも元気で」
口に出すのはそれだけで。
まだ、待っててとは言えなかった。
丘を下って振り返る。
次にここへ来るまでに、少しでも成長できているように。
英雄と彼女に恥じない自分でいられるように。
「待ってて」
ポケットの中、編み紐を握りしめて。
呟きを残し、少年は踵を返した。
読んでいただいてありがとうございました。
『丘の上食堂の看板娘』最後の短編です。
『丘の上』からの皆様へ。時期は四百年実の月の中頃、回想シーンは三九四年動の月の中頃です。
今回でラストにも関わらず。山積みの新キャラ…。
救世主はジェフでした。彼の登場で、周りの子たちの性格が一気に確定しました。
ダンの率直さとアリーの行動力を兼ね備えるジェフ。とんでもなく困ったちゃんになりそうな気配!
しかももっと冒険物寄りの話になるはずが。蓋を開けるとこんなことに。『丘の上』らしくはありますけどね…。
いつの間にか『丘の上』のテーマは、『残されること』と『つながり』になってしまっていたので。今回残されたエストがジェットを継ぐことで、次の世代へとつながっていけたかな、と思います。
連載開始から十一ヶ月。こうして書き終えられたのは、ひとえに読んでくださった皆様のおかげです。
本当にありがとうございました!