箱庭の幸福
少しだけ開けられた窓から風が吹き込み、風車がカラカラ回る。いつだったか、小さなお客が代に置いていったそれを彼女はいたく気に入って窓際に置いていた。
朝のぼんやりとした光が部屋を満たし、薄い目蓋が開かれる。
「いい朝」
そっと伸びをして綺麗に磨かれた床に足を降ろす。夜間着から着替えている間も、床には白い足がぼんやりと映っていた。鏡台の前に座りリボンで髪を束ねている彼女の頬は白く滑らかで、どこかしこも美しい。
身支度を終えると部屋から出る。寝室がある2階には夏の草原の絵が飾られていた。
「おはようメイデイ。そろそろあなたの季節ね」
彼女が額縁を撫でて挨拶すると、絵の中に風が吹いて草花が揺れる。彼女はヒラヒラと手を振り、リボンを揺らしながら階段を降りてゆく。軽い足音。
1階には誰もいない。しかし世界は次第に目覚め始めていて、彼女がカーテンを開ける度に朝日が部屋を照らす。大きな窓を開けると、爽やかな風と朝の気配が家を満たしていく。
「さぁ、素敵な1日が始まるわ」
彼女が朝ごはんの準備をする様子はまるで蝶。あちらこちらを軽快に動き回って、その度にリボンやスカートが揺れる。
今日の朝食はパン・ド・カンパーニュ。彼女のお手製。それから卵。彼女はしばらく唸っていたが、ソーセージも焼いてフライドエッグにするらしい。今朝のモーニングティーも良い香りの様だ。
料理ができて、テーブル周りも整った。彼女はエプロンを取って、足に擦り寄る猫を抱き上げる。
「さぁて、ブルータス。ねぼすけなご主人様を起こしに行きましょうか」
ブルータスの足音と彼女の足音。2つが段々近づいてくる音が聞こえる。
「ヅト、朝よ」
彼女が僕の名前を呼んでいる。そろそろ起きなければいけないのにまだ意識は身体に戻っていない。部屋をノックする音、扉を開く音。2人が部屋に入ってきた音と様子が重なり、やっと目が覚めそうだ。彼女の手が僕の頬を撫でる感触でようやく身体と意識が重なる。
重たい目蓋を開けると、優しい朝日のような君が微笑んでいた。
「おはよう、ヅト」
「おはよう、サーシャ」
愛しい妻の手に触れる。滑らかな白い肌。
「また身体を抜け出していたの?」
「うん、ちょっと気になることがあって」
本当は、君の夢の中へ入っていたなんて言えない。その後、君の寝顔を飽きるまで眺めていたなんて言ったら、君はきっと怒るだろうし。
「私の夢には、あなたが出てきたわ」
「それは光栄」
「誤魔化しても無駄よ、ヅト」
鋭い目に思わずたじろぐ。君に隠し事が出来ないのは、僕が下手だからじゃなくて、君の勘が鋭いからだと思うんだ。
「ごめん。君の夢の中へ行ってたんだ。夢でも君に会いたくて」
「もう、本当に馬鹿ね。それで起きるのが遅くなったら詮無いじゃないの」
「う、ごめん」
それはそうだ。ちょっとしょんぼりした僕に君は笑う。
「あなたったら、幸せそうに笑ってたんだもの。怒る気も失せちゃうほどね」
そう言って笑う君の顔も幸せそうで。思わず抱きしめる。
「ヅト?」
「僕は、あまり口が上手くないけど。君と一緒にいたら本当に幸せなんだ。君も、そう思ってくれてるといいんだけど」
「当たり前じゃない。愛しい人と毎日一緒にいられて、私も幸せよ」
君の言葉に嬉しくなって笑みが零れる。君も幸せそうに笑う。君の頬に手を当てて、そっと顔を近づける。
「にゃあ!」
唇が触れそうになるその瞬間、ブルータスがベッドに飛び乗ってきて僕を引っ掻く。
「あら!ごめんなさいブルータス。朝ごはんまだだもんね」
僕が痛みに呻いている間に君は僕の手を離れていき、ブルータスと共に部屋を出る。
「朝ごはん冷めちゃうから、早く降りてきてね!」
変な脱力感が襲いかかり、仕方なくベッドから抜け出す。適当に着替えて降りると、君とブルータスはもう席に着いていた。
食前の祈りを捧げてごはんを食べる。今日も絶品だ。それを伝えようとして君の方を見ると、ほのかに顔を赤くしているのが見えた。
それを見た途端もう君が愛しくて堪らなくなる。
今日もいい日だ。君が僕のそばにいてくれる。