夜と湖と竜
少し、風のある夜だった。
木々をわたる風が涼しく私の肌を撫で、月あかりをたたえた湖の水面を揺らした。
その湖の前で、竜はみじろぎもせず、密やかにしなやかな体を横たえていた。
眠っているのだろうか。
しかし、そうでないことは、竜のお腹の下からにじみ出ている血だまりが物語っていた。
静かな夜だった。
突然の出来事に声も出せない私と、目を見開いて私を見る青年と、横たわる竜以外にはこの世界にはいないような、そんな夜だった。
その静寂を、青年が打ち破った。
「助けてください!」
切羽詰まった様子で私に駆け寄って来て、私の腕を取った。
驚きに固まる私をよそに、ぐいぐい竜の元へ引っ張ってくる。
お、おお、華奢なのに意外と力あるのね。
「お願いします、治癒魔法をかけて頂けませんか? このままだとエルヴィスさまが……」
「助けることはやぶさかじゃないんですけど、あの、私、魔法が使えなくて……」
間近で見た竜の傷は相当に深そうで、血だまりも私のくるぶしが埋まるほどだった。
咄嗟に、これ以上血を失わないように傷口に上着を押し当てる。
「魔力を分けて頂くだけでもいいんです、どうかお願いします!」
「すみません、魔力自体がないんです」
青年の顔が絶望に染まる。
その姿を見て、私も胸が痛んだ。
押し当てている上着越しに伝わる脈動が、次第に弱くなっている。
なにかないだろうか、何か。その時、私はカバンの中にあるへそくりの存在を思い出した。
「ポーション」
急いでカバンを開け、ペットボトルを取り出す。
キャップを開けると、力なく横たわる竜の口を無理やりこじ開け、隙間から中身を流し込んだ。
人間用だけど大丈夫かな。
一瞬よぎった心配は、杞憂だった。
竜はずっと閉じていた眼を薄く開き、ぐるぅ、と、小さく唸った。
「傷が!」
青年の言葉にお腹の方を見ると、腹部を大きく切り裂いていた傷口が徐々に埋まり始めている。
さすが特級ポーション。庶民のお給料一年分だけのことはある。
効き目にほっと息を吐いていると、青年が駆け寄ってきた。
「ありがとうございます、なんとお礼をしたらよいか」
「いえ、貰い物なので気にしないでください!」
高く売ろうとか若干よこしまな気持ちがあっただけに、真摯なお礼がこそばゆい。
「どうされたんですか? こんなひどい傷」
さっきから気になっていた疑問を口にすると、青年の顔がゆがんだ。
「突然、ボルド帝国の軍隊が僕たちの住む森に攻め入ってきたんです。本来は禁足値である神聖な森なのですが、その不可侵条約を破り、森を焼き、挙句の果てに我らが皇子にこのような暴虐を」
「皇子?」
「はい、こちらにおわしますのが、我ら白竜族の皇子です」
青年はそう言って、竜を見た。
え、竜族? ってことは、
「もしかして、あなたも竜?なんですか?」
「ええ、そうです」
あっさり肯定されちゃったな。
見た目は全然人間なんだけど。
もしかしたら服で見えない部分は鱗で覆われてたりとかするのだろうか。
私の疑問を察してか、青年がくすりと笑った。
「魔法で人間の姿に変えているんです。竜の姿は目立ちすぎるので」
「はぁ~、なるほど」
「ところで、あなたも竜ですよね?」
「は???」
素で、は、と言ってしまった。
え? 竜? 私が? 竜? DRAGON??? WHY JAPANESE PEOPLE???
「いや、人なんですけど…」
ぎりぎりでそれだけ絞り出すと、青年が驚いたように目を開いた。なんでやねん。
「じゃあなんで言葉が分かるんですか!」
「言葉? いや、普通に日本語に聞こえるのですが…」
王様とか兵士たちの言葉も普通にわかったから、この人の言葉も自動的に翻訳されてるのかと思った。
「私が今話しているのは竜の言語です。普通だったら、人間にはわからないはずなのですが…」
青年が首を傾げる。
「なんでですかね、私がもともといた国と言葉が近いのかな」
あはは、と笑ってごまかすと、そうですかね、といぶかしみながら納得してくれた。
聖女やら聖女じゃないやら竜やら、私っていったいなんなんだろうか。