オオキンタマハゲワシの雌
「オオキンタマハゲワシが来たわよ」
「オオキンタマハゲワシ今日も酷いねぇ」
「オオキンタマハゲワシがエサ食べてるぞ」
オフィスで囁かれるオオキンタマハゲワシの悪口。別に誰が部長の悪口を言おうが、俺には関係ない事だが、如何せん『オオキンタマハゲワシ』と名付けたのは俺なので、そこだけは多少良心が痛んだりする……今更だが。
オオキンタマハゲワシと名付けられた部長は、今年で50になるデブでハゲで脂性の冴えないオヤジだ。同年代が居ないので、幸運的に部長の席を手に入れたらしい。しかし、いずれは営業二課のイケメンエリート(35)が部長に選ばれるだろうと、噂が立っている。しかし、一部の社員からは慕われており、中々その話が現実の物にならないらしい。きっと上手投げでも食らったのだろう。あの巨体で投げられたらきっと病院送りは免れないな。
オオキンタマハゲワシの由来だが、入社当初『ハゲワシ』と社内で呼ばれていたのを、頭の間が非常にハゲているから俺が『間ハゲワシ』として、部長の名字が金田だったので『キンタ マハゲワシ』と改良した。そして体が大きいから『オオ キンタ マハゲワシ』と裏で呼んでいるうちに、すっかり社内に定着してしまったのだ。
「近藤くん」
「……はい」
オオキンタマハゲワシが俺の隣へとやってきた。凄まじいデブっぷりで、関取か何かとよく間違われるらしいが、兎に角威圧感だけは凄い。狭い通路で擦れ違う事も出来ないし、エレベーターはこいつのせいで定員が三人少なくなる。生きているだけで害悪とはこの事だ……。
「この間、君が作ってくれたプレゼンの書類どこやったか知らないかな?」
「知りませんよ。部長のデスクの何処かでしょうね」
汚らしいという言葉がよく似合う程に乱雑な様相を呈している部長のデスクには、食べかけのお菓子やら書類の山が複雑怪奇に入り交じり、少しでも触ろうものなら、バランスを失い雪崩を起こしそうな勢いだった。
オオキンタマハゲワシがデスクを触ると、案の定書類の山が雪崩を起こし、慌てて拾い始める。ついでに書類の間に挟まっていた謎のお菓子を食べながら、オオキンタマハゲワシは今日も無様に給料泥棒に余念が無い。
「あー!!」
昼になり、俺が外へ飯を食いに行こうとすると、オオキンタマハゲワシが突然叫びだした。皆がオオキンタマハゲワシの方を向いて迷惑そうな顔をしている。
「お弁当を忘れた……」
まるで子どものように寂しそうな顔をするオオキンタマハゲワシは、しょんぼりと肩を落としてその身に合わぬ小さなバッグを抱えて、俺の方を向いた。
「近藤くん、久々に一緒に食べにいかないかな?」
俺は思わず「うげっ……」と言いそうになってしまった。しかし、入社間もない俺の面倒を見てくれたのは部長一人。俺は仕方なくその時の恩を思い出しながら、飯を食うことにした。俺って天使だな。
オオキンタマハゲワシと乗るエレベーターは狭苦しく、実に息苦しいものであった。同乗した秘書課の遠藤さん(26)が泣きそうな顔をしていたので、こっそりチョコをあげた。今度ご飯にでも誘ってみようかな。
地獄のエレベーターから解放され、一階の広間へと出ると、オオキンタマハゲワシの体の大きさもそれ程気にならなくなる。節電用の回転扉から外へと出て、思い切りあくびをすると、オオキンタマハゲワシは来客用の自動ドアから悠々と外に出てきた。
「あなた」
若い女性が俺に向かって手を振っている。はて、今まで知り合った女性は殆ど覚えているし、よく見るほどに美しいあのような素敵な人を忘れる程に呆けてはいない気がしたが……。
「ああ! ありがとう!」
俺の脇を地響きを鳴らす勢いでオオキンタマハゲワシが横切った。女性の手には包みが握られており、オオキンタマハゲワシはそれを受け取ると、子どものように燥いで喜んだ。
「近藤くん、やっぱりボク戻ってお弁当するね」
「は、はあ……」
走り去るオオキンタマハゲワシ。そしてニッコリと会釈をし、歩き出す女性。その後ろ姿が実に絵になっており、俺はたまらず声をかけた。
「あ、あの……!」
「──?」
女性は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。長い髪が僅かに風に乗り、そして笑顔で俺の方を向いてくれた。
「もしかして、部長の奥様ですか?」
「え、ええ……」
俺は酷く驚いた!
オオキンタマハゲワシにこんなにも若くて美人な嫁が居たなんて、社内で一度たりとも噂になったことはないからだ……!!
俺は驚きで茫然とし、真っ白になりかけた。そして、その白の完成手前で湧き上がった感情は、自分でも驚くぐらい澱んだ黒だった。
「俺、これからランチなんですけど、普段の部長の話を聞きたいので一緒にどうですか? 勿論俺の奢りです!」
「は、はぁ……」
俺は部長の嫁をランチに誘った。部長の話なんか、どうでもいい口実…………俺は、部長の嫁を盗るつもりで誘ったのだ!
人気の少ない蕎麦屋を選び、ざる蕎麦を二つ頼んだ。座っても絵になる美人妻を見る。周囲の視線が部長の嫁に注がれて、何故か俺は言い難い優越感に浸っていた。
「部長は、家ではどんな感じなんですか?」
「……普通ですよ」
「因みに、二人が結婚するきっかけって……?」
「……私が一方的に好きになったんです。とても素敵な人だなって。私に無い物を全て持っていて、私に新しい世界を見せてくれるんです」
(そりゃあ、あんな肉、誰も持ってはいないでしょうよ)
部長の嫁が特殊性癖の持ち主と知り、少し残念に思う。そりゃそうだ、まともな人ならオオキンタマハゲワシなんかと結婚するだろうか? いや、絶対しないね!
「今でこそはめっきり行かなくなりましたが、あの人、昔はビリヤードやダーツが得意で、よく一緒に遊んでいました。ふふ、話していたらまた行きたくなってきました」
「──なら俺と行きませんか!?」
自分でも図々しい誘いだとは思いつつ、特殊性癖の嫁をからかうつもりで口走ってしまった俺は、意外な返事に度肝を抜かれる。
「ええ、良いですよ」
ニッコリと笑顔で承諾する特殊性癖の嫁。俺は半ば唖然としながらも会う約束を取り付ける事に成功したのだった。
休日の昼間、オオキンタマハゲワシの嫁が、若々しい格好で現れた。
(ヤベッ……めっちゃ好み)
今すぐ奪ってしまいたい衝動を抑えつつ、俺達はビリヤードをやりに店へと向かった。因みに俺は学生時代仲間内で一番ビリヤードが上手かった。きっとオオキンタマハゲワシよりも上手いだろう。あんな巨体で真面に出来るわけないからな。
「いらっしゃい──おお、久しぶり!」
店の店員がオオキンタマハゲワシの嫁を見るなり笑顔で声をかけた。どうやらよく行っていたのはこの店らしい。
「お久し振りですマスター」
「おろ? そっちの若いのは……ははぁん、さては浮気だな!?」
「夫の会社の後輩さんですよ」
オオキンタマハゲワシの嫁が静かに首を振った。今に見てろよ? きっとオオキンタマハゲワシよりも俺を好きになっているからな!?
「では宜しくお願いします」
「あ、こちらこそ」
二人でお辞儀をして向かうビリヤード台。しかし、その台には穴が無く、玉も三つしか無かったのだ
「あの……これは?」
既に棒まで準備を終えた嫁は、笑顔で俺に答えた。
「3Cですが……」
「えっ!? なんですかそれ……?」
俺が驚いていると、嫁が何か気付いたような顔で申し訳なさそうな顔をした。
「あっ! もしかしてポケットの方が良かったですか!? 夫とはこっちがメインだったので……!!」
慌てて穴のある台へと向かう嫁。一体何だったんだと首をかしげながらも、いつもの見覚えのあるビリヤードを始めることが出来た。
が、そこからは兎にも角にも頭が真っ白だった。
オオキンタマハゲワシの嫁は尋常では無いほどにビリヤードが上手く、素人に毛の生えた程度の俺では到底太刀打ちも出来ず、ただただ見ているばかりだった。なにより玉の動きが異常で、メチャクチャバックスピンを掛けて玉が動き回る様は、まるでプロなのではないかと思う程だった。
「夫はもっと引きます。端から端までなんかは余裕です」
その言葉に俺は唖然とした。
あのオオキンタマハゲワシがビリヤードの達人だったとは…………!!
悪夢とも言えるビリヤードを終え、ダーツもやったが、そこでも俺は撃沈するしかなかった。
オオキンタマハゲワシの嫁はダーツも一流で、しかも「夫の方がもっと上手いんです」と言うのだ。
嫁の独壇場と化したデート?に、既に盗る気を失い早く帰りたい俺。
こうして俺はボロ雑巾のようにくたくたになり、落ち武者の如く無残に帰宅した。そしてオオキンタマハゲワシ以下の烙印を捺された俺は、もう生きる意味を失う程だった。
──翌日から、俺は部長を見る目を変えた。仕事はアホみたいに出来ないが、人間仕事だけが全てでは無い。きっとこの人が部長になれたのは仕事以外の事があるからだろう。
「部長! おはようございます!!」
「えっ!? あ、ああ……おはよう」
元気に挨拶をし、俺は気合いを入れて仕事に熱を上げた。
「ただいま」
「おかりなさい、あなた♡」
「いやー、何だか部下の一人が急にやる気になってね。何かあったと思うんだけど、若さが出てて羨ましかったよ」
「ふふ、あなたもまだまだ若いわよ?」
「ハハ、ありがとう」
「大丈夫……貴方を蔑む悪いクズ共は、私が成敗しましたから……」
「ん? 何か言ったかな?」
「んーん♪ そうだ! 久々に球屋へ行きませんか? たまにはあなたと球を撞きたいな?」
「えー!? ボクが下手くそなの知ってるでしょ!? 下手すぎて笑われるから嫌だよぉ!」
「そーお? 残念♪」