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次の日。朝早く起きたエリックは、ナタリーが働く店の周辺を軽く確認してから、開店準備をする彼女へ挨拶しに行った。
扉の横には『カーリー』と描かれた看板が下げられ、縦長の窓から見える店内は真ん中に小さなテーブル、棚にはコサージュが彩りよく棚に置かれている。
その前をナタリーがちょこちょこと動き回っていたかと思うと、こちらに気づき、笑顔で手を振ってから今度は店の外へと寄せ植えの花を動かし始めた。
……忙しそうなので顔見せだけにして、離れた場所で立つこと数時間。
だんだんと通りはにぎわい始め、花屋の傍で佇むエリックを気にする人も増えてくる。
青年は仕方なく場所を変え、近くの貸本屋で本を立ち読みしたり、露店を眺めながらぶらぶらと時間を潰すことにした。
そうやってつかず離れずを繰り返したが、怪しい人影も何かが起こる気配も感じられず、のんびりと時間だけが過ぎていく。
結局最後まで何事も起こらず、一日目は終わった。
次の日の昼下がり、エリックは昨日も見かけた露店の主人に話しかけてみた。
「お、兄さん恋人にこの耳飾りなんてどうだい?」
「いや、ちょっと尋ねたいことがあるんだけど。……この辺で変な奴がうろうろしてなかったかい?」
「怪しい奴ねえ。いや全然。平和なもんだよ。なんでそんなことを訊くんだい?」
「え」
不思議そうに見つめられ、神妙な顔を作り、
「実は……この近くに花屋があるんだけど、そこの女性が気になってね、デートに誘ったんだけどうまくいかないんだ」
「花屋?ああ、ターニャさんところの嬢ちゃんか。確かになかなかかわいい娘だよね」
「何でも、この辺を変な奴がうろついてるとかで……彼女を安心させてやりたくて」
「なるほど。じゃあおれも気を付けておくよ。……そうだ。そんな彼女にピッタリの品があるんだ」
ごそごそと袋の中からペンダントを取り出し、これは厄除けの力がある、などと説明を始めた相手に、好みがわからないから、とエリックが断ると、
「じゃあ、今度一緒に来てくれよな!」
と笑いながら肩を叩いて、次の客を呼び込みにかかる。
「お、お姉さん目が高いね~それはなかなか手に入らない品でね」
その露店を後に、再び見張りを続けたが、昨日と違うのは通りを歩く人の数ぐらいで、またしても何も起こる気配はなかった。
三日目。エリックはまたもや同じように辺りをぶらつきながら花屋の様子を窺っていた。
しかし、今日はやけに道行く人(主に女性)の好奇の眼差しが感じられ、居心地が悪い。
ふと店を見ると、ナタリーが手を振っている。側へ行くと、真面目な面持ちで、
「お疲れさまです。あの……エリックさん。すごく噂になってますよ」
「しまったな。なるべく目立たないように見張っていたつもりだったけど」
「いえ……私に熱く片思い中の青年がいる、って」
「……」
エリックはゴホッと急に咳き込んだ。
「傷つけない断り方だとか、焦らし過ぎると可哀想だとか、近所の人がアドバイスをくれるんですけど、違うって話しておいた方がいいですか?」
「いや、いいよ。たぶんややこしくなるだけだから」
こうやって話している間にも、洗濯物を籠いっぱいに抱えた婦人が興味津々の様子でこちらを見て去っていく。
「あれから全く何も起こらないし、立たせっぱなしでごめんなさい。ここ二、三日は変な視線も感じないから、もしかしたら私の勘違いだったかも」
「まあ、その可能性も捨てきれないけど」
「一日中見張りをしてくれなんて、ちょっと身勝手なお願いでしたね。せめて自警団がもうちょっと役に立ってくれてたら」
ナタリーはため息をこぼし、通りのはるか向こうにある詰め所に視線を向けるが、だからといって来てくれるわけではない。
「他のことで手一杯じゃ、ね。被害が出るまでは動かないだろうな」
「あの……もうしばらく見張り、やってもらえますか?」
「いいよ。本当は何も起こらない方がいいんだ。このまま気のせいですむといいけど」
「ありがとう、エリックさん」
笑って礼を言うナタリーに手を振り、またいつものように通りをぶらつきにいく。
どのくらいそうやってすごしただろうか。
傾き始めた太陽を眺めつつ、花屋の向かいの石段で痺れた足をこする彼の目に、三人の男がたむろしているのが飛び込んできた。
そのうちの一人には見覚えがある。
数日前に話を聞いた露店商が浅黒く頬の痩けた赤シャツの男とその隣の鼻のつぶれた短髪男とひそひそ話し合い、やがて静かな足取りでナタリーの店の横手にまわっていく。
商店街の人通りは少ない。すぐにエリックが彼らを追うと、三人は通りの角を曲がり、裏道をしばらく歩いたところでいきなり振り向いた。
「おまえか、おれたちのこと嗅ぎまわっている奴は」
「……何のことかわからないな」
エリックは表情を変えずに言う。
「しらばっくれても無駄だよ」
露店商だった男がにやにや笑い、いつのまにか脇道から、坊主頭と猫背、二人の男が出てきて退路を塞いだ。
五人に囲まれ、逃げ道を何とか探そうとするエリックを、後ろの坊主頭がいきなり殴りつけた。はずみで荷物が下へ落ちる。
呻くエリックの腕を赤シャツ男が掴み、
「騎士気取りかなにかは知らんが、首を突っ込まない方がいいことも世の中にはあると覚えとけ」
「……まったくだ」
彼は、その言葉と同時に動いた。
まっすぐ手を伸ばし赤シャツ男の頭を掴むとねじり倒し、腹に蹴りを叩き込む。後ろを振り返り、呆気にとられていた坊主頭との間合いを詰め、みぞおちに拳を入れて気絶させると、慌てて殴りかかってきた猫背の男に足払いをかけて回し蹴りで頭を狙い落す。残るは二人。
「この糞がッ!」
激高した鼻潰れ男が後ろからナイフで切りかかる。それをかわし、拳を顎に叩き込むと、ぐぇと呻いて倒れ伏した。
それを見て、まずいと思ったのか露店商が慌てて背中を向け、走りだそうとしたので、その襟首をつかんで躊躇なくぐいっと引き寄せる。
「待て。聞きたいことがある」
「おれは何も知らねえ!見逃してくれ、全部あいつが悪いんだ」
倒れている男のうち、鼻のつぶれたのを指差し、男は必死で首を振る。
「おまえも一緒に脅してたじゃないか。……素直に話せば許してやる。ナタリエ・クラストに何の用だ?」
「た、頼まれたんだ。女に近づく奴がいるから、追い払ってくれって」
「誰に?」
「知らねえ!酒場で知り合った、ひどく気前がいい奴だ!金をたくさん持ってた。ちくしょう、こんなことになるとわかってりゃもっとふんだくってやったのに」
「なるほど。他には?」
「知らねえよ。どうせその女の愛人か何かじゃねえのか?あんた、振られたんだ」
乾いた笑い声をあげる男のみぞおちに蹴りを入れて黙らせ、道へ放り出す。
それから荷物を拾い、ナタリーのいる店を見やるが、特に変わった様子はなかった。閉店まで待ち、片付けのため出てきた彼女に何事もなかったよと安心させてそこを去った。
エリックが借りているアパートに着いたとき、日はすでに落ちていた。
漆喰の剥げた階段を上がろうとしてふと気配を感じ、横の茂みに声をかける。
「誰だ?何か用か?」
するとガサガサと茂みが揺れ、中から十二、三才ぐらいの少年が現れた。
随分歩き回ったらしくくたびれた長袖シャツにズボン、不揃いな鳶色の前髪から覗く同色の片目だけがきらきらとランプの光を反射している。
「お久しぶりです、〈カラス〉さん」
「おい、何を考えてる」
何の気兼ねもなく笑顔でその呼び名を口にした相手に、エリック、いや、変装していたユークリッドは低く押し殺したように言う。
「え、あの」
うろたえる少年に、仕方なく、弟が訪ねてきたような口ぶりで話しかける。
「どうした?また父さんと喧嘩したのか?とりあえず部屋へ上がれよ」
よく通る声に、アパートの管理人室からハゲワシのような頭が出て、静かにしろと睨んだ。
すみませんと頭を下げ、管理人が引っ込むのを見届けてから恐縮する少年を連れて階段を上がり、そう広くはない上に、あちこち物が積まれた部屋に彼を通した。
「散らかっているけど我慢してくれ」
「大丈夫です。あの……任務の報告を受けに来たのですが」
三本足の小さな椅子に腰掛け、どことなく遠慮がちに尋ねるヨナに、
「ああ、そうだな。まず、店と家にはなく、さりげなく尋ねてもみたが、どうも今ひとつだ。ナタリーは持ってないかもしれないな」
半ば確信しながら告げると、少年はがっかりして肩を落とした。……その様子はおあずけ、と言われた犬のようも見える。
「……他に隊長に報告することはない?」
「一つある。ナタリエ・クラストを探っている奴がいて、襲われた。心当たりがないか聞いてくれ」
「ひょっとして特殊能力者?」
「違う。その辺のチンピラだ。なぜ?」
ヨナは心細そうに髪のふちを撫でた。本来なら右目のある位置に、何もない、つるんとした肌が覗く。
「‘影’が大騒ぎしてるから。まだ見つからないのか、って文句言ってる人が結構いる」
「……そうか」
「カラスさん。‘影’のほとんどは普通の人間をひどく嫌ってる。そしてそれ以上に、書類を手にいれるためならどんなことでもする。……気をつけて」
「ああ、わかってる。ありがとう」
静かに答えてヨナを促し、玄関のドアを開けた。夜の空気はまだ深々と冷える。
「気をつけて帰れよ」
そう声をかけた途端、ヨナはちょっと目を見張ると、照れ笑いを浮かべて大きく手を振った。