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残酷描写にご注意ください。
その頃ユークは明かりも持たず、ひたすら草地や林を急ぎ足で抜けていた。
やっと領主の屋敷が視界に入り、まだいくつかの部屋に明かりがついているのを確認する。
油断なく辺りを見回し、茂みに身を隠しながら近づきつつ、一周して裏口へ辿りついたが、ここまで番犬はおろか夜衛すらも現れない。
明らかに誘い込まれている。
しかし、もう引き返すことは無理だ、と裏のドアを開け、厨房を横切って南の階段を上ろうとしたところで、上から軽い足音が近づいてきた。
即座にとって返し、玄関ホールを突っ切ったところにある、もう一つの階段を目指す。
ごくかすかな自分の足音だけが聞こえる中、正面玄関までくると、使用人控え室の扉が開いていて、使用人であろう男がそこに倒れていた。
訝しみつつも、倒れたまま寝息を立てているその男の側を慎重に通り、階段へ向かう。
途中、どこからかガシャン、と物音が聞こえたが、元を探っている暇はない。
辿りついた階段の踊り場にランプがあったのでふと思いつき、その油を持っていた空の小瓶に入れておく。それから二階に上がると、その右手にギャラリーが広がっていた。
窓のない長い廊下は両側に一級品の絵画や石像が飾られ、見通しが悪いため、注意深く歩き始める。
すぐ先の右側に、大鎌を持った女神像が立っていて、光の元で見れば美しいであろうそれも、今はただ不気味なだけである。
そのまま通り抜けようとしたユークは、石像にピッタリと身を寄せるように隠れていた少女に気づき、とっさに後ずさった。
「……!」
「ああ、気づかれた」
小さな台に乗っていた少女は、持っていたランタンに火を付け、そのまま肩をトントンと叩く。
「少々待ちくたびれました。私は、フォルミナ。よろしくです」
ひょいと手を伸ばし、女神像の大鎌を外す。
戦慄が背筋を走り抜け、ユークは即座に奥へと駆け出した。
「待ちなさい!大人しく斬られて!」
そう叫びながら重厚な大鎌をものともせず、ブンッブンッと振り回し追いすがる少女に、待ったら首が飛ぶだろ、と心中で突っ込みつつ、ユークは長い廊下を走る。
残念なことに前に並んでいる石像は剣を固く握り締め、放してくれそうにない。
ブン、と大鎌が風圧を感じるぐらいすぐ後ろで振られ、何か使えるものはないか、と焦燥で足を速めるユークの目に、希望が飛び込んできた。
「……あれだ!」
壁に飾られた大きな旗を掴み取って向き直ると、布部分を握り締め、突いた。意表をつかれたフォルミナはいったん跳び退ったが、すぐに微笑み、
「こんなもの!」
突き出される先端を躱しつつ、鎌で薙ぎ払おうとする。
同時にユークが握る手を緩めると布部分がバサリと被さり、フォルミナは一瞬ユークを見失った。そのまま布を外そうともがくフォルミナの首筋を正確に足で狙い、ユークは彼女の意識を刈り取った。
少女を紐で縛り床に転がすと、衛兵が眠る小部屋の前を通り過ぎ、短い廊下の左側にある書斎の入り口で足を止めた。
中からはガタガタと暴れるような音、と切れ切れに悲鳴が聞こえている。すぐさま扉を開くと、そこにはさながら地獄絵図が広がっていた。
「や、やめろ、やめ……ぐぁあああっ」
ぼんやりと明るく広い書斎の真ん中。趣味の悪い金の机に乗り出した少年は壮年の領主アグノン・ラターの胸に何度目かのナイフを突き刺し、こちらを振り向いた。
「……《カラス》、おまえか」
壮絶な笑顔で振り向くサキの顔は、血に濡れ、興奮でぎらぎらと光っている。
「こいつは死んだ。すぐに隊長の張った眠りの結界が解け、一気に兵士が押し寄せる。おまえはここで、領主殺しの罪を引っかぶって死ね。今頃別働隊もおまえの隠れ家を襲っているはずだから、心配いらないさ」
そう嘲笑うサキに、ユークは答えない。そうか、と体の力を抜き、やがて俯いて肩を震わせた。
サキが潰れろ、と叫んで、手をかざす。その力を使うより早く、
「教えてくれて、ありがとう」
その手首に細い鎖が巻きつき、氷のような笑みを浮かべるユークの元へと引きずられた。
銀色の時計が揺れた、と思ったらあっというまに首に巻きつき、締め上げていく。ケホッと咳き込み喉を掻く少年の意識は次第にかすんで闇へと落ちていく。
「そうか。……なるべく殺さないんだった」
息の根が止まる寸前になってユークは思い出したように鎖を外し、少年を部屋の隅に蹴り捨てる。その音で気づいたのか、血溜まりの中の領主が身動きし、こちらを見つめかすれたしわ枯れ声を出した。
「お前……誰でもいい……呼んでくれ。私は、まだ……」
出血がひどく、おそらくは助からない。また、近くには呼び鈴もない。先ほどサキはこいつが死ねば結界が解けると言っていたが……裏を返せばまだ、猶予があるということ。
かすれ声で訴え続けていた領主の動きが止まり、いつのまにか驚きに目を見開いてこちらを凝視していた。
「おまえ、おまえの名は……」
「≪カラス≫」
適当に答え、脅威はないと判断して、ユークは倒れているサキと領主に背を向けその場を去った。振り返りもせずに。
残された領主はその去っていく姿を睨みつけ、最後の力を振り絞って床を、出口へと向かおうと絨毯を掻き毟り、這いずろうとした。すると、引きずられて金の装飾が施された書斎机の下、床板がずれて剥き出しになり、四角に切り取られていたその下には――――――。